漏洩

 「ずっとずっと好きでした‼ 魅傀と結婚して家族になって、一緒に暮らして下さいにゃ!子供は一緒に炬燵を囲めるくらい欲しいです‼ 魅傀をお嫁さんにしてください‼」

 顔を真っ赤にしながら、一声でそう言い切った犬飼魅傀の目尻には涙が溜まっていて、よっぽど勇気を出したのだろうことが伺える。

 そんな乙女の告白を受けた境夜は。

 「…………………………」

 (驚いた。この日本にいない三か月の間に、俺の知らない日本語の言語形態と脈絡が構築されている……)

 あまりにも脈絡の無さすぎる告白ことばを向けられて、混乱していた。

 (なんだ? 何が起こった? 分からない。何で俺はカレー作ってたら突拍子も無く初対面も同然のネコミミ少女に愛の告白を受けているんだ? そりゃあ、半年前に会ったのは覚えているし、少し可愛いと思ったのも事実だ。だが何故だ。つまみ食いしたカレーが美味かったのか? いやそれにしては鍋の蓋だって空いてない。なにせこいつは香りも逃さずに熟成させるためのオーダーメイドだ。開け方を知ってるか、ちょっと人類の範疇を超えた握力でもない限り開けられない金庫みたいな鍋だ。開けられるはずもない。なら胃袋を掴まれたわけでもないこの女性が俺に告白しているのは一体どういうことなんだ⁉)

 表情には一切出ていないが、今の境夜の心境をデフォルメすれば、ぐるぐるのお目目か、宇宙コスモを感じる猫のようになるだろう。

 (なんだ、なんなんだ。良く分からないが取り合えず誰か助けて欲しい。戦場で爆撃や血に濡れていた時だって微塵も湧かなかった逃げたい感情が押し寄せて止まらないんだが)

 その気になれば一秒でカレー鍋持って逃亡出来る身体能力は確実に有していることは今さっき証明されたばかりだ。出来る、出来るさ。出来ないはずがない。どんな危険な状況であっても神条境夜は常に自身の判断で最良と思える選択肢を選んで実行してきた。どんな障害も障害になりえない、人類史で最も進化した新人類。だと言うのに⁉

 「……にゃあ」

 今この絶対の巨人を足止めしているのは、今にも心臓の鼓動だけで破裂してしまいそうなほど緊張して俯いているネコミミ娘だ。手にも足にも自分を害するものは何もない非力な少女。それが何故こんなに自分を縛っているのか?分からないまま、神条境夜は固まっていた。

 「…………」

 「…………にゃあ」

 不安そうに鳴いている彼女を、境夜は視線も外せずに見つめている。そして、俯いていた少女は、とうとう顔を上げて、境夜を見上げた。それでも、何も言ってはこない。ただ境夜の返事を待つつもりなのだろう。急かすでも、卑屈になるでもなく、自分に今出来る精一杯が、ただ目の前の男の頭の中の整理が付くのを待つだけと信じて。

 そして、永遠にも感じた約一分程度の時間が過ぎて、ようやく境夜が口を開いた。

 「…………俺は、今やらなきゃならねえことがある。だから、色恋に割ける時間はねえんだ。気持ちは嬉しいが」

 「魅傀のことは……嫌い?」

 「ぬ……」

 (そんなわけが無い。何もしていないのに周囲から怖がられて、武器を向けられたり逃げられる人生を歩んできたオレが、一緒にいたいと言ってくれた相手を嫌う理由など、どこにもない)

 「魅傀は、境夜にゃんが好きにゃ。初めて会ってからずっとずっと、会えるのをずっと待ってたにゃあ。だから、やらなきゃいけないことが終わるのも、待っていられるにゃ。」

 「……」

 「…………ダメ、ですか?」

 「………………お友達からで」

 デカい図体から発したとは思えないヘタレ極まる雑魚回答。万死に値する貧弱な返答。曲げればへし折れるような骨粗鬆症のような、在って無いような骨のある返しに、魅傀は。

 「にゃあ」

 満面の笑みで返した。

 外部から見れば救いようの無いマイナス千点の答えでも、恋する少女には充分魅力的に映ったらしい。

 一方、この様子を離れた場所から見守っていた銀河うちゅうと他二名は。

 「おい、何だいこの青春ドラマみたいな状況は。何でガキの惚れた腫れたをあたしゃ見せられてるんだい」

 「いや~実は昨日、みけみけがきょーちゃんと結婚したいくらい好きだって~聞いちゃったんだー。ねえひひろん!」

 「……う、うん」

 自分の一生には既に金輪際関係がない若さと青春を見せられてイラついている醜悪な老婆と、唐突なラブコメをキラキラした表情で見ている魔法少女志望の女子高生と、境夜から離れたことで冷静さを取り戻して、ついでに自分の行いを振り返って自己嫌悪に潰されそうになってい体育すわりの児幼児体系jkという、老廃物が混ざった三者三様の状態だ。

 「やっぱり高校生活には、彼氏が欲しいよね~」

 「あたしは、そんなものいらない……こんなあたしが彼氏なんてつくっても、きっと勘違いで銃口を向けるんだ…アハハ……」

 「うわあ……めっちゃ卑屈」

 「ウチは恋愛禁止はしてないが、あんまりいちゃ付くと鬱陶しいし、校則に追加しようかねえ」

 「なにそれ横暴! それは横暴だよ校長先生! 自分が喪った青春を、未来ある若者からも没収するのは良くないと思う!」

 「何言ってんだい。学生の本分は勉強だよ。余計なもんに意識が取られないようにしてやる有難い配慮だよ感謝しな!」

 「取り上げ教育反対! 失敗も出来ない環境じゃ、失敗した時に立ち直る練習も出来ないと思います。そんな人間ばっかりになったら、もし次に神災が起こったら被害者は復興する力も持たずに死んじゃうよ!」

 「知るかいそんなもの。生きるか死ぬかを窮地で選択出来ない人間なんざ、酸素を減らしてまで生きる価値もないよ!」

 「鬼! 悪魔! 妖怪若者妬み‼」

 「…………なんて謝ればいいんだろうこれ……。魅傀にも神条くんにも……ああ……」

 一方がラブコメしている裏で、なんとも視界に入れるのが躊躇われる光景だ。だから、ラブコメに一区切りつけた魅傀が満面の笑みで現れたのは、この陰鬱に終止符を打つ良いきっかけになる。

 「みんなー。境夜にゃんがカレーご馳走してくれるってー! みんなで食べるにゃんー!」

 太陽のような笑みだ。今は効かないが、きっといつか浄化系の魔術の一つになるのだろう。

 「―ちょ、誰かこのネコミミをあたしから離しな! 溶ける‼」

 「ああああああああああ…………!」

 「あー。ひひろんがもう溶けちゃったよ……」

 「……にゃ?」

 ……溶けるのは予想外なのである。

 

 

 

 昨夜、夜で歩いていた悪い子が二人いる。消灯を破って、挙句キャメラを没収された男は悲しみに濡れて枕とパンツを汚して、朝もばっちり寝坊していた。

 「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーー‼  頼む間に合ってくれ朝食!  空腹で泳いでたら小生プールの授業中に溺れちまうよおおおおおおおおおおおおおーー‼  唸れ我が大和魂いいいいいいいいいいいいいー!  武士は食ってから高楊枝―!」

 「ぬおおおおおおおおおおおおおおーー‼  満たすのは性欲じゃダメでござるか有間どのおおおおおおおおおおおー!」

 「胃袋も満たしたいに決まってんだろおおおおおおおおおおおおサスケェー‼」

 「じゃあ拙者は有間殿より足速えから先行って食欲満たしますから! この、いつの間にかハメてた手錠外せや」

 「行かせねえぞ猿うううううううううううウウウウウウウウウウウウー! テメエも小生と同じ運命を辿るんだよ! 二人は友キュアだろおおおおおおおおおー!」

 「三大欲求の前に友情とかゴミでござるううううううううううううううううー」

 先の三者三様など鼻毛で払えるレベルの見苦しさと、騒音と顔汁をまき散らしながら走る両名の向かう先は、もちろん食堂。夜は性の獣と化した男子高校生は、朝は食欲を満たす獣に変化する。どちらにしても、救いようがない生き物だが、モテない男子高校生の頭の中なんて、大なり小なり違いがあっても、結局はここに帰結する。腹を空かせた獣に理性など無く、もう誰もこいつらを止められない。本能にも突っ走る足もブレーキを利かせることなく、二人は食堂に突っ込んで。食堂のおばちゃんに簡潔に要求する。

 「「飯をくれええええええええええええええええええええええええええーー‼」」

 「ああ……?」

 巨大な身体にスーツを着て、恐怖の風貌、金髪の前髪を上げて、更にどういうわけかダメ押しでグラサンまで掛け始めた、ヤクザ顔負けの強面に仕上がった。神条境夜オバチャンに要求していた。

 「「(泣)」」

 顔を見た二人はライオンの前に差し出された小動物のように震えて、泣いた。

 「しょ、小生はスマホのデータを消すまで死ぬわけには……!(ガクブル)」

 「せっ、拙者も実家のPCのデータを消さずに死ねないでござるよお……!(ガクブル)」

 「…………」

 一方飯を要求されたと思ったら泣き出した二人組の情緒に、ちょっと付いて行けなかった境夜は、皿に米とカレーを盛る作業を再開した。どの道やることになる作業だ。わざわざ中断する理由が無い。

 「お前ら」

 「「ひゃいいい―⁉」」

 「カレーをテーブルに配膳して、コップに水注いでおいてくれ」

 「「はいっ‼ …………はい⁇」」

 「テーブルはもう拭いてあるから、綺麗に配膳してくれ。おかわりは自由だから喧嘩するなよ」

 「「あ、はい……」」

 怖いし腹減ったしで、逆らう理由なんてどこにも無かった二人は、命惜しさにせっせとカレーを配膳する。

 (とりあえず7皿で良いか。あとは付け合わせに…福神漬け、ラッキョウ……あとは醤油とかマヨネーズとかも出しとくか。納豆もいるか……? いや、止めとこ。なくて文句は言われねえだろ。ついでに目玉焼きとか作っておくか)

 無駄のない流水のような動きで卵をフライパンに落として行って、完璧な半熟目玉焼きと、固焼きと、ターンアップ。様々な好みに対応した目玉焼きを大皿委乗せた頃、みんなを呼びに行った魅傀が食堂に入ってきた。

 「境夜にゃーん。みんなを呼んで来たにゃー」

 「ああ。ありがとう」

 心底幸せそうに笑いかける魅傀に、戸惑いながらもしっかりお礼を言う。その後他の三人が入ってくる。すると、薫の後から銀河うちゅうに手を引かれて入ってきた日緋色が、グラサン姿の境夜を見て小さい悲鳴を上げた。

 「?」

 「あー。これは確かに悲鳴上げたくなるよねえー」

 「え……」

 「にゃっ!」

 銀河(うちゅう)の苦笑しながらの本音に、ショックを受けた境夜は思わず手に持っていた目玉焼きの皿を落として、それをさっと屈んで熟練の執事かメイドのように完璧に拾い上げる魅傀。

 「う、うちゅーにゃん!境夜にゃんがめちゃくちゃショックを受けてるにゃ!」

 「あたしにはその巨人の表情に変化が見えないんだけど⁉」

 「だって目玉焼き落としちゃったにゃん!」

「あー。ごめんねーきょーちゃん。えーっと、きょーちゃんは、何で急にサングラスかけたのかな?」

 ずーんと肩が沈んでいる境夜に、笑いかけながら行動の真意を問う銀河(うちゅう)。

 境夜はあくまでも気にしてない感じで、残りの目玉焼き二皿を運ぼうと持ち上げる。

 「…………俺の人相が良くないのは、薄々、分かってる。だからサングラスで目を隠して軽減をしようと……」

 「あー……実は気にしてたんだ。きょーちゃん」

 「目を隠しても怖さは何にも隠れてないから! 寧ろ増してるから!」

 「え…………」

 「にゃあ⁉」

 日緋色の無慈悲なツッコミに、更にショックを受けた境夜の両手から二皿の目玉焼きが床に対して直角に落ちていく。それを多少慌ててダブルキャッチする魅傀。ちなみに最初の一枚は頭の上に乗せている。

 「お…おい、嘘だろ……グラサンコレ、ダメなのか。アネさんには、俺くらいのデカさなら、寧ろギャグみたいで面白いって………サムズアップで溶鉱炉に落ちて行きそうでウケるって……。……嘘だろ……」

 ついに耐え切れなくなった境夜は、床に崩れ落ちて目に見えて落ち込んでいる。

 「も、もう、ひひろにゃん‼境夜にゃんをイジメないで! ライフはとっくにゼロにゃ‼」

 「だってどう見ても極道かターミネーターじゃない! 怖さと切っても切れない赤い糸で結ばれてるじゃないの! 銃口向けたのは悪かったけど、あんなのどう見ても怖がらせるための武装じゃない!」

 「…………」

 ずーん。

 「ハッハッハ! こりゃ面白いねえ。戦場じゃ銃弾も意に介さずに突撃する死神が、女子高生の言葉のナイフで瀕死の重傷を負ってるさね」

 「うっさいババアだまれ」

 「おやおや。言葉に全くキレが無くなってるじゃないか」

 ついでに目元には光る物まで見える。

 「もうみんな止めるにゃ! いじめちゃダメ!」

 言葉のナイフでザクザクに斬られた境夜は、さっきまでの日緋色のように体育座りで隅の方にいて、魅傀が身を挺して庇うようにして境夜に覆いかぶさる。はたから見ると、デカい大人におんぶされてる子供だが。

 「そうだよひひろん。さっきまでどう謝ったらいいんだーとか落ち込んでたのに、何でそんないじめる側に回ってるのー?」

 さすがに痛々しくなってきた銀河うちゅうが、フォローと諫める意味も込めて日緋色を咎める。

 「ぐっ……だって、あからさまに怖がらせてきてるって思ったから、つい」

 「気持ちはわかるけど、ほら、見てみなよ。あんなに大きな男の子があんなに小さく丸まって、超可愛そうじゃん?」

 「…………」

 銀河(うちゅう)の言葉に、段々感情が冷却されてきた日緋色。どうやら自分は怖がると攻撃的になるらしい。と、日緋色は自分の知らなかった一面を分析して、またやってしまったと反省する。

 「その……ごめん。神条」

 「…………うん」

 (うん。って、巨体に似合わず意外とこいつ子供っぽい?)

 取り合えず冷えた頭で、改めて神条境夜を観察してみる。

 まずデカい。そして怖い。これは神条境夜の第一印象を語る上で、省略出来ても除外出来ない。弱い人間はそれだけで如何なる方法を使ってでも関りを断ちたがる。気絶でも失禁でも構わない。命を最も重んじるなら、この巨人には決して関わるべきではないと警報が響き渡る。

 そして、日緋色のようなある程度信じられる武装がある者は、戦いを試みる。やはりどうあっても、神条境夜が他者とまっとうな関わりを持つには、この世界は弱すぎる。しかし、銃口を向けた非礼や謝罪がカタチだけのもので無いのなら、冴葉日緋色は何かしら彼と接触を試みるべきだ。謝るけど拒絶しますでは、実質ただの冷戦で、ただのその場しのぎ。

上辺だけの取り繕いでないのなら。日緋色は最低限、仲直りをしたという証を示さなければならない。なにせ一方的な威嚇に、一方的な罵詈雑言だ。これを心から謝罪出来ないなら、そんなやつ人間ではない。

 「えっと、自己紹介がまだだったわね。あたしは冴葉日緋色。二年生で、『武装風紀』の委員長をしているわ」

 「神条境夜。えっと……そうだな。現在は、有罪夜行っていうチームのメンバーで、昔は少年兵として戦争に参加していた」

 その言葉に、魅傀と薫以外の四人が目を見開いた。

 境夜としては、自己紹介の返事と、『提示された情報と同類の情報を開示した』程度の意識しかなかったのだが。

 「しょ、少年兵……?」

 「な、なんということか……貴殿は戦士であったのか⁉これぞ真の大和魂か」

 「少年兵……納得の風格でござる」

 一般的な感性を持つ日緋色は衝撃の告白に言葉を失う。

成堅、サスケの二名は、やべえカッコいいといった様子。

薫はため息を付いて、テーブルに置かれていたカレーを食べ始めた。

 「元、戦争経験者の。超大きな男の子か~。これって魔法少女の相方っぽいねえ」

 なんかちょっと頭のネジが外れた発想に思い至った。

 「魔法少女……?」

 銀河うちゅうの発言に、境夜も困惑した言葉を復唱した。

 「うん。ああ、知らない子二人いるし、せっかくだからみんな自己紹介しよっか。

うちゅーの名前は星川銀河うちゅう。ひひろんと同じ二年生で、『武装風紀』のメンバーで、魔法少女になるためにこの学園に来たんだよ。

 知ってる?テレビアニメ『魔法少女☆ねこねこイッヌ。稀に煎餅』」

 (((何だその変な名前の魔法少女アニメ)))

 常識的な思考の日緋色、成堅、サスケの三名の思考はシンクロした。

 「……ああ。観たことあるな。ブルーレイで」

 「「「あるのかよ」」」

 「? あのアニメは国民的な人気アニメだって聞いたんだが?」

 「どこの国の話よ」

 「きっとグローバルな話なのであろうな」

 「でござるな」

 「探偵をやっている兄貴分の人が観てた時に、一緒になって観てたんだ。

 ……正直に打ち明ければ、何をしているのか良く分からない作品だったが」

 ((((兄貴分……?))))

 魅傀と薫の二人を除いた四人は、神条よりも更に大きな巨人がいるのかと戦慄する。

 「じゃあ次はみけみけね」

 「にゃあ。犬飼魅傀。同じく二年生で『武装風紀』のメンバーにゃ。よろしくにゃ」

 魅傀の自己紹介が終わったところで、バンテージを巻いた手がビシッと天を貫く。

 「はい! 質問です犬飼先輩‼」

 有間成堅がお手本のような姿勢で挙手をしていた。誰かが話している時はまず発言の機会を促す。当たり前のことを、当たり前に出来る。なんと素晴らしいことか。常識人のような行動である。

 「にゃあ。どうしたの?」

 「はい! 殴られる覚悟でお尋ねします。犬飼先輩の頭部に君臨している愛らしいネコミミはどうやったら付けられますか⁉ 具体的には自分ではなくクラスメイトの女子に‼」

 ただしその発言は常識が助走をつけて膝蹴りしてくるレベルの酷さだ。

 「……にゃあ」

 聞かれた魅傀も困ったような表情で返答する。

 「この耳は……生えてるから。魔術じゃないにゃ」

 その言葉に、成堅の魔力が溢れて、ついでに色んなものも溢れて眼鏡も割れた。

 「は……生えている……だと⁉

 しかし、お名前の如く三毛猫を思わせるボブヘアからは、確かに人間の方の耳も覗かせる。なんならピアスなど付いておられる。そして頭頂部には猫耳」

 「にゃあ」

 犬飼魅傀の頭のネコミミは生まれ憑きだ。犬飼家と言う、文字通り犬に関する精霊等を飼って使役する、歴史だけは深い精霊使いの家系の末端。先祖代々犬を従えてきたその一族に生まれてきた、猫の霊に憑りつかれた少女。

 当然のように家では異端扱いであり、人間関係の面で碌なことがない自身のネコミミ、そして尻尾。いい加減慣れたものだが、触らせてほしいと言われるのは、いつまでも慣れない。くすぐったいし敏感だから。

 (もし触らせてほしいと言われたら、お断りするのが面倒だにゃあ)

 「ああ、ここは素晴らしい学園である……‼」

 そう口にして、有間成堅は頭から床に倒れ落ちて。

 ガンッ‼

 「にゃあ⁉」

 「は?」

 「お?」

 「ああ……ネコミミ。素晴らしき大和魂……有間成堅、人生に一片の悔いなし」

  絶対に痛い音を後頭部から発して、涅槃かのような安らかな表情で気絶した。

 「…………一片に台無しの間違いだろ」

 光景を見てぽかんとしていた中、神条境夜は椅子から立ち上がって彼の遺体(死んでない)を抱えると、少し離れた位置のテーブルに横たえた。

 「おい、そこのサルの」

 さっさと戻ってくると、真っ先に猿飛早透に声を掛ける。

 「ウキッ⁉ 拙者ですか?な、何でござるか⁉」

 「腹が減った」

 「く、くく喰われる……⁉ せめてセンシティブな方でお情けを……‼」

 瞬時に逃げようと席を離れるが、その瞬間腰が抜けて立てなくなった早透。目玉は飛び出し歯茎がむき出しになった面白い顔でガクガクと震えだす。「拙者美味しくないでござるー!」などと命乞いをしながら。

 すると、一人勝手に食っていたカレーを食べ終わった薫が解説する。

 「さっさと自己紹介しろってことさね。

 このガキ、こんな成りして律儀な性格してるからね。始まったものはしっかりケリ付けておかないといけないと思ってるのさ」

 「え……あ、はい。そう言うことでござるか。

 では改めて。拙者、性は猿飛、名は早透。皆からはサスケと呼ばれているでござる。

 有間成堅殿と共に一年生で、あとはー。

実家は元忍びの一族だったので、学園で学べる魔術を活かして、忍びの仕事を復興出来ないものかと考えて入学した次第。どうぞよろしくお願い致しまする」

 「はーい。よろしくね~」

 「よろしく」

 「にゃあ」

 これで自己紹介は一巡した。ようやく念願のカレーにありつける。境夜は安堵して席を立って

 「ふぅ……ようやく飯に出来る。

 皆見ての通り、大量にあるから、しっかり食ってくれ。トッピングは勝手にやってくれればいい」

 言いながら、デカいボウルに入れたサラダと、人数分の取り皿を配って、席に戻った。

 「このカレー、境夜にゃんが作ったにゃ?」

 「ああ。最近料理してなかった分、一層気合入れて作った自信作だ。もっとも、カレーに手を抜くことはしねえけどな」

 言いながら、念願のカレーを口に運ぶ境夜。

 「んん……」

 自己評価に違わない会心の出来だ。満足そうに咀嚼して、口角を上げている。傍から見れば、獰猛な獣が牙を向いているようにも見える表情だが、本人は極めて一途にカレーだけを味わっている。

 そんな思い人を眺めて、本当にカレーが好きなんだにゃあと考えながら、他のみんなが少し戸惑っているのに気付いた魅傀も、いただきますと言って、自分の前に配膳されたカレーをすくって口に運ぶ。

 「むぐもぐ」

 そんな様子を、皆が伺う。もちろん、これを作った境夜自身も、カレーを口に運びつつ、上目遣いで魅傀を見ている。

 「もぐもぐもぐもぐ」

 しかし、そんな周囲に対して魅傀は特にリアクションもせず、そのまま二口を運んだ。今度は、最初よりも多めにすくっている。それを見た境夜は、視線をカレーに戻して、黙々と食べ続けた。

 作った本人を目の前に、まさか「美味いのか」など聞けるはずも無く、次にスプーンを手に取ったのは、銀河うちゅう。空腹か、好奇心に身を委ねたのか。「ふんす」と気合を入れて、カレーをすくう。

 「いただきまーす!」

 あむっ。勢いよく口に入れて、目を瞑って探るように咀嚼する。そして、すぐ……。

 「……………………」

 どんぶりでも食べるように口にひょいひょい運び始めた。

 「うまっ! うまっ⁉ 何これ美味っ‼」

 騒がしく豪快に、次々と口に運んで、あっと言う間に食べ終えると、コップに注がれていた水を喉を鳴らしてごくごくと飲み干して。

 「おかわりください!」

 目をキラキラと輝かせて境夜にお代わりを要求した。

 「おう」

 それを聞いた境夜は、自分のスプーンを置いて、一層満足そうに笑って皿を受け取ってキッチンへ向かっていく。

 「量は?」

 「大盛で‼」

 「了解だ」

 どこか浮足立ったように見える足取りで、ライスとルーを皿によそって、銀河(うちゅう)の前に置く。

 「目玉焼きも好きに食ってくれ。足りなきゃ焼く」

 「喜んで‼ いただきます!」

 運ばれるや否や、先ほどの二倍程度の量が盛られたカレーを口に運ぶ。ついでに目玉焼きも二つ乗せて。

 そんな様子を見せられては、もともと腹が減って食堂に駆け足でやってきたサスケ、そしていつの間にか意識を取り戻した成堅の二人も、パンっと錬金術でもするのかとばかりの勢いで手を合わせて。

 「「いただきます‼」」

 カレー。食わずにはいられない。

 一口食って、その次の瞬間には目玉焼きに手が伸びた。

 「こりゃ、すぐかっ消えるな」

 健全で腹を空かせた高校生男子が二人、食事にブーストが掛かったとあっては、とりあえずで盛った量では瞬殺だと察した境夜は、自分の食事を中断してキッチンで皿に次々とカレーを盛っていく。

 「こっからはセルフサービスだ。食いたい奴は勝手に持っていけ」

 「「「はいっ‼」」」

 境夜の言葉に元気なお返事を返したのは、言うまでもなくカレーに憑りつかれた三人だ。

 「きょーちゃんー目玉焼き追加ください! 半熟で!」

 「小生も固焼きで!」

 「拙者はターンオーバーでお願い致す!」

 「あいよ」

 心底愉快そうに卵を割って、フライパン三つにそれぞれ卵を落として行く。その様子は熟練の料理人。食わせることが楽しくして仕方ないと言わんばかりに、作っていく。

 「オムレツも出来るが、食いたい奴いるか?」

 「「「はいはいはーい‼」」」

 砂漠のど真ん中で氷水を欲しがっている迷子のような勢いで三人が手を上げる。きっと銃で脅されていたって、ここまで勢いよく上がりはしないだろう。

 「あいよ」

 そんな三人の遠慮も知性もない欲望丸出しの反応に、牙をむき出しにして笑って、蓋をしたフライパンの待機時間に卵を混ぜ始める。

 その様子を眺めながら、まだカレーに手を付けていなかった日緋色は。

 「…………さっきまでお腹空いたって言ってたのに、作るのが優先なのね……」

 ぽつりと呟いた。いや、つい口から零れたのだろう。

 「にゃあ。とっても楽しそうに笑ってる。やっぱりとっても優しい人にゃん」

 「やっぱりって、いったいどうやって気付いたのよ。あの巨体にあの顔面凶器に、あの登場で」

 「……最初から・・・・だよ。最初から、わかってたよ。

 あの人の匂いは、最初に会った時から今までずっと……苦そうなのに、芯の方がとっても甘いから。苦いのに甘いなんて、よっぽど最初から甘かったんだにゃ」

 「……? 苦いのに甘い匂い? ごめん、表現が全然分かんないんだけど」

 「くすっ、知りたい? 日緋色にゃん」

 そう言った魅傀の表情に、日緋色は目を奪われた。まるで、こっちにおいでよと誘っている遊女のようで。蠱惑的、思わず付いて行ってしまいたくなるような、色香。柔肌を愛撫されているかのような、抗い難い魅力。そんなものを、どうして彼女に感じたのか。

 「え、ちょ、魅傀……?」

 「はい、あーん」

 「ふぇっ⁉」

 ぱくっ。日緋色の口に銀色の匙が入れられて、口の中はカレーの味で満たされる。

 「…………」

 「どうにゃ? 美味しい?」

 そう聞いて来た魅傀はいつも通りの猫みたいな笑顔だった。肌をくすぐる色香も、誘いをかける笑みも無い、いつも通りの犬飼魅傀。少し混乱したが、日緋色も取り合えず食べ物を粗末にするような教育は受けていないので咀嚼し始める。

 「……………もぐもぐもぐもぐ」

 魅傀は楽しそうに笑っていて、日緋色は、いずれこくんと飲み込んで、口元に手を当てて複雑そうな表情を浮かべた。

 「どうだったかにゃ?」

 少しだけ悪戯っぽく微笑んで、味の感想を問う。悪戯っぽいのは、なんとなく日緋色の答えを察しているからだろう。納得行かなそうにぐぬぬと声を上げてから一言。

 「…………あたしの作ったカレーより美味しい。いちおう洋食が売りのカフェの娘なのに。」

 「境夜にゃんは凄いでしょ?」

 「~~っ! はいそうですねっ‼」

 嫌々そう答えると、手元のスプーンを乱暴に持ち上げて、八つ当たりのようにカレーを食べ始めた。

 「よかったにゃ」

愛おしいと分かる表情で料理をしている神条を眺めながら、魅傀も食事を再開するのだった。

 「美味しいにゃん」

 

 

 

 「それで、クラスメイトや先輩たちと朝食を一緒に取った感想はどうだい?」

 あれから、日緋色と魅傀は、朝からの実戦授業のためにダンジョンに向かうのを見送り、凄まじい勢いでカレー鍋を空にして腹がひび割れそうな位食った三人を保健室に運んだ境夜は、皿洗いをしながら薫と雑談をしていた。なお、薫は茶を啜っているだけである。

 「そうだな。久しぶりに、誰かに飯を作ったよ。最近、仲間に会ってないからな」

 「そうかい」

 言葉足らずだが、それでも充分に満ち足りた時間であったことは、声色から伝わってくる。

 「そう言えば、あんたあのネコミミから告白されたんだろ?そっちはどうしたんだい?」

 「友達からと答えた」

 「なんだい、随分初心な返事じゃないか。アンタ一応暴走族なんだろう?

 元軍人で現暴走族ってのも不思議な話だが」

 「俺たちはバイクで暴走するための集まりじゃない。今、俺がお前らの尻拭いをしてやってまでマトを追ってるのもそうだ。俺たちは俺達なりの正義と約束に基づいて行動しているに過ぎない。その過程で法律が邪魔になるなら、叩き潰す。ただそれだけだ」

 「ただそれだけ。で許されるもんじゃないんだけどもねえ。

 まあ、いいさ。それで、何でキープなんて半端な答えにしたのさね?」

 「…………俺はまた、世界中飛び回らなきゃならねえ。それも、遠距離恋愛なんてもんが成立するわけもない状況だ。なにせ電波も飛ばなきゃ手紙も届かねえ。そんな一線引いた境界線の先に、俺はいるんだ。

 告白されて、はい付き合いましょうなんてわけにいくか」

 「だったら、断れば良かったんじゃないのかい? 」

 「………………………」

 その正論に、境夜は言葉を詰まらせた。

 「つまり、何だかんだ新人類なんて呼ばれてるアンタも、人の子だったってことかねえ。

 女に迫られたら、年相応にガキだってことかい」

 「…………うるせえよ」

 拗ねるでも、嘲笑するでもない安らかな声で返しながら、境夜は皿洗いを続けた。校長は帰った。使えねえ。

 

 

 

 境夜と薫の雑談が始まる少し前。

学園の塀の外。島の中で殆ど拓かれていない森の中に、立ち入り禁止のフェンスで四方を囲われた場所がある。範囲は土地一坪分ほど。フェンスの一面の一部に扉が付いていて、普段は学園の教師によってカギ穴と鍵が常時同じ変化をする鍵穴と、フェンスを乗り越えようとするとグーパンチで妨害される方法で二重に封印している。そして、その中にはポツンと小屋が一つ。生徒たちはこの中に入って、二人チームで教師側の用意したターゲットを撃破して、ゴールから帰っていくという内容だ。

 難易度こそ高くないが、生徒側が知らないだけで元々はただのゴミ捨て場だったものを魔術で強引に道を引いてダンジョンなどと呼んでいるだけの物。もっとも、制作を任された者の趣味で、多少手が込んではいるが。

入って戦闘しなければならないという都合上、それなりに時間が掛かるのに、一度に入っていくのは二人ずつ。そんなわけで、この授業のスケジュールは丸々一日を予定している。

 そして、成績優秀ゆえに武装風紀を任されている少女三人。もとい二人は、列の最後尾で待機していた。

「まったく、銀河(うちゅう)ってば授業に出られなくなるまで食べるなんて……」

「それだけ美味しかったってことにゃ。ひひろにゃんも、チーズ入りオムレツお代わりしてたにゃん。初めて見た光景だったにゃ」

 ぷんぷんと怒っている日緋色と、彼氏(未定)の料理を褒められたようで喜んでいる魅傀。対照的な様子の両者は、それでも仲良く談笑している。

「そ、それは今回が初めてのダンジョンの実戦授業だから、しっかり食べて準備しておこうって思ってただけよ!」

 「にゃあ。じゃあ美味しくなかったにゃあ?」

 「うぐっ⁉ そ、それは……ノーコメントで」

 苦虫を噛んだような表情で呟いた日緋色。

 「にゃあ。

 またいつか、一緒にご飯食べたいにゃあ」

 ほんの三十分前くらいの出来事に、既に遠い思い出のような表情でいる魅傀に、怪訝な表情で返す。

 「またいつかって……同じ学園にいるのが分かったんだから、またすぐ会えるじゃない?

それに……その、こ、こ、告白? したんでしょ? あの感じだと、オッケー貰ったんじゃ、な、ないの……?」

 色事に全く慣れていないのか、どもった感じで聞く日緋色に、魅傀は憂いの表情で返した。

 「ううん。境夜にゃん、今はやらなきゃいけないことがあるから、お友達からって言われたにゃん」

 「やらなきゃいけないこと……? そう言えば、神条君って、学園の生徒だって校長先生が紹介してたのに、全然授業受けてないんだっけ。それなのに注意を受けてる様子も無かったわね。アタシたちみたいに、学校から何か特別に依頼でもされてるのかしら?」

 「良く分かんないけど、境夜にゃん。学校に来る前から『魔術』を使えてたから、そもそも学校に来てる理由が、ミケ達とは根本的に違うんだと思うにゃ」

 「アイツが学校に来てる理由かぁ……確かにあたし達は『魔術師』になるって言う学校の中での目標って言うか、ゴールみたいなのはあるけど。神条君はそもそもMACも無しに魔力砲が撃てるんだから、間違いなく魔術師になりに来てるわけじゃないのよね」

 「うん。だから、また会えるかどうかは分からないから、今日がとっても大切なの」

 「……そっか。

 あたし、恋は良く分かんないけど、魅傀は凄く幸せそうだね」

 「……にゃあ。幸せ、だよ。

 ひとりぼっちじゃ、寂しいから。にゃあ」

 「何言ってるのよ、魅傀。ひとりぼっちじゃないわよ。あたし達もいるんだから」

 「…………うん。そうだね。そうだと、嬉しいな」

 手のひらを大きく広げて、森の木々から僅かに差す陽光に、儚く消えていきそうな祈りを口にして瞼を閉じた。

 

 

 

 ダンジョンの中。

 先行で中に入って行ったのは昨日戦争をしていて、シバかれる前に退散した方のチームのメンバーたち。

 この授業では一度に入って行くのは二人ワンペアだが、ダンジョンの中で合流して共闘することに関しては一切の規制は無い。よって、中で待機していたペア同士で合流して共に進むのは、勝率を優先する場合当然の判断と言える。

 そして、このメンツの中で先陣を切っているのは、なし崩し的にチームリーダーになっている成宮なりみや厳湖津げんこつ。時代と流行が一周回ってくる前に原始回帰したリーゼント頭に白い長ラン、市は下駄という現代社会でお友達を作る上で大きな枷になりそうな恰好をした二年生男子だ。敵味方問わず、格好さえちゃんとしてれば、それなりに整った顔立ちをしていると評判なのだが、本人曰くポリシーらしい。

 まあ、それはそれだ。チームのメンバーも無理に成宮に彼女を作って欲しいわけではない。

 今、彼らが成宮に求めているのは…。

 「成宮さん。今ポイントっていくつですか?」

 「さて、いくつだったか。覚えてはいないが、案ずることはない。俺が専用MACを受け取る時は、お前たちと共にだ」

 「それは嬉しいんですけど、リーダーの成宮さんが丑三の野郎より先に専用MAC手に入れてくれた方が、勝率が上がるんですよ」

 「言わんとしてることは分かる。だが、戦いとは足し算では決まらないのだ。相手と対等の条件下。己になんの後ろめたさも無いという潔白さが力に変わる人間もいるということだ」

 チームメイトは、成宮のこの人間性に惹かれて集まってきている。私欲を満たすなら絶好のチャンスと言ってもいいこの機会にこの反応。それは誠実さの証明であり、自分たちが憧れた男が外面だけではないという証明でもある。それは嬉しい。しかし、今回ばかりはそんなことも言っていられない。それでも話しかけていたメンバーは言葉が続かずにつっかえてしまう。

 それを補足するべく、成宮の隣を歩いていた小柄なマッシュヘアの男子が口を開いた。

 「けど、厳湖津。それじゃあいつまでもポイントが溜まらないんだよ。いくら戦争しかけても時間切れと一緒に10万ボルトとりゅうせいぐんとねこのてが襲って来て中断しちまうし。

 もうこの実戦授業で溜め切るくらいしかないのが現実だよ」

 「それでもじゃ。来軒よ。お前たちの分のターゲットを倒して、ワシだけポイントを貰うような真似は出来ん」

 「それでもさ。このまま丑三のチームをほっといたら、あいつら絶対に一年の方にもちょっかい掛けるよ」

 「……ぬ」

 マッシュヘアの言葉に、周りの仲間も同意する。

 「そうですよ。アイツらは自分たちのポイントの為に集まってる連中だ。一年なんて、絶対にカモられますよ! そうなったら、アイツら全員が専用MACを手に入れます。そしたらいくら武装風紀がいたって、多勢に無勢じゃないですか!」

 「…………」

 「成宮さん。戦いが推奨されてるこの学園には、必要なんですよ。正義の番長が。

 それを女子に任せていいんですか⁉ もし丑三の野郎が卑怯な手でMACを封じたりした日には、武装風紀もただのひ弱な女子なんですよ? 今までの復讐にどんなことをするか分かったもんじゃないんです!」

 「…………」

 仲間の言葉に苦い顔をしながら、拳を握る成宮。

 この言葉は何も大げさではない。昨日戦っていたチームのリーダー。丑三(うしみつ)賽(さい)河(か)は、卑怯も陰湿も厭わない。己の目的の為に最適の手段を選ぶ。そんな人間に力を持たせれば、入学したての一年生に良くない影響が及ぶのは、分かり切っていることだ。

 厳湖津……」

 それが分かるから、成宮も自分の考えを通しきれない。

 「…………分かった。だが、その後はお前たちの番だ。必ず皆で、魔術師になろう!」

 「「「はい‼」」」

 皆が同じ気持ちで、同じ方向を向いて進む。それはまるで、力が入った学生の部活のようだ。きっと彼らの結束力なら、普通の学校に入っていれば、そんなこともあったのだろう。こんな学園に入学したりしていなければ……。

 

 

 

 校長室。

 薫が立ち尽くしていた神条を置いて部屋に戻ると、白髪交じりの紳士服を着た男が封蝋の付いた手紙を持って待っていた。

 「ようやくお戻りですか、林堂校長」

 男は目の下クマが酷く、疲労の溜まった声でカレーの匂いをさせて帰ってきた上司に恨みがましい声で迎えた。

 「何だい石島副校長。随分やつれた顔をして。飯食ってるのかい?」

 「食べておりませんよ。貴女のようにカレーのスパイスの香りをさせて校内を歩いたのは、一体何か月前のことだったか……時間に追われていない生活を送れているようで何よりです。その様子であれば、こちらの案件に対応される時間は存分に引き出せることと思います」 

 ピクピクと瞼を痙攣させながら、天と地と間に樹木が描かれた封蝋の手紙を手渡した。

 それを見た薫は露骨に嫌そうな顔を滲ませながら封を切る。

 「森羅の封蝋か……あの妖怪から連絡が来る時は、例外無く面倒なことしか書いてないんだがねえ」

 「その様ですね。ろくでもない上司の、その又上司からの手紙なら。さぞろくでもない話なのでしょう。何しろ連絡が必須の内容ですら、事後承諾の連絡しか寄こさないお方の連絡なのですから」

 「ほんとにアンタはいちいち嫌味なヤツさね」

 「御冗談を。わたくしなど、校長先生の陰険さに比べれば無垢な雛鳥も同然でございます。」

 「さらっとアンタの性格までアタシに責任を押し付けるんじゃないよ。アンタの陰険さはここに来る前からだろうが!」

 ふんっと鼻息を鳴らして、薫は手紙を読み始めた。枚数は五枚。一枚につき5秒くらいで読んでは次に行っている。

 (やれやれ……知能は高い方なのに、どうしてこう、人としてこうも欠陥だらけになったのやら)

 「…………石島」

 「なんでしょうか」

 「アンタ、このスペックの相手をガキ共が導真リングだけで相手出来ると思うかい?」

 「……?」

 なにやら剣呑そうな顔で手紙の内の四枚を差し出された石島は、手紙の内容、否。とある生物のデータを閲覧した。

 「…………これはTCSの戦力データですか。

 本当に反吐が出そうですね。特記事項の『人間の負の感情をエネルギーに変換することで死すらも超越する』と言う辺りが特に人の倫理観を忘れている」

 「ああ。だが、反吐が出るのはまだ早いさね。

あの妖怪ジジイ、これをガキどもの今日の実戦授業に投入したと書いていやがった」

 「なんですって?」

 薫の言葉に、石島のクマだらけの淀んだ瞳、驚愕の意が浮かぶ。

 「バカな。生徒たちはたかが一年間『魔導士』として『魔術』の基礎を学んでいるだけ。それも、本来『魔術師』の家系なら三歳で習うような基礎も基礎ですよ⁉

 それを戦闘兵士と戦わせるなど、ハイハイしか出来ない赤子にサッカーをさせるようなものではないですか‼」

 「建前としては、『生徒達の一年の成長を図るために、少しレベルの高い実戦をさせて生徒達の意識を高めるため』とあるが、根本的に不可能なことを強いているのが実状と言うわけさね。

 アタシが造ったマナ・アナザー・コア・システム。MACは、その辺の魔術師が造った魔導具なんかよりよっぽど高性能だと自負しているさね。使いこなせれば、コイツを倒すくらい造作もない。だからこそ、その危険性を危惧して、卒業までに規定を満たせた一部の生徒以外からは回収する方針を取ることにしたわけだ。

 それでもだ。たった一年程度でMACの性能をフルに活用するなんざ、魔術の魔の字も知らなかったガキどもには到底不可能。卒業試験だって言っても些か過剰さね」

 「だったら、どうして森羅継國はこのようなことをしているのですか⁉ これでは犬死させるようなものではないですか!」

 「…………だからだよ」

 「なんですって?」

 薫は、この考えにすぐに至った思考回路に少し嫌気がさした。

 「この導真学園の本来の設立目的はなんだい?」

 「それは、【完成なる者アンリミテッド】神条境夜と同等の存在を、人為的なアプローチで生産することです」

  生命を捕らえる肉体の檻。または入れ物【心亡き者ロストハート】と、その中身。あるいは魂とも呼ばれる【躯亡き者ノーバディ】が完全に融合することで魂の乖離を無くし、細胞分裂の限界を排除することで無限に進化する新たな生物に至った者。この宇宙を構成した四代奇跡の一つ第三奇跡まほう【無限の奇跡】の一部。それが、神条境夜の生物としての種族の区分。【完成なる者(アンリミテッド)】。

 「その通り。【心亡き者】と【躯亡き者】の融合は、弥生時代から幾百、幾億の日本の魔術師達が挑み、破れ、結果的に最も人の命を啜ってきた、未解明の方程式さね」

 「ええ。知っていますとも。

 この『神羅計画』も例に洩れず、始動した六年前から数えきれない失敗作を生み出してきました」

 「ああ。その失敗作が【至れなかった者タブー】。それを大量に廃棄する場所が、立入禁止区域。現ダンジョン。

 誰かが事故死しても仕方がない場所・・・・・・・・・・・・・・・・さね」

 「それは……まさか森羅継國は……」

 「ああ。恐らく、『実験用に使う死体』を作るためさね。

 妖怪ジジイと言えど、魔術師の死体を用意するのは骨が折れるだろう。だから、一年間魔導士として修練した人間の遺体を実験体に使うつもりなのさ」

 「クソジジイ……っ‼」

 その結論に、石島は嫌悪と怒りを全面に押し出して、しかし僅かな人の心を期待して反論する。

 「しかし、学園内で死人が出たりすれば、世間からの批判は免れません。そうなれば学園は終わりです。わざわざ創立した学園を意味も無く危ぶませるような真似は、いくらあの森羅継國と言えども……」

 「そのぐらいどうとでもするさね。

 幻惑、洗脳、認識の変格。その手の幻術は、あの森羅継國の最も得意とするところさね。わざわざ実験中のタブー・カスタム・ソルジャー通称TCSを使ってるのは、単に選別がしたいだけって所だろうね。

 もしもTCSを討伐出来る生徒が居れば良し。元が失敗作のタブーを遊び半分で弄りまわしただけの低品質な生物兵器だ壊されても痛手はない。

逆に質が低い生徒しかいなければ、ある程度の死体を集めるだけに留めるだろうけどね」

 「…………人間のやることじゃない……っ!」

 嫌悪感が限界に達した石島が漏らした本音に対して、ふうとため息を付いて、吐き捨てるように薫が返答する。

 「だから言ってるだろう……妖怪だと」

 

 

 

 「フレー! フレー! 成宮さん! それ!」

 「「「フレッ、フレっ、成宮! フレっ、フレっ、成宮! フレっ、フレっ、成宮―‼」」」

 ダンジョンの中でチームの絆を結んで一丸となってエールを送る。

 声援を一身に受けるのは、ポリシーのリーゼントと白い長ランを躍らせて拳を振るうリーダー成宮厳湖津。

 みんなのポイントを手に入れるからには、戦いも一人でするべきだと言う、厳湖津なりの、せめてものケジメだ。

 「ぬうううううおおおおおー‼」

 戦う相手は、骨のように白い人型の何か。学園が用意した今回のダンジョンのモンスター役。名称、ターゲットだ。実験によって心を失い、ただ人の形をした肉の機械と化したターゲットは、肉体を対生徒用に調整され、今こうして成宮と戦闘することを強いられている悲しい元生命。だが、今このダンジョンで戦闘を行っている生徒は、誰一人として、この現実を知らない。

 「ハァ……ハァ……うおおおおおおおおおおおー魔力砲――‼」

 「――――‼」

 個人の術者の身体全身から放たれる純粋な魔力攻撃の最大値が放たれて、全身を砕かれたターゲットに救済(死)がもたらされる。

 そして、全身から魔力を放出するダメージを逃がすように膝を着いた厳湖津が、大きく肩を揺らして身体全体に酸素を運ぶ。頭から流した一筋の血潮が、この戦いを一筋縄ではいかなかったことを物語る。それでも、眉間にシワを寄せた目だけは、まるでダメージを感じさせない。

 「成宮さんすげえな……二人で力合わせて倒せるバランスに調整されてるはずのターゲットを一人で倒せるなんてさあ」

 「オレさあ、さっき待ってる時に丑三のチームのやつ見ちゃったんだけど、二人とも担架に運ばれるくらいの重傷だったぜ」

 「成宮さん、タフネス半端じゃねえからな」

 「ああ。さっきターゲットが目から光線出したのもろに食らってたのにピンピンしてんだもんな」

 「オレならアレ貰ったら気ぃ失うよ。あのビーム、成宮さんに当たった瞬間爆発してやがったもんな」

 「まあ、そこはほら、成宮さんが特別だってことだろ」

 自分たちが尊敬する男の破竹の勢いに、チーム一同気持ちよさそうに話している。そんな様子を横目に、側近のような立ち位置にいるマッシュヘアで小柄の男子、木野(きの)来軒(このき)が猫の手程度に肩を貸しながら、横目で見ながら文句を垂れる。

 「ったく、あいつら話に夢中でオレらの大将そっちのけじゃねえかよ……バカすぎる」

 「なあに。そのくらいの方が良いさ。心配そうに応援されるより、勝つと信じて貰えている方が全力で戦えるからのう! ワッハッハッハッハ!」

 「……まあ、厳湖津がそう言うなら、いいけどさ」

 全然良さそうに見えない表情でそう言う来軒もなんのその。怪我も気にせず豪快に笑っている姿は実に勇ましい。

 「成宮さん、ポイントはどんなもんですか?」

 「ん?おお、そうじゃな。今ので十体目だ。丁度いいから見てみるかのう!」

 戦う前に聞かれた時の口を開き辛そうな様子は何処へやら。全員一丸となって目的に突き進んでいる今、迷いなど存在しない成宮は、皆で手に入れたお宝を分け合うようにポイントを開示出来る。学生全員に配布されるシルバーリング型のMAC――導真リングが、ターゲットを倒す毎に随時加算していったポイントを表示した。その数値は……

 「おおおーー‼ 35万193ポイント!」

 「マジかよ! ターゲット一体が2万ポイント! そして魔力砲一発につき5千ポイント消費!」

 「後一体倒したら36万ポイント!専用MACと交換出来るポイントに届くぞ‼」

 「っしゃー‼ 専用MACさえあれば、丑三のチームなんて怖くねえ!」

 「やったー!」

 「おめでとう、厳湖津。次でラストだ」

 「ああ……! みんな、ありがとう‼

 成宮厳湖津、先んじてMACを手に入れる以上、皆にも必ず専用MACが手に入るように邁進する‼」

 感動のあまりボロボロと漢泣きしながら、力強く拳を上げて宣言する。その姿の雄々しさと清廉潔白な姿勢に高ぶったチームメイト達もまた、力強く声を上げて自分たちのリーダーを称える。

 「成宮‼ 成宮‼ 成宮‼ 成宮‼ 成宮‼」「成宮‼ 成宮‼ 成宮‼ 成宮‼ 成宮‼」「成宮‼ 成宮‼ 成宮‼ 成宮‼ 成宮‼」「成宮‼ 成宮‼ 成宮‼ 成宮‼ 成宮‼」

 「ありがとう……ありがとう……っっ‼ うおおおおおおおおおおおおー‼」

 あまりの号泣に流石に待ったをかけるべく、木野がパンパンと手を鳴らす。

 「はいはいみんなー。前祝はこの辺にして、最後の一匹を探そう。

 祝勝会は厳湖津の専用MACが出来上がった後のお楽しみに取っておこうぜー」

 「おう!そうだな木野」

 「さすが参謀だぜ!」

 「元々このポイント稼ぎ作戦だって、木野の作戦だもんな!」

 「ほんとだぜ! 木野も偉い!」

 「木野! 木野! 木野! 木野!」「木野! 木野! 木野! 木野!」「木野! 木野! 木野! 木野!」「木野! 木野! 木野! 木野!」

 「あはは……ああ、ありがとう」

 照れくさいような、少し引くような心持で笑いながら返した木野。その時、後ろから聞きなれた若い女性の声がした。

 「ああ、こんなところにいたー」

 皆が振り返ると、そこにいたのは担任の斎藤幾世(いくよ)。女生徒と一緒になってファッションやらネイルやらの話で盛り上がるような新米教師だ。

 「さ、斎藤先生…どうしたんですかこんなところに」

 木野は冷静に斎藤に話しかけた。今していることはルール違反と明記されていないだけで、バレれば普通によろしくない。波風を立てないためにも、ここは穏便に済ませて見せる。これが脳筋を支える参謀の仕事だ。

 「どうしたのじゃないよー。先に入ったグループが出てこないと、いつまでも残りの人が入れないでしょー。終わった人はダンジョンから出て、終わった報告してくださーい。もう先生疲れちゃったよー。こんな舗装もされてない洞穴に、ヒールで歩いて来る身にもなってよ!」

 「はい。すみませんでした斎藤先生。つい話に熱中しちゃって」

 悪いことをしたら素直に謝る。相手が常識的な思考と良心的な人格で構成されている場合、結局これが一番安全で早い。奇をてらうより堅実を選ぶ。これが青春時代にのみ通用する対大人専用の、『謝っちまえば大概なんとかなる戦法』だ。後は

 「あとはボクと厳湖津で終わりだし、みんなは先生の言う通り先に行ってて」

 「ああ、分かったぜ。木野」

 「オレ達はゴールの外で待ってるからな」

 「うん。分かったよ」

 「成宮さん、気をつけてください」

 「任せておいてくれ。オレはきっと、みんなの期待に応えて見せる!」

 「つっても、成宮さん探し物ドヘタだからなあ。見つけられるのか心配だわー」

 「それなー」

 「この前なんて成宮さん、いつも持ってる詩集を無くした言って一日中探してたのに、見つかってみれば机の引き出しに仕舞ってあったなんてくらいだしなあ」

 「やべえ。オレ心配で気持ち悪くなってきたんだけど」

 「ぬ、ぬう……」

 いくら信用されている人間でも、ダメなところはダメ。分かりやすいものである。

 「みんなー。そろそろ本当に終わった人は撤退してねー。成宮くんと木野くんは、怪我しない範囲で頑張ってねー」

 「はーい……って、先生後ろ‼」

 「え?」

 斎藤先生が話している途中で、忍び寄った影が一つ。生徒たちが狙うターゲットだ。

 「うわっ⁉びっくりしたよー……こうしてみると結構気持ち悪いなぁ……うえー」

 「うえーって、危ないぞ斎藤ちゃん、早く逃げろって!」

 「あー。先生は大丈夫だよー。こういう時に安全なように、狙われないように設定されてるからね~」

 言いながら白い人型に人差し指でツンツンと触ろうとして、やっぱキモいからやめとこ……と思い直す斎藤先生。生きろ、ターゲット。死んでるけど。

 「それじゃあ、邪魔になる前に先生は行くけど、本当に、終わった人はゴールに行ってね?

 待ってる子たちに私が白い目で見られて居たたまれないんだからね!」

 タタタタターと早歩きで去っていく自分たちの担任を見て、メンバーたちは。

 (((自分の為かよ……)))

 と心の中でツッコんだ。

 「…相変わらず、くっそあざといよな。斎藤ちゃん」

 「オレ、魔術師になったら斎藤ちゃんに告白するんだ」

 「確か今年で25だっけ。全然いけるな」

 「オレなんて実は昨日、一年から斎藤ちゃんのパンチラ写真買ったんだよ。一枚千円で。」

 「おいなんだそれ俺にも教えろよ」

 「残念だな。情報漏洩には厳しいんだ。教えたらオレも売ってもらえなくなる」

 思春期男子のバカみたいな会話を背中に聞いて、成宮厳湖津は最後の敵に拳を構える。信頼して任せてもらえると嬉しい成宮だが、さすがにこれから戦うって時に浮ついた話に夢中になっている仲間たちに思うところが無いでも無いが、今は置いておこう。なにしろ彼の脳みそは、余分なことに思考を割いて万全な働きが出来るほど器用じゃない。

 「集中だ。集中するんだ厳湖津。愛しの斎藤先生のパンチラ写真のことはひとまず忘れろ厳湖津。この命がけの戦いの中で一瞬でも余計なことを考えるのは、目の前の敵にも無礼だ」

 すーはーと深く呼吸をして、全身に酸素を行き渡らせて集中する。拳を握りしめて、足を肩幅に、目線は敵に。意識は勝利に。いざ!

 「この戦いに勝ったら斎藤先生に愛の告白をするんじゃああああああああ――‼」

 「ダメだこいつ全然集中してねえ!」

 

 一方、小さな参謀の悲しいツッコミが反響して聞こえた斎藤は。

 「はー。ここ薄暗いしジメジメしてるし、早く帰りたい」

 地味に長く広いダンジョンの中で、嫌そうな顔で歩を進めていた。

 突貫工事で作られたも同然のダンジョンには、快適さも清涼さも望めない。そんな場所に女学生とファッションやネイルの話で盛り上がるのが趣味の新米教師が好感を持てるわけもなく。ヒールを履いていて上手く走れない分、せめて早歩きで脱出しようと足を急がせる。

 「うう……怖いなあ……」

 特に危険が無いはずの場所なのに、ここは生物の生存本能がやたらに警鐘を鳴らしたがる。現に、生徒がいつまでも出てこないと知っていながら遅くまで様子を見に来られなかったのは、恐怖心が拒み続けたが故だ。

 そんな中で、突然背後に白い巨体が曲がり角から現れようものなら、悲鳴の一つくらい上げても当然だろう。

 「アアアアア…………」

 「きゃああああああああああーー⁉」

 身長二メートルは超えていそうな巨体が、のっそりと斎藤に近づいて来る。

 「え⁉何?何で知恵に近寄ってくるの⁉止めてよ、来ないでよ……!」

 「アアアアア…………」

 喉を鳴らすだけのうめき声を上げながら、少しずつ確実に距離を詰めて来ている白い巨人に、襲われるわけが無いと思っていても、心は常に逃げろと訴えてくる。

 「来ないでってば‼ あなたが戦うのは知恵じゃないでしょ⁉ ねえ、分からないの⁉」

 白い、のっぺりとした顔が迫ってくる。眉毛も、まつ毛も無い。目と鼻と口が付いた顔だ。

 普段見慣れないものを恐れる傾向にある人間が、こんな場所でそんなものに迫られて、平静でいられるはずも無い。

 「アアアアア…………」

 まして、この白い巨人は先ほどから、間違いなくこの女教師を視界に捉え続けているのだから。

 そんな目にずっと嫌悪感を抱いていたからだろうか。彼女は今の今まで気づいていなかった事実を唐突に付きつけられることになった。

 「アアアアアアアアアアーー‼」

 白い巨人の右腕には、手の代わりにカニのツメのようなものが付いていたことを。

 そのカニのツメが身長二メートルを超える巨人が歩いている状態で地面に着いていたこと。

 そして、そのツメが自分に振り下ろされることを。

 「きゃあ‼」

 振り下ろされたツメは、運よく女教師の服を引き裂いただけで済んだ。ツメに服が引っ掛かったことで前面が全て持っていかれて、女性としてはあられもない姿にされはしたが、肉が抉られていないだけ、生物としては無傷と言って良い。

 「ま、待ってよ! 何で知恵が攻撃されてるの⁉ 知恵は先生なのに‼」

 「アアアアアアアア……!」

 白い巨人は自分のツメを何度か降る。まるで間合いを確かめているかのようなそのツメは宙を斬るだけ。それでも、数センチそれがズレていれば死んでいた彼女が、それに恐怖心を抱かないわけが無い。

 「ひ…っ⁉ ひいいいいいいいいいいいーー‼」

 彼女の選択は早かった。ヒールを強引に脱いで立ち上がると、それを両手に掴んで走り出す。

 自分の生涯で見た限りで最も早く走った人間のフォームを死に物狂いで真似て前に進む。

 「嫌だ……! 嫌だ‼ 死にたくないよお‼

 誰か助けてええええええええええええええええええええーー‼」

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る