第十六話
その夜、万松柏は眠れなかった。まるで自身の心の暗部に触れられたような居心地の悪さにさいなまれ、何回寝返りを打っても追い払うことができなかった。
「……なんであんなこと聞こうとしたんだ? 俺は」
——昔、大切な人がいたのか?
独りごちても何の解決にもならず、無忌に聞こうとして結局やめた一言が脳裏を延々と巡っている。同時に、いたに決まっているだろう、俺の髪の拭き方を見りゃ分かるという声が頭の中で反響していた。
その夜、万松柏は久しぶりに夢を見た。
仙師時代の夢だった。白凰仙府の鍛錬場で、万松柏は一人剣の套路を練習をしていた。
精神を統一し、練り上げた内功を全身の隅々まで行き渡らせ、指先からなお伸びる鋭い切先の軌道に集中する。ひとつひとつの型を決めるたびに白い袖が舞い、短い裾が踊る。何てことはない、あの頃のいつもの光景だ——しかし、軽く砂埃を巻き上げて大きく踏み込んだとき、万松柏は勢い余って転びそうになってしまった。
あっと思ったのも束の間、よろけた体はすぐに誰かに支えられる。沈萍かと思い、軽い調子で「すまん、ありがとうな」と言った万松柏だったが、無言のままの相手を振り返った途端にどきりと目を見開いた。
「無忌……⁉︎」
名を呼んでから、万松柏は無忌の様子がいつもと違うことに気が付いた。万松柏と同じ仙師の装束を着、黒髪をきっちりと結って真面目そうな額をあらわにしている。顔つきはきりりとして男らしく、魔偶の彼よりも明るい印象を受ける。何より、目の色が違った——誠実そうな暗い鳶色の瞳は金色のそれよりも柔らかく、温かみを持っている。射抜かれるような、抱かれるような不思議な視線とじっと見つめ合いながら、万松柏はなるほどこれが人間だったときの無忌の姿かとどこか冷静に納得していた。
「大丈夫か」
発された言葉はしかし、いつもの無忌の無機質な口調のままだ。万松柏は苦笑いしながら体を起こし、
「ああ。ありがとう」
と答えた。
「この剣譜の特徴は速さだが、勢いだけは禁物だ。勢いをつけて威力を補おうとしたり、速さそのものを出そうとすると今のように破綻する」
無忌はそう言うと、剣を貸せと言うように手を伸ばしてきた。万松柏が手の中に柄を置くと、無忌は流れるように剣を構えた——その所作の美しさときたら、万松柏の師の暁晨子にも引けを取らないほどだ。
「私も同じところでつまずいたが、勢いに頼らずに速さと威力を出すことはできる。それこそがこの剣譜の真髄——すなわち剣に一切を委ねることだ。自分は剣を動かすだけでいい。あとのことは全て剣がやってくれる」
無忌はそう言いながら套路を演じ始めた。万松柏はその様子に目を見張った——慣らすように軽く剣を振っているだけだというのに、剣が恐るべき速度で無忌の周囲を回っている。その上切先が空を切るたびに、一歩でも踏み出せば餌食にされそうな殺気が肌をかすめていく。万松柏は気付けば一歩後ろに下がっていた。万松柏も伊達に八十年も武功を学んではいない——無忌がかなり加減していて、普段の三分の一の力しか出していないことは一目で分かった。それでも本能的に下がってしまうほど無忌の剣は強かった。本気でこられたらと思うと背筋がすっと寒くなる。
無忌はひととおりの動きを演じ終えると、剣の柄を万松柏に差し出した。万松柏は剣を受け取ると、深呼吸をしてから一番最初の構えを取った。
「違う」
即座に無忌が声を上げる。何が、と思って振り返ると、無忌はもう一度構えを取るよう言ってきた。
「この時点ですでに力が入りすぎている。無駄な力を抜いて、内功の動きに意識を向けろ」
無忌は言いながら万松柏に歩み寄り、体に軽く触れて細かな調整を施しはじめた。温かく、安心感のある手が肩の高さや膝の角度を正していく間、万松柏は自然と身構えていた心が落ち着いていくのを感じた。
万松柏は無忌に言われるまま、套路をそのままゆっくり演じた。無忌に姿勢を直されながら全ての動きをさらったところで、無忌はようやく元々の速さでやってみろと告げた。
二回目は、不思議と気分が落ち着いていた。一回目のように身構えずとも、剣が体を動かしてくれるという確信が生まれている。万松柏は目の前の空間に意識を集中させると、鋭い気合いとともに剣を突き出した——
目が覚めたとき、そこは暗い部屋の中だった。蝋燭も燃え尽きて真っ暗な中、耳を澄ますとかすかな寝息だけが聞こえてくる。無忌が戸口の椅子で寝ているのだ——万松柏はそっと布団から出ると、うすぼんやりと見える家具の影を避けながら寝息の方に近づいた。
足音を忍ばせて間近に歩み寄っても、無忌は起きる気配がない。よく寝るなあと感心する一方で、人を寄せ付けない彼の無警戒な姿に悪戯心が湧いてしまう。
万松柏は顔をかがめて目線を合わせると、「無忌」と小声で呼んでみた。
「無〜忌〜。椅子でなんか寝るなよ。風邪引いたって知らないぞ」
吐息がまぶたにかかるほどの近さで、万松柏は無忌をからかう。夜半、文机で居眠りしている沈萍を起こすのによく使う手だったが、果たして無忌にも効果はあった。
ふいに寝息が乱れ、金色の目が半分ほど開いた。万松柏はしめた、と口の端を引き上げた——その瞬間、屈強な腕が二本腰に巻き付いたかと思うと、万松柏はがばりと抱き寄せられていた。
「うわっ⁉︎ 無忌、何するんだ!」
驚いたのも束の間、無忌は万松柏を抱きしめたままゆっくりと目を閉じる。
「……危ない……」
呂律の怪しい声でそう呟いたきり、無忌はまたすうすうと寝息を立ててしまった。
「は⁉︎ おい、俺は立ちっぱなしなのかよ、って、おい、無忌! 起きろ!」
万松柏が慌てて腕を叩くと、無忌は再び眠そうな目を開けた。が、目があったと思った途端に、無忌は万松柏の体をさらに抱き寄せる。逆らうに逆らえず、万松柏はそのまま無忌の膝の上に乗り上げてしまった。
「……これでいい……どこにも、行く……な……」
寝言のように呟いたきり、無忌は再三眠りに落ちていった。万松柏は途方に暮れた——腕を叩けど肩を揺すれど無忌は一向に起きず、膝に座らせた万松柏をぎゅっと抱いたまま熟睡しているのだ。
「……あーもう、寝汚い奴め!」
仕方なく耳元で悪口を言ってやったが、それでも無忌は起きなかった。
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