第二話

 早寝の効果があったのかもしれない。

 寝台ベッドの上で身を起こし、まばたきをする。部屋はまだ暗く沈んだままで、鎧戸よろいどの隙間から漏れる光もない。部屋の中の家具はぼんやりと輪郭だけを浮き上がらせている。外はしんと静まり返って、動くものの気配を感じない。

 ――私はやればできる子なのでは?

 息を大きく吸う。冷たい、夜明けの空気だ。

 出発前だけれど、私は既に何かをやり遂げたような達成感に満たされていた。むしろこんなに気分が良いなら毎日早起きでもいいかもしれない。

 昨日までの私が聞いたら卒倒そっとうしそうなことを考えながら寝台を降りようとした時、徐々に近づいてくる足音に気付いた。おそらく私を確保しにきたプラタだろう。彼女には合鍵も渡してある。

 音はとつとつとつと階段を上り、それから私の部屋のドアがゆっくりと開く。廊下に置かれた手燭てしょくの明かりが隙間から差し込んできて、部屋がほのかに照らされた。

「失礼しまーす……あれっ! あれれっ! うそ……ニンカちゃん、……起きてる?」

 顔をのぞかせたプラタは珍しく目を見開いていた。

「起きてるともぉ」

 私は握った拳をぐっとプラタに突き出し、にへへっと笑う。

 プラタは驚いた表情のまま近づいてきて、寝台の上に広がった私の髪の先っぽをつまみあげたり、頬を突っついたり、目の前で手を上下にぱたぱた動かしたり、肩をつかんで私の身体をぐらぐら揺らしたり、着ている寝巻の匂いを嗅いだりしている。

「むっ、むへっ、あのー、ちょっと、プラタ?」

「うーん、どう見てもニンカちゃんなんだけどなー」

「えっ、まさにそのニンカだよ? これ以上ないくらいニンカなんだけど?」

「うーん……うーん……起きる、起きない、起きる、起きない……、あっ! そっかぁっ!」

 頭を抱えて唸っていたかと思うと、突然パチンと手を合わせて声を上げるプラタ。それから口角をくいっと持ち上げて、ふふふふと不気味な笑みを浮かべる。

「もう、ニンカちゃん、ダメだよー。ちゃんと寝なきゃ。ずーっと起きてたんでしょ?」

「寝てたよ! これ以上無いくらいぐっすりの熟睡だったよ!?」

 心外な話である。心外な話であるが、ここまでくると私の信用の無さ――こと早起きに対する信用の無さが恐ろしい。

「えぇー、本当に? でもなぁ、ニンカちゃんが起きるわけないし……、でも偽物ってこともなさそうだし」

 そしてプラタの反応も怖い。今も私の髪を手で漉きながらめつすがめつしているけれど、その目が笑ってない。

「この感じは本物のニンカちゃんだよねー。ながーい髪、生焼けのお肉みたいな綺麗な色だし、寝相悪そうなのに綺麗にまとまってるし、手入れしてなさそうなのに手触りもつるつるだし……」

 目の前にいるのはまさに本物のニンカちゃんだし、その本物のニンカちゃんに対して割とヒドイことを言っている気がする。手入れ云々はともかく、色は他の言い方があると思う。

「じゃあ、じゃあ、ニンカちゃん、……自分で起きちゃったの?」

 ようやく私の髪から手を放したと思ったら、今度は両肩に手を置いてじっと顔を覗き込んでくる。

「起きたよぉ。私だってやればできるんだよ? というか顔、近いって。どうしたのプラタ? なんかあるの?」

「本当に起きちゃったの?」

 肩に置かれたプラタの手に力が籠って、身体が揺さぶられる。

「起きたよ!」

「本当の本当?」

「本当の本当!」

「そっかー……、そうなんだ……」

 その手が急に離れて、私はどさっと寝台に投げ出された。

「っつ、ちょっと、プラタ!?」

「ニンカちゃんが、悪いんだよ……?」

 声を荒げた私に、プラタの妙に抑揚のない声が覆いかぶさってくる。

「……へっ?」

「勝手に起きちゃう、ニンカちゃんが悪いんだよ……?」

 今まで聞いたことも無い凍えるような声音。ふと気づくと寝台が小刻みに揺れている。見ればプラタがその両手で寝台の枠をしっかりと握りしめている。

「えっえっえっ、何? 何? どうするの? ……プラタ? プラタ!?」

「悪いニンカちゃんはダメなんだよ……?」

 ずりずりっと寝台が動く。部屋に木の軋む音が響く。私の身体が乱暴に前後に揺すられて、寝台から転げ落ちそうになる。

「そんなニンカちゃんは要らないんだよ……?」

「落ちるっ落ちるっ! なんなの!?」

 どんな膂力りょりょくなのか、今や寝台は床から完全に持ち上がっていた。プラタはまるでざるを振るうように寝台をゆすり、そのたびに私は振り落とされそうになって涙目で泣き叫ぶ。

「……そんなニンカちゃんは捨てちゃうんだよ!?」

 腹の底から絞り出したような声でプラタが叫んで、その腕がぐっと動く。一際大きく私の身体が跳ねたあと、寝台はついに宙を舞った。

「ぴにゃああああああああ!!」

 絶叫。

 私は身体ごと投げ出されて、一瞬の浮遊感に包まれる。あ、落ちる、と思う間もなく床が近づいて――。


 落ちた先は溢れる光の中だった。

「……へ?」

 一瞬で夜が明けたような光の奔流ほんりゅう

 ぱちぱちと何度か瞬きをしてようやく視界がひらけると、天井は木と煉瓦を組み合わせたものから白茶けた色の荒布あらぬのに置き換わっていた。

 背中に伝わるのは硬い木床の感触。一定の間隔で揺れ動いている。ぎぃぎぃと木材の軋む音は変わらずにあるが、それ以外にも、鳥のさえずり、馬の嘶き、川のせせらぎ、種々雑多な音が聞こえてくる。

「はぇぇ……?」

 身を起こすと頸木くびきに繋がれた馬が見えた。その向こうには空があって、山並みがあって、手前側ではまるで幌馬車の荷台のような木枠のへりにプラタが身を持たれ掛けさせている。

 視線を感じたのか、外を見ていたプラタが振り向いて目が合う。見慣れたいつもの穏やかな表情だ。

「プラタ……?」

「おはよー、ニンカちゃん。キコー? ニンカちゃん起きたよー?」

「ん……ふむ……」

 既に私の頭は概ね理解していたが、疑問の余地も無くこれは荷馬車の上で、私は荷馬車に寝かされていて、ここから見る限り既に太陽は天高く上り詰めている。

 さて、考えられる可能性はいくつかある。

 たとえば、あの鬼神のようなプラタに寝台から叩き落された私は失神し、そのまま馬車に積み込まれて今目が覚めたところである。

 たとえば、あの鬼神のようなプラタは私の夢が生み出した狂気の幻想であり、私は昨晩から寝通したまま馬車に積み込まれて今目が覚めたところである。

 私は、魔術とは「可能性の上に育つ芽」だと教わった。

 可能性を切り捨てていく生き方は魔術師としてはあってはならないのだ。そこに芽が生えるのであれば、大事に抱えていなければならない。

 故に私はいずれの可能性も否定しない。

 私は早起きをしたかもしれないし、していないかもしれない。答えは可能性と可能性の間にある。

「これ、起きてるの? なんか目がどっかいっちゃってるけど?」

「さっきはもぞもぞ動いてたよー? はい、ニンカちゃん、お水とタオル」

 気づけばキコとプラタが二人して私の顔を覗き込んでいる。

「……ずっと起きてたけど?」

 水の入ったコップを受け取って口をゆすぎ、幌をめくって外へ吐き出す。白昼の日差しが眩しい。既にアクバリクの市街は影も形も無く、馬車は山間の道をとろとろと進んでいた。

「へー、起きてたんだぁ……起きててあの扱いを受けても黙ってたなんて、さすがニンカ、人間が出来てるなぁ」

 キコがさも感心したという体で不穏なことを言うので、思わずタオルで顔をぬぐう手が止まる。

 ――え、何?私ってそんな非人間的な扱いをされてたの?

 プラタとキコの顔を交互に見る。

 プラタはわたわたと顔の前で手を振って、

「いや、いや、違うよ。私はちゃんと運ぶときは丁寧に扱ってるよー。キコがひどいんだよ」

「だって、どこまでやったら起きるのかって気になるじゃん?」

「えっ、えっ、えっ、……どこまでやったの?」

 慌てて両手で自分の身体をまさぐる。うん、変わったところは見当たらない。痛みも無い。ローブの下はまだ寝巻なので、着替えを勝手にやってるわけでもない。

「あれー? 起きてたんなら知ってるんじゃないのぉ?」

 あ、これはムカつく言い方です。

「ニンカちゃん、大丈夫だよ、そんな変なことはしてないよ。せいぜい転がしたり、逆さに吊るしてみたりだよ」

「もう、プラタ、言わなくていいのにー」

「ごめんねー。気持ちよさそうに寝てるから、そんなことしない方がいいよって私は言ったんだけどね」

 両手を合わせて頭を下げるプラタに、むしろ私の方が慌ててしまう。

「いいよ、いいよ。プラタは別に悪くないから。それにまあ、それくらいならどうってことないよ」

 転がされたり吊るされたりが「そんな変なことじゃない」のかどうかは議論の余地がありそうだけれど、私も大人なのでここは不問にしておく。

「……っていうか、起きてたし」

「え、まだ言う?」

 キコが付合いきれないとばかりに嘆息する。

 ――違うよ?私が無駄に意地を張っているわけではないよ?可能性を捨てないでいるだけなんだよ?

「もうー。そういうのいいから、ほら、ご飯食べようよ。ニンカちゃんが起きてからって思って待ってたんだよー」

 プラタがとりなすように言って、傍らから重そうな袋を引っ張り上げた。

「私もキコも朝早かったからお腹空いてるし、ニンカちゃんも何も食べてないからお腹空いてるでしょ?」

「空いてる」

「食べる」

 そういうことになった。


 頸木を外された2頭の馬がしきりに首を上下に動かしている。

 1頭は淡い栗毛で、もう1頭は黒のような濃い茶色。頭を高く上げていなないたと思ったら足許の草を食んだりする。やっと解放されたと言わんばかりだ。気持ちはわかる。

 馭者ぎょしゃの人が手綱を取って、その2頭をどこかへ連れて行った。水を飲ませにでも行くのかもしれない。

 馬を外された馬車はちょっとした広場のような草むらに止まっている。最前までとどろいていた様々な騒音が一気に途絶えて、なんだか耳がつんとするような静けさの中に時折ひよろひよろと鳥の声がする。

「はーい、キコ、ちょっと下がってねー」

「いや、後ろ詰まってるから。限界」

「んー、ちょっと狭いけどしょうがないかな」

 積荷を寄せて作った隙間に、プラタが持ってきた布を敷く。3人で囲む簡易な食卓だ。

「じゃ、これ、ニンカちゃんの葡萄酒とサンドウィッチ。おまけに硬めのチーズと早生わせ柑橘オレンジ

 広げられた白い布地の上に、ことんと酒瓶が置かれる。サンドウィッチとチーズはなめした木の皮に包まれていて、丸い柑橘は勢い余って布地の上をころころと転がった。

「キコの分ね。チーズと白パン二つ。蜂蜜。豆菓子はあとでねー」

 プラタは手際よく袋から出して並べていく。

「私の分はこれー。黒パンのサンドウィッチ。血の腸詰ソーセージ入り。それとみんなで食べる用のもろもろ。キュウリとカブのピクルス、川魚とイモを蒸してほぐしたの、燻製のハム、ミズスグリのジャム、そして猪肉と野菜のチーズ焼き。ちなみにこのお肉はキコからの差し入れだよー」

 広口の瓶や竹の簡易な器が並んだあと、最後に大ぶりの陶製の鍋がどすんと真ん中に置かれて食事の準備が整った。

「すごい……豪華! お肉も美味しそう!」

 これで食後に氷櫃こおりびつからアイスクリームなんて取り出そうものなら、そこそこの貴族の旅行ご飯といっても過言ではない。

「そうなんだよー、いかにも死にたてほやほやですって感じのお肉だったんだよー。キコ、ありがとね」

「いや、ね。父さんが持っていけって言うから、ね。……ほらほら、そんなのはいいから早く食べちゃおうよ。お腹も空いてるし」

 キコが少し照れたように鼻の頭を掻く。

「ふふ、そうだねー」

「うん、食べよう、食べよう」

 私はいそいそと自分の雑嚢ざつのうに手を伸ばして、カップとナイフを取り出した。葡萄酒のコルク栓を外すと、ふわっと鼻腔びくうに華やかなバラのような香りが漂ってくる。

「そういえば、銀鱗亭ぎんりんていって北広場の方だから今まであんまり行く機会がなかったんだけど、その葡萄酒はすごいねー。味見してびっくりしちゃった。ニンカちゃんがあれだけ言うはずだよ」

「でしょ? でしょ? あの店、安い酒場みたいに色んな醸造元の葡萄酒を混ぜちゃうんだけど、その配分が上手くてね。たまに唯一無二の味を生み出すから通っちゃうんだよぉ」

 カップに注がれた葡萄酒は深い臙脂えんじ色。口に含むと葡萄だけで造られているとは思えないような賑やかな香りが広がって、舌には柔らかな渋みと、奥の方に感じるほのかな甘み。喉を通ると華やぎはさっと消えてしまうけれど、細く淡く、濡らした絵筆ですっと引いた線のような余韻が続いていく。

「ああぁ……、良い……」

 これが真昼間というのもなお良い。

 お次はサンドウィッチ。丸いバゲットを薄く切って具材を挟んである。具材は燻製肉ベーコンとゆで卵とたっぷりの色んな種類のピクルス。それが全部細かく刻んで混ぜてあって、レタスとバゲットに挟まっている。お肉まで刻んであるの珍しいなーと思いながら齧りついて少し驚く。美味しい。いやいや、うまい。燻製肉は香辛料で下味がつけてあって、それも芸が細かいけど、主役は違う。そこじゃない。ピクルスだ。主役はピクルス、それと卵。酸味と甘味の調和でさわやかさが際立っている。

「プラタ……! これ、このサンドウィッチ、すごい!」

 私の感極まった声に、プラタは「でしょー」とばかりに胸を張る。

「私のサンドウィッチもケイバーさんのところのだけど、こっちも美味しいよ?」

 プラタがちぎって差し出してくれたのは、四角い黒パンのサンドウィッチ。受け取って中を見ると、挟んであるのは輪切りの血の腸詰に生のキュウリ、サワークリーム。血の腸詰そこまで好きじゃないんだよね実は、と思いながら噛むと、口の中に広がるのは鮮やかな柑橘の香り。え?サワークリームに果汁混ぜてる?これもすごい。癖のある腸詰なのに全然くどくない。美味しい。そしてなにより葡萄酒に合う。

「えー、なにこれ! どれも仕事が細かいっ! すごいすごい! これ、なんで今まで買ってこなかったの!?」

「私はキコに教わったんだよー」

「うん。ここ、ちょっと前までは普通のお肉やさんでね。最近料理上手の奥さんが店に出るようになって、試しに気軽に摘まめるものをって始めてさ。それがすごい美味しかったってわけ」

 そう言いながら、キコが手にしているのは普通の白パンだ。

「え、じゃあキコはなんで普通のパン食べてるの?」

「うちの取引先だし、よく行くから。わざわざ持ってきて食べなくても……みたいな?」

「うわー、贅沢! 贅沢です! 私なら毎日これでもいい」

「ほら、キコって味は割とどうでもよくて、甘ければなんでもいいみたいなとこあるからー」

「そ、そんなことないし!」

 ああ、わかる気がする。キコのそういう感じ。

 家は狩猟と漁撈ぎょろうをしてるので普段からいいもの食べてるはずなのに、なぜかその辺のこだわりがあんまり無い。

 ――キコの家からの差し入れなら、このお肉もすごい良い肉なんだろうなー。

 私は鍋に入ったチーズ焼きの肉にナイフを刺して、目の前にぶら下げてみる。脂を帯びてテカる表面。ちょっと赤みが残ってるけれど、その分まだ瑞々しくて色っぽい。ひょいっと口の中に放り込むとぶわっと脂肪の甘味が広がって、これはもうただただ単純に旨い。

 もう一切れお肉をいただこうと手を伸ばしかけて、ふと朝のことを思い出した。

「ねぇねぇ、プラタ」

「んー?」

 サンドウィッチを頬張りながらプラタが返事をする。

「ちょっと聞いてみたいんだけど、……私の髪ってどんな色に見える?」

「えー? どしたの急に……髪? んー……」

 ちらっと私の髪に目をやってから、プラタは満面の笑みで答えた。

「うん、ニンカちゃんの髪はね、生焼けのお肉みたいに綺麗な色!」

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