八話

「植木の水やりは終わったか。それなら次は、はたきをかけてくれ。書物に埃がたまってかなわん」


 言われるまま僕は、はたきを持って一階の本で埋め尽くされた部屋へ向かった。小さな窓と入り口を全開にして、積まれた本の上をはたいていく。こんな雑用を任されて、半月ほどが経っている。そう、僕は今、魔術師の弟子として働いているのだ。


 オグバーンと飲んだ翌日、僕は覚悟を決めて魔術師の家を訪ねた。出てきた魔術師に不審がられながら、恐る恐る弟子になりたいと頼んでみた。怒鳴られて追い返されるものと思っていたら、魔術師はあっさり受け入れてくれた。今度は僕の方が疑ってしまった。なぜ弟子にしてくれるのか聞くと、手が足りないからと、ただそれだけの理由だった。何か騙されたんじゃないか? そんなふうに思ったが、毎日いくつも雑用を頼まれる日々に、手が足りないというのは本音だったんだと知った。


 晴れて弟子にはなったけど、魔術師は僕に呪いをかけた人間だ。毎日一緒にいることはやっぱり怖かった。でも、当の魔術師は僕に暴言を吐いたり、嫌がらせをしたりすることは一切なく、それどころか昼食をごちそうしてくれたりして、友好的に接してくれた。来る前に、あんなに怖がっていた自分がおかしく思えるほどだ。でも僕は疑問だった。呪いをかけた相手に、なぜ優しくするのかと。その疑問を僕は遠回しに聞いてみた。


「あの、以前に先生が僕にしたこと、覚えていますか?」


「ん? 以前とはいつだ。お前とは数日前に会ったばかりではないか」


「いえ、僕と先生はずっと前にも一度、会っているんですけど」


「……覚えておらん」


 僕は納得した。魔術師はすっかりあの日のことを忘れていたのだ。つまり呪いをかけたことも忘れているということだ。こっちがこんなに苦しんでいるというのに、かけた本人が忘れるなんて、怒りと言うより呆れて言葉が出ない。でも、これは好都合にもなり得る。呪いに関する本をこそこそせずに探せるのだ。もし見つかっても、魔術師が忘れている限り、僕と呪いは結び付かないはずだ。探しやすいことはわかったけど、表立ってということはさすがに勇気がいる。今はまだ魔術師の様子を見ながら、隙を見て探すことを続けていこうと思っている。


「昨日はこっちのを読んだから……今日はここからだ」


 右手のはたきで本にたまった埃をはたきながら、左手で本を開き立ち読みする。盗み読みは大体何かの雑用中にするのが決まっている。こんな方法で弟子になった初日から、この部屋の本を順番に盗み読んでいるのだけど、昔の仮名遣いだったり、専門用語だったりと、知識のない僕には到底読めないものばかりで、呪いに関する情報は未だ収集できていなかった。これでは雑用をする時間が無駄になってしまう。どうにか見つけるためにも一から学ぶ必要がありそうだ。急がば回れということだ。焦る必要はない。とりあえず――


「後で基本のわかる本でも借りるか」


 こういう時、弟子という肩書は役に立つ。怪しまれずに済むし、逆に勉強熱心と思われて高評価にもなる。とにかく今は大人しく、一歩一歩進めばいい。呪いを解くための大事な準備と思うんだ。


 そんなふうに、表向きは従順に、でも裏では着実に知識を身に付けながら、あっという間に数か月が過ぎていった。日々の勉強のおかげで、今まで読めなかった本を多少は理解できるようになっていたある日だった。


「戻りました」


 地下に下りた僕は、言われた野草を摘んだかごを魔術師の側の机に置いた。


「……ご苦労」


 魔術師はいつものように手を動かしながら、顔を上げずに言う。未だに詳しいことは教えてくれないけど、何か薬品を作るための研究や実験をしていることはわかっている。医療部門に入るための勉強がこんなところで役に立とうとは。


 作業を横目に、僕はほうきを取りに向かう。毎日雑用をこなすうちに、魔術師が次に何を頼んでくるのかを、僕は自然とわかるようになっていた。薬品作りに必要な材料集めを頼んだ後は、必ず掃除を命じてくる。これは多分、作業に集中したいから僕を遠ざけるためなのだろう。他にも、昼食後は作業台周辺の片付けだったり、雨の日の午後は本の整理だったりと、いくつかのパターンがある。言われる前にわかる僕は、言われる前にさっさと始めようと、ほうき片手に一階へ上がろうとした。


「ところで、お前はなぜわしの弟子になったんだ?」


 不意な質問だった。そんなことをこんな時に聞かれるとは思わず、僕は驚いて口を開けっぱなしにしていた。何も答えない僕を魔術師はちらと見た。


「……聞いていたか?」


 これで僕は我に返った。


「あ……はい。聞いてました。なぜ弟子になったのかと言うと……」


 答えを考えようとしても、どうも別のことが気になった。この質問は、僕のことを疑っているからなのか? だから聞いたのか? 作業中に話をするのはかなり珍しいことだ。集中している時にあえて僕に質問するなんて、やっぱり何か疑いを――


「言えない、ということか?」


 答えない僕に、魔術師は口の端を上げながら言った。


「そ、そうではなくて……」


 笑顔を見せながら僕は久々に恐ろしさを感じていた。頭の中では嫌な予感が止まらない。もしかして、僕にかけた呪いのことを思い出してしまったんじゃ……。でも、今になっていきなり思い出すなんてことあるだろうか。このままでは不安が言動に出てしまいそうだ。払拭するためにも、ここは確かめておきたい。思い出していたらそれはそれでしょうがないと諦めよう。遅かれ早かれ僕は殺されていたと思うしかない。いずれそうなるのなら、ここではっきりとさせるんだ――僕は静かに息を吸い込んだ。


「呪い……について、知りたくて」


 少し声が震えてしまった。でもはっきりと言えた。恐る恐る魔術師の様子をうかがう。魔術師は相変わらず作業の手を動かしている。表情にも特に変化はない。すると、おもむろに口を開いた。


「ほお、呪いとは……また変わったものに興味を持ったのだな。だが、わしは呪いのことなぞ、何もしらんぞ」


 とぼけてるな、と心の中で呟く。


「見当違いではないのか?」


「僕は先生を尊敬しています。見当違いなんて……」


 さらりと上手く嘘が言えた。


「尊敬だと? ならばわしの名を言ってみろ」


 魔術師は手を止めると、こっちを見てにやりと笑った。このやり取り、前にもあったぞ。その時僕は名前を間違えて、罰として掃除をやらされ、仕舞いには呪いをかけられたのだ。あの後、兵舎に帰った僕は、部隊長に報告してから何よりも先に魔術師の名前を調べた。忘れられるわけがない……。


「十人いたら、八人は間違える厄介な名だ。お前はどうだ?」


 どこか楽しげに魔術師は言う。もう間違いはない。


「先生のお名前は、ロイツェ・イルデフォン……」


 言い終わった瞬間、魔術師は笑顔を消し、再び手を動かし始めた。


「つまらん。行っていいぞ」


 ふてくされた子供のように素っ気なかった。……あれ? 何もなかった。呪いのことも深く聞いてこなかったし、大丈夫、なのか? ちょっと拍子抜けだけど、この後何もないとは限らない。少しの間は警戒していたほうがいいかもしれない。


 でも、その後の二日間、魔術師には特に何の変化もなかった。いつも通り薬品の研究に没頭し、僕は雑用をこなしていく。ちょっとびくびくしすぎたかな、と思い始めた三日目の午後だった。


「ウェルス、ちょっと来なさい」


 外で植木の手入れをしていた僕に、魔術師は家から手招きをして呼んだ。その瞬間から心臓の鼓動は速まっていった。魔術師がわざわざ呼びに来るなんて、昼食ができた時以外にこれまではない。今はすでに昼食を終えた時間だ。やっぱり、その時が来たのか。日を置いて三日目に来るとは、油断させるのが上手い。一体何が待っているのか、現実になってほしくない想像をしながら、背中に冷たいものを感じつつ、僕は重い足を部屋の中へ進ませた。


 入ると、一階の中央に魔術師は立っていた。僕はゆっくり近付く。


「……どうした? 顔が引きつっておるように見えるが」


 魔術師は僕の顔をじろじろと見てくる。まずい。動揺がばれてしまう。僕は懸命に口角を上げた。


「そうですか? 何もありませんけど……」


 不思議そうに僕を見ていた魔術師だったが、気に留める様子もなく、しばらくすると傍らの積まれた本に目を移した。


「ところで、お前は呪いを詳しく知りたがっておったな」


 呪いという言葉に、一瞬息が止まりそうになる。


「……はい」


 魔術師は微笑んだ顔を僕に向ける。


「ここでお前が頻繁にわしの書物を読んでいたのは、呪いについてのものを探していたのか?」


「えっ……」


 絶句だった。毎日盗み読みしていることは、絶対にばれていないと思っていたのに、まさか、すでに知られていたなんて――体中から血の気が引くのがわかった。


「お前があまりに真剣に読んでいるものだから、あえて声はかけなかった。邪魔はしたくなかったからな」


「その、勝手に読んだことは、本当に、僕の――」


 気が動転して、上手くしゃべれない……。


「そんなことは気にするな。ここの書物はわしが読み古したものばかりだ。自由に読んでくれて構わん」


 ……あれ? 想像していたのと違う。


「読んでしまっても、いいんですか?」


「読みたいものを読めばいい」


 どういうことだ? ここは怒鳴られるところじゃないのか?


「それでだな――」


 魔術師は傍らの本数冊を手に取った。


「いくつか呪いの記述があるものを探してみた。お前にはまだ難しいものもあるが、勉強しながらでも読んでみるといい」


 そう言って魔術師は薄いものから分厚いものまで、計六冊の本を僕に渡した。ずっしりした重みを感じながら、僕は戸惑っていた。呪いをかけた本人が、呪いを学ぶための本を貸してくれる――これは、どう受け止めたらいいのだろうか。以前のことをまだ忘れているのなら一応納得もできるけど、もしすべてを思い出していて、それであえてこういうことをしているとしたら、僕は馬鹿にされているのか? どうせ死ぬやつが必死になってるよと陰で笑われているのか? でも、読みたいものを読めと言った魔術師からは、そんな陰険さは微塵も感じられなかった。弟子の成長を願う師匠そのものに見えた。どっちだ? 魔術師の本心はどっちにあるんだ?


「……わからない」


 雑用をこなしながら、その日僕は考え続けていたが、結局わからなかった。魔術師も本を渡した後はいつものように作業に戻り、それから呪いの話をすることはなかった。どちらにせよ、今の僕には呪いに関する知識が必要なのだ。陰で笑われているとしても、この借りた本は僕にとっては貴重なものだ。隅から隅まで読ませてもらうことにする。自分の家に帰ったその日の夜、僕は寝るのも忘れて本を読みふけった。

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