アーリーモーニングティー -2-

「ところでさ」

 バスルームの中から声が聞こえてきて、東條は「はい」と応える。

「俺に敬語は使わなくていい。堅苦しいの嫌いなんだ」

 扉越しに続けられる言葉に、東條は目を瞬いた。

 こういった提案は珍しい。前回、同様の申し出を明彦から受けたが、彼がそう望んだ理由は、東條も理解している。

 明彦とはお互いの立場を知る前に出会ってしまったし、彼の家はどちらかと言えば、平民寄りの財政状況だ。彼が普段から多くの使用人を使っているわけではないのだろうということは、東條も察することができた。

 だが、宗一郎は違う。あらゆる分野で事業を展開する常陸院家は、貴族の中でもトップオブトップの家柄だ。

 貴族の格は歴史や政治への影響力、財政状況などを考慮せねばならない多角的なものなので、一概にランク付けができるものではない。だが、東條の学年に在籍するマスターの中で宗一郎がナンバーワンであるということに、疑念を挟む余地はない。

 常陸院家の長男である宗一郎は生まれた時から王子様であり、周囲の者にかしずかれて生活することに慣れている。そんな彼が、使用人からの敬語を嫌う理由など、あろうはずもなかった。

「いえ……どうぞご容赦を。周囲に示しがつきませんので」

 東條は戸惑ったものの、結局は明彦に告げたのと同じように断る。

 と、バスルームから宗一郎が出てきた。垂れていた前髪は無造作な印象でかきあげられ、精悍な顔立ちがいっそう際立っている。

「科が違うからって、俺たちは同じ学校に通う同級生じゃないか。本来、敬語の方が不自然だとは思わないか?」

 宗一郎はなおも言葉を重ねながら、東條の目前まで迫った。宗一郎の背丈は、明彦ほどではないにせよ高い。東條も一七五センチはあるのだが、自然と見上げる形になった。

「宗一郎様とわたくしでは身分が違います」

 戸惑う心情とは裏腹に、東條はやんわりとした微笑みを浮かべたまま、宗一郎のシルクのパジャマに手をかける。

 「失礼いたします」

 と声をかけてからボタンを外してパジャマを脱がせ、持参してきたシャツを着せる。そうして世話をしている間も、宗一郎に嫌がる様子はない。

 朝の支度をどこまで使用人に任せるかは、世話をされる当人の好みによるところが大きい。着替えは自分だけでやりたがる者も多い中、宗一郎は他人に着替えさせられることに抵抗がないのだ。そこもまた、敬語を嫌う性格とは相反している。

「今日はお前の主人である俺が頼んでるのに、駄目なのか?」

「主人の願いをすべて叶えて差し上げるだけでは、執事は務まりませんので」

 慣れた手付きでネクタイをきゅっと締め、宗一郎の着替えが完了した。東條の毅然とした態度に、宗一郎がどこか楽しそうに片眉を上げた、その時。

 部屋の扉がノックされた。宗一郎が応えると、ほぼ同時に扉が開く。

「そーいちろー、遊びに来たよー」

 明るく浮かれた声のトーンと共に姿を表したのは、バトラーだ。明るい栗色の髪はくるくるとした癖毛で、どちらかといえば可愛らしいと形容されるべき彼の表情を引き立たてている。

 彼の名を水島律みずしまりつという。東條とは寮が同室で、クラスも同じ。東條にとってはよく見知った相手だ。

「なっ……」

 そんな水島の、宗一郎への気安すぎる態度に、東條は思わず絶句した。

「おお、本当に来たのか。たった今支度が終わったばかりだが、お前の方は済んだのか」

 だが宗一郎は気にした様子もなく、水島へ気安い調子で歩いていく。

「ちゃんとお仕事はしてきたよ。宗一郎に早く会いたくて急いだんだから。あ、僕が荷物持っていくね」

 水島の方は最初の挨拶だけではなく、ずっとタメ口で宗一郎へ話しかけている。唖然とする東條をよそに、水島はコート掛けにかけられていた鞄を持つと、宗一郎の腕へと自分の腕を絡ませる。友達というよりもむしろ恋人の様相である。

「水島、待ちなさい」

 ようやく我に返った東條は、厳しい声で水島を引き止める。

「何だよ東條」

 水島は宗一郎の腕を軽く引き、部屋から出ていこうとしていた。彼はそこに東條がいたことに、今気がついたと言わんばかりの様子で振り返る。

「何だ、も何もないだろう。宗一郎様に向かって、その態度はいったいどういうことだ」

「宗一郎本人がいいって言ってるんだからいいでしょ」

「身分の違いとはそういうものではない。そもそも、お前は今日、明彦様の担当のはずだろう。明彦様のお世話はどうした」

「だからちゃんと行ってきたって。手伝いはいらないって言われたら、もうやることないだろ。っていうか、他人の担当まで把握してるの、本当に気持ち悪いから止めたほうがいいよ」

 目の前でバトラー二人が言い争いを始めたことになるわけだが、宗一郎はそんな東條と水島のやりとりを、口角を上げ実に楽しそうに眺めている。

「僕が気持ち悪いとか今はどうでも良い。手伝いはいらないと言われたからってそのまま放っておいて良いわけないだろう」

「あーもう、うるっさいな。そんなに明彦様のことが気になるんなら東條が行ってくれば?」

 咎められて不貞腐れたように唇をとがらせた水島は、宗一郎の腕を再度引いた。

「宗一郎、もう行こうよ」

「ん、ああ。もういいのか?」

 宗一郎は水島に腕を引かれるまま、部屋から出て行こうとした。と、思い出したように東條の方へ振り向く。

「さっきも言ったが、東條も俺に敬語を使う必要はないんだからな」

「いえ、そういうわけにはまいりません」

「そうか。まあ、後は頼む」

「かしこまりました」

 宗一郎に取りなすように言われれば、東條もこれ以上食い下がる事はできない。東條は内心の苦々しさを抑え込んで頭を下げ、宗一郎を見送ったのだった。

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