第十七話
時間も分からない暗闇の中、万松柏は規則正しく上下する無忌の肩に頬を預けたままぶうたれることしかできなかった——それでも、無忌の寝息につられてか、だんだんと気分が落ち着いてきて眠くなってきた。このまま寝てはいけないと思う反面、いつになく心が和らいで、すぐにでも目を閉じてしまいたい気分にも襲われる。ここまで安心できたのは、子どもの頃——それも仙門に弟子入りする以前のことだ。
あの頃は、万松柏が怖い夢を見て起きてしまうと、両親が二人揃って慰めてくれた。白凰仙府に移ってからは、夜中に家が寂しくて泣いていると、決まって暁晨子が寝かしつけてくれた。だが、暁晨子が新しい弟子を迎えて万松柏が年長者になると、逆に自分が彼らの寂しさを和らげる側になった。その頃には仙府の暮らしに慣れていたのもあるが、幼心に弟たちを放っておけなかったのだ。
不思議な心地がした。無忌とはつい最近知り合ったばかりなのに、なぜ一緒にいると安心するのだろう。敵同士だというのに、なぜ無条件に背中を預けてもいいと思えるのだろう。無忌もそうされることを望んでいるように思えるし、彼といると自分が宝物か何かになってしまったような心地がする。
不思議だったが、この安らぎに浸っていたい自分はいる。無忌の腕の中こそが自分の居場所だと、まるで最初から知っていたかのようだ。
考えても分からず、おまけに睡魔が容赦なく襲ってくる。万松柏は必死に瞼を持ち上げて耐えていたが、とうとう目を閉じてしまった。
次に目が覚めたとき、万松柏は布団の中に戻されていた。飛び起きて部屋を見回すと、戸口の椅子に無忌の姿はなく、代わりに隣の浴室から水音が聞こえる。なんだ湯浴みかと胸を撫で下ろし、万松柏は寝台を降りて浴室に歩いていった。
「無忌……」
呼びかけて中を覗いたところで、万松柏はぎょっと立ち止まってしまった。扉が閉められているのかと思いきや全開になっている向こう側に、逞しい肢体を惜しげもなく晒す無忌がいたのだ。しかも無忌は万松柏がやって来る声を聞きつけており、二人はばっちり目が合ってしまった。
「——っす、すまん!」
万松柏は慌てて体ごと目を背けた。しかしどういうわけか、無忌の冷静な足音がこちらに向かって近づいてくる。怪訝に思って目だけで後ろを見ると、腰に布を巻いた無忌が万松柏を抱きしめるところだった。
あっと思う間もなく、水気の残る無忌の腕が肩に回される。力強くもきつすぎない抱擁だったが、その腕は冷え切っており、万松柏はようやく無忌が湯浴みではなく水浴びをしていたことに気が付いた。
「無忌……?」
万松柏が恐る恐る声をかけても、無忌は大きく息をついただけで答えない。さてどうしたものかと考えあぐねていると、無忌がぽつりと言った。
「出撃」
注意していないと聞き取れないほどの声だったが、万松柏にとっては霹靂のような一言だった。無忌が出撃する先といえばひとつしかない。
「……どこに?」
尋ねる声が力なく震えている。聞き返す間にも吐き気が湧き上がり、万松柏はぐっと堪えなければならなかった。
「分からない。行き先は閻狼摩次第だ」
淡々と語られる言葉の裏に、行きたくないという強烈だが空虚な願望が透けて見える。こんなに非力な声で喋るのかというほど無忌は打ちのめされていた——あるいは、絶対服従という魔偶の本能を恨んでいるのか。
「すまない」
弱々しく謝る無忌に、万松柏は返す言葉がなかった。本当に何も言うことができなかった——これから自分の仲間を大勢殺しに行く相手を肯定することはできないし、否定するのも無忌の苦悩に追い討ちをかけるだけだ。
「早く行かなくていいのか」
代わりに万松柏はこう尋ねた。無忌は小さく首を振って言った。
「時間がある。お前といると、元に戻る」
「……分かった」
万松柏は頷くと、無忌の気が済むまでじっとしていることにした。
やがて、無忌は何かに操られるように万松柏から離れた。無忌は内功を使って長い黒髪を一気に乾かし、黒衣をまとってさっさと出ていった。
***
無忌はしばらく帰ってこなかったが、代わりに閻南天が部屋に顔を出すようになった。
表向きには無人の部屋に勝手に出入りして魔界にばれないかと問うと、閻南天は軽く笑って言った。
「大丈夫、これでも言うことを聞かせる側だから。それより君はどう? あいつがいなくて寂しくない?」
「そんなわけあるか。むしろ敵がいなくて清々するね」
万松柏はあっけらかんと言い放った。こと魔界の将軍の身内相手に素直に答えて、無忌に累が及ぶことは避けたかった。
対する閻南天はさして興味のなさそうな声で「ふうん」と答えただけだった。まるで敵中で万松柏がボロを出すわけがないと分かりきっているような態度だ。
「でも、唯一の味方が結局君のお仲間を殺しに人間界に行ってるなんて無情だよねえ。それに君だって、兄さまの命令ひとつで消されてもおかしくないのに」
ふと、あどけない笑顔に暗い影が差した。しかし万松柏が思わず身構えると、閻南天は一転して
「ごめん、怖がらせるつもりじゃなかった」
と申し訳なさそうに笑う。
「何かあったのか?」
万松柏が尋ねると、閻南天は「ちょっとね」と眉を下げる。
「僕も本当は兄さまの隣に立って戦いたいんだけどね。でも医術の知識しかない奴はいらないって言われて」
「そうなのか? 医術がなければ話にならないだろうに」
閻南天の意外な言葉に、万松柏は思わず聞き返してしまった。閻南天も何でもないような口調で「昔はね」と答えた。
「昔は僕ら魔族も、人間と同じように訓練を積んだ兵が戦に出ていたんだ。だから戦には医師が必要だったし、知識と功力に優れた名医が何人もいた。捕虜を魔化して取り込むこともあったけど、あの頃はどちらかというと作戦のひとつとしてやっていたんだ。囚われた仲間が魔化されて歯向かってきたら誰だって動揺するからね。でも人間界への侵攻が長引く中で人間が力を付けてきて、魔界は思うように勝てなくなった。そこで皆が目をつけたのが、この捕虜を魔化する作戦だったんだ」
「……なるほどな、そこで魔化された兵士を大量に作ろうってことになったのか。不要になったら切り捨てれば、戦に医師は必要なくなる」
万松柏はいつしか閻南天の話をのめり込むように聞いていた——たしかに仙門で習う戦いの歴史でも、初期の魔界は個々の将軍や兵卒の存在が大きかった。それが魔偶の一団とそれを操る軍師に変わったのは、どちらかというと最近のことだ。
そして閻南天も、熱心な聞き手に応えるように言葉を続ける。
「そういうこと。僕はちょうど魔界が方針転換を決めたあたりに生まれたんだ。当時はまだ戦場に同行する医師が必要だったから、僕もそうなりたいと思って勉強していたよ。だけど、僕が医師として働き始めたときには、魔丹を大量に作って大勢の捕虜を魔化する方法——魔偶を使った戦術が確立されていた」
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