第1話 名探偵A

 時は二十世紀初頭、帝都のL街にて。

 「お父さん…お母さん………」

 夜遅く、淡い橙色の街灯が一際美しく輝く午前の3時26分。

 N公園にて往く当てもなく、絶望の淵におちいっていた一人の少女が唯々只管ただただひたすらに深い溜息を吐き、黄昏たそがれておりました。

 少女の名は、暮島 清子と言い、つい先日までは医療の道を歩む者達で知らぬ者がいない程の名医の家系、暮島家の跡取りとして至極平和な日常を過ごしておりました。しかし、彼女の平穏な日常は突如、一人の狂人…いえ、怪人の遊戯ゆうぎによって跡形もなく、完膚かんぷなきまでに破壊されてしまったのです。

 彼の怪人から逃げる最中、黒曜石の様に真っ暗な夜闇に呑まれでもしてしまったのか、怪人の人相を思い出すことは敵いませんでした。ですが、服装ならば鮮明に思い出すことが出来ました。怪人はあたかも西洋の紳士を気取っているかの様な、漆黒のスーツによく磨かれた革靴、シルクハットを被っており、右手には一把ひとたばの杖を握り地面を軽快に突いておりました。

 突如、住んでいた屋敷の中、暮島の眼前へと姿を現した怪人は杖に隠していた細身の鋭利な剣で暮島の両親を惨殺しました。そして、赤黒い血液の飛び散った屋敷には甘いベンゼンの香りを漂わせるガソリンを散布し、燐寸マッチを使って生み出した、僅かな大きさのほのうを血とガソリンの入り混じった水溜まりへと落とすのでありました。怪人の手によって放たれた小さなほのうは大量の空気を際限なく喰い散らかし、木造の柱や壁…階段や屋根裏等の隅々を伝い、瞬く間に燃え広がって行きました。

 暮島の父母に誰かから殺される様な所以など無い筈でありました。我が身の事よりも周りの者を気遣い、優先することができる、正しく良き人間の模範そのものであった父。そして、澄んだ湖のように純粋な心の持ち主であった母、暮島にとって二人はかけがえのない家族であり、己が命と同様に大切な存在でありました。

 「あの怪人…あの怪人が私の前に現れさえしなければ、私のお父さんとお母さんは……」

 ベンチの上に腰を掛けた暮島は両手で顔を強く押さえ、哀しみによって熱を奪われた冷たい涙を瞳から流し、今は亡き父と母を想い続けました。そして、その感情の裏側では本人も知らぬ間に、希望の光を喰らってしまうほどに暗く、純粋無垢な殺意が芽生えようとしておりました。




***




 「こらあぁ!!待てお前ぇーー!!!」

 「はぁはぁはぁはぁ……!」

 家を失って早二日、金を持ち合わせていなかったがために食べ物が買えず、腹と背中がくっつきそうな程に腹を空かせていた暮島は到頭、悪魔の誘いに負け…出店で売られていた商品に手を出してしまいました。

 鬼の様な形相で追いかけてくる出店の店主から、息を荒くしながらも必死になって逃げていた暮島は足をくじいてしまい、体勢を崩したまま地面へと向かって勢いよく、受身を取る暇もなく倒れ込んでしまいました。そして、やっとの思いで暮島へと追いついた出店の店主は左手でボロボロになった暮島の纏う服を掴み上げますと、怒りにまかせて勢いよく右手の拳を振りかざしました。しかし、それが暮島へと振り下ろされることはありませんでした。何故なら、出店の店主の振りかざした拳を、通りすがった一人の男が腕を掴み、引き止めていたのです。

 「おいおぃ、朝っぱらから道の真ん中で何をやっているんだ?」

 「賢助さん…っ!」

 出店の店主の口から出た賢助という名に、転倒してしまっていた暮島は通りすがりの男へと恐る恐る怯えながらも目を向けました。すると、そこには茶色のハンチングハットに二重廻しを身に纏った一人の男の姿がありました。その男の姿はさながら王道の探偵小説に登場する名探偵の様であり、何処かで見覚えのある様な、何とも言葉を用いては形容し難い不思議な印象を覚えました。

 「聞いてくださいよぉ、こいつがうちの大切な商品を万引きしたんです」

 「万引きかぁ…一体いくらの物を盗ったんだ?」

 「えっ、560円ですが」

 出店の店主から万引きされた物の値段を聞いた男は懐中へと手を伸ばしました。そして、長い間使い込んでいると見受けられる蝦蟇口財布がまぐちざいふを取り出し、金を持たない暮島の代わりに560円を出店の店主に支払いました。

 「いいんですか?賢助さん。こんな奴のために貴重なお金を払ってしまって」

 「あぁ、構わないさ。金というのは他人ひとの為に使ってこそ、真価を示すものだよ」

 そう言うと、通りすがりの男は財布を再び懐中へとしまい、地面に転倒していた暮島へと微笑みながら手を差し伸べるのでありました。




***




 万引きを犯してしまった暮島を救い、手を差し伸べた男は今にも空腹で倒れてしまいそうな暮島を連れて行きつけのF喫茶へとやって来ました。店内にはよく煎られた珈琲豆の香りが広がっており、カウンターには洗ったグラスを丁寧に拭き続ける店主、芝浜 渡の姿がありました。

 「いらっしゃいませ、賢助様。今日はどういったご用件で?」

 「ちょいとここの珈琲が飲みたくなってね。いつもの席に座らせて貰うぞ」

 「はい、後でご注文をお伺い致します」

 入り口の扉から入って右側に広がる大きな硝子窓、その窓に沿って置かれた席の中でも最奥の席が男にとってお気に入りのばしょなのでありました。

 席へ着くと男は先程から落ち着かない様子でキョロキョロと周りを見渡しつ続ける暮島へ、提供されている品物の名が記されたメニューブックを差し出し、開いて見せるのでありました。そこには幾つもの様々な料理の名が丁寧に、縦書きにて書き記されており、中には初見の料理の名も幾つかありました。

 「さぁ、好きなものを頼むと良い」

 「えっ、い…良いんですか?」

 「何がだい?」

 「いえ、私…お金が無くて……」

 「あぁ、知っているよ。今回は私の奢りだ、好きな料理ものを頼むと良い」

 「でっ、でも…私は万引きをしてしまって……」

 「人は誰だって一度は罪を犯しているものさ。肝心なのは、その罪をどう償うかだ。違うか?」

 「でっ…ですが……」

 「それに、暮島君は火事に遭ってから何も食べていないのだろう、万引きしてしまうのも無理ないさ」

 「どっ…どうして、知っているんですか?」

 「何をだね?」

 「私、まだ…貴方あなたに名前を教えていませんよね?」

 「あぁ、確かに君は俺に名前を教えていない。故に、君の名前を俺は知らない…だから、推理をしたまでだよ」

 「推理、ですか?」

 暮島からの問い掛けに、男は持ち合わせていた一束の新聞を開いて見せました。すると、そこには暮島の屋敷が火事によって全焼してしまったこと。そして、全焼し灰燼かいじんへと帰した屋敷の残骸の下から二人の焼死体が発見されたことが書かれてありました。

 「こっ、これは…」

 「君の着ている衣服、見たところ質の良い生地で織られているが所々に灰の汚れや焼け焦げた跡がついている…そして、君の体に染みついた煙の匂いから火災の現場に居合わせていたことが容易に推察できる。そして、ここ最近起きた火災事件の中で上質の衣服を纏える…つまり、身分のいい者の屋敷で起きた火災事件は名医の家系として名をせていた暮島家の邸宅のみ、これらのことから君はこの屋敷の者の生き残りであると、そう推理したまでだよ」

 「そんな、たったそれだけの情報で……」

 男の披露した推理の腕に、暮島は思わず圧倒されてしまいました。すると、そこへ、冷や水を注いだグラスを盆にのせ、運んできた店主が静かに声を掛けて来ました。

 「このお方は、人や物事を見る目に関してはとても秀でておられますからね」

 「おいおい、何だよその言い方は…それじゃあまるで俺がそれ以外何もできないみたいな口ぶりじゃないか」

 「おや、違いましたか?」

 「まっ、まぁ…強くは否定できないが……」

 喫茶店の店主に口喧嘩で負けてしまった男は悔しそうに運ばれてきた冷や水を一気に飲み干しました。

 数分後、男と暮島の座る席に二皿の料理が運ばれて来ました。一方はケチャップの良い香りが暖かい熱と共に周囲へと広がるF喫茶特製ナポリタンでした。これは暮島の前へと運ばれました。もう一方は深入りのコーヒーと香ばしい小麦の香りを放つトーストでした。これは新聞を読んでいた男の前へと運ばれました。料理を提供され、丁度空腹が限界を超えていた男と暮島は手を合わせ、食事へとありつこうとしました。しかし、次の瞬間、喫茶店の入口の扉が勢いよく開かれました。そして、店の中には無精髭ぶしょうひげあごに生やし、枯茶色からちゃいろのトレンチコートを身に纏い、茶色い大きな封筒を右手に抱え持った、一人の男が息を荒くしながらも姿を現しました。その男は店内を見渡し、喫茶店の店主へと軽く挨拶を交わすと、暮島の前の席に座る男へと声を掛けました。

 「おぉ、探したぞ探偵屋!」

 「篠村刑事、俺を探したってことは…まさか……」

 「あぁ、そのまさかだ。また、事件解決にお前の力を貸してくれ」

 そう告げると、警察に刑事として勤める男、篠村 宏茂は料理の並ぶ卓上に、大事そうに抱え持っていた一通の茶色い大きな封筒を置いた。そして、その封筒を目にした男は目を細め、何処か見幕けんまくな雰囲気を纏いながらトーストを頬張りました。




***




 トーストを食べ終え、珈琲を飲み干した探偵の男は、篠村刑事が卓上に置いた一通の封筒を手に取り、透かさず封を切りました。すると、封筒の中には、とある場所で起きた殺人事件の書類が収められてありました。

 K邸園強盗殺人事件、それが探偵の男に持ち込まれた殺人事件の名称でした。K邸園と言うのは自然保護団体を一手に取り仕切る会長、城之崎 然次郎の所有する別荘のことであり、そこには様々な種類の植物や茸が自生していることで知らぬ者が居ないほどに有名でありました。

 「ふむ、K邸園かぁ…確かに彼処あそこならば強盗殺人が起きても可笑おかしくはないな。仏はまだ現場にあるか?」

 「あぁ、仏の回収は俺が頼み込んで遅らせて貰っている」

 「なるほど、そちらの方は準備万端と言う訳か…」

 一通り捜査資料に目を通し、散らばらせてしまった資料を束ねた探偵の男は刑事からの依頼を引き受けることに致しました。

 「まぁ、良いだろう。予定も無いことだし、この事件、私が引き受けよう」

 「おぉ、助かるぜ探偵屋!」

 「だが、一つ条件を付けさせて貰うぞ篠村刑事」

 「条件…まさか、俺に金をたかるつもりじゃないだろうなぁ」

 「篠村刑事は俺のことを一体どんな奴だと思っているんだ…まぁ、そう身構えるな。無理一択な条件でも無いはずだぞ」

 そう言うと、探偵の男は微笑みながら暮島へと視線を向けました。そして、探偵の男の要望をいち早く察してしまった篠村刑事は少々困った様子で頭を抱えてしまうのでありました。




***




 篠村刑事に連れられて、探偵の男とその場に偶然居合わせた暮島はK邸園へと訪れました。入り口の門を潜ると、一面に広がる大きな庭には数え切れないほどの種類の植物や茸が花壇等に植えられてありました。

 「あっ、あの…私、ここに来てしまって良いのでしょうか?」

 見知らぬ土地へと訪れ、不安な気持ちで一杯だった暮島が篠村刑事へと問いかけると、篠村刑事は苦笑いをしながらも答えました。

 「まぁ…今回は特例だ、探偵屋には結構世話になっちまってるからな。だが、珍しいこともあるもんだよなぁ、ずっと一人でやってたお前さんが弟子を取るようになるとはな」

 と言うのも、篠村刑事はこれまでにも何度かこの探偵の男に事件解決の協力を仰いだことがありましたが、今までに誰かと協力したり弟子を取るそぶりを見せたことがなかったのでした。篠村刑事の弟子と言う言葉に、探偵の男はどこか哀しげな表情を表に溢しながら暮島が弟子であると言うことを否定しました。そして、すぐさま表情を切り替えた探偵の男は広い庭の中心部に位置する大きな建物、K邸宅の扉を三回、間を置いて叩きました。すると、K邸宅の中からは一人の女性が探偵の男達を出迎えました。

 「あら、貴方達あなたたちは…?」

 女性からの問いかけに、篠村は身に纏っている枯茶色トレンチコートの内ポケットから警察手帳を取り出し、身分を示しました。そして、探偵の男と暮島の身分も同様に説明し、怪しい者では無いと言うことを説明しました。すると、女性は探偵の男と暮島へと自分の名を名乗りました。

 彼女の名前は城之崎 希。彼女は城之崎 然次郎の妻であり、死体を最初に発見し、警察に通報した第一発見者でありました。そして、彼女は深い悲しみにさいなまれていたのでしょう、目元には涙の跡が残っていたのでありました。

 「遥々ご足労頂き、ありがとうございます。探偵様方」

 「いえいえ、どうかお気になさらず。それよりも、早速ですが事件現場を拝見させて頂いてもよろしいでしょうか?」

 「えぇ、勿論です。屋敷の裏に回って頂ければ分かると思います。それで…その、申し訳ないのですが。私は家の中で休ませて頂いてもよろしいでしょうか。夫が亡くなってしまってからどうも気分が悪くて……」

 「えぇ、結構ですよ。どうぞお気になさらずゆっくりと中で休んでいて下さい」

 探偵の男がそう告げると、城之崎 希は言葉に甘えて邸宅の中へとゆっくり歩いて、戻って行きました。そして、探偵の男の後ろに隠れるように立っていた暮島は彼女の言動や、様子、息遣いといった些細な情報から何処か、不可思議ふかしぎな違和感を覚えておりました。

 屋敷の裏側へと回った探偵の男と篠村、暮島は華やかな色彩の花々が咲き誇る庭の中を歩いておりました。すると、しばらくも経たない内に探偵の男らは、あるものを発見しました。それは、花壇に植えられた綺麗な花々に囲まれており。煉瓦れんがの敷き詰められた道の上に横たわっておりました。

 読者の皆様はもうお気づきのことでしょう。探偵達の眼前には、このK邸園の主である男…いや、正確にはK邸園の元家主であった男、城之崎 然次郎の死体が異質な存在感を放ちながら赤黒い血を撒き散らし、そこに横たわっていたのです。




***




 仏の元へと歩み寄り、しゃがみ込んだ探偵の男は両手を合わせ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えました。仏の隣へとしゃがみ込み、不意に右上へと視線を向けますと、邸宅の三階、右から四番目の部屋の窓が開いており、仏の横たわっていた場所を見て、遺体の死因が転落によるものであると容易に想像がつきました。

 「見たところ、転落死と言ったところか」

 「あぁ、玄関の鍵をこじ開けて押し入った見知らぬ一人の男が抵抗した主人、城之崎 然次郎を二階から突き落としたらしい」

 「強盗犯は男か…その強盗犯は今どこへ?」

 「現在、逃亡中だ。総力を挙げて捜索しているんだが、どう言う訳か却々なかなか見つからなくてなぁ…婦人によると身長は約170センチメートル前後、中肉中背で全身黒ずくめの服装をしていたらしい」

 「そうか…その強盗犯、見つかると良いがな」

 そう言いますと探偵の男は殺人現場の状況を見て、何か思い当たる節でもあるかの様に、口元に微かな笑みを浮かべました。

 数分後、遺体の転落現場を隅から隅まで食い入る様に観察し、手帳にメモを書き残した探偵の男は犯行現場に居合わせた婦人、城之崎 希へと話しを聞くため邸宅の中へと足を踏み入れました。すると、邸宅の中には砕け散った花瓶の破片やバラバラと散乱した衣服、その他小物類と言った様々な物共が無造作に散乱しており、値打ち物の金品を強盗犯が探し、家中を荒らした形跡が至る場所に残っておりました。

 客室へと入ると中では一人休んでいた第一発見者の城之崎 希の姿がありました。と申しますのも、このだだっ広い邸宅には元々、お手伝いと言った者達等はたったの一人であろうとも雇ってはおらず、家主の城之崎 然次郎と城之崎 希の二人だけで暮らしていたのでありました。また、その所以は至極簡単なものでありまして、城之崎 然次郎氏はたった一人の人間の手には余る程の巨額な富を抱え持っておりました。そして、二転三転した用心深さから、その金を銀行など、強いては他人の手に預けることなく己が手で、己が視線の着く場所であり、妻以外の誰もが勝手に足を踏み入れることができない完全無欠であるこの邸宅に保管していたのです。

 話を戻しまして、台所にて暖かい紅茶を入れ、気を落ち着かせた城之崎 希に篠村刑事が話しを聞き、暮島もそれに付き添いました。一方、探偵の男は御手洗いに行くと言いながらもこそこそと邸宅の中を調べておりました。と言うのも、玄関で靴を脱ぎ、邸宅の中へと足を踏み入れてからようやく気がついたのですが、強盗が入ったはずの邸宅内の床に土足痕が一切残っていなかったのです。

 以上の事から推理するに、強盗犯は態々わざわざ行儀良く一度玄関で靴を脱いでから邸宅内へと侵入し、犯行に及んだと言うことになるのです。

 これではあまりにも不自然極まりない…知り合いや身内による犯行ならば考えられなくもないが、それでは城之崎 希の証言と食い違いが生じてしまうのです。これらのいくつか浮上してきた疑問点を手帳に走り書きで書き込みながらも、一階を全て調べ終えた探偵の男は中央階段を上り二階へと、二階を調べ終えると三階へと場所を移しました。そして、三階にてまず最初に見たのは被害者である城之崎 然次郎が転落したと思われる部屋でした。そこは城之崎 然次郎の自室であり、室内には紙や本が散らばっていたり、万年筆が踏み折られていたりなど、強盗犯と城之崎 然次郎が格闘したであろう形跡が残っていました。そして、篠村刑事から渡された捜査資料に書かれていた城之崎 希の証言通り、金目の物は全て強盗犯によって持ち出されていました。

 次に、探偵の男が訪れたのは城之崎 希の部屋でありました。そちらも同様に酷く荒らされており、例外なく、金目の物は持ち出されており、机の下に隠す様に置かれていた金庫も手荒に破られ、中に保管されていたであろう巨額の富は一切合切、姿を消してしまっておりました。その部屋の様子を見て探偵の男は一つの疑問を覚えました。部屋の隅から隅まで、くまなく荒らしきっているというのに机の戸棚の一番下、鍵の掛けられた引き出しだけこじ開けられた…いや、こじ開けようとした痕跡も無く、まるでここには金目の物が無いと最初から分かっていたかの様に全く手をつけられていなかったのです。

 透かさずその引き出しへと歩み寄りますと、探偵の男は二重廻しの内ポケットに忍ばせていた鍵開けの道具を取り出しました。そして、あっと言う間も無く鍵を開けますとゆっくりと慎重に引き出しを開けました。すると、そこには確かに金目の物は仕舞われていませんでした。しかし、その代わりに探偵の男にとってはもっと良い代物が見つかりました。

 「なるほど、これが犯行動機か…」

 今回の殺人事権の犯行動機を裏付ける何かを城之崎 希の部屋にて見つけ出した探偵の男は、引き出しから見つけた物を取り出しますと机の上にそれを置き、写真機でそれをカシャリ…と一枚、写真を撮りました。




***




 海の様に青かった空に紅緋色の夕日が昇った頃、婦人、城之崎 希から事件当時の状況を聞き終えた探偵の男達一行はK邸宅を後にし、大勢の屋台や街を往く人々で賑わう、夜のS街道を歩いておりました。そこは、酒に酔いしれた者や過酷な労働で疲弊ひへいしきった者、短い夜を己が欲望のままに楽しもうとする者で溢れかえっており、様々な内容の話し声がそこかしこから荒波のように聞こえてくるのでありました。

 「それで、どうだ探偵屋…実際に現場を見て。何か分かったことはあるか?」

 「あぁ、ぼちぼちな。火曜ももう終わりだ…明日の水曜には犯人を特定できるんじゃないかな」

 「おぉ、そうかそうかぁ〜!それじゃあ俺はこれから極秘任務にでも行ってくるとするぜ!」

 「そう言っといて篠村さん、居酒屋にでも行くんじゃないんですか?」

 「いっ、いやいやぁ〜そんなことする訳ねぇじゃねぇか。俺は急ぐからここら辺で、それじゃあなぁ〜探偵屋」

 そう言うと、篠村刑事は口元に笑みを溢しながら様々な者達で賑わう群衆の中へと去って行ってしまいました。

 「あれは絶対飲みに行くなぁ〜篠村刑事…まぁいい、俺達も飲みに行くか暮島君」

 「私も良いんですか?」

 「あぁ、勿論だとも。君にはもう少し協力して貰いたいからなぁ…」

 そう言うと、探偵の男は暮島を連れてS街道を歩いて行きました。




***




 S街道の一角にあるE居酒屋へと足を踏み入れた探偵の男は皮やぼんじり、ねぎまと言った熱々の焼き鳥を酒のさかな熱燗あつかんを飲み、まだ未成年である暮島は饂飩うどんさかなに焙じ茶を飲んでいました。

 「ところで暮島君…君は先程の遺体の死因は……転落とその他、このどちらだと思う?」

 探偵の男からの問いかけに暮島は食事の手を止めました。そして、手に持っていたはしを箸置きに置くと、探偵の男からの問いかけに答えました。

 「私は、前者だと思います…」

 「それは何故かね?」

 「城之崎 然次郎さんの遺体を見たところ頭部に強い打撲痕だぼくこんがありました。なので、出血原因は三階から転落した際の頭部の強打で間違いありません。恐らく、ご遺体の方は犯人との格闘の果てに誤って、もしくは意図的に突き落とされたと考えられます」

 「ほう、却々なかなかの観察眼だ。それに、知恵も」

 「私、家に引きこもってずっと勉強ばかりしていたので知識には少々自信があるんです。もしかして…違いましたか?」

 「いや、大方あっている。だが、あえて付け足すとするならば「誤って転落した可能性」は限りなく低いだろうな」

 「それは、どうしてですか…?」

 「窓枠の高さだよ。君と篠村刑事が婦人に話しを聞いている最中、俺は強盗に荒らされたという邸宅内を見て回っていたのだが、どの部屋も窓枠の高さは腰よりもかなり上…胸部辺りまではあった。あれだけの高さがあっては誤って転落したとは考えにくい」

 「それでは、強盗犯が御遺体の方を意図的に突き落としたと…ですが、御遺体の方はかなり体重がある様に見えました。御遺体の方が必死になって抵抗すれば転落せずにすんだと思いますが」

 そう暮島が疑問を口に出しますと、探偵の男は「その言葉を待っていました」と言わんばかりにニヤリと微笑みながら、ポケットから小さく何かを包むように折り畳まれたハンカチを取り出しました。そして、取り出したハンカチを卓上に置きますと、ゆっくりとそれを開いてゆきました。すると、何重にも包まれた布の中からは一つの小さな茸が姿を現しました。シビレタケ、それがこの茸の名称でありました。その茸は半円形のかさを持ち、全体が白みがかった茶色で、茎についた傷は白みがかった茶色から青色へと変色しておりました。

 「それは…シビレタケ!そうか、犯人はその茸の持つ幻覚成分、シロシビンを使ったのですね」

 「あぁ、K邸宅の台所にあるゴミ箱でこれを見つけたのだ。恐らくこれを犯人が城之崎 然次郎氏に食べさせて全身の感覚を麻痺させたのだろう」

 「台所に…これが……」

 「その様子から察するに、他にも何か気がついたことがあるんだな。暮島君」

 探偵の男からの問いかけに、暮島は寂しそうな表情を浮かべながら答えました。

 「わっ、私……目の前でお父さんとお母さんを失って、心の底から絶望して、悲しんだから分かるんです。あのご婦人…希さんは然次郎さんの死を悲しんでいませんでした」

 「あぁ…そうかもしれないなぁ……」

 「あっ、あれ…もしかして探偵さんは気がついていたのですか?てっきり気づいていないものかと……」

 「俺は探偵だぞ、人の感情を読み取るくらいは十八番おはこみたいなもんさ」

 そう言いますと、酒に飲まれる寸前だった探偵の男は顔を赤く染め、にやけながら二重廻しの内ポケットから手帳を取り出し、それを開いて、走り書きのメモへと目を向けました。

 一方、暮島は探偵の男の目に何処か哀しい感情が潜んでいるように見えました。しかし、その感情が何に由来するものなのか彼女には分かりませんでした。




***




 次の日の朝、暮島はとある探偵事務所のソファの上で目を覚ましました。そこは却々なかなかぬくく、落ち着いた香りが広がり、居心地の良い場所でありました。

 A私立探偵事務所、それが探偵事務所の名称でありました。そこは探偵の男が営む探偵事務所で部屋の中は洋風な作りとなっているのです。何でもこの洋の雰囲気が探偵の男の趣味思考に一番合うらしいのです。

 暮島が目を覚ますと、台所には朝食を作る探偵の男の姿がありました。

 「おはようございます」

 「あぁ、おはよう。暮島君」

 「随分と探偵さんは朝が早いのですね」

 「まぁ…俺には時間があまりないからなぁ……」

 「時間が無いというのはどう言う事ですか?」

 「いや、何でも無い…こっちの話しだ。それよりも朝食ができたぞ。腹が空いてはいくさはできぬ、しっかりと食べておけよ」

 「いくさ、ですか?」

 「あぁ、いくさ と言っても身体からだを使う肉弾戦ではなく、頭を使う頭脳戦だがな。K邸園殺人事件、その真相を解き明かすのさ」

 完成した朝食のスクランブルエッグとサラダを適当な皿の上に盛り付けた後、探偵の男は数々の事件の資料が散乱した机の上へとそれを並べました。そして、探偵の男の告げた、時間が無いと言う言葉に思考を奪われながらも暮島は席に着き、手を合わせ、朝食を食べ始めるのでありました。




***




 徒歩でK邸園へと向かっていた道すがら、探偵の男と暮島はところ構わずどす黒い煙を吐き、ブロロォ…と原動機の激しい鼓動を響かせる、警邏車けいらしゃに乗った篠村刑事と邂逅かいこう致しました。そして、長い道中を徒歩で行くのは辛かろうとこころよ警邏車けいらしゃへと乗せて貰うことができた探偵の男と暮島は、事件を解決し、真相を解き明かすため、再びK邸宅へと足を運びました。

 数分後、K邸宅の門前へと辿り着いた探偵の男は何故か篠村刑事に手錠を一つ渡すように指示を出しました。詳しくは説明しようとしない探偵の男に篠村刑事は二人へと、顔を渋らせて見せました。しかし、十分に考えた末に、枯茶色からちゃいろのトレンチコートのポケットの中に入れていた、一組の手錠を差し渡しました。

 「今回は特別だぞ…だが、一体その手錠、何に使うんだ?」

 「何って、決まっているじゃないか篠村刑事。犯人逮捕にだよ」

 そう言うと、探偵の男はまるで、小悪な悪戯いたずらごとを企む子供の様に、口元に笑みを浮かべながらK邸宅の扉をノックしました。すると、K邸宅の中からは城之崎 然次郎氏の遺体を一番最初に見つけた第一発見者である婦人、城之崎 希が姿を現しました。

 「おや、貴方達あなたたちは…今日も来られたのですか?」

 「えぇ、是非とも喜んで下さい奥さん。強盗犯を見つけましたよ」

 「えっ!?そっ、それは本当ですか…?」

 城之崎 希が驚くのも無理はありません、何せ、同伴どうはんしていた暮島や篠村刑事でさえ逃亡しているはずの強盗犯を見つけただなんて聞かされていなかったのでありますから。

 読者の皆様の中にはもう、お気づきになられている方もおられるかも知れませんね…そう、「強盗犯を見つけた」と言うこの報告は、探偵の男のでっち上げた虚言なのであります。しかし、一重に虚言と言い切れる様なものではなく、探偵の男の言うことはあながち間違いでもないのです。はてさて、これは一体全体どういうことなのでしょうか、探偵の男は何故この様な発言を城之崎 希へとしたのでしょうか…それは、物語を読み進めれば自然とお分かり頂けることでしょう。

 「えぇ、是非とも詳しくご説明したいので中へ入ってもよろしいでしょうか」

 「えっ、えぇ…勿論です、どうぞ中へお入り下さい」

 いきなりのことに戸惑いながらも、城之崎 希は探偵の男達をK邸宅内へと招き入れました。その後、客室へと通され、軽い茶菓子をもてなされた探偵の男達は一息つきながらも本題へと入りました。

 「さてと…それでは諸君、待望の強盗兼殺人犯を眼前にお披露目するとしよう」

 そう告げますと、探偵の男は突如椅子から立ち上がりました。そして、ズボンのポケットへと手を突っ込みますと、一組の手錠を取り出し、探偵の男は第一発見者であるはずの城之崎 希の右手首へとその手錠をパチン…と掛けたのです。

 「なっ、何をするのです!?探偵さん!」

 「何って、犯人を捕まえたまでだよ?」 

 「私は遺体を見つけた者で…!」

 「あぁ、そう…それがそもそもの間違いだったのだ」

 「どっ…どう言うことだ、探偵屋?」  

 「至極簡単なことさ…彼女は自分で城之崎 然次郎氏を殺害し、自分で警察に通報したのだよ。自らが第一発見者となり、殺人犯ではないと俺達の頭にすり込ませるためにね。いやはや、この様な奇策をよくぞ考えたものだ」

 探偵の男の推理に、一同の思考は思わず混乱と動揺に支配されてしまいました。しかし、そんな皆の様子を他所よそに探偵の男は、二重廻しの内ポケットから複数枚の写真を取り出しました。そこには、仏となった城之崎 然次郎氏が生前、数々の女達とさぞ楽しげに不倫を行う様子が写し出されているのでありました。

 「これは…!」

 「俺の知り合いには腕の立つ情報屋がいてなぁ、そいつから聞いていたんだよ。城之崎 然次郎氏の酷い不倫癖について」

 複数の写真と共に、探偵の男が告げた不倫癖という一言を聞いた途端、婦人の表情が瞬く内に強張こわばりました。それは、まるで蛇に鋭い目つきで睨まれた臆病な蛙のようでありました。

 「な…何のことですか?不倫?それと今回の事件に何の関係があると…?」

 内心、酷く怯え、油汗を流しながらも必死に現実から逃げようとする婦人からの問いかけに、探偵の男は二重廻しの内ポケットからもう二つ、ハンカチに包んだシビレタケと婦人、城之崎 希の部屋で見つけた不倫の決定的証拠を写した写真を取り出しました。

 「婦人、このシビレタケ…何処で見つけたと思う?」

 「さっ、さぁ…何処でしょうか……」

 「強がりはよしたまえ、このシビレタケはこの邸宅のキッチンにて見つけたのだ。もう存じていることだと思うが、これには幻覚性分が含まれていて、食べる事によって身体からだの感覚が麻痺してしまう。婦人は庭に自生していたこれを料理等にでも入れて城之崎 然次郎氏に食べさせ、抵抗できないようにし、三階の窓から突き落とした。犯行動機は長年の不倫による怨みとでも言ったところか…婦人、貴方あなたの部屋にその証拠となり得る写真もありましたよ」

 「…………」

 あたかも全てを見透かしているかのように的確に的を射貫いた推理を披露する探偵の男に婦人は唯々口を固く閉ざし、沈黙をもって答えました。

 「どうです?これでもまだ第一発見者を演じ続けますか、婦人」

 「……はぁ〜あ、バレちゃったかぁ…上手くだませたと思ったんだけどなぁ〜…」

 もうこれ以上、隠しきれないと悟った城之崎 希は大きく溜息ためいきを吐き、酷く残念そうに振る舞いました。推理が見事、的中していたのです。

 全てを暴かれた城之崎 希は、まるで何者かに憑依されたかの様にこれまでの様子を一変させ、まるで別人かの様に豹変して見せました。すると、手近な秋明菊しゅうめいぎくの花が生けられてあった花瓶を手に取りました。そして、手に取ったその花瓶を扉の前に立ち塞がる探偵の男へと力一杯に投げつけました。不意を突かれ、投げつけられた花瓶によって体勢を崩してしまった探偵の男は城之崎 希によって勢いよく突き飛ばされてしまいました。

 一方、その場を立ち去った城之崎 希は表に止めてある車へと掛け乗り、逃走をはかってしまいました。

 「しまった、逃げられてしまった、急いで車を出してくれ篠村刑事」

 「あぁ、分かった。任せとけ」

 「俺達も婦人の後を追うぞ、暮島君」

 「はっ、はい…!」

 慌てて席を立ち上がりますと、暮島は探偵の男の後に続いて、急いで篠村の警邏車けいらしゃへと掛け乗りました。そして、城之崎 希の乗る車の後を追跡するのでありました。




〔補、1〕警邏車けいらしゃとは、パトロールカー/パトカーの別称である。

***




 探偵の男達のしつこい追跡を逃れるため城之崎 希は道端で車を乗り捨てました。そして、昼夜問わず人通りが多く、複雑に入り組んだ街並でおおやけに知られたG街へと逃げ込んで行きました。

 一方、城之崎 希の後を追ってG街へとやって来た探偵の男と暮島も篠村刑事の運転する警邏車けいらしゃを急いで降りました。

 「急いで追わないと…!」

 「いや、暮島君は左の道を行ってくれ」

 「どっ、どうしてですか?」

 「詳しいことはその道を行けば分かる」

 そうとだけ言うと、探偵の男は走って城之崎 希の後を追って行きました。

 一方、暮島は疑問を抱きながらも城之崎 希の逃げていった道とは違う、探偵の男に指示された左の道を走って行きました。

 「いつまで追ってくるのよ、あの探偵…!」

 背後から迫って来る探偵の男に、息を切らしていた城之崎 希は一刻も早く追跡を逃れるため細い裏路地へと逃げ込で行きました。しかし、それでも探偵の男は諦めず、辛抱強く城之崎 希の後を追いかけ続けました。

 しばらく経った頃、探偵の男は突如、左手首に着けた腕時計へと視線を向けました。そして、どういう訳か秒針と共に探偵の男は口元に笑みを浮かべながらカウントを始めたのです。

 「そろそろだな…5、4、3、2、1、今!」

 探偵がそう告げた次の瞬間、裏路地を抜け大きな通りへと抜けた城之崎 希は訳も分からず走っていた暮島と鉢合わせました。そして、お互いに何も知らなかった城之崎 希と暮島は驚きながらも正面からぶつかり、その場に倒れ込んでしまいました。

 「いっ、たたぁ……」

 「よくやったぞ、暮島君…っ!」

 少々息を乱しながらも城之崎 希の元へと追いついた探偵の男は腰へと手を回しました。そして、腰から一本の年季の入った十手を取り出しますと、立ち上がり、その場から逃げようとする城之崎 希の背へと向かってそれを投げました。すると、探偵の男の狙い通り見事十手を的中させた城之崎 希は体勢を崩し、その場に再び倒れ込んでしまいました。

 「とうとう捕まえたぞ、婦人」

 「ちっ、ちくしょう。やられたぁ……」

 城之崎 希の上へとまたがり、身動きできないように拘束した探偵の男は手錠を使って両手の自由を奪いました。そして、見事事件を解決して見せた探偵の男の姿を見て暮島は思わず探偵小説の佳境を読んでいる際の様に胸をうずかせておりました。

 「すっ、すごい…あの探偵さん。まるで、明智 小五郎、シャーロック・ホームズの様ではありませんか。一体、あの人は何者なのでしょうか…?」

 「何だ、嬢ちゃんは知らなかったのか。まぁ、彼奴あいつは自分から名誉を語るような奴じゃないからなぁ…彼奴あいつはどんな難事件でも必ず真相に辿り着く。そして、今は世間を騒がす快楽殺人鬼、怪人αを捕まえることに全身全霊を注ぐ、正真正銘の名探偵、新田 賢助。別名、名探偵A…その人だ!」




〔補、1〕十手:江戸時代の岡っ引き(当時の警察)が使っていた武器であり、捕具の一つ。

***




 「名探偵A」

 あまり世情に詳しくなかった暮島でもこの名は知っておりました。名探偵Aとは警察からの依頼、難事件の解決に幾度も協力してきながらも、その素性が一切明らかになっておらず。一部では何処かのわっぱが作り上げた都市伝説なのではないかと揶揄やゆされるほどに謎めいた、まるでかすみのような存在でありました。

 「どうかしたのかな、暮島君。先程から何かをずっと考え込んでいるようだが」

 K邸園殺人事件を見事解決し、一仕事を終えた探偵の男…改め、賢助と暮島は昨夜にも訪れたS街道の一角にあるE居酒屋へと足を踏み入れ、昨夜のように同じ料理ものを頼みました。唯一昨夜と違う事と言ったら、その日の賢助は様々な種類、様々な値段の酒を注文し、食卓の上へずらりとそれらを並べました。

 「いえ、今日はお酒をそんなに飲まれるのですか?」

 「あぁ、酒は良いぞ〜嫌なことや辛いことを全部忘れさせてくれる」

 「それはアルコールの飲み過ぎですよ。あまりお酒を飲み過ぎると肝臓に脂肪が溜まり過ぎて、肝炎を引き起こしてしまいますよ?」

 「ははっ、流石さすがは暮島君だ。痛いところを突いてくるなぁ〜…だが……まぁ、俺にとってこれは今週最後の晩餐ばんさんだからな…」

 賢助の言葉に暮島は思わず首を斜めに傾げてしまいました。と言うのも、今日の曜日は水曜日、平日の真っ只中であり、週末に突入してすらいなかったのです。勿論、暮島はこの疑問を賢助にぶつけようとしました。しかし、賢助の目に浮かぶ…まるで、自分が消えてしまうのではないかと言わんばかりの哀しげな眼差しに、暮島は喉元まで出掛かった疑問を飲み込むことにしました。

 「ずっと気になっていたのですが、どうして私のことをここまで面倒見てくれるのですか…賢助さん?」

 いつかは来ると思っていた暮島からの問いかけに、賢助はズボンのポケットの中から一枚の新聞の切れ端を取り出しました。それは何重にも折りたたまれており、開くと中には二枚の写真が写し出されておりました。

 一方には灰燼かいじんへと帰した暮島家の屋敷の様子が写し出されており。もう一方には、同じく暮島家の屋敷の付近に残されていた、一枚のカードが写し出されておりました。

 カードは写真越しからでも感じ取れる程、何処か異質な雰囲気をかもし出しており、漆黒色しっこくいろに染まり上がったカードには真っ白なインクでただ一つ、α《アルファ》と言う文字が大きく書かれてありました。

 読者の方々はもうお気づきかも知れませんが。この現場に残された、αと書かれたこのカード、これこそが世間を騒がす快楽殺人鬼、怪人αの仕業の証なのです。普通だったらこんな身分証明書のような物を現場に残していく者など先ずおりません。ですが、怪人αは違います、怪人αは殺人という名の遊戯を唯々純粋に楽しんでいるのです。

 「怪人αが私の両親を…」

 「あぁ、そのカードが現場付近で見つかったからには、間違いないだろう。彼、もしくは彼女は他者の命を奪うことを生きがいとし、これまでに幾つもの殺人事件を犯してきた。恐らく、これからもそうだろう…」

 「そっ、そんな……」

 「だが、奴も所詮しょせんは人間だ。人間なら俺達人の手で止めることができる。違うか?」

 賢助からの問いかけに、暮島は大きくうなずいて答えました。そして、この時、暮島の心の内が大きく動き始めました。

 暮島は生涯で初めて、探偵と言う名の職に言葉にできぬ程の強い憧れを抱き、いつになるかは検討もつきませんが、賢助が怪人αを捕まえる、その瞬間を無償に見てみたくなってしまったのです。

 「私も、手伝わせて下さい…!」

 「手伝うって…一体何をだい……?」

 「それは勿論、怪人αの逮捕です!私にも何かお手伝いできることがあるはずです。それに、今は何も思い出せませんが、もしかしたらこれから先、怪人αを調べてゆく中で何か思い出すかも知れませんよ」

 「ふむぅ………」

 暮島からの提案に、賢助は弟子として認める代わりに二つの条件を呑むように要求しました。それは、どれもこれも意図が分からない内容のものばかりでありました。

 一つ目は、行く当てのない暮島をA私立探偵事務所のオフィスに住まわせる代わりに依頼の管理を全て一任する。そして、二つ目は…月曜、火曜、水曜以外は街で賢助を見かけても声を掛けてはならないと言うものでした。一つ目の条件はまだしも、二つ目の条件の内容に暮島は思わず首を傾げました。しかし、その時は深く考えずに暮島は賢助の出した条件を承諾しました。

 「分かりました、これからもよろしくお願いします。賢助さん」

 「あぁ、よろしくな。暮島君」

 曖昧な関係から晴れて仕事仲間となることができた賢助と暮島は各々のさかずきを交わし、探偵の誓いを立てたのです。




***




 次の日の朝、賢助の営む新田私立探偵事務所。俗称、A探偵事務所のソファの上で目を覚ました暮島は眠たい目を擦りながら周囲を見渡した。すると、事務所の中の何処にも、昨夜まで一緒に居たはずの賢助の姿が見当たりませんでした。

 「一体何処へ行ってしまわれたのでしょう、賢助さん…」

 姿を消した賢助を心配しながらも、暮島は何か…朝食を作るため台所へと足を運びました。すると、そこでは恐ろしい光景が待ち構えておりました。冷蔵庫の中には一升瓶の酒が数本、それ以外には何一つ、食材が収められていなかったです。このままではいけない、朝食どころか酒の肴さえ作る事ができないと知った暮島は、事務所内にあった手提げかごといくらかの金銭を手に、少しばかり離れたT市場へと足を運ぶことにしました。

 しばらく経ち、T市場へと辿り着いた暮島は、八百屋やおやや鮮魚店と言った様々な店が表に構え、「我こそは、我こそは」と言わんばかりに並べられた様々な新鮮な魚や野菜等の商品をじっくりと見定めておりました。すると、背後の八百屋やおやから聞き覚えのある、一人の男の声が聞こえてきたのです。

 「…えっ、どうして。おかしいでしょ?先週、僕が来た時までこの滑子なめこは300円じゃなくて287円だったよね?」

 「この声…!」

 聞き覚えのある男の声に、暮島はその声のする方へと振り向きました。すると、そこには八百屋やおやの商品の滑子なめこを手にし、値上がりした理由を追及する賢助の姿がありました。ですが、服装はいつもの茶色のハンチングハットと二重廻しではなく、紺色のワークキャップに白色のシャツ、黒色の長ズボンに半纏はんてんを身に纏っておりました。そして、気のせいかも知れませんが、暮島の目には賢助の様子がいつもとどこかが違うように見えたのでありました。

 「どうかしたのでしょうか、賢助さん…?」

 なんとも言えない違和感に暮島は居ても経っても居られず、思わず賢助へと声を掛けてしまいました。昨夜交わした約束を忘れている訳ではありません。ですが、今声を掛けなければきっと後で後悔する、そう考えた暮島は、渋々自らの判断に従うのでありました。

 「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」

 暮島から声を掛けられたことに、賢助は「何故、約束を破ったのだ」と指摘することはありませんでした。何故なら、その時の賢助の頭には、それ以前の純粋な疑問の感情、それのみが湧き上がっていたのです。そして、暮島からの声掛けに、賢助はまるで初対面の人物と話しているかの様な挙動きょどうで、次のように問い返したのでした。

 「きっ、君は…誰かな……?」

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