第三十六話
白凰山を下り、東に歩くこと一週間。
万松柏は比連を連れて白凰仙府から一番近くにある仙府、
浄蓮仙府は最古の仙府とも呼ばれており、湖の上に建てられている。常に咲き誇る蓮花のただ中に突如現れる水上の仙府は、さながら桃源の園のようだ——加えて地脈の加護も厚く、千年に渡って霊気の清さを保っている。かつてはその美しさと神聖さから
地元の船頭は仙府への客を運ぶことに慣れているらしく、万松柏が行き先を伝えてもあまり疑問を抱いていないようだった。それでも子どもを仙府まで運ぶのは珍しいらしく、比連にじっと視線を注いでからこう尋ねてきた。
「この子どもも、仙府まで運ぶんですかい?」
「むしろこの子を運ばないといけないんだ。それが私の任でね」
久しぶりに袖を通した仙師の装束は往時の風格を万松柏に与えている。暁雲子が鍛錬の際に着ているものだが、浄蓮仙府に行くなら薄汚れた格好の伏魔師よりも良いと言って貸してくれたのだ。比連はいつもの出で立ちだったが、それでも短袍は繕われ、身だしなみも小綺麗に整えられている。これで旅装束の仙師とその弟子に見える、暁雲子はそう言って二人を送り出した。
「白凰仙府が堕ちてからひと月半になる。浄蓮仙府に行けば何かしら消息が掴めるだろう……無忌が白凰仙府の生き残りと交戦したというなら尚更だ。君の弟弟子がどのような判断を下したにせよ、全員が少なからず傷を負っている状況では、まず浄蓮仙府を目指すはずだ」
万松柏は暁雲子の言葉を頭の中で反芻した。あのとき全員の退避を指揮していたのは沈萍だったが、石橋を叩いて渡る性格の沈萍ならなおのこと、一番近い仙府を頼らないわけがない。
「なあ、船頭さん」
万松柏は船頭に声をかけた。
「最近、他の場所から来た仙師が大勢湖を渡ったことってあったか?」
市井の情報網は意外と侮れないものだ。もしかしたらと思って尋ねた万松柏だったが、船頭はすげなく首を横に振った。
「いんや。そんな話は聞かねえな」
「そうか……ありがとう」
万松柏は笑顔を作って礼を言ったが、胸中は不安でいっぱいだった。沈萍たちが人目を避けて動いたのか、あるいは暁雲子のあてが外れたのか——気を揉んでも仕方ないとはいえ、皆が心配でたまらない。何より、転送術で逃した暁晨子は今どうしているのだろう?
ふいに比連がわっと声を上げた。万松柏がつられて目線を上げると、船がちょうど敷物のような蓮の葉を掻き分けて進んでいるところだった。
「花の頃になると、そりゃあもう見事なんだがな……そら、あれが仙境だわ。荷物まとめて、降りる準備をしておくんなせえ」
船頭が指差す先には、堂々たる大門がそびえている。手前の船着場も驚くほど広く、鍛錬場に使えそうなほどだ。
万松柏たちを降ろすと、船はさっさと向きを変えて帰っていった。万松柏は走り回る比連を手招きし、門に向かってまっすぐ歩いていった。
槍を持った弟子が二人、門の両脇を守っている。万松柏と比連が近付くと二人はさっと槍を構えたが、万松柏は気にせず歩み寄ってこう告げた。
「私は万松柏。白凰仙府の暁雲子より、離散した仲間を探すよう言いつかっている。どうか貴府のご助力を賜われないだろうか」
***
浄蓮仙府はどこも風通しがよく、様々な彫り物がされた透かし窓に彩られている。二人が通された応接室は一際嗜好を凝らした一室で、中原一歴史ある仙府としての自負と重責がこの部屋に凝縮されているのではないかとさえ思えるほどだ。おまけにどこにいても蓮花の上品な香りが漂っていて、本当に別世界に来てしまったようだ。
落ち着きなく動き回る比連を座らせ、茶と菓子でなだめていると、古雅で風流な空気とは似つかない足音が遠くから聞こえてきた。誰が走っているのかと訝しんだのも束の間、観音開きの入り口が片方だけ、跳ね飛ばされるように開けられた。
「……大師兄!」
「沈萍! 無事だったのか!」
息せき切って現れた沈萍は片腕を吊っていたが、怪我をものともしない勢いで万松柏に向かって突進してきた。思わずたじろいだ万松柏をまじまじと見つめると、沈萍は涙混じりに嘆息した。
「本当にもう……無事だったのかはこちらの台詞ですよ! ……皆、あなたが生き延びていたとは……襲撃の際に師尊をお守りして……」
「分かった、みなまで言うな。心配かけてすまなかったな、師弟」
沈萍は腰が抜けたようにふらりと椅子に座り込んだ。比連がおそるおそる様子をうかがっているが、それにも気付いていない様子だ。
「皆は無事か? 師尊は?」
「無事逃げられた者は皆息災です。師尊も、万全とは行きませんがかなり回復されました」
沈萍は自由な手で乱暴に目元を拭うと、真っ赤な目で万松柏に向き直った。
「このひと月は浄蓮仙府にて、皆の回復と被害の確認に務めておりました。務めに殉じた者たちの弔いは済ませましたが、白凰仙府の復興までは至っておりません」
「……おい、まさかとは思うが、俺の弔いまでしたんじゃないだろうな」
万松柏の中でふと嫌な予感がした。が、口に出した途端に沈萍が眉を釣り上げる。
「そんなはずないでしょう! 葬儀を行ったのは遺体と身分の照合ができた者だけです。遺体もない、そこにいた証拠もないあなたをどうやって弔えと言うんですか⁉︎」
万松柏は思わずぷっと吹き出した。馴染みの顔がいつも通りに接してくれることに安心を覚えたのだ。
むっと眉間にしわを寄せる沈萍に、万松柏は手を振って謝った。
「悪かった、この話はもう仕舞いだ。心配をかけたな」
「本当ですよ。指の一本でも残されていれば、あの場であなたも殉死者に数えていたところです」
沈萍は目を逸らせてぶつぶつと呟いた——万松柏はその様子にまた口の端を持ち上げた。焼け跡に万松柏の遺体がないことに誰よりも期待を寄せていたことを悟られまいとしている沈萍という弟が、いつになく頼もしく感じられたのだ。
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