第三章

第一節 ボストーク

第一節 ボストーク



 泣いている。


 ウルリーカが泣いている。


 図書館の、いつもの場所でウルリーカがわんわんと泣いていた。

 エレオノールは本を抱えて彼女の隣に座り、おとぎ話を聞かせる。


「ベルカとストレルカという二匹の犬は、一匹のウサギ、四十二匹のマウス、二匹のラット、ハエ達と一緒に、お空の上へ行きました。そこは星々が輝く宇宙なのです」


 文章を読むとウルリーカは「犬もウサギも、空は飛ばないでやんす」と反論した。そうしてから「お空の上は、神様の世界でやんす」と少女は抗議する。

 エレオノールは続きを読む。


「ベルカとストレルカはスプートニク(同伴者)で宇宙から帰ってきました。次はわたし達、人間の番です。そうして始まったのが、ボストークでした。ボストークに乗ったガガーリンは、見事に宇宙へ行き……帰ってきました」

「人間が神様に会ったんでやんすか! 神様はどんな御姿で、どんな事を言ったでやんすか!」


 泣いていたウルリーカは顔をあげて目を見開いた。

 エレオノールは小さく頷いて、続きを読む。


「宇宙から戻ったユーリ・ガガーリンに総主教は言いました。『宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか』と。するとガガーリンは『見えませんでした』と正直に答えました。すると総主教は『我が息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように』と忠告したのです」


 そこまで読んで、エレオノールは「むぅ……」と眉を寄せた。

 このおとぎ話も聖バルトを否定するような事を書いている。

 ウルリーカは不安げに「聖バルトはいなかったでやんす? どうして見えなかったでやんすか?」と続きをせがんできた。

 仕方がなくエレオノールが続きを読む。


「ユーリ・ガガーリンはニキータ・フルシチョフに同じことを聞かれました。そのとき、ユーリ・ガガーリンは『見えました』と答えました。するとニキータ・フルシチョフは『同志よ、神の姿が見えたことは誰にも言わないように』と言いました。レーニン主義は神を否定する事を前提にしていたからです」


 そこまで読んでエレオノールはぱたんと本を閉じる。

 天窓から見える夜空に流れ星がいくつも流れる。

 この空の向こう側は『宇宙』と呼ばれる世界なのだろうか。聖バルトの住まう世界ではないのだろうか。

 涙を流していたウルリーカは「どうしてやめちゃうでやんす?」と不満を述べてきた。

 エレオノールは顔を振って「他の本にしよう。ジュール・ヴェルヌとかレイ・ブラッドベリとかウィリアム・フォークナーとか!」と誤魔化した。

 おとぎ話はたくさんある。

 でも、その多くが聖バルトを否定するような事が書いてある。


「じゃあ『海底二万里』の続きがいいでやんす」

「持ってくるね」


 ぽんぽんとウルリーカの頭を軽く撫でて、エレオノールは立ち上がる。

 図書館は不思議な場所だった。

 たくさんの物語があった。不思議な空想の世界を描く物語がたくさんあった。



 そんな思い出の図書館が――燃えていく。



「焼くでやんす! リドニス人は過去を忘れ、アスコットに忠誠を示すために焼くでやんす!」

「やめて! ウルリーカッ!」


 ガバっとエレオノールは起き上がった。

 ひどい脂汗が首筋にまで垂れていた。

 身体の奥深いところから気だるい鈍痛のようなものが這いあがってくる。


「さ、酒……」


 腰や枕元に酒袋を探すが、見当たらない。

 なによりも、ここは兵舎でも宿舎でもない。

 薄暗い洞窟の一角だった。

 薄暗いろうそくの灯りに照らされて、自分が藁を敷き詰めたような寝床に横たわっていたことに気づいた


「ひどい夢でも見たんですか?」


 すらすらと流麗なリドニス語が暗がりの奥から聞こえた。


「だ、誰だ……」


 肌着を着ているが、こちらは丸腰で……エレオノールは警戒心を尖らせた。


「無理に身体を動かさないほうが良い。傷口が開くと面倒だから」


 燭台を手に現れた色白な中年の男は、そう言って長い黒髪を掻き上げて背に流した。

 見たこともない肌の色の人間だった。

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