海 -2-
それからは、怒涛のように事態が展開していった。
明彦が浜まで運び、通報から戻ってきた東條が人工呼吸と心臓マッサージを施すと、水島は水を吐いて呼吸と意識を取り戻した。
直後に到着した救急隊員によって、水島が病院へ緊急搬送されていったのが、一○分前のこと。救急車には東條が付き添って乗って行き、別荘には宗一郎と明彦だけが残されていた。
二人がいなくなっただけ。去年も別荘に遊びにきたのは明彦と宗一郎の二人だけだったはずなのに、宗一郎は別荘の中の静寂を痛いほど感じていた。
「水島が泳げないってこと、お前は知っていたんだな」
ソファに座り、俯いたまま呟く宗一郎。明彦はその隣に腰掛けると、慰めるように、そっと彼の肩に腕を回した。
「ああ、一日目かな。ずっと浮き輪に乗っているから、気になって本人に聞いた。だけど、水島自身がお前にはそのことを隠して欲しがったんだ。知らなくても宗一郎のせいじゃない」
「俺も気づくべきだったが。どうして俺にだけ……俺がふざけて浮き輪を取ろうとした時も、そんなこと一言も言わなかったんだぞ」
「宗一郎に余計な気遣いをさせないようにだと思うよ。泳げないって知られたら、一緒に楽しめなくなると思ったんじゃないかな」
「自分の身を危険に晒してまでか? お前や東條がいなかったら、俺は殺人犯になっていたかもしれない」
宗一郎の語気が強まる。
「あれは事故だよ。水島も、本当に溺れてしまうとは思わなかったんじゃないかな」
明彦は少し考えてから、また口を開いた。
「執事科の子達の、誰かに選ばれないといけないっていうプレッシャーってさ。俺たちの想像を遥かに超えているんだろうな。俺も貴族の中では底辺も底辺な家だけど。でも、家計とか、生活を心配したことなんてない。彼らはきっと本当に、命をかけているんだ」
明彦がそこまでを一息で話し切ると、宗一郎は神妙な表情で頷いた。
またしばらく痛いほどの静寂が満ち、それに耐えかねるように宗一郎は言葉を続ける。
「東條が児童養護施設の出だという話、結構衝撃を受けたな。そういう施設があることはもちろん知ってたが、あくまで物語の中の話のような気がしていた」
「そうだね。皆話さないけど、それぞれに抱えているものがあるんだろうなって。当たり前のことだけど、忘れていた気がする。特にバトラーたちって、感情隠すのがうまいからさ」
「水島はどうなんだろうな。どんな家に生まれて、どんな生活をしてきたんだろう」
宗一郎の漏らした言葉に、明彦はふと表情を緩めた。明彦は、貴族の中でもトップオブトップの家柄である宗一郎が、どうして自分をそばに置いておくのかを知っている。
友達としての性格の相性が良かったということももちろんあるが、理由の第一位は、明彦が宗一郎に気に入られようとしないことだ。
生きていくことに関しては気楽な貴族だが、その地位向上や事業の拡大を目指すならば、それ相応の努力が必要だ。努力を怠れば、貴族という地位からの転落だってあり得るもの。貴族にも貴族なりの苦労がある。
常陸院家は国家建設事業を主軸にしながらも、自動車製造や、身近なところでは服飾や食品にいたるまでさまざまな事業を手がけている。
そんな、世の中のほとんどのものに多大なる影響力を持つ常陸院家の宗一郎と近づけば、己の家の事業に、多くのメリットをもたらすことができると考える者は少なくない。
ゆえに、宗一郎の周りには人が集う。彼らがさまざまな下心を持っていることは宗一郎も知っていて、そして幼少期からそうであるがために、彼らのあしらい方も心得ている。
だから宗一郎は、周囲の者とは常に一線をひいて接している。拒絶するわけではないが、決して懐の中には入らせない。
鷹鷲高校で唯一宗一郎が心を許し、真っ当な「友達」をしているのが、明彦だ。
明彦は、自分が将来的に七森の家業であるホテル経営を継ぐ心算はある。だが、ホテル経営を拡大してやろうという野心はなかった。
周辺の牧場や農園の運営を含めて、美しく豊かな長野の地に根ざし、真っ当なサービスを続けていけば経営難になることはない。それが明彦の考えの根幹である。
だから明彦には宗一郎に対する下心がなく、宗一郎は明彦に心を許している。
人の抱える下心に敏感な宗一郎にとって、バトラーとは、自分の周りに集まってくるマスター以上にわかりやすい存在だった。彼らの目的は初めから、貴族に気に入ってもらって召し抱えてもらうことであり、それは下心などとは呼べないほどに明らかなものだ。
初めからはっきりと目的が感じられる相手は、宗一郎にとっては意外と悪くないものだった。だが同時に、決して親身になっていたわけではない。彼らの必死さを、宗一郎は無意識のうちに、どこか斜に構えて見ていたのだ。
そんな宗一郎が水島の私情を知りたがったことは、今回の事故を受けての明白な変化だった。
「俺も、聞いてみたいな、東條にも。過去のことをさ」
明彦は宗一郎の言葉に、そう同意する。
宗一郎は頷きながら、オレンジ色の日差しが照らし始めた中庭を眺める。インフィニティープールの向こうに、夕日が沈んでいた。
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