第41話 狭間



狭間はざま』は乳白色のもやに覆われている。

 サキの店を出た魔王は、一歩を踏み出しただけで、店から大分離れたことに気づいた。

 世界の法則は、ここでは当てはまらないらしい。

 魔王は歩きながら探索魔術を展開する。


「<探せ風よ、かの人を>」


 底が見えない深い穴に小石を投げ入れるように、魔力を放つ。

 いくら待っても、その魔力が返ってくることはなかった。それだけこの『狭間』は広いのだ。

 魔王は少し考えて、アマリリスの魔力を探知することに集中する。

 それは犬が風の中から匂いをかぎ分けるのに似ていた。

『狭間』を漂う魔力の中から、アマリリスだけを見つけ出すのだ。


「……」


 魔力の中にアマリリスの気配は見つけられなかった。

 魔王は続けてカラスを数十羽放つ。使い魔であるカラスたちはたちまち、『狭間』の乳白色の靄の中に溶けていった。

 少し待ったが、そのカラスたちは何の手がかりも持ち帰ることはできなかった。

『狭間』が広すぎるため、魔王の元に戻るのが精いっぱいといった様子だ。


「なるほど、サキが無理だと言うだけのことはある」


 かつての幼馴染が無理だと言うのならば、それはほとんど無理なのだろう。

 だが、この程度で諦めていては魔王など務まらない。


「アマリリス」


 名を呼ぶと、彼女の得意げな微笑みがまなうらを過ぎる。

 誇り高き元・王位継承権保持者。あの大輪の花が開くような笑みで慈善活動を行いながら、その理由は、ここに存在しても良いのだと認められたいから、だという。

 そのいじらしい本心を聞いた魔王は、やすやすと想像できた。

『狭間』で呆然と辺りを見回している彼女の、小さな後ろ姿が。


 魔王はぎりりと拳を握り締める。

 もう彼女を一人にしてはいけない。

 彼女に生きていて欲しいと声をかけ、手を引いてやる存在がいなければならない。

 それが自分であることを、魔王は疑っていなかった。

 愛しているのか、と問われれば恐らくそうなのだろう。少なくとも同情や憐憫でないことは確かだ。


 元の世界に戻れるだろうか、聖女はどうしているだろうか、魔族は守れているだろうか。

 そういった魔王としての職務は、既に彼の頭にはない。

 ――自分の弱いところを、魔王にだけそっと打ち明けたあの令嬢を、早く見つけてやらなければ。

 その気持ちだけが魔王を、ディルムッドを突き動かす。


 と、魔王の耳がか細い泣き声を聞きつける。

 女のものと思しきそれに、魔王はいきり立った。声の聞こえる方へ駆け出す。

『狭間』の謎めいた空間では、たどり着くのに時間がかかるだろうと思っていたが――存外早く、魔王は彼女を見つけた。


「……」


 だがそれはアマリリスではない。

 もっと小さな少女だ。金髪をゆるく三つ編みにし、白いネグリジェをまとっている。

 裸足でいるためか、まるでベッドから出てきたばかりのように見える。

 少女は大きな栗色の目に涙を浮かべながら、それをこぼすまいと唇を噛み締めていた。


「お前」

「!? だ、誰ですか」


 甲高い声は幼く、けれどよく通った。

 魔王が声をかけた瞬間、少女は背筋を伸ばし、その手を前できちんとそろえた。礼儀作法を叩き込まれていることが伺える。


「俺は……ディルだ。お前の名前は」

「ディル様。私はアマリリスと申します。アマリリス・デル・フィーナです」


 どうぞよろしく、とネグリジェ姿ながら丁寧にお辞儀をするアマリリス。

 魔王は驚きに一瞬息をのんだが、すぐに平静を取り戻し、落ち着いた声で尋ねる。


「アマリリス。お前はここがどこだか分かっているか」

「し、知りません。気づいたらここに……。お母様は無事でしょうか。お屋敷にいたら急に襲われて、お母様がお部屋のクローゼットに隠れていなさいって言って、そうしたら凄い音が聞こえたんです。それで私、気づいたらこんなところに」


 魔王は気づく。

 ――彼女は、幼いアマリリスではないか。

 それもきっと母を亡くした夜の。


「そうか。俺もここに迷い込んでしまったんだ。良ければ一緒に出口を探さないか」

「ありがとうございます。でも、あの、……ディル様は、一体どこの貴族の方ですか?」


 知らない男にはついて行くなと言われているのだろう。それを律儀に守っているアマリリスに、魔王はふと口元を緩める。


「俺は貴族ではない。ただの平民だ」

「……平民が、そんなにお美しい姿でいらっしゃるのかしら」

「ほう、美しいか」


 尋ねるとアマリリスは顔を真っ赤にして頷いた。可憐な表情に、魔王は思わず唸る。


「八年の間に一体何が起こったらああなるんだ……?」

「ディル様? ごめんなさい、良く分かりません」

「独り言だ、すまない。そういうことなら無理には誘わないが……。俺も、一人でここを行くのは心細いから、お前が来てくれると助かる」


 すると案の定、アマリリスは心配そうな顔になって、


「心細いのですか? なら、私が一緒に行ってさしあげます」

「ありがとう。手をつなぐか?」

「い、いいえ」


 二人は並んで歩き始める。少しだけ距離があるのは、アマリリスが警戒をしていることの証だろう。

 小さな猫を相手にしているようで、魔王は何だかこそばゆかった。

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