【一週間ライティング】独奏のオーケストラ

まっしろしろすけ

独奏のオーケストラ 【前編】

「いてっ」


 指の先から真っ赤な血が滴り、男は思わず顔をしかめた。たった今半分になったトマトが嘲笑うかのように左右に揺れ、男はため息を吐きながら静かに包丁を置いた。

 すぐそこにしまってあった布を取り、左手の中指に押し当てる。布の上に置かれた右手にはいくつもの絆創膏が貼られていた。男が冷静なのは、ここ数日で同じ体験を何度もしていたからであった。最初は騒いだものの、今ではこれも作業の一環のようになってきている。

 いけない、と男は意識を改めた。冷凍食品から卒業するため始めた自炊だが、当初の目的に『指を切る』なんてものはなかったはずだ。26歳になってまで包丁もろくに扱えないのでは彼女ができないのも納得だ。なんとしてでも料理上手になって幸せな家庭を掴んでやる、と男は意気込む。


「気合入れてけぼ……俺!」


 手を抑えながら意気揚々と引き出しから絆創膏を探す男だったが、昨日使ったものが最後だったことを思い出し、がっくりと肩を落とした。



▲△▲



 それから数時間経ち、時刻は昼過ぎ。絆創膏を買ったついでに外で昼食を済まし、左中指に新しく貼った絆創膏を気にしながら男は歩いていた。結構深く切ってしまったため、既に血が滲んでいる。

 この傷が成長の証なのだと男は心の中で割り切り、手元から視線を外した。

 途端に、都会の喧騒が目に飛び込んでくる。脇には日差しを遮るほどのビルが立っており、道は人の頭で埋め尽くされ、飲食店の匂いや人の汗の臭い、他にもよくわからないものが五感に訴えかけてくる。

 土曜日にこんな人が多い場所を通るのではなかった、と男は後悔する。振り返るが、後ろも人でぎゅうぎゅう詰めだった。今更後戻りしたところでこの状況は解決しないだろう。

 人の波に飲まれ、されるがままに進んでいく。時期が6月ということもあり、人々が密集したことで嫌な熱気が襲いかかってTシャツに汗がべとついた。



「ちょっとタイム……」



 もともと人混みは得意ではない。少し気持ち悪くなり、男は脇道にそれた。人一人通れるほどの小さな路地で、狭くはあるがひんやりと涼しい。ぱたぱたとTシャツを仰ぎながら一息つく。

 大通りを人が流れていくのをぼんやりと眺めながらスマホを取り出した。時間を見ると、14時38分。このペースだとアパートにたどり着くには20分はかかるだろう。


「タイヤに空気入れるの渋らないで自転車で来ればよかった……ん?」


 スマホを操作し、着信履歴があることに気がついた。10年以上の付き合いである友達の近藤からだった。人混みのせいで着信に気づかなかった。


「もしもし?」


 電話をかけるとすぐに出た。開幕、相手は興奮した様子でまくし立てる。


『なあ! 聞いてくれよ! おれさ、前ちどちゃんのライブのチケット応募しただろ? あれ、当選したんだよ!!』

「え!? まじで!?」


 ちどちゃん、というのは近藤が数年前から推している若い女性の人気アイドル、横田ちどるの愛称で、彼と会うたびにちどるの話を聞かされるため、その熱狂っぷりは否が応にも分かっていた。

 ライブに応募して落選までがいつもの流れだったが、あの高倍率を抜けてまさか当選するとは思っていなかったため、思わずこちらも興奮気味になってしまう。


「すっげ! ついに生で拝めるのかよ! 良かったなあ!」

『ありがとよ! おれはこのために生きてきたと言っても過言じゃねえ。まっ、行けるって確定したわけじゃないんだけどよ』

「え? 当たったんじゃないのか?」

『当たったは当たったんだけどよ、二人用のが当たっちまって。一人だと入れねえんすわ』

「あー、大体わかった。だから俺に電話かけたのね?」

『ザッツラーイト!! ってなわけで一緒に行こうぜ! 8月4日、交通費食事代諸々は全部おれが出してやる! どうよ!』

「うっそ! 東京で高い飯頼んじゃうぞ?」

『それはやめろ!』

「冗談だってー。ちょっとまってろ、予定確認するから」


 カレンダーアプリを起動し、8月までスワイプする。


「あ」


 忘れていた。8月4日は毎年山形の実家に帰省しているのだった。


『な、なんだよ』


 怪しい気配を感じたのか、電話の奥の声が曇る。


「すまん。その日、予定あるわ。帰省する」

『まじかよ〜! 山形だっけ? なんとかしてずらせない?』

「俺の両親、仕事忙しくてさー。他の日となると厳しいかもしれない。訊いてみようか?」

『うーん、いや、大丈夫。わざわざ家族の邪魔をするほどおれも腐ってねえよ。他のやつ誘ってみるわ。その代わり、来週二人で飲みに行こうぜ!』

「本当にすまん……。その時は奢らせてください……」

『たっかいの頼んでやる!』

「ご勘弁をー!」


 しばらく話し、ふと時間を見てみると20分経っていた。十分涼み、気分も持ち直したのでそろそろ切ると告げる。


『そうか』


 近藤はどことなく真剣な雰囲気を漂わせていた。長い付き合いのため、電話越しでも漠然と分かる。


『最後にちょっといいか?』

「ああ」


 次の言葉を待つ。場の雰囲気が変わり、都会の喧騒が静かに離れていくのを感じた。


『お前、頑張りすぎてないか?』

「……それってーー」


 瞬間、物凄い速度で足元を黒い影が通り抜けた。突然のことに驚き、短く悲鳴を上げる。その拍子にスマホを落としてしまった。ばきっと嫌な音が立ち、慌てて拾い上げたがもう遅い。スマホの画面は砕け、電源も落ちていた。かろうじて再起動はできたものの、当然というべきか通話は切られている。


「最悪だ」


 スマホの暗い画面に歪んだ自分の顔が写った。再起動はまだ終わらない。絆創膏のついた手で画面を何度もタップする。

 はっとなり、男は周りを確認した。こうなった原因を蹴っ飛ばしてでもやろうかと企んだためだ。既に彼を脅かした元凶はそこにいないが、代わりに、その場に似つかわしくないものが転がっていた。


「飴……?」


 何のためらいもなく拾い上げ、包み紙を観察する。黒一色で、他に文字すら書かれていない。触った感じだと、よくある小さな飴玉のようだ。しかし、怪しい。それに先程までこんなもの落ちていただろうか?

 少し考え、やめた。時間の無駄である。得体のしれない飴なんかより今日の晩御飯について考えたほうがよっぽど有意義であった。

 興味が失せ、飴玉を捨てようとしたその時、


「そうそう。挑戦することが大事なんだよ」


 見知らぬ女性の声が、ピンポイントに男の耳に訴えかけた。思わず後ろを振り返る。都会の喧騒が光とともに一気に広がり、彼の視界を、聴覚を、彩った。しかし、目の前で人の頭が不規則に揺れるだけで目的の女性は見当たらなかった。いや、見つけたところでどうすることもなかったが。

 男は手元の飴玉を見つめた。


『挑戦することが大事なんだよ』


 嫌にその声が耳に残る原因は、男が『変化』に飢えていたからだった。

 二年前、残業だらけのきつい仕事に追われる変わらない日々から逃げ出したいと唐突に思い、彼は会社を辞めた。他の人から見れば些細な出来事だっただろう。しかし、彼にとってはそこが全ての始まりだった。

 その時まで碌な人生を送らず、流れる時のままに過ごしてきた。だが、その勇気が、挑戦が、変化が、人生を照らす光となった。

 勢いづいた彼は、その頃から様々なことに挑戦するようになった。

 一人称を変えてみたり、毎朝ウォーキングを始めてみたり、人との交流を大切にしようと意識してみたり、地域のボランティアに参加してみたり。料理を始めたのもその一環だった。


「挑戦……」


 あまりにも馬鹿らしい、と男は自身の考えを一蹴した。それをしたところで得は全くないし、なんなら損しかないと思ったからだ。

 でも、こんな経験もしてみたら良いのではないか。いつか、話のネタになって笑える日だってくるかもしれない。

 慎重に黒い包み紙をとると、中からは真っ赤な飴玉が姿を現した。匂いはしない。包み紙を触ってみるが、土や泥がついている感じもしない。ずっとここにある、というわけでは無さそうだ。


「……はむっ」


 目をぎゅっと閉じ、口にいれる。途端にむせかえるほどの鉄の味が広がった。


「うっ!? げほっげほっ」


 飴が口から飛び出し、ころころと道路を転がる。


「……あ?」


 道路?

 ここは、路地裏のはずだ。

 違和感に顔をあげる。変わらない東京のビルが男を見下ろしているが、明らかにおかしな点があった。

 空も、雲も、赤い。

 それに、男は路地裏にいたはずだが、今は道路のど真ん中に突っ立っていた。


「は、はは……どうなってんだ」


 頬をつねってみるが、夢から覚める気配はない。

 唯一路地裏と変わらない点があるとすれば、人気が全くないというところだろうか。いつも騒々しく通り過ぎる車すら見る影もない。

 手元のスマホの光に気がつき、覗く。再起動が終わったようだ。とりあえず誰かと話し、頭を落ち着かせたかった。


「圏外……」


 男の願いは虚しく、割れて歪んだ圏外の文字が小さく表示されている。

 続いて、男の興味は飴に映った。このおかしな風景が現れたのはあれを舐めた直後であって、関連性がないとは言えないはずだ。

 未だに口内に残る鉄の味に顔を顰めながら飴に手を伸ばす。その手に、ぽつりと雫が当たった。じゅっと皮膚が焼ける音がして、悲鳴を上げながら反射的に手を引っ込める。


「あっ!? い、いってえ!」


 空を見上げた男の頬に小さな衝撃が走り、またもや激痛が駆け抜けた。


「うぁっ! なんなんだくそ!」


 たまらず、頭を守りながら建物の中へ避難する。道路はところどころがまだら模様になっており、そこに残された飴も雨粒の攻撃を受けたのか、半分溶けていた。

 火傷をしたかのような鋭い痛みだ。男は苦虫を噛み潰したかのような表情で頬を手で押さえる。

 その時、彼の耳にピアノの旋律の音が届いた。過敏に反応し、辺りを見回す。

 誰かが弾いているのだ。つまり、人がいる。

 音はちょうど男のいる建物の奥から聴こえてきていた。優しく、それでいて儚い旋律。どこか不安すらも覚えるその音に引き寄せられるかのように、男は歩みを進める。

 大きな扉を開けると、そこは巨大なホールだった。真っ暗な中、舞台上にいくつものスポットライトが照らされており、それぞれに椅子が用意してある。その一番左端にはグランドピアノが鎮座し、立派な黒いタキシードを着た男性が鍵盤を軽やかに叩いていた。

 思わず釘付けになりそうな素晴らしい演奏だが、すぐに異常に気がついた。ピアニスト以外誰もいないのだ。用意された椅子に座るものはおらず、スポットライトは孤独な椅子を照らし続けている。しかし、何故だろうか。その場から発されるのはピアノの音だけのはずだが、目を閉じてみると、聴こえる。楽器の音だ。居ないはずの楽器の演奏が、ピアノとハーモニーを奏で、渦巻き、空気を揺るがす。

 目を開けてみる。やはり、舞台に座っているのはピアニストただ一人。彼は、ピアノの旋律だけで、聴く人の耳に他の楽器の音を届けていた。孤独、なんて言葉は間違っても口に出さないだろう。そこにはたった一人の手で完成されたオーケストラが広がっていたのだから。

 演奏が終わる。ピアニストは立ち上がり、その際にばっちり目が合った。そこで自分以外の観客がいないことに男は初めて気がついた。


「ようこそ。私たち吸血鬼のオーケストラへ」


 彼は、低く妖艶な声で、そう発した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【一週間ライティング】独奏のオーケストラ まっしろしろすけ @shirosuke0000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る