第9話

七月の中旬、期末試験が目前に迫り、イコール夏休みも目前に迫っていた。

 僕はやっぱりギリギリ赤点にならない程度に勉強をして、補修と追試を乗り切る作戦を立てていた。

 せっかくの夏休みだ。

 全ての時間を小説に充てられる貴重な長期休暇なのに、補修や追試に邪魔されたくない。

 栗花落 鳴華の浮いた噂を聞いたのは、その頃だった。

 彼女は言わずと知れた有名人だから、彼女に関する情報というものは、意図せずに入ってくるものなのだが、その時に耳にしたのが、これまで聞いたことのない類のことだったから、珍しく僕は興味を持ったのだ。

「やっぱり気になる?? まぁそうだよな。気になるよなぁ。好きな女の子に『好きな人がいる』なんていう噂を聞けば、そうなるよな」

 東が仕入れてきた『栗花落鳴華に好きな人がいる』という噂に、思わず『誰なんだ?』と聞き返してしまった僕に、ここぞとばかりに畳みかけてくるのは当然、頼親だ。

「学年でトップクラスの美少女の思い人が誰か、というのは、個人的に特別な感情が無くても、気になるだろう」

「いやいやいや、現実を諦めたと公言しているお前が、そんなことが気になるとは思えないけど?」

「僕の数少ない『普通の人間』の部分なんだよ、それは。それで東、相手は誰なんだ?」

「ああ、それがさ、二年の相良大樹先輩だってさ。サッカー部の」

 それを聞いて僕は、ああ、なるほど、と思った。

 相良先輩と言えば、それこそ憧れている女子が多いと聞く人気の先輩だ。

 偶然チラッとだけ見かけたことがあるが、見るからに陽キャで爽やかなスポーツマンであり、顔もまぁ、とりわけハンサムという訳ではないけど、悪くはない。

 サッカー部のレギュラーでエースで、人間関係も良好なカースト上位に君臨している、イケイケな男子であるならば、顔はそこまで重要視されないのが現実。

 イケてるメンズ……『イケメン』とはよく言ったもので、実に便利な言葉である。

 ハンサムや美男である必要はない。時代と流れに乗っかれて『イケて』いればその定義に含まれるのだから。

 とまぁ、世に蔓延る『イケメン』に対する僕の僻みはひとまず捨て置くとして、それでもやはり、僕は少しだけ、落胆していた。

 そんな浮かない表情から察したのか、頼親が再び、煽るように口を開く。

「そんな顔して、あれだろ? 栗花落さんの好きな人が、分かりやすい陽キャの人気者だから、『あ~絶対勝てない』って思って、落胆してるんだろ? な?」

「だから、違うって。仮に落胆しているとすれば、案の定というか、当然というか、分かりやすい人気者を好きになったんだなっていう、安易さに対して、だな」

 そう言って、また僕は自分が嫌になる。

 誰が誰を好きになったって、別に構わないし、他人である僕に何か口出しする権利も、何かを思う権利すらないのだ。

「どんな形でも、どんな理由でも、『落胆する』ということは、少なくとも相手に『期待』していた証拠だよ」

 頼親はいつも通りの爽やかな口調で、嫌なこと言う。

「……そうだな。確かに、僕はどうにもあの栗花落鳴華という女子に、僅かながら期待をしてしまっていたのかもしれない」

 そうだ。

 彼女と中途半端に関わってしまったが為に、あるいは僕の中の捨てきれない『美少女』に対する二次元的かつ創作的なありもしない理想像が、リアル美少女である栗花落 鳴華と重なって、無意識にそう期待してしまっていたのだ。

「よくないな。相良先輩は、実はすごくイイ人かもしれない訳だし」

 僕は先輩と知り合いでもなければ、しっかり会話すらしたことがないので、彼の人間性などまったくといってよいほど知らない。

 だから、彼は本当は、誠実で優しくて、気取らなくて謙虚で、それでいて自分に自信があって、人を容姿と内面の両方からしっかりと見ることのできる、凄く良い人なのかもしれないのだ。

 例え、『浮気』という状態にしないために、正式な彼女を作らずに言い寄る女子全員と恋人まがいの関係を築いているとか、人気の高い運動部のエースならではの、無駄に傲慢で他人のことを考えない言動が多いとか、確かにウチの高校ではエースだが、県大会レベルに出ると、まったく目立ったプレーはできないとか、パッと思いつくのは日ごろいやでも耳に入るマイナスでネガティブな噂が多い相良先輩だとしても……である。

「……いうほど顔は良くないと思うけどな」

 なんとなく、僕は最後にそう呟いてしまった。

 あくまで個人の感想なので、ご了承いただきたいものだが……。

「お前さ、マジで拗らせてるんじゃないのか?」

 頼親が少しだけ真剣な顔でそう言った。

「色々拗らせすぎて、訳分からなくなって、見失ってるんだよ、きっと」

 どうにも、彼は僕が栗花落のことを好きだという事実を無理矢理にでも捏造したいようだ。

「だから、ありえないんだって。僕は彼女を、恋愛対象どころか、友人とすら認識していないよ。ただの知人。同じ学校の同級生。少し話すだけのな。本当にそれだけだ」

「いや、でもさ、どんな関係性でも、栗花落さんとちょくちょく話せるのは、それだけで羨ましいと思うけどな~オレは」

 ようやく、東が横から入る。

「……実を言うと、栗花落さんには、何か目的があるみたいなんだ。僕に何か、協力させたいことがあるって話。だから、声をかけたんだってさ。やっぱり何か特別な理由がなくちゃ、ありえないんだよ。彼女のような女子が、僕を狙って声をかけるなんてな」

「それ、本人に聞いたのか? うわ……お前、デリカシーないな」

 頼光が苦々しい表情で揶揄う。

「でも、それにきちんと答えてくれたから、僕は少なくとも、彼女を『敵』と認識せずにすんだんだ」

「それでもまったく距離を詰めないっていうか、仲良くなろうとしないお前って、凄いな」

 東は感心したように言ったところで、僕のスマホがメッセージを受け取った。

「あ……」

 相手はまさに栗花落からであり、試験の最終日――つまりは、三日後の放課後に、二人きりで話したい、というものだった。

 僕はそのメッセージを、特に東にも頼親も告げることはなかった。

 栗花落からの呼び出しなど、彼らに楽しませるネタを与えてしまうだけだ。

 改めて呼び出されたところで、どうせまた本やら漫画やら映画に関してのことを聞かれたりするに違いがないのだ。

 元々僕たちはただそれだけの関係であって、それはついさっきも言ったように、間違いなく友人にも満たない関係であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 僕はいつも通り、赤点にならない程度の勉強をしてテストに臨み、自己採点でもそこそこ良い点数だったことに安心したところで、僕は彼女のところへ向かうことにする。

 呼び出し場所は、神保町の昔からある喫茶店だった。

 この前来た時に、本屋を巡る途中で軽く案内したところ、彼女は強く興味を示していた店だ。もちろん、その時は寄らなかったけど、栗花落は入ってみたそうにしていたから、それも兼ねてのこの場所なのだろう。

 なにより、ここは同じ高校の生徒に遭う確率が非常に低い。

 僕は東と頼親に、『編集の人と打ち合わせがある』と嘘をついて、一人神保町行きの電車に乗った。

 わざわざ電車移動が必要な場所を指定するなんて、とは思わなかった。むしろ、これまでがおかしかったのだ。

 栗花落ほどの有名人で人気者が、比較的目立たない場所とはいえ、人目がある校内で僕と二人きりで話すということ自体、リスクが高い。

 僕の様に、彼女に積極的に関わりたくはないと思う人間と会うには、毎回こうしてうちの高校の生徒がいない場所を指定するべきなのだ。

 駅に着くと、A7番出口から地上に出て、目的の喫茶店を目指す。

 店のドアを開けてカウ・ベルを聞くと、店内を見回す。

 探す必要などなく、栗花落の姿はすぐに見つかった。

 帰りのホームルームが終わる時間など、どこのクラスも大差などないはずなのに、彼女はすでに席に座り、注文したであろうアイスコーヒーを飲んでいた。

「随分早いんだな」

 向かいの席に座り僕が言うと、

「早退したのよ」

 と栗花落は言った。

「具合、悪いのか?」

 彼女はそれに、首をゆっくりと左右に振った。

「テストって、終わったらやることないから、暇でしょう? でも、授業中と違って、別のことをする訳にもいかないから、本当にやることがないのよ。次のテストがあれば、仕方ないって我慢するけど、最後のテスト時間だったら、もう何も待つ必要はないから、仮病を使って残りのテスト時間とホームルームをスルーしてきたの」

「優等生だと思っていたのに、案外適当なんだな」

「私は優等生なんかじゃないわ。まぁ、成績は上から数えた方が早いけど、別にそれだけよ」

 成績優秀でスポーツ万能の美少女優等生、というのが栗花落 鳴華の触れ込みだ。

 確かに実際の彼女は、妙に親しみやすい人間であり、『優等生』という印象とは少し違うが……

「それで、わざわざ呼び出して、何の用だ」

 栗花落はアイスコーヒーをストローで一口吸って、小さく微笑んだ。

「協力してもらいたいことがあるって、前に言ったわよね? その時がきたのよ」

「僕の能力が必要っていう、あれか。概ね文章関係だとは思うけど、何をすればいい?」

 僕が聞くと、栗花落は優雅な動作で、鞄から封筒を一つ取り出した。

「……手紙を書いてほしいの」

「手紙? 誰に?」

「それは……私の好きな人に、よ」

 好きな人に、手紙を書く。

 ああ、そういうことか、と僕は思った。少し前に栗花落の好きな人に関しての噂が流れ、それをタイムリーに東たちと話をしていたのが数日前。あれも一種の虫の知らせというやつか。

「栗花落さんの好きな人? つまりラブレターの代筆をしろってことか?」

 栗花落はそれに小さく頷く。

「分かっているの。気持ちを伝える為のラブレターを代筆してもらうのは、良くないことだって。でもね、書こうと思ったけど、上手く書けなくて。何をどう書いても、気持が上手く伝わらない感じがして……。特別な才能があるあなたなら、きっとうまく書けるんじゃないかって思ったの」

 言いたいことはわかるが、それでも僕にはそれを納得することなど到底できなかった。

 言わば告白代理のようなものだ。

 好きな人に好きな気持ちを伝えるというシンプルで、重要なことを他人の言葉で伝えるのは、どう考えても正しいとは思えない。

 気持ちを文章に反映できないことを気にしてしまう、それほどに真剣な思いならなおさら、それを代筆して伝えるなど良いはずがないのだ。

 それに、栗花落のラブレターを代筆するということは、想い人である相良大樹に愛を告白することになる訳で、それは具体的な人物が分かっている分だけ何か、非常に嫌なのだが。

「非常識なお願いなのも、十分理解しているつもり。だけど……」

「うまく書けないのなら、わざわざ手紙じゃなくて、直接告白すればいいじゃないか」

「それは、そうなんだけど」

 栗花落は考えるそぶりをして、改めて首を横に振った。

「でも、ダメなの。面と向かって告白なんて、できないよ……話すのだって、いつも緊張して、二人きりの時が終わると、へなへな~って腰が抜けそうになるんだもの」

 顔を赤らめて、視線を落とす栗花落。

 これほどまで人気と自信のある女子でも、愛の告白とはそこまで気負うものなのか。

 かつて僕が抱いたクラスメイトへの恋心や、告白とは、状況が違い過ぎて比べるべくもないが、まぁ確かに、それなりに知名度も肩書もあった僕でも、善戦すらできずに拒絶されたのだ。恋愛とは、上手く行かないことが前提なのだということはなんとなく理解できる。

 いや、そうとも限らないか。どうにも胡散臭くも、文句なしの爽やかフェイスの友人の顔が頭をよぎり、考えを改める。頼親がフラれるところを、僕は見たことがない。いつだって、彼には女子の方から寄ってきては、勝手に盛り上がって、その温度差がおっくうになって頼親から別れを切り出すのだ。

 きっと栗花落さんも、その部類だと思っていたが……どうやら違うらしい。

 ……というか、すでに『二人きり』で話をする仲であるなら、少なくとも『友達』の領域には入っていそうだ。これだけ見てくれが良い女友達から、それとなくアプローチをかけられれば、とりあえずは脈ありな反応をするものだと思うのだが、そこはやはり当事者である。自分の方が明らかに熱量が大きいと思われる恋愛事情は、いつだって誰もを不安にさせるものだ。

「君でも自信がないっていうのは、意外だな。そこまで、太刀打ちできない相手には思えないけど」

「ちょっ……それっ、私の好きな人、知ってるの?」

「噂だよ。君は有名人で人気者だから、噂程度の信憑性の無い話なら、自然と入ってくるんだ」

「えッ……ち、因みにその噂では、私は誰が好きってことになっているの?」

「相良先輩だよ。二年の」

 その言葉を聞いて、彼女は一瞬目をきょとんとさせてから、クスクスと笑い始めた。

「なるほどね。確かに、彼とはよく話すけど、別にそういうんじゃないわ。ただ……そうね、どちらかというと、アプローチをかけられてる感じかな」

 ワザとらしく、思わせぶりな態度で栗花落はそう言った。

 今更モテることをアピールなどする必要もないだろうに、彼女は『モテて困る』と言わんばかりにそう口にしたのだ。

「そうか、じゃ、別の人ってことだな」

「その通りよ。私の好きな人は、相良先輩ではないの」

 彼女は言って、そのまましばらく黙り込んだ。

 少し目を伏せて、テーブルやアイスコーヒーのグラスに視線を落とし、何かを待つように沈黙していたのだ。

 さすがにこの間を不自然に感じて、

「ええと、僕の返事待ち? 君の依頼を受けるか、どうかの」

 僕が言うと、一瞬驚いたような顔をした後で、いぶかし気に眉は顰めた。

「えっ? あ、ええ、そうね。そうよ。それ待ちよ」

 微妙に何か的を違えた感が否めないが、まぁいいだろう。

「やめておくよ。僕には、荷が重い」

「え……? どうして?」

「どうしてって、それはさっき君が言っただろ。非常識なお願い、だからだよ」

「本当に、受けてはくれないの?」

 栗花落の切なそうな表情は、それはそれは破壊力というか、心に刺さる類の何かを持っていた。きっと客観的に見たらわざとらしくて、アザとくさえ見える上目遣いと、絶妙な首の傾きを、極自然に、まるでそうするのが、ある種の物理的必然であるかのようにスムーズにやってのけるのだ。

「うん。っていうか、正直、どんな気持ちとテンションで書けばいいのか、さっぱり分からない」

「小説家なのに?」

「まだ小説家じゃないよ。プロじゃないからね。ただ小説を書いている人。それに、ラブレター代筆ができるかどうかなんて、小説家かどうかは関係ないんじゃない?」

「白峰君って恋愛小説は書かない人なの?」

 そう聞かれて、最近はしばらく書いていないと思った。

 それこそ、思春期真っ只中から小説を書き始めた僕の最初の作品は、恋愛小説だった。

 というのも、それが一番取材の必要がなく、内面描写を得意(だと思っていた)としていた自分には、それくらいしか書けないと思っていたからだ。

 その理由から、僕は初期、恋愛小説ばかりをかいていたのだが、それもだんだんと書かなくなった。

 多種多様で、それこそ『共感』という重要なプロセスを必須とする恋愛小説を、小説書き始めの恋愛経験は失敗しかない童貞少年がどう描いたところで、ただの痛い妄想小説の域を出られはしないのだ。

 その恋愛小説で優秀賞を受賞できたのは、きっとたまたま、奇跡的に運が良かっただけ。

「恋愛小説、不得意なんだ。だから、きっとラブレターも下手だと思う」

 僕が言うと、栗花落はやっぱり悲し気な顔で、こちらを見つめていた。

「不得意、なの?」

「そうだよ。僕は、恋愛も恋愛小説も不得意なんだ。僕はきっと、『誰かを好きになる』ということの本質が、理解できていない」

「白峰君は、好きな人、いないの? 好きだった人は? 小さい頃とかでも、今までで、誰かを好きになったこと、ない?」

 これまた随分とデリケートでリスキーなことを、平然と聞いてくるものだと、僕は思った。

 恋愛とは、人生観にも通じている。そんな、その人間を構築している要素かもしれない感覚に関して、こんなにもあっさりと踏み込んでくるなんて、なかなかの猛者だ。

 僕は少し考えた。

 本当のことを言い始めれば、きっととんでもなく面倒くさいことになる。

 そんな面倒なことを、彼女に説明するなんて、考えただけでそれはそれはもう

面倒なことこの上ない。

 それなのに、僕はまた、その面倒なことをしようとしていた。

「どうにも、僕は自分が思っていた感情と、実際の……世の中でいう感情にはズレがあるみたいでね」

「……えっと、それはどういうこと?」

「ああ……」

 僕は自分が恐ろしく下手な説明から始めてしまったことに気が付いた。

「世の中一般で言う、『恋』や『愛』や、それに伴うある程度の共通認識と、僕がそうだろうと思って、抱いてきたものにはズレがあって、そのズレがどうにも修正するとか、そういう次元の問題ではない、もっと根本的なものに関わっていることに気づいたんだ。それに気づくと、もう、自分が信じてきたものも、自分がそうだと思っていたものも、全部疑わしく思えてきて、考え直さなくちゃいけないって思った。そうしたら、余計にわからなくなった。客観的にみることはできても、そこに一切の主観や、自らの共感がない。共感のない物語は、人の心には響かない。小説も、手紙もね」

 決して上手く説明できたとは思えないが、それでもいくらかマシになるように、言葉を尽くしたはずだ。

 栗花落は、まっすぐに僕を見つめた。

 その濃い茶色の澄んだ瞳は、僕の中のもっと奥を見つめられているようで、どうにも心地が悪かった。

「白峰君……あなたが、書きたいものってなに?」

「え?」

「あなたは小説を書いている。それは、書きたいものがあるから、よね? だから、それがどんなものなのか知りたいの」

「なんだよ、急に。君は僕の『小説を書く』能力……いや、多少まともな文章が書ける能力にだけ興味があるんだろう? 僕が何をどんな風に書きたいかなんてどうでもいいはずだ」

「それは……」

 言葉を濁した栗花落の表情に、僕はひどく見覚えのある何かを感じた。

 言いかけて、途中で飲み込む言葉。不本意そうに仕方なく反らす視線。

 僕はその正体を、良く知っている。

 隠して、誤魔化して、抑え込む表情だ。

 それは、僕の表情だった。毎日鏡や、ガラスに映った時に見る、僕の顔そのもの。

 背を向けて、自分を誤魔化して、抑え込んで、何もかもに『違うんだ』と言い訳をして生きている僕の顔と、全く違う顔のはずの彼女が、妙に酷似して見える。

「そうね。ごめんなさい。小説家が何を書きたいか、という話は、とても込み入った話よね。私が安易に踏み込んで良いことじゃないわ」

 十数秒の間を空けた後、彼女はそう言って踏み込むのをやめた。

 また、沈黙が流れた。

「……もし、僕が君の依頼を受けるとしたら、君の好きな人というのは、教えて貰えるのか?」

 栗花落はそれに、首を左右に振る。

「あなたがそれを言いふらしたりしないとは思っているけど、そうではなくて、単純に誰かに知られるのが恥ずかしいのよ。だから、悪いけれど、無理ね」

「そうか」

「意外ね。あなたは、そう言うの興味ないと思っていたけど……」

「いつもはね。でも、代筆をするなら、話は別だよ。代筆をする人物はもちろんだけど、宛てる人物像も知っておいた方が書きやすいのは間違いないだろう」

「そう、だよね。そっか。当たり前だよね」

「だけど、それがNGなら、まぁそれも仕方ないか」

 好きな人を知られたくない。

 その気持ちは、分からないでもない。

「あの……ごめんね。私、凄く我儘で、非常識で、自分勝手なこと、言ってるよね」

 彼女は本当に申し訳なさそうにそう言った。

 僕はそれを見て、内心ため息をついた。いや、実際にも、ため息を漏らしていたと思う。

 どうして、栗花落鳴華の頼みというのは、こうも断りにくいのだろうか。

 彼女が美少女だからか。それとも、好感度が高く、言葉や仕草の節々に、男心をクスずる何かを持っているからだろうか。

 あるいは――。

 そこまで考えて、僕は思考を無理矢理止める。

 そこから先は、きっと良くない。

 ともかく、ここで突っ撥ねて、『できない』と断ればよいのだが、それがどうにもできない自分がいる。

 断れないなら、受けるしかない。

 多分、僕の中の好奇心とか興味とかいうものが、彼女の依頼を受けたがっているのだ。

 彼女と関わることで、何か新しい価値観のようなものが得られそうで、それに伴う苦労や面倒よりも、その先にある何かの誘惑が勝っているのだ。

「相手がどんな人間かも分からないのに、その人充てに、全く他人である君の心の内を小洒落た文章で書き綴るって訳か。なかなか難しいな。小説を書くより何倍も難しい。難しいけど……やってみるか」

 それを聞いた栗花落の表情が、それまでの憂いたものから徐々に明るく咲いていく。

「えっ? それじゃあ……受けてくれるの?」

「ああ」

「ありがとうっ! 」

「受けるけど、それをやったら、僕は何を得られるんだ?」

「報酬の話ね? そうね、もちろん、お礼はするつもり。でも、何がいいか考えたんだけど、あなたの欲するものが分からなくて。何が良い?」

 問われて、僕は考えた。自分で言っておいて申し訳ないが、僕が欲しいものは、新人賞の大賞だ。金賞でも銀賞でも、あるいは製本化されるなら優秀賞でも良い。

 可能なら、今話が進んでいる小説サイトからの製本化なんかより、小説の新人賞で入賞してデビューしたいのだ。

 だが、そんなことを言っても、仕方がない。

 学校で噂の美少女であっても、僕に小説大賞を与えることなどできないのだから。

 いや、そもそも、そんな形で貰った賞なら、サイトからのデビューと変わらない。

「あなたに好きな人がいて、尚且つ、あなたがその人に思いを伝えられていないとか、近づきたいけど、近づけないでいるとかなら、間を取り持つという形で協力できるかとは思ったけど、あなたは好きな人、いないのでしょう?」

 聞かれて改めて考えた。

 好きな人云々は、つい先ほどきっぱりと断言した。

 好きな人はいない。ここに来て、人を好きになる、という感情が根底から分からない。それは事実で、考え直すまでもなく、同じ結論にたどり着く。

 だが、そう言った自分の主観を少し捻って考えてみてはどうか。

 つまりは、下心や打算というものを全面に押し出して考えるのだ。

 容姿や学校での立場、人気、話題性、そういう、ミーハーで軽薄な観点から、実に俗的に考えてみたら――。

 僕はぼうっと、目の前の少女を見つめた。

 僕が頭を空にして、自分のことも周りのことも後先も考えずに、誰か知り合いの女子と仲を深められるとしたら、誰が良いか。

 認めてしまうには抵抗があるが、それは、現時点では栗花落鳴華で間違いなかった。

 いつか、頼親が言ったように、確かに彼女は、僕の好みの女性ではあった。

 容姿は言うまでもなく、その話し方や声、雰囲気や表情、仕草の一つ一つが、魅力的に感じるのは事実だ。

 きっと中学生の頃の、生徒会と剣道に勤しんでいた、井の中の蛙であった僕だったなら、真っ先に好きになってしまっていてもおかしくはない女子である。

 と、そこまで考えて、僕は内心、頭を左右に振った。

 血迷ったのか。

 何をバカなことを考えているのだ。

 さっきとはしっかりと止めた思考の一端ではないか。

 彼女は、自分が好きな人に告白めいた手紙を送る為の文章を僕に依頼しているのだ。その報酬に、彼女と仲を深めることを条件にするなど、本末転倒もよいところだ。

「今、思いつかないから、考えておくよ。君は出来る範囲内で、僕の要求を満たしてくれればいい」

「それでいいの?」

「他に思いつかない」

「わかった。出来る限りのことはするわ」

「期限は?」

「約二週間。夏休みに入ってから二週間後だから、八月の三日にまた待ち合わせましょう」

「上手くできない可能性もあるからな。期待しないでくれ。報酬も、君が納得できる出来だったらでいい」

 僕が言うと、栗花落は頷いた後で、付け足すように言う。

「もし書きにくかったら、普通にあなたが書いてみて。あなたが、誰か、大好きな人に向けて、という形でも構わないわ。……今、好きな人がいないから、それも難しいかもしれないけど、誰かを好きになって、その人に気持ちを伝えたいっていう純粋な思いを、手紙にして書いてみくれるだけでいい。それを参考にして、書いてみるから」

 それを聞いて、なるほどと思った。

 別に完全な代筆でなくても良いのか。伝わりやすく、でも少し洒落っ気があって、気持が籠っていて、でも押しつけがましく無くて、貰って読んだら、純粋に嬉しくなる手紙。好感度が高く、興味を持つような文章を書けばよいのだ。魅力的な女性の登場人物だと仮定して、それに栗花落寄りにシフトしていけば、出来ないことではない。

 小説サイトの方の製本化にあたって、改稿や確認などもある時期だが、それくらいなら、丁度良い息抜きにもなるだろう。

 僕はさっそく帰って作業に取り掛かろうと、席を立とうとしたところ、

「白峰君、この後、時間ある?」

「え?」

「せっかく神保町に来たんだし、またおススメ、教えてもらえないかなって」

 栗花落は、前に同じことを言った時と、殆ど同じ表情でそう言った。純粋無垢に、何かを期待する目。自然で心地よさすら覚える微笑みは、ある種の麻薬のように半ば強制的に心に干渉してくる。

 栗花落の笑顔は、そういう、見てる者の気持ちを明るくする作用があるのは確かのようだ。多くの人間がこの感覚を抱くのなら、彼女が人気になるのは、当然の結果だろう。

「前のは全部読んだのか?」

「もちろんよ。借りたシリーズは、ドはまりしちゃって返した後に新品買い直しちゃったの。読み返し三クール目に突入してるくらいだから」

「気に入った作品があって良かったよ」

「感覚が似てるのかな? 価値観とか? それとも単純に白峰君の洞察力が高いから、私の好みの作品をススメられただけ?」

 似てる訳があるか、と僕は心の中で悪態をついた。

 多くの男子が、栗花落鳴華を可愛いと言って、関わりたいと願って、叶うのであれば、付き合いたいと思っている。

 多くの女子は憧れ、栗花落鳴華と親しい友人関係を築いていれば、それだけでステータスとなり、他者に自慢できるだけではなく、自己肯定感にすら繋がるある種の『自信』になる。

 そんな風に言われる女子が、輝かしい(かもしれない)高校生生活をフルスイングで溝に捨てる覚悟をした俺と何が似てるというのか。

 とは言っても、同じものを見て、読んで、似た感覚で感動できることは、悪いことではない。

 その価値観を形成する根っこの部分が、これ以上のないほど異なっていたとしても、共感できるのは、その作品がそれだけ強いメッセージと『色』を提示しているからだろう。

 そんなことを考えて、僕は安易に否定するのをやめた。 

「多少なりとも、似てるところはあるだろうな。作品のもつ『色』の好みが似てるから、同じ作品を同じように面白いと感じる訳だし」

 僕が言うと、栗花落は「そっか」と言って、なんだか嬉しそうに笑った。

「私ね、『感覚』っていうのかな。勘ともちょっと違うんだけど、ファーストインプレッションで判断したことって、大抵正解なことが多いの。見た瞬間、出会った瞬間に、『あ、これってこうだな』とか、『こういう人だな』とか、そういう充て勘が強いの」

 その判断で、俺は選ばれたという訳か。

「そういうこと。なんか気になったのよね、あなたのこと」

「その勘がより正確であることを証明する為にも、僕は立派なラブレターを書かなくちゃいけないってことだな」

 僕が言うと、栗花落はまた笑って、『それは、どうでもいいよ』と言っった。

「もう私の中ではね、白峰君は十分に面白い人だし、話したい人になっているから」

「そりゃどうも」

 『面白い人』、『話したい人』これらはどちらも、言われれば悪い気はしないものの、かなり危険なワードであることも確かだ。

 それらは、実に甘く魅力的で、容易に勘違いを生む言葉だ。

 特に僕のように、日の目を見ない、モテない人間には、妙に心地よく自尊心を満たしてくれる言葉なのだ。

 だからこそ、気を引き締めなくてはいけない。

 どんなに魅力的に見えても、それは希望的観測でしかなくて、願望でしかなくて、どこまでも都合の良い勘違いなのだということを。

「行こうか。解説しながらだとそれなりに時間がかかる」

 僕はそう言って、栗花落を促した。

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