第二話

「ふあッ——ああ——ふう……」


 大きく口を開け、両腕をぐっと伸ばして背中を持ち上げ、吐息とともに下ろすとえも言われぬ心地良さがやって来る。野ざらしの生活は大変だが、どんな立ち居振舞いも咎められないことだけは良いことだと万松柏は思っていた。


 着古した麻の短袍に上衣と帯。布靴もぼろぼろに擦り切れて今にも爪先から破れそうだ。仙師だったころと同じように丸く髷を結った頭は遠目には艶があるように見えるが、少しでも近寄ればあまりに洗っていないせいでカチコチになっているだけだと気づく。うなじも顔もドロドロで、十日は風呂に入っていないのではないかという汚れっぷりだ――誰がどう見ても浮浪者だが、これでも万松柏は伏魔師として新たな暮らしを始めているのだ。


 左右ののぼりには「妖魔鬼怪退治します」「風水、八卦占います」の文字、そして地面には「一家に一枚辟邪へきじゃの符 その他お守り 販売中」の紙切れ。ござの上には売り文句のとおりに数々の護符や道具が並んでいる。唯一壁に立てかけた細身の長剣だけがかつての身分——仙門で修行を積んだ元一流の仙師という彼の肩書きを証明するものだ。とはいえ、他のぼろ道具に囲まれては、かつての威光も風采も形無しだ。それでも仙師として身につけた技以外に売れるものがないのだから仕方がない。



 一か月前のあの日、燃え盛る街で魔偶を助けたことが原因で、万松柏は仙門を追われてしまった。護身用の剣と路銀だけを持たされて着の身着のまま蹴り出されたのだ。しかも市井の人々にとっては仙師は雲の上の人——そしてそれは仙師にとっても同じだった。いきなり雲の下で生きろと言われても、勝手など分かるはずもない。早くも己の常識の無さを思い知らされた万松柏はしかし、諦めるのも早かった。


 万松柏は元仙師の肩書きをきれいさっぱり捨て去った。手始めに路銀で古道具を買い集め、羅盤やら護符やらを並べた即席の露店を開いた。そして格式ばった仙師の校服を古着屋に売りつけ、今の格好をタダで手に入れたのだ。


「これはとある仙人様が仕立てた特別な一式なんですよ。どんな呪詛でも防いでくれる優れもの、魔物の攻撃からだって守ってくれます! こんな品滅多とないですよ。それをタダでって言ってるんだから、こんなにいい話はないと思いますけどね。どうです? こちらの衣と交換してもらえませんか?」


 ……俺、意外と商売の才能があるんじゃないか? 


 根負けした店主が校服をひったくり、肩を怒らせて帰っていくのを見送りながら、万松柏は密かに自信をつけたのだった。



 しかし現実は甘くなかった。屋台はほとんど流行らず、日に一回食事ができるかどうかも怪しいくらいの稼ぎしかない。持たされた路銀も底を付き、腹が鳴るのを瞑想でごまかす日々が一週間は続いている。


 今日も屋台は閑古鳥が鳴いている。それでも万松柏は笑顔で声を張り上げ、道ゆく人々に呼びかける。


来来来さあ寄った寄った、魔除けのお守りはいかが? 白凰山びゃくおうさんの仙人様もお墨付きの正真正銘のお札もあるよ!」


「家に鬼が出て困っているなら是非ご相談を! 在下わたくしは正統な修行を積んだ伏魔師です。腕は確か、知識も豊富、人は見かけによりませんよ……」


「そこのお嬢さん、占いはいかがです? 今なら特別に三文で、知りたいことを何でも教えますよ。……ああお兄さん、もしや科挙の試験をお控えで? よろしければ結果を占いましょうか……ああ、あはは……それはごもっともで……」


 無視されるのは平気だが、罵詈雑言や軽蔑が返ってくるとさすがに堪える。最後に声をかけた男に「まずはお前が書院に行け」と言われ、万松柏は苦笑いでごまかすことしかできなかった。仙師の校服では邪魔者扱い、市井の格好では馬鹿にされるとなると、もはや裸になるしかないじゃないかと思えてくる。


「まあ仕方ないよなあ……もとより詐欺師の多い商売だ、真に受ける奴の方が少ない」


 万松柏はため息混じりにぼやくと、両手を頭の後ろに組んで壁にもたれかかった。魔偶のような目に見えて危険な手合いはむしろ例外で、ほとんどの妖魔鬼怪は人間の前に姿を見せないものだ。それにつけ込んで荒稼ぎする者が多いことは修行者でなくても知っている。


 ふと、チチチ……と胸元で鳴き声がした。万松柏が体を起こすと、襟の合わせから黒い頭がひょっこり顔を出す。闇を鳥の形に切り出したようなそれは、くるりと丸い金色の目で万千秋を見上げ、もの言いたげに瞬きをした。


「ああ、比連ひれん。どうした?」


 頭を撫でて呼びかけると、比連はもぞもぞと羽を動かして万松柏の腹をくすぐった。万千秋が笑いながら身をよじる合間にも比連は懐から抜け出し、片腕を吊った少年の姿に早変わりした。


「おじさん、おなかすいた!」


 元気よくはねる短髪に、万松柏と似たり寄ったりの貧しく汚れた身なり。感情の読めない金色の目は丸くて大きく、そこはかとなく人を不安にさせる黒い気配を漂わせている――この少年は、あの日万松柏が助けた魔偶だった。魔偶を密かに連れて帰った万松柏は、三日三晩の格闘の末に、彼の邪気をできるだけ取り除き、力の元となる魔丹を封印することに成功したのだ。比連と名付けられたこの少年は修行中の妖鳥のようで、鳥と人の姿を行き来することができる。とはいえ彼を隠しきれなかった万松柏はあえなく追放されてしまい、一緒に行き場を失くした比連ともどもその日暮らしを送っているのだが。


「おじさんはやめろ。これでも見た目には二十代の帥哥イケメンなんだぞ?」


「でもほんとは九十歳。おじさんじゃない、おじいさん」


 魔丹は持ち主の意識を蝕むため、比連は片言でしか話さない。それでも万松柏は鳩尾に拳を入れられたような衝撃を受けてよろめいた。


「八十五だ! この五年は大きいんだからな!」


 大人げなく言い返すと、比連は「おじいさん、おじいさん、おじいさん」と抑揚のない声で繰り返す。万松柏は「コラ!」と言ってたしなめつつも、比連の腹がクルル……と鳴るのを聞いてまた肩を落とした。


 自分は別に構わないが、この子を飢えさせたままにはできない。魔偶とはいえ、比連は戦火の中で怪我をして取り残され、一人怯えて泣いていた孤独な子どもなのだ。万松柏がこの世で最も見逃せないものが窮してもなお助けられない小さく弱い者たちだった。魔偶であろうとなかろうと、手を差し伸べるのが仁義というものだ。


「……すまんなあ、比連」


 だがこの状況では、助かるものも助けられない。意気消沈する万松柏を比連はじっと覗きこんでいたが、やがてぷいっと背を向けると、人混みの中へ駆けだしてしまった。


「たべもの!」


 比連のつたない声が雑踏の中から聞こえてくる。万松柏は重い腰を浮かせてもう一度伸びをすると、そのあとを追って一歩踏み出した。


 そのときだった。

 ドオン――どこからか地響きのような音が聞こえ、衝撃で地面が揺れる。皆が驚き立ちすくんだ次の瞬間、この世の終わりのような絶叫が上がった。

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