魔法のアプリ


 一人その場に取り残された小夜は、暫くの間呆然としていた。


「⋯⋯そうだ、あの男が言っていた魔法の板!!」


 突然ハッと正気を取り戻した小夜はジーンズのポケットをまさぐる。

 殆ど身一つでこの世界に来た小夜の所持品といえばスマートフォンと財布くらいだった。


(板ってスマホの事? でも、この世界でも使えるのかしら⋯⋯?)


 小夜は半信半疑でスマートフォンの電源を入れる。

 パッと薄暗い室内に明かりが灯る。小夜は直ぐに左上にある電波状況を確認した。


「——って! 圏外じゃない。やっぱりあの男、信用ならないわ!」


 再び揶揄われたのだと嘆く小夜は、突然の別れとなってしまった家族の写真を求めてスマートフォンを操作する。


「!?」


 ハッと息を呑んだ小夜は目にも留まらぬ速さでホーム画面をスライドさせる。

 デフォルトのシンプルな壁紙の上には数々の便利なアプリケーションが並んでいる筈だった。筈だったのだが——


「⋯⋯ない。何処にも無いわ!!」


 小夜は思わず大声を上げ頭を抱える。

 ホーム画面にはたった一つのアプリケーションを残すのみで、それ以外は全て跡形も無く消えていた。

 おまけに、唯一残っているアプリケーションをインストールした記憶も無い。


「ちょっとしたプレゼントって⋯⋯こんなの一種のウイルスじゃないっ! よく分からない男の持ってきた病原菌に侵されてしまったんだわ! 嗚呼、なんて憐れなのかしら、私のスマートフォン!!」


 どうにも怒りが収まらない小夜は、20年間つちかって来た持ち得る幾多もの語彙ごいを以って罵詈讒謗ばりざんぼうの限りを尽くした。


「次会ったら覚えておきなさいよ⋯⋯!」


 最後に悪役が放つ捨て台詞のようにそう吐き捨てると、何時迄も現実から目を逸らす訳にはいかないと再びスマートフォンに向き直る。



「⋯⋯注文?」


 小夜はホーム画面に堂々と鎮座するアイコン——白い背景に青い鳥が描かれ今にも飛び立とうとしている躍動感あふれるそれをタップした。


 ローディング後、画面一杯にデカデカと表示される『アナタの異世界生活をちょっとだけ豊かに! 安心安全、即時配達のアオイトリ』の文字。如何にも胡散臭い。


 第一印象は初心者が趣味で作ったと思しき安っぽいアプリケーションだった。

 しかし、その印象は間も無く覆される事になる。



「な、何なのよ⋯⋯此れは——」


 小夜は思わずそう呟いた。

 その視線の先にはシンプルながらも利便性に特化した通販仕様の画面。医薬品と医療機器にカテゴライズされたそれに恐る恐る触れてみる。


 試しに『医薬品』のタブをクリックすると、ご丁寧にも五十音順に並べられていた。その上には検索ボックスも完備され、随分と親切設計のようだ。


「アカルボース⋯⋯ αグルコシダーゼ阻害そがい薬のことよね?」


 一番上、小夜が聴き馴染みのある薬品名のリンクをクリックすると、写真と共に薬品の解説が表示された。


「食後の血糖上昇を抑制。主に糖尿病患者に処方される⋯⋯やっぱり、私が知っているものだわ」


 商品説明の下には数量選択のキーと『注文』のボタンがあった。如何やら此処からオーダー出来るらしい。



「あの男の言っていた私が使える魔法って此れのこと⋯⋯?」


 一番下までスクロールして行くと、気になる文言を見つけた。


『注意! 1日に何度も多用すると配達員が疲れてしまいます。その時は労ってあげてね♪』


 あの男の言葉だろうか。小夜の脳内では人を小馬鹿にしたような甘ったるい男の声で再生され、先ほど収まった怒りがぶり返しそうになる。


(落ち着け⋯⋯落ち着くのよ、黒宮小夜!)


 怒りとは存外、エネルギーを使うものである。

 それに、異世界に一人残された小夜に既にこの場に居ないあの男の事を何時迄も考えている余裕など無い。

 時間の無駄でもあり、あの男に関する事で限りある海馬の容量を埋め尽くされるのは非常に、それはもう筆舌に尽くし難いほどにしゃくである。

 ましてや、大脳皮質に奴の情報が送られ記憶に焼き付くなどもっての外だ。


「⋯⋯⋯⋯」


 フッと諦観ていかんの笑みを浮かべた小夜はそっとスマートフォンの電源を落とした。







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