17. 特訓➂

 ホームラン級のバッティングができて、俺は思わず嬉しくなった。球なんて適当に打てばいいと思っていたが、きれいな軌道を描けると、それはそれで気持ちよかった。


 振り返ると、師匠も満足げに頷く。


「お前に教えることはもうない――と言いたいところだが、まだまだある。だから、また来い」


「はい」


「しかし、最後のは良い打球だったな。何かコツでも掴んだか?」


「コツですか? そうですね。師匠が嫌いな奴だと思えと言ったじゃないですか。だから、嫌いな奴の顔面が最も潰れる場所とタイミングを考えて打つようにしました。そしたら、あんな風に飛びました」


「……お、おう。そうか」


「師匠のおかげで、俺は大事なことに気づけました。嫌いな奴はただ殴ればいいというわけではないんですね。今後は、最もダメージを与えることができるようなやり方で殴っていきたいと思います」


「……まぁ、なんだ。今度、飲みにでも行こうか」


「え、あ、はい」


「ちなみになんだが、お前さんの嫌いな相手とは、わ、わしのことか?」


「いえ、昔の上司です」


「そうか。なら良かった」


 師匠はほっと胸を撫でおろす。さすがの俺も初対面の人間に対し、強い憎しみを抱いたりしない。しかし師匠には、そういう人間に見えたのだろう。ネガティブそうな見た目だから仕方ないか。


「師匠! 今日も教えて!」


 元気な明るい声が響く。見ると、バットを持った数人の小学生が師匠のそばで目を輝かせていた。


「おう、来たか」


 師匠は、孫でも見るような柔らかい目つきで答える。


「それじゃあ、わしは行く」


「はい。ありがとうございました」


「まぁ、なんだ。これでもわしは長く生きている。だから、バッティング以外のことでも、何かお前さんのためになる助言ができるかもしれんから、何かあったら、ここに来ると良い」


「わかりました」


 師匠は、小学生を見る目つきで俺を見返し、別の打席へ移動した。師匠を見送り、バックネットへ視線を移す。もう少し打ちたい気分ではあるが、金がないので、今日は帰ることにした。


 打席から出て、出口に向かおうとすると、「あの、すみません」と若い男の店員に声を掛けられた。


「はい。何ですか?」


「下田さんにいろいろと言われていたみたいですけど、大丈夫でしたか?」


「下田さん? ああ、師匠のことですか。大丈夫です」


「そうですか。なら、いいですけど。下田さん、ああやって、いろいろな人にアドバイスするんで、それを迷惑がるお客さんもいらっしゃるので」


「なるほど」


「あ、でも、すごい人なんですよ、あの人! 元北武の仲井選手の師匠みたいですし」


「……すごい人なんですか、その人? すみません、野球はさっぱりなので」


「はい。北武のホームラン王と呼ばれた人です! 今は引退したんですけど、彼が打席に立つたびに、みんなワクワクしたものです。かくいう僕も、ワクワクしていた一人なんですが。ほら、あの人です」


 店員が壁に飾られた写真を指さす。その写真には、師匠と小太りの男、そして、この店の店長と思しき3人が映っていた。


「あ、見たことがあるかもしれません。この人」


「そうでしょう」と店員は誇らしげに語る。「まぁ、とにかく、下田さんに迷惑してないようでしたら、良かったです。何かあったら、僕たちに言ってもらえばなと思います。対応するんで」


「わかりました」


「下田さん、悪い人ではないんですけど、少しお節介なところがあるんで」


 と、店員は苦笑する。


 わざわざ訂正する気はないが、彼は2つの勘違いをしている。


 1つ目は、師匠が悪い人かどうかを決めるのは彼ではなく、俺であるということだ。彼が師匠を悪い人ではないと評価したところで、俺が悪い人だと評価すれば、俺の中で師匠は悪い人になる。だから、彼の師匠に対する評価なんてどうでも良かった。


 そして2つ目は、俺が彼を迷惑には思っていないことだ。確かに最初はウザいと思ったが、時間が経つにつれ、師匠に対する見方も変わった。師匠には、罵倒することが目的になっている連中にはない熱意があった。だから、多少口が悪くとも、師匠の言葉に従うことができた。


「ほら、ちゃんとボールを見て!」


 師匠の声が聞こえた。


 師匠は周りにいる子供たちと一緒になって、打席に立つ子供を応援していた。


 その横顔を見て、またこの場所に来ようと思った。

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