那姫礼岳の向こうへ
エヮクゥト・ウャクネヵル・²テラピリカ
那姫礼岳の向こうへ
私は長い長い坂をのぼる。ペダルにありったけの力をこめる。
学校指定のPコートの襟元で風が滞留して、首筋の汗を冷やした。
昨日までの冷たい朝が嘘のように陽射しが大気を暖めて、春の訪れを告げている。
失敗した。もうコートなんて要らなかったんだ。でもここで脱いだって困ってしまう。畳んでも自転車のカゴには収まらない。もちろん鞄に入るものでもない。だからもうこの不快感を一刻も早く終わらせようと思って、ペダルに一層力をこめていく。
私は自転車で東恋路坂を駆け上がる。
脇を深緑色の軽自動車が通り過ぎていく。路面に残る昨日の雨の水たまりを跳ね飛ばす。
鯨野内科医院を脇目に、開店前のスーパーヨシノの前を通り過ぎる。だだっ広い駐車場を囲む植え込みのツツジが、朝露にきらきら輝いていた。
いっそのこと自転車を降りて押すべきだった、何を意地になってたんだ私は、そう思いかけたところで、視界の先、長い坂道が唐突に終わる。地平線みたいに道路が途切れて、交差点の上、五メートルあたりで、薄い信号機に窓が開いたみたいに青色が灯っていた。
徐々に緩やかになる傾斜に、私もペダルを踏む力を緩めて軽くブレーキを握る。
それまで坂道に遮られていた向こう側の様子が一気に視界に入ってくる。坂は下りに転じて長く長く続き、眼下に広大な眺め。片側二車線計四車線中央分離帯ありの広い県道がまっすぐに、まっすぐに伸びる。ガードレールの向こうに草の生えた斜面が続き、その先に釜目川のゆったりとした流れ、岩と砂利の作る河原。県道を挟んで河原の反対側はもう少し斜面が上に伸びていて、それに沿って顔を上げていくと高速道路のフェンスが目に入る。坂を下る途中に、中古車屋、パチンコ店の廃墟、警察署。煙を噴き上げる白い大きな工場は、このあたりの山裾の天然水をボトルに詰めて全国に出荷しているらしい。銀色のコンテナを背負った大きなトラックが連なって道を通り過ぎていく。その行く先、県道を下っていくと、私の通う高校がある。わたしと反対側の方から登校してくる生徒が豆粒のように見えた。まだ始業には大分時間があって、だから数はまばらだ。
私は深く息を吐いてから同じだけ吸い込む。口の中に紫色の味が広がる。空気は冬みたいにはおいしくない。ぬるま湯みたいな感じがした。スカートのポケットから出したタオルハンカチで首元の汗を拭う。額も。
顔を上げる。
長い下り坂と広がる広大な平野の先に、巨大な壁が立ちあがっている。壁の下のほう、裾野あたりは春霞に包まれ、青と緑と白の混じったぼんやりした帯になっている。そこから新緑を帯びた前衛の山脈が立ちあがり、奥の巨大壁の青色との境目に稜線を浮き上がらせている。大気の青色は稜線からすっくと上に伸び、やがて徐々にその青を薄くし、雪を帯びて白銀にきらめく主稜線に至る。凶暴な獣の乱杭歯のように出鱈目に飛び出した岩峰が鋭く天を突いている。家で朝食を食べながら見たニュースで、今朝の那姫礼岳の標高は三、三六一メートルだと言っていた。去年の夏よりも二百メートルも上がっている。
えー、みんなも知っての通り、那姫礼岳の移動、テクトニクスは、この二年ほどでゆっくりと活性化している。今更言うまでもないが、山が動いているということだ。そこまで大きなものではないといえ、山裾で少しずつ被害も出始めている。前回の大規模な移動は四百五十年前のことだ。記録によると、山の全体が微妙に形を変えながら移動した距離は約三百メートルほど。麓に暮らす人も多かった時代背景もあるだろう、多くの犠牲が出ている。このときに観測された標高の変化は百三十メートルほどだというから、これに移動距離が比例するとすると、今回の移動はより大きなものになると見られる。仙人のような髭の教師が黒板に貼り出した地図をポインターで指しながら喋る。
地理特別講座と呼ばれるこの授業は、私たちの県にだけあるものらしい。県の地理的な特徴とそれが生活や文化にもたらした影響、自然災害の歴史について学ぶもので、二週間で一コマの変則的なカリキュラムになる。受験に役立つものでもないし、試験があるわけでもない。何より、内容が退屈だった。もう小さい頃からずっと、周囲の大人たちに聞かされてきたような話だったから。
私は机と胸の間で携帯を操作する。
指紋認証で画面が立ちあがると、カジュアルスーツ姿の四人の男が道路脇のガードレールにもたれるように座っている写真が表示される。最近好きなバンド、新東京の待ち受け画像だった。そこに、上からすっと通知が降ってくる。メッセージアプリの緑色のアイコン。その横に角の丸まった四角形の白い枠が表示される。マンガの吹き出しみたいなそれの中に、文字が躍った。
〈なぎらい、めちゃくちゃ高くなってんじゃん〉
〈スタンプが送信されました〉
アプリを立ち上げる。
チャットウインドウに、なみだ、と会話相手の名前が表示された。
頭上で青い髪の毛を団子のようにまとめた女の子のスタンプがアニメーションしている。
〈3300メートル超えとるらしい 富士山ぐらいあんじゃん〉
そう私は返信する。
そこに重ねてすぐに返信が返ってくる。
やべえ、とアニメ絵の女の子のスタンプ。
〈富士山て3000メートルもあんの〉
いや、あるよ。私は少し笑う。
〈たしか3500メートルくらいあるから、まだなぎらいより高いな〉
またなみだの返信。
〈てかなぎらいって山頂登れないんでしょ。自衛隊、めちゃくちゃ死んだらしいじゃん どうやって標高測ってんだよ〉
ふと教室の窓の外に目をやると、相変わらず那姫礼岳──なぎらいだけ──の銀色の稜線が遠くに聳えていた。
私はだいぶ前の地理特別講座で聴いたことをさも常識かのようになみだに教える。
〈衛星で測っとるらしい〉
なみだは本名じゃない。アカウント名だ。ゲームで知り合った。
顔も知らないゲームの仲間と携帯で繋がるのって、我ながらちょっと引く。今更だけど。でも、なんていうか、すごくノリが合うんだ。あのオープンワールド──オープンワールド・トラバース、略してオワトラ、の中で話すだけで充分だった、最初は。でもすぐに言葉はそこから溢れ出して、どんどん零れていって、私の現実に落ちて染みを作っていった。その言葉の中には、進路、だとか、単位、だとか、馴染みのものもあって、私たちは同じ立場なんだってすぐに分かった。あの動画。新曲。アニメの神回。君に朝が降る。言葉はどんどん溢れて、グラスに注がれていくみたいだった。
なみだは那姫礼岳を挟んだ向こうの県に住んでいる。あの壁の向こうにいるってことに、単純な距離以上の絶望的な遠さを感じたりもする。でも。
クラスにだって一緒に話したりお昼食べたりする子たちはいるけど、私の一番の友達はなみだだと思う。
**
目のないサイコロを振り続けて駒を進めるふりばっかりしてた。
芽を摘む隙を見逃したことで、実を結び枯れるのを何度も見てきた。
耳から流れ込んできた言葉が頭の中の温水プールみたいな部分に溜まった。youtubeで公開された新東京の新曲。四人の音は、ギターがなくて優しかった。窓からオレンジ色の光が流れ込む。ベッドの上で制服が皺になる。どうでもいいと思った。
でも新東京の新曲はまだ聴きたいし、いつかライヴも見たいと思った。
なみだに曲のリンクを送ると数分後に「めっちゃいいな」と返ってきた。
**
紅茶とトーストとリンゴとベーコン。昨日と同じ朝食。テレビのニュースで天気予報が始まる。今日は風が強くなるらしい。今朝の那姫礼岳の標高は三、三六〇メートル。昨日と比べて一メートル低くなっている。とはいえほとんど変わらない、誤差の範囲。でもこれまでは僅かずつでも上がり続けてきたから、少し変だった。山から吹き降ろす冷たい風で気温は冬に逆戻りする、とキャスターが言った。
昼休みのあと、特別講座の仙人教師が教室に入ってきた。今日は特別講座はない。
仙人教師は挨拶もせずに話し始めた。
えー、先ほど、県の災害委から一報が入った。那姫礼岳の移動は今朝から非常警戒レベルに入った。すでに麓で、逃げ遅れた住人の被害が出ている。知っての通り、那姫礼岳はこちらの方角に向かって移動している。標高の変化が大きいので、どれほどの移動が起こるのかは未知数だ。しかしながら、ここも被害を受けるということは、充分にあり得ることだ。那姫礼岳は、反対側の山裾を縮めて、こちら側に山裾を伸ばすような形で、移動してくる。おそらく数か月をかけて。近いうちに県及び国からの正式な発表があるはずだ。避難対象区域もそれで確定する。明日からは登校する必要はない。連絡には、メーリングリストを使う。本日はこれで終業とする。
私は窓の外の那姫礼岳を見る。稜線上は雪が舞い上がっているのか、白くきらきらと輝く雲に覆われていた。凍った大津波みたいだと思った。
家に帰ると、いつもは仕事の時間なのにお父さんとお母さんがいる。
逃げるの、と私は訊く。
「まだ状況が分からんだろう」
「逃げるったってねえ。どこ行くのよ。お婆ちゃんのことだってあるし。置いてけないでしょ」
非常警戒、とか言ってたけど。
「と言っても緩慢なものなんだろう。数ヶ月かけて移動するって話じゃないか。何にしろ、情報が先だ。まだご近所さんだって、どこも静かなもんだ」
「うちにしたってローンも残ってるしねえ。保障とか、出るのかしらねえ」
テレビでは、那姫礼岳の麓での土砂や落石の被害のニュースに続いて、野生動物による家畜の被害が急増していることを報じていた。
私は二階の自分の部屋にあがる。
携帯を立ち上げると、なみだからのメッセージが入っていた。
<なぎらい動いてるってテレビで言ってるぞ>
<うん。学校早く終わった>
<なんか、なぎらいから下りてきた動物に牛とか豚とか食われてるって マジ?>
<わかんない まだ情報とかあんまないから>
<明日から地震とか増えるかもしれんとか 公共交通機関とか電気とか大丈夫かな あと通信網とか>
<とかが多すぎるなw>
<いやまじで>
まじでさ、となみだのメッセージがもう一個ポップアップした。
さらにもう一個。
<避難すんの?>
<分かんない 何か月か余裕あるみたいな話もあるから 逃げるにしたって準備もあるしさ>
<あのさ昔になぎらい動いたとか>
半端なところで途切れたなみだのメッセージの下に、すぐさま続きがポップアップする。
<動いたときさ、麓の町の人全然逃げなかったんだって ゆっくりだから大丈夫だと思ったのか住んでる土地捨てたくなかったのかわかんないけど>
<詳しいな>
<最近調べてたから てかマジで逃げたほうがいいって>
何だか私はその言い方にいらつく。
<だから逃げるってもそんなすぐには無理やし 親もいるし てか何 今日変じゃない?>
一度弾みがついてしまうと止められなくて、私はその下にもう一個、余計なメッセージを投げてしまう。
<そんなリアルに干渉してくる感じでしたっけ? まあしばらくはゲームにも入れんくなるかもだけど それだけだって>
なみだのアイコンの横で、三点リーダが往復する。入力中の表示。メッセージが現れるのを待ったが、三点リーダはたっぷり一分間、往復し続けた。
それを眺めているうちまたいらいらしてきて、私は入力する。
<てか他人じゃん ひとんちのことじゃん>
アプリを閉じようとしたところで、チャット欄に大きな四角いポップアップが現れた。
受話器のアイコン。
通話機能だ。
私は動揺する。閉じようとしたけど、今まで使ったことのなかった機能だからやり方が分からない。急かすみたいにアイコンは震える。焦って適当にタップすると、携帯のスピーカーがオンになったのが分かった。
「他人じゃない」
最初に聴こえてきたのはそんな言葉だ。
「……伊波田、弓。十七歳。誕生日、七月五日。生まれも育ちも、茅早市、なぎらいの麓の、っていっても、そっちからしたら反対側だけど。趣味は、ゲーム、マンガ読むこと、特技はギター、身長百五七センチ、嫌いな食べ物はリンゴ」
ピアノの真ん中より少し高い方みたいな感じの声だった。つっかえて、震えて、懸命に喋っているみたいだった。
「学校は好きじゃない、家族もあんまり好きじゃない、あの人たちには、言ってることが、あんまり伝わってない感じがするから……、ゲームの友達とは、話が通じる感じがするから、あたし、」
少し戸惑うみたいな間があって、言葉が続いた。
「他人じゃない、から、あたしにとっては」
通話相手の不安が伝わってきて、私はとりあえず一言、言葉を返す。
「ごめん。……あ、えっと、そう、私、宮地浅葱。十七」
**
前回の那姫礼岳の移動のあとに弓の住む街の側にできた広大な原野は、今、農地や発電施設のための土地として使われているらしい。ただ、その半分ほどはどうしてもそれらの用途に適さず、手つかずになっているそうだ。そうして残った土地は、季節ごとに沢山の花がひとりでに咲く花畑なのだという。弓はそれを一緒に見に行こうと言った。案内するからと。
手の中の携帯に、高速バスの電子チケットが入っている。弓が送ってきたもので、それはさすがに悪いよと断ろうとしたけど、もう買っちゃったから、と有無を言わさない態度だった。那姫礼岳を回り込んで行くから、三県を跨ぐ。県境を二度越えていく。昨晩も二回地震があって、公共交通機関がいつまで動いているのかは怪しい。でもこの街の人は、避難し始めているような様子もない。
両親に、友達のとこに泊ってくるから明日までいない、と言うと、興味なさげな「そうなの」という返事が返ってきた。
もう家に帰るつもりはない。
駅前のバスターミナルでバスを待つ。
まだ日の出前であたりには薄暗かった。
吐く息が白い。
ずっと遠くに、ぼんやりと白い靄が帯状に光を放っているのが見える。那姫礼岳の稜線だった。時折、チカ、チカ、と光が強くなるところがある。そういえば、と思う。起きてから携帯で見たニュース記事で、那姫礼岳の麓で昨日十一人が亡くなった、というのを読んだ。どうも新興宗教の団体か何かで、危険なところに勝手に入っていったみたいなコメントがついていたけれど、ネットに書かれてたことだから本当かどうかは分からない。
あたりがあまりにも静かなせいなのか、ずっと低い音が地面の下で鳴っているような感じがする。気のせいかもしれない。
寒い。バス、まだ?
携帯で時間を見る。
ついでに画面端の電波マークが目に入った。
何日か前から、通信速度が少し落ちてる。5Gに繋がらなくなった。弓に訊いてみたけど、あっちでは普通に全然問題ないらしい。私は不安になって、いつもサブスクかストリーミングで聴いてた音楽を携帯に落とした。これでいつでも聴ける。落としたといえば、ゲーム──オワトラのキャラデータもバックアップを携帯のSDカードに入れた。さすがにゲーム機は持ってこられないし、アカウント復旧もなんか不安だったから。
私はイヤホンを耳に突っ込む。耳の中でBluetoothの接続を告げる丸みを帯びた電子音が鳴った。
曲が始まると同時に、乗るバスがターミナルに入ってきたのが見えた。
バスに乗り込む前にもう一度、那姫礼岳の方を振り返る。
稜線はいつも見慣れた形とどこかが違う気がした。
山体が朝陽を受けてゆっくりとオレンジ色に染まり始めている。
赤、水色、紫、紺色、それらの色を雲が撹拌してつくるマーブル模様。朝の色をした空の高いところを四匹の鳥がゆっくりと羽ばたいて飛び去っていく。見慣れないシルエットの大きな鳥だった。
私はその行き先を最後まで見届けることなく、バスの入り口ドアの段差を踏む。
友達に会いにいく。
那姫礼岳の向こうへ エヮクゥト・ウャクネヵル・²テラピリカ @datesan
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