魔偶と越界の想い人
故水小辰
第一章:邂逅
第一話
燃え盛る通りで、万松柏は悲鳴を聞いて足を止めた。
どちらかというと獣のような、しかし助けを求めているとすぐに分かる切羽詰まった叫び声だ。万松柏は煤けた校服の裾を翻してすぐ脇の路地へと身を躍らせ、炎も煙も顧みず悲鳴の方へと駆けだした。
白衣勝雪、雪よりも白い仙師の装束は何者にも穢されない仙師の心の表れとされる。しかしこの仙師、万松柏は、自らが良しとするならそれを泥まみれにすることも厭わない男だった。
見た目には二十代の若者で、年相応にはつらつと輝く黒目をしている。厳格さよりも人懐っこさを覚えさせる顔立ちで、決して偉丈夫というわけでもないが、その立ち姿からはどこか
右も左も炎に飲まれた通りを見回す間にも、けたたましい悲鳴が上がる。万松柏は、どこかで崩れる家屋の轟音に負けないよう、腹の底から声を張り上げた。
「大丈夫だ!すぐ助けるからな!」
言い終わらないうちから背中に渡した細身の剣を抜き、渦巻く炎を方術で吹き消して道を開く。さらに内功を込めた剣で瓦礫を斬り払り、奥へ奥へと進むこと一香柱足らず、ぽっかり空いた空間にその生き物はいた。
それは子どもくらいの背丈で、だらりと垂れた腕を押さえてべそべそ泣いていた——闇に染まり切った小さな身体、そのから発せられる紛れもない邪気に、凶暴そうな長い爪。ぎらつく金色の瞳が悲しげに寂しげに、ぽっかりと薄暗がりに浮かんでいる。
しかし――。
万松柏は立ちすくんだまま魔偶と見つめ合った。ギャア、ギャアと叫ぶ魔偶の声が頭を揺さぶり、嫌な動悸を起こさせる。
この魔偶はおそらく子どもだ。しかも大怪我を負っている。このままでは逃げられずに焼け死んでしまう――しかし魔偶である以上、これを見逃すとどんな災厄が起こるか知れたものではない。
万松柏は乾いた喉で生唾を飲み込み、手の中の長剣を握り直した。チャン、と澄んだ音がして、清水で鍛えられた剣身が青く鋭い光を放つ。魔偶は一声鳴いてうずくまり、自分自身を守ろうとするかのように全身を抱えて震え始めた。
——怯えている。
そう悟った瞬間、万松柏は剣を背中の鞘に戻した。そして魔偶に話しかけた。
「……怖かったな。でももう大丈夫だ」
じゃり、じゃりと粉塵を踏みつけるごとに魔偶が万松柏を威嚇する。しかし万千秋は魔偶に歩み寄ると、しゃがみ込んで小さな身体を撫でてやった。
「痛かったな。寂しかったな。でもよく頑張った。お前は強い子だ……大丈夫、安心しろ、俺がここから助けてやるから。な?」
遠くの方で、また家が崩れる音がした。すると魔偶は怯えた声を上げて万松柏に縋りついた。
万松柏は小さな魔偶を抱き上げると、急いでもと来た道を引き返した。
***
数刻が経ち、火の海と化した街を憐れむように雨が降り出した。生糸のように細い銀色の線が次々と落ち、恐怖と悲しみを洗い流すように炎を消していく。
煙と雨の中で徐々に姿を現す廃墟の中、黒い影が何かを辿るように動いていた。不自然に焼け残った建物や切断された瓦礫を、まるで一本の線をなぞるように追いかけていた影は、ぽっかり空いた空き地で足を止めた。
影はしばらくそこに佇んでいた——まるで長らく忘れていた大切な何かが目の前にあって、それが雨に流されて消えていくさまを見ているかのように、その場にじっと立ち尽くしていた。
やがて誰かに呼ばれたような仕草を見せて、影はさっとかき消えた。
あとには、この空き地で起きた一連の出来事を覆い隠すように静寂だけが広がっていた。
***
——それからひと月。
のどかな日差しが屋根の瓦を照らす午後、万松柏は軒先に敷いたござの上で大きく欠伸をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます