涙のゆくえ

森山 満穂

涙のゆくえ

――ぐさり、不気味な音が痛みを感じないはずの僕の体内に響き渡った。


 シャープペンシルが白紙の上を走る音を、電話の呼び出し音が掻き消した。リビングの壁に掛けられている時計を見ると、もうすぐ十二時に届こうとしていた。こんな夜中に何だろうと思いつつ、手を止めずに一心不乱にノートに文字を書き付けていく。


――息も絶え絶えにのし掛かった身体の重さに堪えかねたように、犯人は父の胸からナイフを引き抜いた。


 一定の速度で鳴り続けるコール音を、必死に食らいつく筆記の速度が追い越す。ただ自分の内側から溢れ出す言葉を一つも逃さないように、瞬きする暇すら与えずにペンを走らせていく。


――鮮血が飛沫しぶきを上げて、どぱぁと父の身体から溢れ出し、無惨に床に投げ出される。


 電話の音が止まり、背後でもしもし、と母の声が入れ替わりに聞こえた。視界の端に見えるテレビでは深夜のアニメが垂れ流されている。殺し屋の男が瞬く間に多勢の敵を瞬殺していく。どぱぁ、と血飛沫が上がる。はい、はい、はい、電話口の母の声がテレビ画面の彼の動きと重なる。


――お父さん、おとうさん。心が叫ぶのに、声が出ない。今すぐクローゼットのドアを押し開けて駆け寄りたいのに、身体が動かない。もう視界に入る床を埋め尽くすほど、父の血液は流れ出していた。


 頭の中の物語の少年に想いを馳せ、胸が締めつけられて、眼球に涙の膜が張る。勢いのまま、彼の感情をノートに殴り書く。母の声は聞こえず、テレビからの斬擊音だけが今度は筆記音に重なる。


――おとうさん、おとうさん。僕の心臓は痛いくらいに速まって悲鳴を上げているのに、父の胸は血を垂れ流すだけで動かない。ブラインドの隙間を縫って頬に付いた血が温度を失ってへばりついてくる。願いはもう、届かない。父は


 ガチャン。受話器を置く音が耳を掠める。構わず斬撃の音に重ねて文字を綴る。早く、言葉だけに集中して。もっと物語の世界に入り込んで。目を瞑り、集中力を高めようとした時。


「おばあちゃん亡くなったって」


 ペンを握る手が、止まった。リビングに静けさがぬらりと広がっていく。顔を上げ母を振り向くと、瞳にすぅと潤みが差していた。私はとっさに目を伏せて、逃れるように息を殺す。視線の先には『死』という文字が乱暴にノートの上に横たわっている。テレビでは、男がまだ死体の山を築いていた。



   *



 亡くなったのが友引だったため、祖母の葬儀は死後二日に行われた。午前十時から行われた告別式には、多くもなく少なくもなく、祖母が人間として適度な交友関係を築いてきたことがわかる数の人々が参列していた。喪主は老人ホームに入居するまで祖母と同居していた母の弟である叔父が務めたため、親族ではあれど喪主家族ではない私は微妙な立場に置かれ(受付役も従姉妹がしていたので何もすることがない)、葬儀場の隅で目立たないように黙って立っていた。

 顔を上げ、会場を見渡す。祭壇の中央には笑顔で映っている祖母の遺影が飾られていた。見慣れない人のように感じるのは、何十年も前に撮ったものであるからだろう。その周りには慎ましやかな色合いの菊が敷き詰められ、その脇に淡い花弁の百合の花が寄り添っていた。祭壇の前には棺が置かれ、白い布で覆われている。その前には長机に仏具が揃い、それに向かい合うようにして、お坊さん用であろう留め具に豪奢な金があしらわれた赤い漆塗りの椅子が置かれていた。その後ろには焼香机。そのまた後ろに整然と列をなして並ぶ参列者用の椅子。一つひとつ、確認するように注視する。行灯や塔の形に彫られた祭壇に残る木の風合い、布地に施された刺繍の緻密さ、焼香台の照り返しの少ない黒塗り。次は、と目を移そうとすると、人の影がそれを遮った。こちらに近づいてくるのがわかって、そっと目を伏せる。その人が私の前に来て挨拶めいたことを言うのを無難に返しつつ、なるだけ気怠げな態度を悟られないように目を伏せたまま返事をする。会話が途切れて、沈黙が流れた瞬間。

「気をしっかり持ってね」

 言葉とともに肩に触れられた手の感覚が落ちてくる。ぞぞっと悪寒が走って、思わず顔を上げた。真っ正面から見たその人の顔は気遣うような、心配そうな顔をしていて、一気に気持ちが萎えていく。ああ、駄目だ。ちゃんと悲しい顔をしなきゃ。無理矢理、頭の中にストックされている物語の引き出しを開ける。





――死闘の末、業火の中に倒れていくユージーン。

その顔が、ふいに柔らかに微笑む。

はっとするハロルド。

幼い頃の二人が手を繋いで走っている記憶が過る。

笑っている幼いユージーン。

現実に戻り、ハロルド、すぐさま手を伸ばすが、ユージーンの手を掴めず空を切る。

眩い炎の揺めきを背景にユージーンの唇が言葉を象る。

ハロルド、悲痛な表情になり、涙が溢れる。涙が炎の色を纏って、はらはらと流れ飛ぶ。

ユージーン、炎の色に包まれて身体の輪郭が消え、笑みだけが残って最後に揺らめく業火に呑み込まれる。

その場に崩れ落ちるハロルド。

幼い二人の笑顔。

涙の跡が点々と滲んだ二人の写真。

ユージーンの最後の言葉がリフレインする。


「ありがとう」





 ハロルドの心情にシンクロすると、じわりと眼球に涙の膜が張り出す。ぽんぽんと私の肩を二回叩くと、その人は私から離れていった。すぅと、何もかもが冷めていく。隠すことのできなくなった軽蔑の眼差しをどの立場だかわからない親戚の人の後ろ姿に向けながら、愚かな人だと思う。自己満足の親切心に浸って、ほんとうに声をかけるべき人も見分けられないなんて。涙の予感はもう跡形もなく消えている。目を伏せ、心の中でぽつりとつぶやく。私は全然、悲しみなんて抱いていないのに。受付の脇に立つ母親や姉を見る。ハンカチ片手に目を潤ませて、悲しみに浸って彼女らは立っている。憐れむ言葉を掛けられていいのは、ああいう人なのだ。けれど私は、違う。祖母が死んだと聞いた後も、喪服に袖を通しても、遺体と向き合っても、そして今も、祖母が死んで悲しいと一ミリも感じていなかった。




   *




――電気のついていない室内は逆光で、全てのものが影に覆われて黒く見えた。机もベッドも本棚も隅に立て掛けられたギターも、型から抜かれた空虚なもののように映っている。部屋の中央に浮かんでいるあいつもまた、家具たちと同じように黒く世界からくり貫かれていた。だらんと宙に腕を投げ出し、頭は項垂れている。

 それが首を吊っている状態だと気付くのに、どれくらい時間を要しただろう。それから我に返って、なにもできなかった時間を埋めるように飛びかかる勢いで足を掴んで持ち上げる。あゆむ。無我夢中で首にかかった紐を外し、床に横たわらせた。歩。人工呼吸、心臓マッサージを必死で繰り返す。歩。心の中で何度も名前を呼ぶ。歩。自分の荒い呼吸と歩の胸の沈み込む音だけがやけに耳に響く。掌に骨のぶつかる感触が生々しく残る。歩。一方的に押し付けるだけで跳ね返ってこない心臓に何度も何度も呼び掛ける。歩、歩。それとは反対に自分の心臓が痛いくらいに速まっていく。歩。焦りで膨れ上がる自分の熱と、服越しに失われていく体温。待って、待ってくれ。胸に沈みこむ手の深さと、自分の鼓動が加速する。死ぬな、歩! その時、部屋の端にけられていたローテーブルから何かが転がり落ちる音がした。

『優くん』

 ついで聞き慣れた柔和な声に呼びかけられて、動きが止まる。視線を向けると音の在りかは目の前に横たわる身体からではなく、床に落ちたカセットテープのプレーヤーからだった。カシャカシャと乾いた音を立てて、テープが左から右へ巻き取られていく。

『何も言わずに、勝手なことしてごめんね』

 くごもった歩の声が、気遣わしげに揺れ動く。

『でも優くんには夢を叶えてほしい。だから』

 嫌な予感が、つぅと胸の内側を伝っていた。それでも、カセットテープのラベルに書かれた〔優くんへ〕という文字を見つめながら、自然と言葉の続きを待っていた。

『僕がいなくならなきゃ』

 泣き笑うようにいった台詞に、息が詰まる。記憶の中の困ったように笑う顔が浮かんで、しずかに胸を裂いていく。ああ、ああ、ああ、歩……。動かない身体に押し当てられた両手を震えるほど握り込む。言葉にならない声が喉の奥からせりあがって、溢れ出た叫びが剥き出しのギターの弦を揺らし





 ピンポンパンポン。軽快で、でも騒がしくもない音が耳に届いて、スマホをフリック入力する手を止める。

『坂入幸枝様の御遺族の皆様、』

 品の良い女性の声のアナウンスで、祖母の名前が呼ばれる。待ち合い所で各々過ごしていた親戚一同は、その放送を機にぞろぞろと移動を始めた。私は最後に『た。』と文字を打ってからテキストエディターを閉じ、電源を切ったスマホを鞄の中に入れる。深呼吸をして締まり気味だった喉を開いてから、立ち上がって最後尾を歩きだした。

 祖母の遺体を処理してくれたこの火葬場は二年ほど前に作られたばかりで、とても近代的な造りをしていた。外観はパッと見なにかの会館にしか見えないし、今さっき居た待ち合い所もホテルのロビーみたいに開放的な空間だった。ガラス張りの廊下を歩きながら、外を眺める。敷地に植えられた緑が下部を埋め尽くし、空の青が上部を彩っている。清々しいほど澄みきった景色を横目に、こんな綺麗なところで祖母は火葬してもらって、この世から旅立つことができて良かった、と思った。

 ふと、ガラスに自分の姿が映って、無表情の顔と向き合う。無愛想なのは元々だが、その顔は悲しんでいるというよりはただ気怠げに見えた。実際そうなのだから仕方がない。前方にいる親戚たちを見る。皆、気丈に振る舞いながらも時折悲しげな表情をその顔に滲ませている。どうしてだろう。どうして私は。あの人たちみたいに悲しむことができないんだろう。


 祖母が嫌いだったというわけではない。むしろ好きな方だった。人と会話することがろくにできない極度の引っ込み思案だった子供の頃の私を、他の大人と違って祖母は頭ごなしに叱ったりしなかった。話すのが苦手なら書いて伝えればいい。そう言って手紙でやりとりをして、誰よりも私に寄り添ってくれた。あなたなら大丈夫と微笑んで、背中を撫でてもくれた。その手の、力強いのに優しい感触を今でも覚えている。


 それなのに、私はなんで祖母の死を悲しめないんだろう。恩があるし感謝もしている。今もこうして言葉を綴ることを続けられているのも、間違いなく祖母との手紙が一端になっていることは明らかだ。なのに。なぜ私はこんなにも祖母の死に心が動かないのだろうか。物語の世界に身を委ねれば、簡単に心が揺れ動いて涙が流せるのに。なのに現実は、祖母の葬儀中だというのに物語の中でやすやすと人を殺して平気な顔でいる。

 薄情な顔を透かした緑がさわわと揺れる。その葉の先が指し示す方向に、廊下の先に私は歩いていった。


 火葬が終わり、通されたお別れ室と呼ばれる部屋は、十畳にも満たない小さな空間だった。四方の壁は落ち着いた色合いの木目調で、頭上からは自然光が射し込んでくる造りになっている。中央には長方形の台だけがぽつんと置かれ、あとはがらんとしていた。だが、職員が部屋の隅にあった操作盤のボタンをひとたび押すと奥の壁の一部が観音開きになり、自動的に棺が中央に運ばれてきた。それはぴたりと台の右側に沿って止まり、職員の手によって棺が開かれる。露になった棺の中身は、底に敷き詰められた灰と、骨だけになった祖母だった。静謐な空間に甲高くすすり泣く声が聞こえる。

「おばあちゃん……」

 従姉妹が小さく漏らしながら、ハンカチで目元を押さえていた。他の女性の親族も各々で肩を震わせたり、嗚咽をもらしたりして深く悲しんでいる。私は女でただ一人、泣いていなかった。ぼおっと彼女たちの様子を横目に見て、次いで祖母の遺骨に目を向ける。

 人間のかたちに組まれた骨を見て、それが祖母だとは実感できなかった。だから、さして悲しくもない。ただ一目見て思ったのは、褐色だ、ということだけだった。骨といえば白いイメージがあって、けれど、これは色褪せた半紙のように黄みを帯びている。もっとよく、観察して。骨の窪み、関節の太さ、ところどころに現れている染み。私が見て感じたそのものを、機微まで記憶に刻んで物語に昇華しよう。意識が遺骨に収束してきた途端、忘れかけていた瞬きを思い出させようとするかのように、すすり泣く声が耳の先で交差する。ああ、そうだった。私は悲しまなければいけない。祖母が死んで悲しいんだと、見せなければいけない。目を伏せて、好奇の感情を抑える。隣で、母が流した涙が煌めきながら落下する。雫に映った私の顔は、きっと虎視眈々とこの場の全てを観察する異質な目をしていただろう。


 その日、私が本当の意味で祖母の死を悲しむことはなかった。ただぼおっと、淡々と過ぎていく儀礼をこなしていくだけで、そこに叫び出したいほどの深い感情は現れない。周りが悲しみにつつまれているのを他人事のように眺めていた。祖母が死んでしまっても、私は落ち込んで命の儚さを感じたりはしなくて、平然と明日は何時に出掛けようとか、この経験は今考えているあの物語に組み込めるのではないだろうかとか、日常の些事を帰りの車中で考えた。余韻などない。事実、それから一ヶ月間、私は祖母のことを思い出さなかったし、祖母など元からいなかったように日常を過ごした。私は、とことん薄情な人間なのだった。




   *




――かちりと音がして、ぼんやりと視界が明るくなる。途端、目の前に小さなピンクのくまがぶら下がっていることに気付いた。その頭から伸びる紐をたどっていくと、円形の蛍光灯に繋がっている。そこから射す光は暴力的なまでに潔白な明るさではなく、やわらかな橙色に満たされていた。LEDではないな、と思いながら、それを見上げるかたちで私はひとり、部屋の真ん中に突っ立っていた。二部屋繋ぎになったそこは、私が立っている東側はフローリングの床で、西側は畳になっている。木のなごりが色濃く出ている壁に合わせて、沿うように並んだ戸棚やタンスは淡い色やレトロな小花柄に揃えられていた。けれども置かれたインテリアは、和柄のパッチワークで出来た布人形や、造りも色も統一感がない複数の写真立て、日めくりカレンダーに画鋲で留められた千羽鶴。ごちゃごちゃとしたものばかりで、落ち着いた風合いを台無しにしている。少し埃の混じったもったりとした畳の香りと、キッチンの方から流れてくる油の染み付いたシンクの匂い。急に懐かしさを覚えて、ここは祖母の家なのだと気がついた。叔父との同居のために全面リフォームされて、今はその面影も垣間見えない、現実には存在しない場所。ぐるりと一周見回して、人の気配を探す。けれど、家主である祖母の姿はどこにもない。二階もトイレも風呂場も覗いてみるが、見慣れた空間がそこにあるだけで、なにもかもが閑散としていた。生活感は溢れているのに、まるでそこに人が住んでいないような静けさを感じる。元の部屋に戻ってきてなめ回すように辺りを見ながら、ふと低いタンスの上にある写真立ての群れに目がいった。そこには私の家族と、叔父の家族と、叔母の家族。それぞれと撮られた祖母の写真がある。一番装飾が派手で大きい写真立てには親戚一同が会した集合写真が飾られていた。写真の中の祖母は元々細い目をさらに細め、きゅっと口角を上げて機嫌良く笑っている。あ、これ、遺影の写真だ。確かこれは叔母の息子が小学校に上がった年に初めてみんなで夏祭りに行った時で、みんながべったり彼に付きっきりの中で私だけがそんな親戚たちを遠巻きに見ていた覚えがある。けれど、祖母だけが遅れて歩いている私に寄り添ってくれてたっけ。ぼんやりと、夜空に輝く色とりどりの電飾と、ゆっくりと横を歩く祖母を思い出す。ぐっと背中に添えられた、みんなの方へ押し出される掌の感触も。

 瞬間、言い様のない痛みが胸をまさぐった。眼球が熱を持って視界を波打たせ、鼻の奥まで突き抜けるような痛みが滲む。背中が寒くて、心細くて、なにもかもが失われてしまいそうだ。あの強さで、あの優しさで、背中を押してくれる人がいない。もう会えない。息が詰まって、ぼろぼろと眼から涙がこぼれる。決壊した涙腺は歯止めを失って、とめどなく頬を濡らす。それから私はわあわあわあわあ泣いた。眼も鼻の奥も胸も、じんと痛みが強くなるほど、わあわあわあわあ泣きじゃくった。寂しい、悲しい、もう会えない。ぐしゃぐしゃになった視界が夢と現実のあわいで揺れる。蜃気楼のようになにもかもが曖昧になって、ただ行き場のない感情だけが海鳴りのように悲鳴を上げる。私はもう――、





 目を開けると、磨りガラス越しに薄く青に染まった早朝の空が見えた。やわらかに光の射した部屋の中で、自分のベッドから起き上がる。瞬きを数回繰り返して、ようやく胸に手を当てた。胸に風が吹くような、空虚がある。夢を、見ていた。私は泣いていた。そうだ私、さびしかったんだ。ちゃんとおばあちゃんの死を悲しむことができていたんだ。自然と頬が綻ぶ。全部覚えている。つんと鼻の奥を刺す痛みも目元の熱さも胸を抉るような苦しさも。あれは現実の痛みだった! 似ているじゃ足りないくらい、強く私の身体に刻まれている。

 そっと頬に触れる。けれど、からりと肌は乾いていて、何の跡も見つけることができなかった。瞼を閉じて触れても熱の余韻を感じない。痛みもない。胸の空虚もいつの間にか消えてしまっている。あれ? なんで? 確かに、わたしは泣いていたのに。あの痛みは本物だったのに。それでも現実は私の心を裏切って、なんの痕跡も残していない。

 涙の軌跡をなぞるように瞼に触れ、目元を伝って頬をなぞる。あの涙は悲しみは、いったいどこへ行ったの? 空に問いかけても、誰も答えてはくれなかった。

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