断章
ソフィアはヴィンテージ・ワインを手に、魔王の居室に向かう。
ダンジョンの最上部に設けられた居室は、魔王の執務室でもあり寝室でもあった。
赤い絨毯が敷き詰められ、重厚なデスクと本棚が並ぶ部屋は、王宮にも負けない程洗練されている。
「失礼致します、魔王様。お酒をお持ちしました」
「ソフィアか。入れ」
静かに入室したソフィアは、デスクに座って地図を睨み付けている魔王の横に立ち、ワインを注いだ。
グラスに流れ込む濃い赤を見つめながら、ソフィアは尋ねる。
「なぜ、リリスの申し出をお受けにならないのですか」
「……」
「求婚するということは、リリスを見込んだからでしょう。王族であることに加えてあの度胸、あの聡明さ。魔王様の目的が何かは存じ上げませんが、彼女はあなたの期待に足る人物だとお思いになったから、結婚を申し込んだのでしょう」
ソフィアは分からないと言った様子で首をかしげる。
「ならばなぜ、リリスの転移魔術を拒むのです」
「このダンジョンの防御は俺一人で事足りる。魔王とはそういう風にできている。――あの防御魔術は俺が死ぬまで魔力を吸い上げる」
「命を落とす覚悟だと?」
「魔王とはそういう風にできている」
同じ言葉を繰り返す魔王は、既にこの議論は聞き飽きたとばかりに眉をひそめる。
「あれを巻き込んではいけない。恐らく俺たちが弱体化しているのは、あの男が関与しているからだ」
「まさか! あれは死にました、魔王様が入念に殺したはずです」
「だが、あの男は執念深い。最後まで呪詛の言葉を吐いて死んでいった。……蘇りまではせずとも、何かの企みを仕込んでいった可能性はある」
ソフィアの顔がこわばる。
男の企みが今の自分たちを弱らせているのだとすれば、これは”大侵攻”の再開の前触れではないだろうか。
魔王はグラスをゆるりと揺らしながら、口の端を吊り上げた。
彼の脳裏を”大侵攻”の悲劇が過ぎる。
あれは確かに人間にとって恐ろしい出来事だったのだろうが、魔族にとっても青天の霹靂であった。
破壊を好む一部の魔族でさえ、人間との闘いに倦むほどに、戦いは激しいものとなった。
ソフィアは抗議するように、
「だいたい、彼女を巻き込みたくないなら、求婚するのは変です」
「そうか? 王宮を通じて情報が得られるなら御の字だろう。俺はここから出られないし、お前の遠見の鏡があっても、見えない場所はあるのだからな」
「なら脅して言うことを聞かせれば良かったのでは」
ソフィアの言葉に、魔王はふっと笑い出した。
「俺の攻撃は通じなかった。彼女にとっては、俺はどこまでもはりねずみなのだ。だから言うことを聞かせるには、情に訴えかけるしかなかった」
「だから求婚、ですか」
「はりねずみの身では難しかったようだがな」
ソフィアは少し笑って、
「魔王様がはりねずみに見える上に、攻撃も通じないなんて……。改めてリリスって、得体の知れない人間ですね。そもそもあれだけの転移魔術をあと百回もできるなんて、本当なのかしら」
「本当だと思う。アマリリスのからくりが少し分かったかもしれない」
「ほ、本当ですか、魔王様! 教えてください!」
詰め寄るソフィアを軽くいなし、
「要するにあれは、この世のものではないのだ」
「ええ? 死んでいるってことですか?」
「違う。ただ、俺たちとは生きている世界とルールが違うのだ。文字通りの意味で」
首を傾げるソフィア。魔王はそれ以上を語らず、ただ呟いた。
「鈍感令嬢。望んで鈍感になったわけではないのだろう」
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