紫陽花祭 -2-

 ドン、と背中に突然の衝撃を感じて、山下は前に数歩よろめく。

「おい、使用人がこんなところで突っ立ってんじゃねぇよ、邪魔なんだよ」

 振り向けば、そこには修斗が立っていた。隣には、修斗に傘をさして控えている、バトラーのきしの姿もある。修斗の行動に目を剥きながらも、どうすることもできないでいる様子。彼自身は傘をさしておらず、雨に打たれ通しの状態だった。

 山下の背中には、修斗の濡れた靴底の跡がくっきりとついた。

「しゅ、修斗様。大変申し訳ございません」

 山下の顔から血の気が引いていく。慌てて彼から離れるように道の端へと寄り、頭を下げる。だが修斗は山下が持つ林檎飴を見つけると、すうっと目を細めた。

「お前、使用人の分際で祭りをちゃっかり楽しんでんのな。仕事中じゃねぇのかよ」

 修斗はなおも距離を詰めると、頭を下げたままの山下の手を強く払う。その手に握られていた林檎飴が弾かれて地面に落ちた。

「あっ」

 思わず声をあげ、山下はその落ちた林檎飴の行方を追うように、いっそう背を縮こめた。と、小さくなった山下の耳元に囁かれる言葉。

「お前らの食事も、寝床も、全部俺たちが金を出してるってことを忘れるなよ。寄生虫が」

 山下は唇を噛み、じっと耐える。と、次の瞬間。

「うおあっちぃ!」

 修斗が背をのけぞらせて叫んだ。

 いつの間にか修斗の後ろに立っていたのは東條で、彼は何も載っていないお盆を手にしていた。そこに載っていたはずの熱々のおしぼりは、今は修斗の首筋に張り付いている。

 東條は林檎飴の棒を捨てるついでに、マスター二人の手が飴で汚れてしまっただろうと、熱々のおしぼりを持って帰ってきたのだ。そして戻ってきたところで、山下に無体を働く修斗の姿を目にした。

 東條は一瞬の逡巡の後、おしぼりを修斗の首筋目がけて投げつけていた。

 このおしぼりは本来、使う前にほぐし冷ましてから使う。それをダイレクトに皮膚の薄い首筋に貼り付けられたら、声も出るというもの。

 修斗はしばらく身をくねらせ、首筋からおしぼりをはがし落とす。

「大変申し訳ございません! 飛び石に躓いてしまいまして。お怪我はございませんか?」

 東條は慌てた様子で修斗に駆け寄り、山下との間に体を滑り込ませた。

「お前、ふざけてんじゃねぇぞ」

 修斗は赤くなった自身の首筋に手を当て、怒りを露わに東條に詰め寄った。だが同時に、明彦と宗一郎も騒ぎに気付いた。明彦が真っ先に東條の元へ駆け寄る。

「東條、どうかしたの?」

「わたくしがそこで躓いたばかりに、お二人に手を拭いていただこうと運んできたおしぼりが、ちょうど修斗様の首に当たってしまって」

 東條は滑らかに事情を説明し、申し訳ございませんと頭を下げた。

「それは災難だったね、修斗。でも、東條は俺たちのために急いでくれていたんだよ。許してあげてくれない?」

 事情を聞いた明彦が言葉を続ける。修斗は何か言い返そうとするようなそぶりを見せたが、明彦の奥にいる宗一郎をチラリと見てから吐息を漏らした。

「気をつけろよ」

 僅かな間の後。修斗は渋々といった様子で足早に去っていった。岸が慌てて後に続く。

 その姿が紫陽花の影に隠れて見えなくなってから、山下は全身から力を抜いた。そして、地面に落ちた林檎飴を拾い上げる。砂に塗れてしまった林檎飴はもう食べられない。

 山下が溜息をついていると、すぐそばに宗一郎が来た。

「新しい林檎飴、買いに行くか」

 かけられたのは、そんな一言。

「宗一郎様……」

 山下は顔をあげ、いつものようにヘラリと笑おうとして。

 眼鏡の奥の大きな瞳からは、涙がこぼれ落ちた。

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