冬を歩く
ナナシマイ
1 箱と鍵
ずっと、心の収まりが悪かった。
自分の心を入れておくための箱はとても小さくて、それなのに、たったひとつぽっちの私の心は形が合わなくて、ころりと転がり出てしまう。丁寧に丁寧にやすりをかけてみても、心はただ摩耗していくだけで、なんの助けにもならなかった。
試しにと他の誰かの心を入れてみたこともあったけれど、箱はガタガタと歪んでしまったし、そんな軟弱な箱に入れられてしまった誰かの心も、とても疲れたように崩れていった。
いつかの、自分や、大切な人たちの心を並べてはうっとりしていた私は、もういない。
とっておきの砂を散らしたような星空に、吐く息が溶け混ざる。
……今年も、やっと、終わる。
わずかに持ち上げた口角が湿り気を感じた。生きた人間の息は温かい。それでも、鼻を通る空気はつんと鋭く、涙がにじむ。
青白い星の光が、さらに潤む。
この季節だけは、年末の慌ただしい、どこか浮き立つような空気のなかに紛れることができる。たとえまやかしであったとしても、それは真実、今の私にとっての救いなのであった。
ざむりと編まれたマフラーに顔をうずめる。
お気に入りの柔軟剤のよい匂いがして、だけど、心は休まらない。
ああ、今年こそ、この香りを手放すつもりだったのに。
大切なものがすべてあったあの場所と、同じ香り。ほっとするような柑橘に、清涼な花の香をくゆらせたような。
おくれ毛みたく飛び出た毛羽立ちが、鼻をむずむずさせる。やっぱり涙がにじむ。
遠いネオンサインのもとで交わされる喧騒が、また、遠くなる。
私だって、そちらへ行きたいのに。
紛れても、紛れても、私の箱は、ネオンサインの賑やかな光にも、路地裏に落ちるひそりとした影にも、馴染まない。だからずっと、ぽつりとしている。
大切なものを入れていたのなら、鍵をかけておけばよかったのだろうか。そんなふうに考えて、何度も、それは違うと首を振った。
鍵をかけてしまえばきっと、息苦しくてたまらなかっただろう。
誰もが自由に開けられて、中に並んだ私の大切が綺麗に光るのが、よかったのだ。……自慢の、箱だった。
締めつけるように、マフラーを巻きなおす。
望んではいけないものを、望んでしまわないように。
欲しくて欲しくてたまらないものに、手を伸ばしてしまわないように。
小さくなってしまった私の箱は、もう、自分の心を入れるので精一杯だ。両手で抑えて、なんとか箱の体裁を保っている。
……もしかすると、私は、よくない答えを選べる人間なのかもしれない。
そう気づいて、ほっとして、こぼれる息の白さに驚く。いつか、その時がきたなら、私は躊躇することなく選ぶことができるのだろう。それがたとえ明日だって、構いやしない。
またネオンサインが遠のいて、それなのに、眩しくなる。
必要のなくなった鍵を、かちゃりとかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます