トロイメライ Ⅲ
アタシこと、妖精ウェンディは――眠れずにいた。
いつもなら寝床の葉っぱにくるまっただけで、スヤスヤと気持ちよく夢の扉が開いてくれたのに。今夜ばかりは変に気持ちが高ぶってしまって、まったく寝つけずにいる。
それも無理はない。
アタシはいま、妖精の里を離れて……この世で一番危険な人間の住処で、一晩を過ごそうとしているのだから。
(
なんとなしに、ころんと寝返りを打つ。その向きがたまったま人間の寝ている方だったので、思わず驚いて羽を立ててしまった。
銀色の髪に、こんがり焦げた色をした肌。『ボーケンシャ』とか名乗るこの変な人間は、巨大なベンチに横になって、すでに寝息を立てていた。
ずれた肌掛けから見えるそのマヌケ面を、アタシは半目でにらみつけてやった。眠れる夜を過ごすはめになったのは、元をたどればこの人間のせい。だのに、自分はスースー幸せそうに寝入っているなんて、なんて身勝手なやつだろう。
「ふぅ……今日は本当に、いろんなことがあったわ」
生まれてこの方、ずっとこの森のなかで過ごしてきた。その森のなかで起きたことだというのに……予想外の連続ばかりで、今日一日を思い返しただけでも目がまわってしまいそう
朝になれば解放してくれるようだが、いまごろ妖精の里はどうなっていることだろうか。
捜していた子分の妖精カールは、きっと一人で里に帰ったと思う。
あいつは、そういうやつだ。問題は、そのカールがアタシの不在に気づいたらの話である。
妖精ウェンディの突然の
衝撃的な大事件に、
あれこれ想像を巡らせたアタシは、いまさらになって顔を青くするのであった。
「……ま、そんなわけないか」
ほんの一抹よぎった不安を、アタシはくすっと笑い飛ばした。
たかだか妖精一人、一晩、姿を見かけなくなったって誰も気にしないだろう。
なぜなら、里のみんなはすでに大パニック状態なのだから。
妖精族存続の危機という……もっとずっと大きな災厄が降りかかっているのだから。
「はぁ。これから、どうしよう……」
笑ってはみたものの、やっぱり根底からの不安はぬぐえない。アタシは再び、眉を思いっきり八の字に寄せて考えた。
仲間たちの性格は知っている。為す術もない絶望を前に、みな立ち上がれず打ちひしがれているはずだ。もしくはそんな不安を見て見ぬふりして、自分にまわってきたお当番の仕事を黙々と進めているか。
チェルトのような、女王様のお言葉に否定的な妖精が、なにか面倒なことを起こしていなければいいが……。あの時、彼女が言った『新しい妖精の長をすえる』話といい、里全体によくない空気が充満しているのはたしかなことである。
(まさか、アタシが帰るころには……妖精族はみんな滅んでじゃって誰もいなくなっていた、とかないわよね?)
もぬけの殻になった悲しい故郷の風景を、つい想像してしまった。大樹は枯れ果て、緑だった芝の上には青灰色の葉っぱが溢れている――そんな里の姿を思い浮かべて、アタシの胸が冷たくなった。
掛け布を寄せて、体に強く巻きつけて……ひとり、涙をこらえた。
「バカね……気分が沈んじゃったら、余計に眠れなくなるじゃないの……」
誰に向けるわけでもなく、悪態をついた。
まぶたをぎゅっと閉じてみても、安らぎは一向にこの身に訪れることはなかった。
(アタシ……今日、自分の無力さを思い知ったわ)
小さな妖精の敗北感。
人間相手に力で勝利したかった、妖精族の強さを示したかった、みんなに自身をつけてあげたかった……。だのに失敗したあげく、里に帰れぬまま人間ごときに一晩世話になるこの始末。
(おまけに……)
壁に飾られた、たった一枚の紙に……世界の広さというものを知ることになろうとは。
あの人間が、ホラを吹いている可能性も考えられた。でも、なんにしても、自分の見ている視野がとてもせまいということだけはわかってしまった。
(未来を
でも、こんなアタシになにができるかな?
考えれば考えるほど、グルグルと思考がまわりにまわって……まぶたの端から、からい雫がにじむのであった。
――ふと、つむっったまぶたの裏に、女王様のお姿が浮かんだ。
誰へだてなく優しい、妖精族の長。
そんな女王様がやわらかい口調でこう言った。
『人間をつれてくるのです』
はっと、アタシは目を開けた。
昼間の、女王様のお言葉がいま、はっきりと胸の奥に響く。
そして目を見開いた先、アタシの目の前にいるのは――!
「んー……明日こそ……むにゃ、薪を……」
「…………」
眠りこけている人間。
ノシュアと名乗ったその冒険者を、アタシは見つめた。
瞬間、今日の記憶がわっと頭のなかでくり返される。
倒された思い出の木、森のなかでの追いかけっこ、冬でもないのに凍った不思議な枝木、ウッズウルフからの命がけの逃走、巨大なお家での晩ご飯……。
それと、壁の地図をなぞる指――。
「ぷっ」
ふふふっ。
掛け布のなかで、こらえきれずにアタシは笑った。
「まさかね。ふふっ、まさかこいつが……」
妖精族を救う――なんて、ありえないわ。
それはきっと、天地が逆さまにひっくり返ったって、起こり得ないことだ。いくら女王様の条件を満たせる者が手近に、それも目の前にいたとしても。
アタシは静かに首を振った。
それに……これ以上、彼の厄介になるのは、こっちからごめんである。
「おしゃべりの相手としたら、まぁ丸をあげてもいいけどー。そこそこ、暇つぶしくらいにはなるし……」
でもやっぱり、人間にだけは頼りたくない。
そもそも
おバカなことを考えたおかげか、胸のつかえが少し取れたような気がする。らしくもなく、鬱屈した気持ちに囚われていた自分が急にアホらしく思えてきた。
「はぁ、ちょっと思いつめすぎてたみたい」
ま、アタシってば、けっこう繊細さんだし。
と、ひとりごちてみた。それからアタシは里に帰ったらやることを頭に入れて、今度こそ夢の世界に入ろうと体の力を抜いたのであった。
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