言継・華国の玉

坂俣 織香

君と僕、杏と翡翠

 僕の目の前には赤黒い水溜まりとカンフーシューズが見える。この赤色の主を地獄に誘う為、僕の体積よりも大きくなり、包み込むのだろう。やったことが返ってきただけ、罪を蹴飛ばしてくれただけだと、罰を振り下ろしてくれただけだと赤の中に揺らめく黒に幾度となく教え諭しては痛みに身を任せようとした。


 凄まじい速さで地が軽やかに音を立てる。薄ら目を開ける男は微かに笑った。鉄の棒を持った男が1歩下がる。2つの音の違いが分かる。足音を少し大きくした程度の音の後に風と共に縄に打たれる音がした。音は途絶えることなくしばらく続いた。その間に横たわる男は胸の中で思い出話をしていた。


 僕は命の大切さを知っている。弟が8歳の時に生まれたが、朝起きて、挨拶をして、頭を撫でようとしたら、冷たかった。その寒さを今も覚えている。朝だから寒い。其れも有る。だけど、人が冷たくなる事を知らなかったんだ。人間は暖かいものだと思っていたんだ。誰もあれ程冷たくなって欲しくない。僕はあんな姿はもう見たくないと心から思った。

 翌年から友人が近所の同年代の子達から虐めを受けているのを見た。僕は2年の歳月を経て虐めを行う彼の胸に溜まり続けていた不満を少しばかりとは思うが取り除き、友人への虐めを辞めさせることが出来た。でも其れが誤解を産んだのかも知れない。

 10歳の頃、文化革命運動と装った奪権運動が行われた。それは数え切れない人間に耐え難い痛みと死を望むほどの苦しみ、そして無慈悲な死を得た。僕は必要以上の行いだと幼いながらに思った筈だ。

 15歳の時、軍へ入れられた。拒否をすれば家族共々殺されると思った。知らぬ人でも殺したくは無いが家族の死よりも余っ程どうでもよかった。

 17歳の時、文化革命運動を行わされた。人を軍靴で蹴り、刀の樋で叩き、屋根へ逃げた人間の襟首を掴んで投げ落とし、鼻先を殴り熱湯をぶち撒けカナヅチは海に落とし首を押さえつけ水も食べ物も与えぬままに家の柱に括り付け餓死するのを見守る。最早こんなことは序章に過ぎなかったりするが思い出すのも吐き気がするのでここ迄だ。恐怖、嫌悪、焦り、絶望、怒り。人の笑顔を見たのはどれほど前だっただろうか。魂の叫びを聞かずに居た日はあっただろうか。暖かさを自分からも感じ無くなったのは、肉を食べて吐き戻したのは、血の匂いに慣れて、人を思う心を死に逝く人間に託したのは、何時だったろうか。

 そんな頃から友人が率いる面々に精神を削られるようになった。何時も軍人か未来を失う人間か失った人間、無機物と向き合って、人の代わりに仕事を終わらせる為眠れぬ日々を送り、眠る為と目を閉じれば耳を塞ぐことすら出来ぬ程の金切り声が聞こえるようになった。

 20歳になった年。そんな悲惨な革命は幕を下ろした。3年、3年耐えたのだ。暫くは人の死に顔を見なくて済むだろうか、悲痛の叫びを聞かずに済むだろうか、太陽の暖かみを感じれるだろうか、肉の旨味をまた味わえるようになるだろうか、血の匂いを嗅がずに済むだろうか、僕に心は戻るだろうか。久方ぶりに心が自身を主張した気がした。

 25歳になった時、士官の座を与えて頂いた。同年代の中では僕が1番位が高くなった。悪事を働けば首を飛ばされるか、それとも今からでも仕返しをされるのかと元友人とその一行は静かに仕事をこなす様になった。昇格したことにより、新たな仕事を得て、即座に覚え行うを暫く繰り返して、眠れぬ事を利用し、どれほど疲れていようとも仕事をさせられた。

 26歳になった春。新たな軍人が目の前を連なる。女性も混じっていたがとやかく言うのも変だと思いそっとしておいた。だが、女性の中に、一際目を惹く者が居た。淡い茶色の髪をした女性だった。彼女の顔は他の者とは違う雰囲気を醸し出していた。進行役の話も、指示者の話も耳に入らず、ただひたすらに彼女が何故あれほどほかとは違う面持ちをしているのかを考えていた。

 書類仕事を終えた後、其れを確認してもらうため、自室を出る。長い廊下の片側には柱が均等に並んでいる。その間を縫って突風が吹き付けた。咄嗟に書類を庇った。庇いつつ閉じてしまった目を開ける。すると杏の花びらが宙を舞う光景が目に色を灯した。目の前は優しい色に包まれた。つい片手を伸ばした。風が和らいで緩やかに、予測不可能な動きをしつつ降りてくる。手に薄い、淡い色が乗る。手の奥に人が見えた。新兵達が基礎体力作りをしている。すぐに全員が体制を崩したが、1人だけは崩さなかった。やはり彼女だ。休憩時間であろに、ナロープッシュアップを行っている。地に手を付けるなど本来嫌だろうが、彼女はそんな事は惜しまないようだ。こんな短時間だが、彼女には好意を抱き始めている。書類仕事が楽しくなってきた。また彼女の頑張りを見れるだろうか。

 彼女は18歳にして一級上将に上り詰めた。僕と同じくらいになったと言っても過言では無い。僕は軍において大きく2つに分けられる内の1つを寝ない代わりに任せられていた。所謂雑用で、雑用の中ではトップの地位に組み込まれた。お陰で共に仕事をする事も有るし、教える事も有る。彼女は世間体には左右されず、工夫と努力でカバーし全てこなすのだ。容易いことでは無い。

 僕は晴れて三十路の仲間入りとなった今日この頃、前よりも体調が穏やかになり始めている。自然が織り成す芸術を、音楽を、暖かさを、甘さを、風に揺らぐ爽やかな香りを、優しさを受け、僕も自然を愛すようになれた。目を瞑っていると彼女の友人が尋ねてきた。どうやら敷地に猫が入って来たらしい。他の人達は最近ミサイルについて慌てていて猫を見つければ殺されてしまうかもしれないと恐れて最近1番穏やかそうな僕を頼りにしてくれたとの事だった。猫がいるのは室内訓練場らしく、女兵士は他に仕事があるそうなので場所だけを述べ仕事へ向かって行った。入って見れば彼女が座り込んでいる。腕は微かに動いていて、数多く並ぶ柱によって手元は隠されているが優しい動きをしていた。僕は壁を伝った。足音が分からぬように、気配が見えぬように。雲が動き晴れ初めた。柱の影は位置を変える。完全に晴れ渡ったと同時に彼女の顔が照らされ見えた。氷が花になった。少し釣り挙がっていた眉は緩やかにカーブを描き、人を疑う様な目は事実を受け入れる様に、地に平行な口角は微かなカーブを描く吊り橋の様で、何時も隙を見せない動作は花びらの様に柔らかな穏やかな動作をしている。僕の胸には彼女の瞳と同じ藤色に染まった気がした。黒色の軍服よりも似合う物なんて幾らでも有るのだろうと惜しく思った。彼女に声を掛け、女兵士から頼まれたことを話し、領地から出してあげて欲しいと伝えてその場を去った。本当は共に敷地から猫を出したかったが、僕と居るよりも猫と居た方が、と考えた所で胸が握られる様な感覚がして彼女を必要以上に思っているのだろうと自覚した。

 其れから数カ月してからだろうか、彼女に冷たくされている気がする。前は僕の世間話にもそれとなく付き合ってくれたが、今は「そんな事より」と仕事をする様に促されてしまう。もしや鬱陶しかったのだろうか。どうやら僕にだけの様で、他の人には僕にしてくれた様に付き合っているのに……。なんだかまた胸が痛い。でも僕が彼女の隣で生きているという画が思い浮かばない。そもそも10歳もの差が存在する。そんなおじさんを彼女は選ばないだろう。いい加減僕も夢は辞めにして世に目を向けなければいけないね。君の上司だよ、僕は。


ねぇ一級上将さん。いや、シィンさん。愛しい愛しいシィンさん。僕の心等お気になさらないでくださいね。貴女の笑顔が見えれば良いのです。それを隣で見れれば尚良いですがね、高望みは良くありません。

シィンさん、シィンさん。そんなに顔を歪ませないで。

シィンさん、シィンさん。僕は貴女の笑顔が見たいです。

シィンさん、シィンさん。


「笑って下さらないのですか……?」


 士官が私に少し壁を置き始めたのは知っていますし、其の理由が私で、優しさである事も知っています。恋を知らずに生きてきた私は人を好きになる事に戸惑い、祖父母にされてきた様な扱いをされたくないばかりに士官を避けたんです。士官にそんな事をされれば心が再び死んでしまいます。年の差が過ぎると世は言うでしょうが10歳差が何なんですか。貴男も私がそんな事を気にする心の狭い人間だとお思いですか。


_________________何時だって。


 眩しいほどの朝日に眉間にシワを寄せる無機質な部屋の無機質なベッドに横たわる包帯だらけの男。意識を天からの光により起こされ、周りを見渡して見ればベッドの傍の椅子に座り、ベッドに俯く女が1人。頭に差し伸べた手を捕まれ目を見開き、むくりと向けられた顔を暫し見詰めているとびっくりした様な顔が向けられる。医療班の者の話によると10日も寝ていたと言う。更に驚く男。医師が出て行くと女が姿勢を正す。それに釣られて背筋を伸ばす。喋りづらそうに口を開き、私に言う事は有りませんか、と問う。男は御心配をおかけ致しました、と。女に違うと言われ、首を傾げる男。避けていたでしょう、と女。息を飲む男。今までの事を素直に話し、これをわざわざ言わせているのだからここまで言っても良いだろうと女の目を見る。女は頷いた。

「好いてしまいまして……一級上将さんを……」

年齢の事も有るし、勿論それを物ともしないのも分かっている。しかし、もしもがあるかも知れないと。女は息を吸った。

「士官はあの時、目を閉じる直前に御自分が何と仰ったかご存知ですか?」

男は困惑した。覚えていないのも有る。其れがどうこの話に繋がるのかならなかったからだ。答えが返ってこないのをYESと捉え喋る。

「私は隣に来て頂ければ笑って差し上げますと返答しました。」

男の目は再び大きく開いた。男は目を様々な方向に向けた後に自身の手を握り締め、問う。

「隣に行く事をお許し願えますか?」

女は猫への微笑みと合わせて嬉しさを表した。


「是」


其れが答えだった。


 僕を襲った男は過去の友人であった。やはり幼少期の虐められた事や加害者に僕が割って入った事が彼を犯罪に導いてしまったようだ。彼は刑務所に飛ばされ幾年かそこで衣食住をする事となったのだ。警官には彼には彼なりの理由が有ると存じますので刑は軽くお願いしますと伝えた。其れを聞いた元友人は静かに涙を流したと聞いている。

 21歳になったシィンさんは軍人を辞め、平谷区に移住し、ホテルで客室係をしていた。僕はというと翌年の10月を機に軍人の名を返上し、彼女が住んでいる家に同棲しながら旅館のホール係をしている。33歳になった年はアマリリスを庭に植えて彼女を密かに讃えた。翌年の1月はランドスケープ・アゲートが嵌められたイヤリングでプロポーズをした。両親が亡くなっていたことを知った時も傍に居てくれたシィンさんとの愛を永遠にしたいと思ったからだ。彼女はイヤリングを1つ手に取って僕の左耳に着けてくれた。手に残ったもう1つのイヤリングを彼女の右耳につけて2人で微笑み合い、手を繋いだ。誕生日には翡翠がトップのネックレスを渡した。


 34歳になった。左手の薬指にはカーネーションが彫られた銀のリング、トップにはカコクセナイトが埋められている。煌びやかな髪飾りと赤色のウエディングドレスに身を包んだ彼女の唇にキスをして桃の木が植えてある門を目指す。

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言継・華国の玉 坂俣 織香 @shachi0130

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