04_レンテ(2)
その日の夜は黒かった。暗い、ではなく黒かった。空一面に分厚いカーテンが敷かれたようだった。
一瞬、黒い空に隙間が見えた。隙間から光が差したと思ったら、それは空間を斜めに切り裂いた。
流星だった。ひとつ流れると、小さな光が次々と現れては落ち、黒色だった空を光に染めていった。
その最中、茶色い波のような線が現れた。それは東から西へ線を描き、今度は西から東へ、天から地面へ、至る所へ出現し、繋がった。あっという間に流星を、空を覆い隠してしまった。
私はこれが夢だと気付いた。小さい頃、流星群を見たばかりの頃、よく見ていた夢だ。
そこら中を巡った線は、やがて布のように、壁のように空間を覆って、後には私だけが残されていた。
目を覚ました私は、ベッドから起き上がりカーテンを引いた。春をいっぱいに含んだ陽光だった。
枕元に目を向けると、昨日レンテから奪ってしまった『読書について』が置いてあった。久しぶりにあの夢を見たのは、寝るまでこの本を読んだからなのだろうか。
階下に降りると、父がタブレットを使ってニュースを流していた所だった。
母が出張のため、この家は今、父と私と弟の青磁の三人しかいない。
父が私にコーヒーか紅茶を煎れようとかと聞いてくれたが、私は自分で準備すると答えた。中学生になってから、朝のお茶は私が煎れることになっている。担当が決まってから既に2年経っているが、相変わらず父は自分がお茶を煎れようとしてくれる。その度に母から「甘やかすんじゃないの」と小言を言われている。
注ぎ口が細くなったケトルにミネラルウォーターを注ぎ、コンロで火にかけた。冷凍庫から出したコーヒー豆を電動ミルへ入れ、スイッチを押す。豆が挽かれるゴリゴリとした音が鳴っている間に、ペーパーをドリッパーにセットした。三人分のカップを用意し、別のヤカンに入っていたお湯を注いでカップを温める。そうしていると、やがてコーヒー豆の香りが微かに広がっていく。私はコーヒーを飲むときの準備、このちょっとだけ忙しく手間がかかる時間が好きだ。
間もなく青磁も二階の寝室から降りてきて、朝食が始まった。
トーストとスクランブルエッグ、サラダにコーヒー。朝食を食べながらニュースの話や昨日の学校の話など、他愛も無い会話をした。
「そういえばお父さん、職場のタブレットを買い換えると言っていたけど、結局どこの会社に決まったの?」
青磁が父に質問した。父の答えは、IT企業に詳しくない私でも知っている会社だった。
「入札だから、職員の希望は何も通らないけどね」父が付け加えた。
「やっぱり中国の会社になったんだね」
青磁はトーストを食べながら、妙に納得したようだった。
「そこは日本の会社じゃないの?」私が訪ねる。
「コンピューティング部門は中国企業に買収されたんだ。今、日本資本でパソコンを作ってる会社は少ないんだよ、姉さん」
私の質問に青磁が答えた。
「知らなかった。青ちゃんは色々な事を知ってるんだね」
「青ちゃんは止めてくれって言ったろ、姉さん……」
「どうして、かわいいのに」
いつの頃からか、青磁は青ちゃんと呼ばれることを嫌がるようになった。そして私を姉さんと呼ぶようになった。私は最初、自分が呼ばれているのだと分からずに、何度も青磁の前を素通りしてしまった。
青磁が病気にでもなったのかと思って父に相談したが、「少し見守っていよう」と優しく笑うだけだった。
素通りといえば、私は昨日のレンテの一件を思い出した。
挨拶されたのに教室を素通りしてしまった場面を思い出し、急に恥ずかしくなってきた。そしてその後の会話を思い出して、すぐに腹が立ってきた。
いくら私が何も知らないからって、あんなにバカにする必要ある?!
しかし、だからといって彼女の持ち物を勝手に持ち出して良い理由にはならない。今日、会ったらすぐに返さないと。
「中国の台頭はIT分野だけじゃないよね。やっぱり今の世界経済はアメリカと中国が強いの?」
「まあそうだろうね。アメリカも関係改善を進めようとしているけど、お父さんは難しいと思うよ。上院と下院の議席数も拮抗しているしね……」
青磁と父は、別の難しい話を始めてしまった。
私は食事を切り上げて学校へ出発する準備を始めた。
教室に入り自分の席に着くと、前の席には既に一花が座っていた。出流はまだ来ていないようだった。
「おはよう、白ちゃん。面白そうな本は見つかった?」
「一花ちゃん、おはよう。うん、二冊借りたよ」
私は机に本を取り出して見せた。
「ああ、これネットで話題になってたやつだよね。もともとは配信動画だったんでしょ? こっちは……あ、この漫画、私知ってる。泣けるよね。小説になってたんだ。」
一花は一冊ずつ手に取って、それぞれに感想を言ってくれた。
「もう一冊あるね。この薄い文庫。岩波文庫じゃない。白ちゃん、こういうのも読むんだ?」
「ああ、それは図書室で借りたわけじゃないの」
一花に昨日のレンテとの出来事を説明した。
「そんなことがあったんだ。白ちゃん、いいなあ! 私もレンテ嬢とおしゃべりしてみたかった」
「ええ、いいかなぁ? 私、こんなにバカって言われたことがないからびっくりしちゃったよ。偉そうだし」
「私なんていっつも出流からバカだって言われてるよ。この間も、スマホで写真を送ってあげようとしたんだけど、あいつ、全然知らない海外のアプリを使っているの。海外だとそっちのアプリの方が主流で、プログラマーとかゲーマーはみんなそっちを使ってるって。流行ってるから何も考えずにアプリを使うのはバカだって。思い出してもむかついてきた」
流行っているから……私は自分の事を言われているようで少し胸がちくりとした。
それにしても、出流は私にはそんなことを言わない。一花にははっきりとそう言う。それはなぜなんだろう。
「それにしてもレンテ嬢、やるわね」
一花はレンテの行動を面白がっているようだった。
私は、自分の気持ちを話すことができて、そして一花の反応を見て、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「レンテ嬢、クラスの友達と話している分には、そんなキャラに見えないけどね」
一花は窓際のレンテの席へ目線を向けた。
レンテの姿を視界に捉えて、私は覚悟を決めた。勝手に持ち出したことを謝って本を返すのだ。
「一花ちゃん、私ちょっと行ってくる」
レンテの席の周りには数人の女子が集まっていた。私がそのことに気がついたのは、彼女の席の近くまで来たときだった。本を返そうという気持ちで焦って、周りにまで注意が及んでいなかった。
その子たちは、背が高くてスタイルも良かった。髪の毛やYシャツ、スカートの裾もしっかりと整えられた。おしゃべりの口調もはっきりしていて、行動の一つ一つが自信に満ちていた。
私は、ちょっと苦手な雰囲気を感じた。
奥の窓際にレンテの席があり、彼女はそこでぼんやりと外を眺めているようだった。
レンテにたどり着くには彼女らの壁を乗り越えねばならない、そんな立ち位置になってしまっていた。
「あの……こ、こんにちは……」
レンテに話しかけようとした私は、彼女らの雰囲気に気圧されて、おどおどしてしまった。
おしゃべりが止まり、視線が一斉に私へ向かった。少しの沈黙があって、彼女らはまたおしゃべりを始めてしまった。
「滴石さん……レンテに用があるんだけど……」
私は負けじと言った。レンテはそこで初めて私に気がついたようだった。
女子のうちの一人、目つきの鋭い子が私を見て、「あら」とつぶやいた。見覚えが無いので他のクラスからやってきたのだろう。
「ごめんね、気がつかなくて。滴石さんのお知り合い? お名前はなんて言うの? そう、遠野さん。私たち、今海外の話をしていたの。私は去年の夏休み、二週間カナダにホームステイに行っていたの」
周りの子たちは「良い所ね」、「私はオーストラリアへ」等と口にした。
「やっぱり日本だけしか知らないと駄目ね、海外を見てすごく視野が広がったと思う。今はもう日本でだけ仕事をする時代じゃないし、早い内から海外の文化に触れて、自分らしい生き方のために毎日勉強するのが当たり前よね。ところで遠野さんはどちらへ?」
どちらへ、という聞き方が、「海外へ行ったことがあるのか」という質問だと理解するまで、少し時間がかかった。
「いえ、私はどこにも……」
「そうなの、残念。今は仕事してお金を貯めれば、誰でも外に行けるチャンスがあるからね。早く行けるといいわね。」
残念と言うが、彼女はどこか嬉しそうな表情だった。
「それにしても遠野さん、あなた運が良いわね」
「え?」
「海外に行ってあらためて思ったけど、日本は良い所なの。格差が大きい国だと、小さい頃からプレスクールだもの。高学歴の人とそうで無い人は初めからスタートも違うし、その先のエレメンタリースクールも違うところだから。位の違う人は、一緒の学校に通う機会も、話す機会もないのよね。その点日本は、まだ色々な人が一つのクラスにいられるから、あなたみたいな人も私たちとお話できるんだものね」
周りの子たちもクスクスと笑い始めた。「やだ、かわいそうよ」、等と聞こえた。
私はその時になってようやく、彼女たちから嘲られているのだと気がついた。
あまりの唐突さに私は驚いて、指先が冷たくなるような感覚に襲われた。後ろの席では一花が席を立ち上がる音が聞こえた。私を庇うために飛んできてくれるのかも知れない。私は、何か言うべきなのか、黙っているべきなのかも分からず、彼女らの笑い声を聞いている自分が遠くなるような、地面がふわふわした気持ちになった。
「おい、彼女は私の友人だ。侮辱するのは止めてもらおう」
良く通る凜とした声だった。レンテはゆっくりと、だがはっきりとした意思が感じられるしゃべり方で言った。その声を聞いて、さっきまで揺らいでいた私の足元が、急にしっかりと感じられるようになった。
私に話しかけていた女子たちは静まりかえった。予想外のショックを受けたのか目を丸くしていた。
「あと申し訳ないが、私は自分らしい生き方というものに関心がない。その話がしたいのなら別のところでやって欲しい。……そろそろ先生の来る時間だな。自分の教室に帰った方が良い」
興ざめしたように彼女らは解散した。去り際に何か言っていたが、私には聞き取れなかった。
「つまらない話に巻き込んですまなかったね、白。彼女らも悪気があったわけじゃ無いんだ。少し背伸びをし過ぎただけなんだと思う。気を悪くしないでほしい。昨日の本を返しに来てくれたのかな?」
レンテは私の手に握られた本を見ながら言った。心なしか顔が綻んでいた。
「ごめんね、勝手に持って行っちゃって」
レンテの顔を見ながら、冷たくなりかけた体に温かさが戻ってきたように感じた。
「謝ることじゃないよ」
レンテに本を渡しながら、彼女が大人の考えをしていることを意外に思った。悪気があったわけではない、昨日のレンテもそうだったのかもしれない。
「持って行っちゃったこともそうなんだけど……。あなたが何かを話していたのに、最後まで聞かずに出て行っちゃって。失礼だったと思う」
「私こそ悪かった。少し調子に乗りすぎたよ。白、『読書について』は読んだ?」
「少しだけ。だって、ちょっと難しいよ。読めない漢字もたくさんあったし。こういうの始めて読んだから……感想を言うのは難しそう」
レンテは私の目をのぞき込んだ。いたずらをするような、私を試すような、観察するような、不思議な純粋さに満ちた瞳だった。
レンテは私の顔をまっすぐに見つめて言った。
「白、私と付き合って欲しい」
授業開始前の朝会の時間となり、担任の先生が教室入ってきた。
クラスメイトたちは、荷物をまとめたり椅子の場所を戻したりしながら、自分の席に戻る準備をしていた。
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