第8話 夢と記憶と

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 ――……



 質素な部屋に置かれた寝台には、一人の少年が横たわっていた。水を張ったたらいを室内に持って入ると、咳をしていた彼はゆっくりと上体を起こす。


「――私の世話なんかしていると、病気がうつりますよ?」

「心配しないでください。あたしには火の精霊さまがついていますから、熱病にはかからないのです」


 そう答えて、幼いアリスは少年に優しく微笑んだ。

 小さな頃のことを夢に見ていた。まだ一番下の弟が生まれる前の出来事だ。



 アリスの故郷は大きな宿屋も病院もないような町なので、年に一回行われる視察を担当する王宮魔導師は町の一般家庭に寄留する。どこの家で世話をするのかは持ち回りだ。その年にやってきた王宮魔導師の少年はルヴィニの家で世話をすることになっていた。

 だが、彼は任務の途中で熱病に倒れてしまう。身重みおもであった母に代わり、まもなく九つになるアリスが彼の看病にあたっていたのだ。


「火の精霊が?」


 彼は目をまるくして聞き返してくる。


「はい。――あたし、魔法なんて習ったことないんですけど、炎を出すことができるんですよ。ただ、制御がうまくできなくってみんなに迷惑をかけちゃうから、外に出るのも控えていて……」

「そんな、もったいない」


 残念そうな顔をして告げたのち、彼は激しく咳き込んだ。


「あ、横になっていてください。身体を清めますから」


 促すと、彼はしぶしぶ横になった。アリスはたらいに張った水に布巾を浸す。


「――魔法の勉強をしたいとは思わないのですか?」


 汗ばんだ首筋に固く絞った布巾を当てると、彼は力のない声でそう問うてくる。


「思いますよ。勉強することができれば、制御も上達するんじゃないかって」

「でしたら――」

「でも」


 彼の台詞を遮るようにして、アリスは続ける。


「もうすぐあたしには弟か妹かが増えます。今でさえ二人の幼い弟の面倒を見ていて手が離せないんですから、自分のことは後回しですよ」


 苦笑を浮かべて、そう答えるのが精一杯だった。アリスは作業を続ける。


「……君はもっと自分の幸福について考えるべきです」

「あたしは充分に幸せですよ?」


 思いがけない台詞に、アリスは驚きながらも即答する。

 少年は小さく首を横に振った。


「君は知らないだけです。今以上の幸せがあることを」


 はっきりと言い切って、彼はアリスの手を掴む。衰弱しているはずなのに、彼の手には力がこもっている。


「身体を拭いてくださってありがとうございます。とても気持ちが良かった。――今日のお礼に一つ、魔法の使い方を教えましょう。他の人にこのことを喋ってはいけませんよ」


 彼はアリスを見て穏やかに微笑む。そして、内緒話であることを示すように耳打ちをして、火炎魔法の制御の仕方をこっそり伝授してくれた。

 献身的な介抱の成果か、彼の容態はすぐに安定し、大事にはならずに回復した。彼は本来の仕事を短期で片付けると王都に戻っていったと記憶している。



#####



 ――彼の名はなんと言ったかしら……?


 微睡まどろみから抜けたとき、ウラノスの整った顔が目の前にあって心底驚いた。びっくりし過ぎて飛びのいたほどだ。


「おや、ようやく目が覚めましたか。寝坊助ねぼすけさんですね」


「お、おはようございます、エマペトラ先生」


 小さな心臓がせわしく鳴っている。身体から飛び出してきそうだ。

 寝坊助だと指摘されたが、窓の外は朝焼けが広がっている。動物たちもまだ寝ていそうな時間帯だ。

 ウラノスはすでに旅の準備を終えているらしく、外出用のローブに袖を通していた。


「そろそろ王宮を出ますよ。アリス君は特に支度などないでしょうが、他の人に気づかれないように注意だけはおこたらぬよう」

「はい。承知いたしましたっ!」


 アリスは元気に返事をする。身支度の必要はネズミの姿では特にない――そう思いながら周辺を見て、自身にハンカチがかけられていたのに気づいた。どおりでぬくぬくと心地よく眠れるはずだ。


 ――先生がかけてくれたのかな……?


 口を開けば一言多いし、冷たい表情ばかりの人であるが、根は優しいのかもしれない。


 ――悪い人じゃないってことは充分にわかったわ。この人を頼れば間違いない。


 これからの旅に期待して、アリスは気合いを入れたのだった。

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