2.私が似ているカリスマ


 休日ということもあってなのか、この日のお店は繁盛していた。常連のお客様はもちろん、この辺では見かけない顔の人もいた。


 観光客はすぐにわかる。それは年代や服装などもあるが、会話のイントネーションだったり、注文にかかる時間だったり、何処か不慣れな様子からなんとなく察することが出来るのだ。


 そういえば、と思い出す。世間ではあと数日でゴールデンウィークとかいう大型連休に入るのだったなと。

 中にはもう有給休暇を利用して連休をスタートしている人もいるのかも知れないな。そう考えれば今日の集客にも納得がいく。


「琉夏ちゃん、ちょっと早いんだけど先にお昼休憩に出てくれる? この調子だと午後の方が忙しくなるかも知れないから」


「わかりました! 行ってきます」


 奥さんの方を振り向いたとき、服の内側でたらりと生温かい雫が伝ったのがわかった。

 立夏さえ迎えていないこの時期にこれほどの熱気を感じさせてくれるとはなかなかやりおる。と、誰に向けたものなのかもわからない感心にこくりと一人頷いたりした。



 長谷川家へと繋がる廊下の途中、揚げ油の匂いが染みついたバンダナとエプロンを外す。毛量の凄まじい髪にも熱がこもっているようだ。とは言え、ほどいてしまうと後で再びまとめるのが面倒だからと一つ結びのままにしておく。

 名前に“夏”と入っていたって暑さには弱いのだよ私は。若いモンとは違ってね。


 今朝、みんなで朝食を囲んだばかりの和室には、まかないの唐揚げ丼と味噌汁のセットが用意されている。ありがたい。


 燦々とした陽光が斜めに差し込み、畳を温めているかのよう。もしここに猫が住んでいたら迷わずあの位置を選びそうだ、なんて思いながらテーブルの前に着く。


「いただきます」


 正座した姿勢のままそっと手を合わせたときだった。


「ルカ姉〜!! 見てこれ!」


「ぐぇ!」


 凄い勢いで駆け込んできた拓海くんは上手くブレーキをかけられなかったようで、私は左半身に見事な衝撃を食らった。アマガエルの鳴き声みたいな呻きが出てしまった。


 いつもなら足音で気付くのだが油断していた。いや、横から突進してきたということは隣の部屋で私が来るのを待ってたのか?

 まぁいい。ひとまずはこのヤンチャ坊主を優しく諭すとしよう。

 私は畳に転がった箸を拾ってから座り直す。


「こらこら拓海くん、危ないじゃないか。私は頑丈だから平気だけど他の人にこんなことをしてはいけないよ。もし怪我をさせてしまったら……」


「なぁ! これってルカ姉!?」


 何か様子が違うと気が付いたのはこのときだ。


 拓海くんの頬は紅潮し、鼻息も荒い。大きく見開いた目。その瞳には幾千もの星を散りばめたみたいな煌めきが宿っている。

 両手で大事そうに持っているものをぐい、と私の方へ押し出している。スマホよりも大きくパソコンよりも小さい板のような……そう、確かタブレットとかいうやつだ。


 よく知らないが精密機械なのだろうというためらいもあり、私はそれを受け取りはせず少しだけ顔を近付けた。

 未知の領域に吸い込まれることになろうとは思いもせず。



 画面の中の人物は動いていた。こちらに背を向けたまま大きく手を振り上げたり下ろしたり、しゃがんだり立ち上がったりとなんだか忙しない。何をしているのか最初はわからなかった。


 アングルがぐるりと人物のサイドまで回る。サイズの大きなパーカーは前が開いていて、そこから覗く黒のワンピースと滑らかな曲線を見て女性だとわかった。


 彼女の手に大きな絵筆が握られているのが見えたとき、芸術に関する何かだというのを察した。でもそれくらいだ。顔だってまだよく見えない。


 粘度の高そうな絵の具が宙を飛び交っているというのに、腰まで届く長い髪は束ねられてもいない。

 しかしそれ以上に目を引くのは色だ。頭頂部から毛先へ向かってライムグリーンからイエロー、そしてピンクへのグラデーションになっている。

 まるで南国の鳥のよう。そう思ったはずなのに、彼女と画面越しに目が合った瞬間、なんとも奇妙な感想が脳裏をよぎったのだ。



 陸に打ち上げられた魚がもがき苦しんでいるようだと。



「ライブペイントの動画なんだって。この人は五年前にすっげぇ有名だったMINATOミナトっていうアーティスト! こーんなでっけぇ絵を描くんだよ」


 興奮冷めやらぬ様子の拓海くんが腕をいっぱいに広げる。


「ミナト……さん?」


「そう! かっこいいだろ!?」


「かっこいい……か。うん、そうだね。迫力があって凄いと思うよ」


 なるほど、拓海くんの感性には響いたようだなと理解はした。

 正直、私は戦慄したのだが。つまり共感はしていない訳だけど、この状況でわざわざ否定的な本音を言うなどナンセンスというものだ。

 笑みを浮かべつつも未だ鳥肌が立ったままの腕をさする。


 しかしどうやら余韻に浸っている場合でもないようだった。何か思い出したように拓海くんが私の腕を強く掴んだ。



「って、それはいいんだよ! 俺が訊きたいのはさ!」


「う、うん」



「この人、ルカ姉じゃないの? 顔すっげぇ似てるじゃん!」



 更にタブレットを目前まで近付けられる。はた、と私は考え込んだ。


 似ていた……だろうか。さっき顔を見たばかりだけど、あまりよくわからなかった。MINATOというその女性はかなり派手なメイクをしていたからだ。

 ピアスだって目視できるだけでも両耳合わせて八つはつけてたぞ。私のセンスとはあまりにも遠いから、どうしても親近感が得られない。


 五年前と拓海くんは言っていたな。仮にこの人が私なら十七歳のときの映像ということになる。見たところ夏っぽい装い、私の誕生月はまだ来ていないと思われる。

 学生だとしたらおそらく高三。これで高三!? 仮にとは言え信じがたい。やたら早熟に思えてしまうのは私の感性が枯れているからなのか?



 わずかに指先が震えていることに気が付いた。

 何故だ。まさか動揺しているというのか、この私が。半信半疑など大部分が“疑”だと思うくらい冷めた思考の私が。


 曇った眼鏡の位置を正そうとしたはずだった。しかし指先は何故か目元をスルーして耳たぶ付近を彷徨う。何もありはしないそこに何かの存在を感じているみたいに。



「なぁ、やっぱりルカ姉なのか!?」


「拓海くん、私は……」



「そんな訳ないだろ。馬鹿なこと言うな、拓海」



 いつまでも続くかに思えた奇妙な時間を断ち切ったのはやや低めの声。正確に言うと、変声期を過ぎて間もない少年の声だ。


 いつの間にか壁にもたれていたのは長谷川家長男の翔太くん。短髪の生え際が少し汗ばんでいるように見える。

 彼は不機嫌そうな顔で拓海くんを見下ろし、すっと手のひらを向ける。


「もういいだろ。俺のタブレット返せよ」


「なんで。だってこの動画、兄ちゃんが見つけたやつだろ。兄ちゃんだってルカ姉に似てると思ったから見てたんじゃねぇのかよ」


「違う。ただの偶然だ。意味のわからないことを言って樫村かしむらさんを困らせるな」


 小学生のときは翔太くんも“ルカ姉”と呼んでくれていたのだが、すっかり大人びた口調になったな。状況についていけないゆえなのか、私は二人のやり取りをぼんやりと眺めるだけだった。

 そんなことをしている間に、拓海くんは少々ムキになったようだ。素早く立ち上がって翔太くんにタブレットを見せにいく。


「ほら、よく見ろよ! 化粧はしてるけど同じ顔だぜ!」


「しつこいな。いいからそれを返せ」


「だってさ、ルカ姉って昔の記憶ないんだろ? だったらもしかすると……」


「やめろ拓海!」


 ピリ、と空気が殺気立つ。季節外れの静電気とでも例えようか、それは明確な感触を伴って私の全身に伝わった。


「な、なんだよ……そんなに怒らなくたって……」


 弱々しい拓海くんの声に気付いたとき、私は咄嗟にアッハッハとオーバーな笑い声を上げた。それくらいしか出来なかった。


「いやー、他人の空似って本当にあるんだねぇ。こんなお洒落なお姉ちゃんに似てると言われるときがくるなんて思わなかったよ。むしろそっちにびっくりだ」


「樫村さん、すみません。こいつの言うことは無視して下さい」


「大丈夫大丈夫、気にしてないよ。私は芸術とかよくわかんないけど、かっこいい動画見せてくれてありがとね、拓海くん」


「お、おう!」


「拓海、宿題残ってるだろ。早く終わらせてこい。じゃないとおやつにありつけないぞ」


「え!? あ〜……わかったよ、やりゃあいいんだろやりゃあ。これ返す」


 ん! とタブレットを力強く兄に押し付ける拓海くん。何やら小声で文句を言いながら去っていく彼の後ろ姿を見送る。

 樫村さん。再びそう呼びかけられたとき、私の右手はまた耳たぶにあった。


「あの、本当に大丈夫ですか」


「あ、ああ! 本当に平気だよ。そりゃあ有名人に似てるなんて言われたらびっくりはするけど、似てるだけでしょ。いくら私が記憶喪失でも……」


「そうです。別人です」


 キッパリと言い切る口調。翔太くんの真剣な眼差しを私は不思議に思った。

 同時に身体の奥が騒いでいるような気配がした。


 それは衝撃的な言葉を受ける予感だったのかも知れない。



「MINATOは故人ですから」


「こじん?」


「はい、既に亡くなったそうです。理由は俺も知らないんですが」


「……そうだったのか。まだ若いのに残念だな」



 胸の奥の騒めきが速度を増す。私は思わず自分の肩を抱いた。


 ギリギリのところで平静を装う私に、翔太くんは柔らかく目を細めて微笑む。まるで大人のような表情だった。


「でも樫村さんはこうして生きてる。だから絶対に別人なんです。記憶のことは関係ありません。ここにあるものだけが事実なんですから」


「事実か。そう、確かにそうだな」


 実にシンプルな考え方だ。すっと腑に落ちる。

 一方でシンプルな事実もこの身体に存在している。


 MINATOというカリスマアーティスト。彼女と私のセンスは明らかに違う。


 今日何度も触れた私の耳。何もついてはいない、でもいているのだ。

 ピアスホールと思われる穴が、両耳合わせて八つ。

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