海 -3-

 いっぽう、水島が運び込まれた病院。

 水島は一通りの検査を受けて特に問題はなかったものの、一度は心肺停止にまでいたったので、大事をとって一晩だけ入院することとなった。

 宗一郎の計らいで、水島の入院する部屋は病院の中でも最高級の特別室だ。

 手続きを済ませた東條がそのホテルめいた病室へと入ると、水島はベッドの上に上体を起き上がらせていた。彼の顔は窓の方に向けられており、顔に夕日が差している。

「馬鹿みたいだと思ってんだろ。ご機嫌をとるために遊んで溺れてこんな騒ぎ起こして。宗一郎もきっと呆れただろうね。お前みたいにさ」

 東條が静かにベッドの方へと近づいていくと、水島は窓に顔を向けたまま、そう吐き捨てるように言った。

「そのようなこと、わたくしも宗一郎様も、思っておりませんよ」

 東條の返事に、水島は一瞬言い淀む。

「……なんで敬語なの。ここには宗一郎も明彦もいないけど」

 別荘に来てからというもの、掃除や食事の準備もすべて東條が一人で行っていて、水島はバトラーらしい働きの一つもしなかった。彼は常に宗一郎、明彦たちと同じように遊んでいたのだ。

 東條が何か呼びかける時は常に三人に向けて話していたため、水島も、東條に敬語を使われることに全く違和感を感じていなかった。

 しかし、この病室には水島と東條しかいない。東條が水島に敬語を使う必要はないはずだ。

「イヤミ?」

 働かない自分に対する皮肉だろうかと、水島は再度問いかけ、はっと軽く鼻で笑う。

 東條は動じることなく、ベッドサイドのナーシングチェアに腰掛けた。そして、静かに口を開く。

「別荘にお呼びいただいてからというもの、水島という姓の貴族がいらっしゃったことを思い出しておりました」

 水島は目を見開きながら東條の方を見た。東條はいつもと変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべている。一方水島の表情は、驚きを表すものから、どこか泣きそうなものへと変わっていく。

「なにそれ……あんた全貴族の名前を把握してんの? そういうところ、マジ気持ち悪いって」

 水島の声が途中で息が詰まったように止まり、肩が小刻みに震え始める。

「水島は……律様は、貴族でいらっしゃったのですね。気づくのが遅くなり、大変申し訳ございません」

「やめてよ。僕が貴族だったのなんて、七歳までだ。チヤホヤされていたことだって、もうほとんど記憶にないよ。僕はこれから、宗一郎の、常陸院家の執事になるんだから」

 水島の頬を涙が伝っていく。東條は彼の涙を見ないように、そっと俯いた。

 東條がこの事実に気づいたのは、別荘での水島の、実に奔放な姿を見てからだ。

 普段から宗一郎に対して目に余る行為が多いとは感じていた東條だったが、豪邸そのものの別荘で、自由に振る舞う水島の自然な態度に、逆に違和感を覚えた。それは平民が無理して奔放に振る舞っているといった雰囲気ではなかった。過去に高級な場や丁重に扱われることに慣れきった者が発するオーラだ。

 そして、約十年前に貴族の称号を剥奪された貴族のことを思い出したのだ。それが、水島家だ。

 水島の父親は不動産業で多額の富を築いていた。しかし、従業員幹部の一人に資金をすべて奪われ、事業の首が回らなくなったことによって多額の借金を抱えた結果、破産。会社は潰れ、貴族の称号を剥奪されることになった。

「学校から帰ってきたらさ、家の中で父親が死んでた。家の中で一番自慢だった、吹き抜けのリビングの梁を使っての首吊りだよ。いったいなんの抵抗だったのか分からないけど、最悪だよ」

 水島は淡々とそう語り始める。

「家は次の日に差し押さえられてさ。父親が家の中で自殺なんかしたから、価値もガクッと下がった。あれさえなければ、もうちょっと借金も返せたのに」

 堰を切ったかのように、水島の言葉は止まらない。東條は隣に座ったまま、相槌を打つこともなく、ただ静かに聞いていた。

「生まれてからずっと、僕は王子様だった。それなのに気がついたらボロアパートに、ろくに働いたこともない母さんと、四歳年上の兄さんと僕の三人。もう、毎日が悲劇通り越して喜劇だったよ」

 現代での平民の生活は、生まれながらにそうであったとしても過酷なものである。過去に貴族としての生活を経験した者であれば、その苦しみは計り知れないものになる。

 加えて、残された水島の家族は労働力になる者はおらず、多額の借金を抱えていた。まともな手段では生活していくことはできなかった。

「律様にとって、貴族を近くで見続ける執事という職は、辛くはありませんか」

「だから本当に、やめてってば。辛くないわけないだろ、僕は貴族だったんだって、ずっと心の中で思い続けてたよ。だけど、そんなこと言っていられる立場じゃない。借金はまだまだあるし、母さんも病気になった。兄さんが働きだしたけど、定職になんかつけないし、ろくな給料ももらえてない。鷹鷲高校は学費はいらないし、給料だってもらえる。人間としての尊厳も守れるし、執事の稼ぎはとってもいいしね」

 水島は時折冗談めかしながら、自分に言い聞かせるように話す。「それに」と、さらに言葉を続けた。

「宗一郎はさ、僕を対等に扱ってくれる。それに、天下の常陸院家だよ。水島が貴族のままだったとしても、常陸院家には頭が上がらないはずだよ。僕がここで宗一郎に出会ったのは、運命だと思うんだ。宗一郎の執事になれたら、僕の人生はまた輝き出す。今までのことも、なかったことにできるんだ」

 はっきりとした声で言い切ってから、水島は東條を真っ直ぐに見つめた。

「だから、余計な哀れみなんて不要だよ。あんたに言われなかったら、僕はこんなこと、誰にも話すつもりなかったんだ。僕は貴族じゃない。あんたに上面だけの敬語を使われるなんて、気色が悪い」

 東條もまた、水島の視線を正面から受け止めた。真っ直ぐにそのややつり目の大きな瞳を見つめ、その奥に、確かな覚悟を感じ取る。

「……わかった。では、僕は別荘に戻る。宗一郎様と明彦様のディナーを作らなくてはならないから。明日迎えに来るよ」

「勝手にタクシー呼んで戻るからいいよ……宗一郎に、迷惑かけてごめんなさいって伝えておいて」

 言伝を確かに承ったと示すように、東條はしっかりと頷いた。そして立ち上がると、病室の扉に手をかける。

「ねぇ。あんたはさ、宗一郎に気に入られるために、逆張りして印象に残ろうとしてるんでしょ? 見え見えだから、やめた方がいいよ」

 背中に水島から声をかけられ、東條は振り向いた。

「僕はただ、執事として貴族の皆様にお仕えしているだけだ。宗一郎様と、他の方々を区別する気はない」

「あんただって、どうせ召抱えられるのなら資産持ちがいいと思ってるくせに。こんなところでまで猫被ってんなよ」

「貴族にお仕えできること自体が僕の喜びだ。資産の大小など関係ない」

「何それ。そんな人間いる訳ないって。あんたのそういうところ、本当嫌い」

 東條は軽く笑うように、ふっと息を漏らす。

「水島にも抱えている過去があるように、僕にも僕なりの過去がある。僕の喜びを他人に理解して欲しいとも思ってない。だけど……僕は水島のこと、嫌いじゃないよ」

 最後に付け加えられた言葉に、水島は目を丸くしていた。

 東條は、水島の返答を待たずに扉から廊下へと出た。


 その後、東條は別荘へと戻り、腹を空かせて待っていた明彦と宗一郎にディナーを作った。三人だけのディナーは、明彦が頑張って会話を振っていたものの、奇妙なほどに静かだった。

 翌日になり、何事もなかったかのように元気な水島が合流した。

 四人はその後、予定通りのバカンスを終える。

 三人はそれぞれの家へ。東條は一人、鷹鷲高校へと戻ったのだった。

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