第三十八話

 万松柏は目を瞬いた。何を問われたかは分かるが、どう答えたらいいのかが分からない。


「難しく考えなくてもいい。万松柏は、無忌という魔偶をどう思っている?」


 暁晨子はもう一度尋ね、答えを促すように笑みを見せる。万松柏は唾を飲み込むと、ゆっくりと口を開いた。


「俺は……無忌のことを大切に思っています。あいつには返しきれないほどの恩があるし、俺はあいつがしてくれたことをひとつも返せていない。もしこれが恩返しになるのなら、あいつを魔界の支配から解放してやりたいです」


 一言ずつ、言葉を探しながら、胸の内を告白する。今なお魔丹の鎖に繋がれた無忌を思うと、胸を刺すような嫌な不安が湧きおこる――魔界に戻った無忌は今、一体どうしているのだろう?


「初めて会ったはずなのに、妙な安心感があるとは思っていたのです。ですが……俺たちが師兄弟だったとは思いもしませんでした。きっと無忌は全て分かって俺を助けてくれたのです。それなのに俺ときたら、能天気にあいつの好意に甘えるばかりで……どうして何もかも忘れていたのでしょう? あいつの弟弟子だった頃から、俺は助けてもらうばかりで何も返せていない!」


 話せば話すほど、己の不甲斐なさばかりが突き刺さるようだった。人の道を外れてもなお、無忌はかつての弟弟子を守ることに全力を尽くしたのだ。それに比べたら、己は仲間の盾になる覚悟はあるというのに、いつも一歩出遅れる。万松柏の弟弟子も、望遠春の兄弟子も、皆彼を守るために命を投げ打ったというのに、万松柏だけがそれをできずにのうのうと生きている。


 ふと我に返ると、暁晨子が万松柏の背を撫でていた。万松柏は初めて自分が泣きじゃくっていることに気が付いた。


「すみません、師尊――」


「良い。気が済むまで泣くがいい」


 暁晨子は静かに告げて、万松柏の背を優しくさすり続ける。万松柏は嗚咽を漏らすと、そのまま声を上げて泣いた。


「受け入れがたいのはよく分かる。お前は昔から、助けたり助けられたりといったことに人一倍敏感だったからな。だが、忘れてはならぬのは、お前を守った者にとってはお前が生きていることこそが恩返しだということだ。恩を受けた者に同じ恩を返す必要はない――その者の願うところを己が成し、託された務めを全うすることが、彼らに受けた恩を返すことに繋がるのだ」


 暁晨子が穏やかに語る。万松柏が涙に濡れた顔を上げると、暁晨子はにこりと笑って言葉を続けた。


「私たちが望遠春を生き永らえさせるために下した決断をお前に求めることはしない。ただ、私たちが何を望み、何を願ってそうしたのかを、忘れてはいけない」


「……はい、師尊」


 鼻をすすりながら答えると、暁晨子は万松柏の背中をぽんと叩いた。


「ではもう一つ聞こう。遼無忌が望遠春を――かつてのお前をどう思っていたかは、知っているか?」


「無忌が、俺を? 弟弟子ではなくてですか?」


 何気ない調子で尋ねた暁晨子だったが、万松柏は途端にどきりとした。先ほどあえて言わなかったことを見透かされているように思えてしまう。


「そうだ。無忌が今もお前を大切にしているならその想いは変わっていないし、魔の性が情に直結していることを考えると、むしろ分かりやすく露見するはずだが……お前が望遠春だった頃からの想いだが、気付かなかったのか?」


「……まさか師尊、俺たちが情侶だったと仰るのですか!?」


 思わず口を突いて出た言葉に、暁晨子がしたり顔を見せる。万松柏は真っ赤になって両手を口に当てた。


「すると、無忌は上手く隠し通していたのだな。とはいえこればかりは師兄にも内密に、私にだけ打ち明けてくれたことなのだが」


 先ほどまで申し訳なさでいっぱいだった胸が、今度は羞恥心で弾けそうだった――あの夜を経てもなお、無忌とは情侶でないと言い切れる自信が全くない。


「覚えていないか? 望遠春が野外訓練の最中に毒蛇に噛まれたときのことを。無忌が傷口から毒を吸い出し、薬草で手当して、訓練場から仙府まで連れ帰ってきたのだ」


 暁晨子の言葉を聞いているうちに、知らない記憶がぼんやりと浮かび上がってきた。まだ十代だったころ、無忌と二人で訓練場を歩いている最中に、茂みから飛び出した蛇に足を噛まれたのだ。血相を変えた無忌に手当され、背負われて仙府まで帰ったのをなんとなく思い出してきた――とはいえ、怪我をした望遠春自身の記憶はそんな呑気なものではない。包帯で縛られた足は痛みと熱を持っているのに全身は猛烈な寒気に襲われて、吐き気と眩暈に必死で耐え、それでも一度ならず下ろしてもらって草陰に吐いたのを覚えている。


「……ですが、あのときはそれらしいことなど何もなかったはずですが? 仙府で毒消しを飲んでからは医務室でずっと寝ていましたし、無忌も鍛錬があったからそう頻繁には会いに来なかったですし……」


 そこまで言って、万松柏はあることに気が付いた。禁を犯してまで万松柏の身を気遣う無忌が、病床の弟弟子の見舞いに来ないはずがない。


「実は、お前が運び込まれた夜、消灯時間をかなり過ぎてから無忌が私の寝室に来てな。ひどく泣き腫らした目をしていたから何があったのかと思ったら、心中の魔に屈してしまったので私を罰してくださいと言う。何事かと思って話を聞いてみると、隣のお前の寝室が空なのが寂しくてつい忍び込んでしまい、そのまま自慰をしてしまったのだと」


 万松柏はなんとなくこのときの無忌の気持ちが分かる気がした。抑えて然るべき感情に流されてしまったことを猛烈に後悔し、かといって直接の師に告白するのもはばかられ、迷いに迷った挙句叔父弟子の暁晨子を訪れたのだろう。


「ただでさえ恥ずべき感情を弟弟子に対して抱いてしまったことにひどく動揺しているようだった。その夜は落ち着かせてから部屋に帰したが、そのあと遠春の見舞いに行っていないあたり、ひどく落ち込んでいたのだろう。これは師叔だった私の憶測だが、自分自身に対してひどい失望と落胆があったのだと思う。あの夜を境に、無忌は過剰なまでに禁欲的になった。同輩や後輩には気取られないようにしていたが、私たちから見れば一目瞭然だったよ」


 ふと、万松柏の胸がつきりと疼いた。一抹の寂しさのような、不満のような疼きだが、不思議と知っているような気がしてならない。

 それは、当時望遠春が抱えていた感情だった――万松柏はすぐにそれを悟った。同時に、ほの暗いような、恥ずかしいような衝動が胸中を渦巻いていたことも思い出した。


 望遠春もまた遼無忌の変化に気付いていた。そしてそれを寂しく思い、もっと無忌が欲しいと感じていたのだ。


 しかし、そのことに気付いてもなお、望遠春は知らないふりをして遼無忌に接していた。ついぞ届かなかった想いはふたをされて万松柏に受け継がれ、万松柏が気付かないうちに実を結んでいたのだった。

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