第3話 新生活
ドラセナ城での初めての朝は、爽やかな目覚めと共に訪れた。
新生活というのはスタートが肝心だ。
日々のルーティーンをどれだけ早く構築できるかが、心身の安定に関わってくる。
幸いにして、台所用品やリネン類の類は用意されており、新しく買い足す必要はなさそうだった。
食糧についても、パントリーにそれなりの量がストックされてあった。
「さすがに食べ物は六十年もつとも思えませんし、どなたかが幽閉に備えてそろえて下さったのですわね。ありがたく頂戴しましょう」
私は貴族だったが、母の方針で、自分で食事を作ることに慣れていた。
「……まあ、メイドを雇うだけのお金がなかったとも言いますが。お母様が本を買うのに生活費の大半を使いこんでしまったんですもの、人件費なんてとてもとても」
けれど、貧乏がゆえに得たスキルは、こうして幽閉生活に役立っているわけだし、人間何事も経験である。
「まずは生ものを先に食べてしまいましょうか。チキンと野菜のレモン蒸しでも作ろうかしら。ああ、その前にパンを焼かなくてはね」
パン窯は綺麗に掃除されてあった。
私はそこに火を入れ、置いておいたパン生地をそっと収める。
「あら? この包丁、やけに黒いですわね……。ああ、鋼自体が艶消しされてますのね。変わった品ですけれど、使いやすくて素敵」
その傍ら、鍋で鶏肉に焼き目をつけ、塩コショウで念入りに味付けをしたのち、キャベツとアスパラガスを適当に突っ込んで蒸す。
仕上げにレモンとハーブを入れれば、食欲をそそる香りが厨房に立ち込めた。
「さてと、パンはどうかしら……って、あら? 焦げ焦げですわね」
火加減を誤ったのだろうか、丸く成形したパンは、真っ黒の消し炭のようになっていた。
初めての窯だから、火力を確認しながら焼いたはずなのだが。
「ま、いっか。外側の焦げたところを削れば問題ございませんわね!」
パンが焦げたから捨てる、なんてのは貴族のすることだ。
食糧が沸いて出てくるわけではない幽閉の身であるならば、パンの焦げを削るくらい朝飯前だ。
焦げを取ったパンと鶏肉を食べながら、私はこれからの生活について思いを巡らす。
「私名義の財産は凍結されておりませんし、投資も続けていますから、しばらくはこの財産で食べていけますわね。趣味のためのお金もちゃんととってありますし、生活するのには問題ないでしょう」
もぎゅもぎゅとパンをほおばりながら、ワインをグラスに注ぐ。
「魔術のお稽古も続けなければなりませんわね。もっとも私、転移魔術以外はほとんど使えませんが」
私たちは、自分の体に流れている魔力を用い、魔術と呼ばれる術を行使する。
魔力を持てるかどうかは生まれによるが、人類の六割ほどが、魔術を扱える程度の魔力を有しているのだそうだ。
魔術ができることは幅広い。
私がこの城に来るために使った転移魔術もそうだし、バスケットの中身を凝縮するための圧縮魔術もそうだ。
魔術の発動方法は人それぞれだが、際立った力を持たない私は、もっぱら魔術陣を描くことで、大掛かりな魔術を行使している。
大魔術師と呼ばれる、王宮直属の魔術師になると、呪文を唱えるだけで魔術を使えるのだそうだ。
魔術陣を描くより、呪文を詠唱する方が遥かにスピーディなのは、言うまでもない。
「転移魔術を使うよりも、徒歩で森を抜けた方が健康的だとは思いますけれど、魔狼が面倒ですわね」
魔狼は黒い魔素を持つ獣であり、まとめて魔獣と呼ばれることもある。
六十年ほど前、人間との戦争に敗れたことで、数は激減したが、それでも人里離れた場所には魔獣が棲息していることもある。
戦闘魔術はからきしだし、そもそも実戦経験がないので、魔獣に勝てる気がしない。
護衛を雇うという手もあるけれど、人付き合いが面倒くさいので、今のところは選択肢からは外しておこう。
「護衛の騎士に裏切られて、後ろからばっさり、なーんて死に方はちょっとおまぬけですものね? 『背中の傷はブシの恥』という言葉が東国にはあるといいますし!」
ここはやはり、転移魔術で移動した方が良いだろう。
それに恐らく、村へ行く機会は結構ある。
「一応城に畑はありましたけれど、私ってば植物を全部だめにしてしまいますから、お野菜はお店で買うしかありませんのよね……」
そして野菜は結構足が早い。
酢漬けにして食べるのも良いが、やはりここは新鮮なものを食べたい。
だから頻繁に村に行かなければならないのだが、まあたまには人と会話する機会を設けた方が良いだろう。
幽閉されたときの死因ナンバーワン(私調べ)は、あまりにも人と交流しなさすぎて心を病んでしまうことだそうだ。
できるだけ健康寿命を延ばしたい私にとって、人との定期的な会話は、積極的に行っておきたい。
「生活の見通しは何とか立ちそうですわね。幽閉ってもっとこう、陰気臭いものを想像してましたけれど、ここはとても涼しくて快適ですわ」
うっとりと呟いたその瞬間だった。
『ここドラセナ城を快適と言ってのけるか! 随分鈍感な令嬢もいたものだ』
低い声が床の方から聞こえてきて、そちらの方を向くと――。
そこには、一匹のはりねずみがいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます