第四章 「言わなきゃいけない、大事なこと」
翌日。
キーンコーン、カーンコーン。
「おーい、着席しろー」
いつものように、担任がクラス名簿を教壇に叩きつけながら、生徒に着席を促す。怒鳴られるまで座らなかった不良グループが落ち着いた頃、担任は口を開いた。
「今日は出欠確認の前に、転入生を紹介する」
途端に、教室がざわつく。うつむいていたケンジは顔を上げた。
「はいはいはい、静かに。しーずーかーにー」
再び名簿で教壇を叩きながら、担任が生徒を制す。今度は、先ほどより若干早く静まった。
「入っていいぞー」
担任が、廊下に声をかける。
入ってきたのは、目鼻立ちの整った美青年だった。男子は「何だよー、女子じゃねえのかよー」と嘆き、女子は美青年の登場に黄色い声を上げた。ケンジは再びうつむいて、全てをシャットアウトするように目を閉じた。クミは美青年に釘付けになっていた。が、美青年を目にしてめろめろになっている様子ではない。クミは青年を睨んでいた。青年はクミを以前から知っているように、自然な感じで彼女を一瞬見つめて微笑んだ。その微笑みに、やはりクミは見覚えがある気がした。
「それじゃ、自己紹介を」
担任に促された青年は、はい、と愛想良くうなずいた。
「水沢ユウジです。青森県の永徳高校から来ました。よろしくお願いします」
はきはきと言い、頭を下げた。「え、やばい」だの、「水沢くん、めっちゃかっこいいー」だのといった女子の囁きが教室中に広がる中、クミだけがやはり彼を睨んでいた。
(あいつ、どこかで…)
クミが青年のことを考えていると、担任がクミの隣の席を名簿で差した。
「あの茶髪の女子、関口クミっていうんだがな、あいつの隣が空いてるから、あそこに座りなさい」
水沢ユウジは再びはい、とうなずき、クミの隣の席までつかつかと歩いてきた。クミとユウジの周りの女子たちが、きゃあっと声を上げる。
「よろしく、関口さん」
席に着いたユウジが、小声でクミに呼びかけた。クミは、よろしく、と言いかけ、彼の顔を間近で見て息を呑んだ。
「あんた、」
彼が誰かをようやく思い出したクミが言いかけると、ユウジは自分の口元にそっと人差し指を近付け、「しー」と囁いた。
二週間後。
夏がその暑さを増し、セミがジリジリと鳴く中を、ケンジは走っていた。
学校が終わり、メンタルクリニックへ行くため、駅まで急いでいるところなのだ。
発車直前の電車にギリギリで乗り込み、席に着くと、学生鞄から下敷きを出して風を送る。早い時刻に学校を早退して電車に乗ったからか、人はまばらだった。ケンジの他に、抱っこ紐で赤ん坊を抱いた三十代ほどの母親と、そこから離れた所で唾液の糸を引いて寝ているニートらしき男性以外、その車両にはいなかった。
ケンジは、先ほど自動販売機で買った麦茶を胃に流し込み、乾いた喉を潤すと、息をついて目を閉じた。少ししてから目を開け、手の中のペットボトルをまじまじと見つめる。
ケンジの脳裏に、あの恐ろしい光景が走る。三年前、死んだサオリ。庭のあちこちに飛び散っていた、サオリの真っ赤な血。何度でも夢に現れる、あの地獄絵図…。
ケンジはぎゅうっと目を閉じて、赤い血を頭から振り払おうとした。がしかし、そんな行為は全く意味を成さず、それどころか、ケンジの頭の中で、サオリの血は次第に広がってゆく。ケンジの全身の毛穴が開いて、脂汗が流れ出る。強く手を握りしめたせいで、青い下敷きがくしゃりと歪んだ。
メンタルクリニックのドアを開けると、エアコンの涼しい風が全身を包み込んだ。ケンジは、汗が染み込んだ制服のワイシャツを背中に感じながら、なるべく気にしないようにソファに座った。人は、二、三人、ぱらぱらといるだけだった。
そしてケンジは、アオイのことを考え始めた。ケンジは週に一度、このクリニックへ来ることになっている。先々週アオイに「あなたと話したい」と言われたが、先週は彼女の日程と合わなかったらしく、会うことはなかった。今日は会えるだろうか、と考えながら、ケンジは姿勢を崩してソファに沈み込んだ。
と、ドアが開き、むっとするような暑さと、セミのやかましい鳴き声が一瞬飛んできた。が、それも少しのことで、すぐにドアが閉まる音が響き、涼しい風と静けさが戻ってきた。
ケンジが座ったまま振り向くと、アオイがこちらへ歩いてくるところだった。アオイの白い頬は上気して桃色になっており、暑い中を歩いてきたからか、少し息が上がっていた。顎から汗がひとしずく、ぽたんと床に落ちて染みた。アオイは黒いショートボブの髪をかきあげ、丸っこい耳に引っ掛けた。綺麗だ、とケンジは思った。そして同時に、彼女からこぼれる控えめな色気に、少しどきまぎしてもいた。
「よ」
ケンジと同じソファに腰掛けたアオイに、ケンジは適当に挨拶した。相変わらず、アオイはケンジから少し離れた所に座っていた。
「こんにちは」
アオイは丁寧に挨拶して、軽く頭を下げた。ケンジは無視して、取り出したスマホをいじり始めた。
「今日、診察が終わったら、話せる?」
アオイは、ケンジの方を見て尋ねた。
「ああ…言わなきゃいけない、大事なこと?」
「ええ」
ケンジは、アオイを見た。
「いいよ」
ケンジは、そっぽを向きつつ答えた。その返事が、何だか優しい響きになってしまったと感じたので、ケンジはぶっきらぼうに「俺はいつも色々やってて忙しいけど、今日は時間とってやるから」と付け加えた。
「ありがとう」
アオイは礼を言った。優しい響きだった。ケンジが少し驚いて、アオイを横目で見た途端に、スピーカーからアナウンスが流れた。
「二宮アオイさんと、鈴本ケンジさん。二宮アオイさんと、鈴本ケンジさん」
ケンジとアオイは、ほとんど同時に立ち上がった。
「今日も同じ診察室か。ほんとに不思議だよ」
「後で、わけを話してあげるから」
そんな会話を交わしながら、ケンジとアオイは、同じ診察室に入った。
「失礼します」
「や。待ってたよ、ケンジくん、アオイちゃん」
岩槻院長は、二人ににこりと微笑んだ。
「それで、」ケンジは、アオイよりも若干早く歩きながら、アオイに尋ねた。「大事なこと、って何だ?」
「ええ、実は」
二人は診察を終えて、一緒に駅まで歩いているところなのだった。ケンジが岩槻と話している間はアオイがケンジを見ており、アオイが岩槻と話している間は、ケンジがアオイを見ていた。ケンジはアオイを不思議そうに見たが、アオイはケンジを核心に満ちた目で見つめた。そしてケンジは、未だサオリを想っていながら、この二宮アオイという不思議な少女に、何か運命的なものを感じているのだった。
「鈴本くん。岩槻院長は、実は」
なかなか切り出しにくいらしく、アオイは言葉を切ったまま立ち止まった。ケンジも立ち止まり、振り返ってアオイをしっかりと見つめた。
「うん。実は?」
「実は、」
アオイは事実を、ケンジに告げた。
「…なの」
アオイは、薄い唇をきっちりと結んだ。ケンジは動揺し、しばらく無言のまま、アオイを見つめた。アオイも何も言わなかった。二人の横を、数台の軽自動車がブウンと通り過ぎた。近くの歩道橋を、ランドセルを背負った子供たちが笑いながら渡っていった。セミがジリジリと鳴き続ける以外、それ以外の音や声は何も出なかった。
「二宮」ようやく、ケンジが声を振り絞った。その震え声は、これ以上ないというほど掠れていた。「何を言ってんだよ。そんなわけねえだろ?」
「嘘じゃないの」アオイは、はっきりと言った。「事実よ、鈴本くん。私たちがこれを知る、ずっと前からね」
ケンジはアオイから視線を剥がし、遠くの広告看板を見つめた。が、動揺する瞳には、何も映っていなかった。
ケンジは座り込んで、学生鞄を放り投げた。
「嘘だ」
「嘘じゃないわ。事実よ、鈴本くん」
「嘘だ! 絶対に嘘だ! 信じないぞ!」
「鈴本くん」
アオイは悲しげに、ケンジを見つめた。ケンジは頭を抱え、「嘘だ!」と繰り返し叫んだ。
やがてケンジが突然落ち着き、静かになったかと思うと、ケンジは両手で腹を抑えた。
「許さない、許さない、許さない…」
「鈴本くん」
アオイがケンジの腕にかけた手を振り払い、ケンジはクリニックの方へ一目散に駆けていった。
「鈴本くん!」
「許さない! 絶対に許さない! あいつを、岩槻を殺してやる!」
ケンジは我を忘れて走っている。華奢な体のアオイはすぐに息を切らし、バランスを崩して転んでしまった。ケンジの姿は、あっという間に消えていった。アオイの顎や両膝から、真っ赤な血が流れていった。
「鈴本くん…」
赤にまみれて、アオイは細くて白い腕を、前方へと目一杯に伸ばした。
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