ミナトは凪に訪れる

七瀬渚

1.いつも通りだった日


 まだ薄暗さの残る街にペダルを漕ぐ音がかすかに響いていた。

 一部、舗装の行き届いていないデコボコした道ではママチャリの前かごの中で風呂敷に包んだ荷物がカタカタと踊る。幸い今日は中身の零れそうなものは入っていないから安心だ。


 私は両足にぐいと力を込めて加速した。

 脳内にいつ聴いたものかもわからない、だけど何処か懐かしいメロディが流れ出した。このBGMがかかるポイントはいつも決まっている。

 住宅街の真ん中に敷かれた真っ直ぐな道。もうすぐ坂道。

 目の前に広がる淡いブルーとオレンジのグラデーションの空。近付いてくる波の音。ここだ。


 浅くブレーキをかけながらくだっていくと緩やかなカーブに差しかかる。

 曲がりきると同時に一気に景色が開ける。眼下に広がる海岸はいつ見ても魅力的だ。


 恍惚のため息が零れる、四月下旬の早朝五時半頃。


「わぁ、結構人が増えたなぁ」


 景色の解像度が上がっていくような最中さなかで思わず声を上げていた。

 自分の息で少し曇った眼鏡の表面を袖で素早く拭いた。


 サーフボードを持った人たちが軽い足取りで海へ向かっていく様子。すでに波乗りを楽しんでいる人の姿も見られる。


 普段は穏やかな海として知られているこの場所にも、春になるとなかなか良い波がやってくるのだとか。冬と違っていくらか軽いウェットスーツが着れるようになることからサーファーが増え始めるシーズンなんだと、いつかご近所の岡村おかむらさんっていうマリンスポーツ好きのおじさんが言っていた。

 上手くなりたいなら本当は冬も地道にサーフィンを続けていた方が良いとも言っていたけど、運動音痴な私には一生縁のない話だろうな。


 今は閉まっている昔ながらの海の家も夏になれば開店し、全国から多くの海水浴客が訪れる。

 何処か庶民的でノスタルジックな街並みは近年では写真映えするスポットとして、若者にも注目されているんだとか。


 まぁ、スマートフォンもパソコンも持っていない私にはやはり縁のない話だった。

 ちょっと可笑しくなって一人で変な笑い方をしてしまう。


 坂道の終わりは砂浜ではなく、もう一度緩く曲がって海岸の形に沿ったような道へ続く。この時間帯だと車はほとんど通らない。


 しばらく進んでいくとお洒落なカフェやパン屋さんがぽつりぽつりと見えてくるが、私の目的地はその更に奥、今年で創業三十五周年を迎える老舗のお惣菜屋さんだ。

 ぱっと見は民家のように見える木造の建物。実際この裏側へ回ればオーナー店長の長谷川はせがわさんとその家族が暮らす家になっている。

 乗ってきたママチャリを塀寄りのところへ停めた私は、風呂敷を持って、従業員通用口も兼ねているその裏側へと向かった。


 玄関のチャイムのボタンを鳴らす。

 最初ここで働き始めた頃はこんな早朝に鳴らしていいのか戸惑ったが、店長たちは私よりも更に早く起きて仕込みをしているから何も迷惑ではない、慣れっこだと笑っていた。


 やがて玄関が開いて店長の奥さんが顔を出した。


「おはよう、琉夏るかちゃん。ねえ、もう朝ごはん食べて来ちゃった?」


「おはようございます! 朝食は……えっとロールパン一個なら食べましたが……」


「あ、ホント! それだけ!? だったらまだ食べれるわね、若いんだし。さぁ入って入って!」


「えっ、あっ、いつもすみません!」


 奥さんに手を引かれ、和室のある部屋まで着いていく。苦笑が零れた。

 正直、これはもう通勤の度に発生する恒例行事と捉えている。最初からあてにしていたら食い意地が張っていると思われそうだから、毎朝少しは食べてくるのだけど。


 年季の入った家屋の独特な匂い、そこへ炊きたてのお米の香りが柔らかく重なる。


 和室のテーブルにはすでに朝食が並んでいた。

 白いご飯に焼いた鮭の切り身、鮮やかな黄色の玉子焼き、あとは柴漬け、豆腐とワカメのお味噌汁、あれは味海苔かな……うん、見事なまでの純和食。この組み合わせなら。

 私はテーブルの片隅に置いた風呂敷包みを開きながら奥さんに声をかける。


「あの、良かったらこれも皆さんで召し上がって下さい」


「あらっ、また何か作ってきてくれたの?」


「はい、おやきです。今回は四種類」


「わぁ! ありがとう! 嬉しいわぁ。みんなも大好きだから喜ぶわよ。早速お皿を持ってくるわね」


 奥さんが台所へ向かうのと入れ替わるように、トテトテトテ、と軽い足音が近付いてくる。それも二人分と今ではすぐわかるようになった。


「おはよう、ルカねえ〜!!」


「はよ〜!! ルカねぇ〜!!」


「おはよう。お邪魔してます。二人ともいつも早起きで偉いねぇ。今日は休みなのに」


「当たり前だろ! 俺は将来、父さんと一緒に店やるんだからな」


「だからな!」


 おお、これは頼もしい。店長も嬉しいだろうな。

 自然と目尻が下がっていくのが自分でもわかる。だって可愛いじゃないか。


 元気いっぱいな小学三年生の拓海たくみくんの声に、三歳の妹であるゆいちゃんの舌足らずな声がやまびこのように続く。これがたまらないのだ。


 奥さんがお皿に盛ったおやきをテーブルに置くと、拓海くんがすぐにぐいと身を乗り出した。


「あっ、これ前に食ったまんじゅうみたいなやつ! またルカ姉が作ったの!?」


「しろくてまるいのいっぱい!」


「そうだよ。今回は四種類作ったんだ。えっとね、中身はきんぴらと切干大根と……」


 ぷしゅ〜と空気が抜けていくみたいに拓海くんのテンションが下がっていくのを感じた。

 そうかこっちはあまり好みじゃないか。くす、と思わず笑ってしまった。


「あと、餡子あんことかぼちゃもあるよ」


 そう伝えてあげると再びその場がわっと盛り上がる。


「あんこ!? やった! 俺、あんこ食う!」


「ゆいは、かぼちゃくう!」


「はいはい、唯のは今ママが小さく分けてるからね。あと“食う”じゃなくて“食べる”ね。もう、拓海がガサツな言葉ばかり使うから唯が真似するじゃない」


「えぇ〜、なんだよ母ちゃん。兄ちゃんだってこんなもんじゃねぇかよぉ」


 実に賑やかだ。私はただ目を細めるばかり。


 私にも家族がいたならこんな感じだったのだろうか。いや、やはりそれは家庭によって違うものか。


「なぁ、ルカ姉! これって何処の料理なんだ? この辺じゃ売ってるの見たことねぇぞ」


「そうだねぇ、何処のなんだろうねぇ。何故か作り方知ってたんだけど、もしかしたら私の地元の料理なのかも知れないねぇ」


「ふぅん。なんかさ、ルカ姉の作ってくる料理って昔っぽいの多いよな。煮物とか漬物とか、おばあちゃんが作るみたいなやつ!」


「おばーちゃん!」


 こらっ! という奥さんの鋭い声が飛んできた。


「おばあちゃんはないでしょ、おばあちゃんは! 琉夏ちゃんはまだ……え〜っと、今いくつだっけ」


「二十二です」


「そう! 二十二歳のお姉さんなんだから! 引く手あまたの花ざかりなんだからね!」


「ひくて……? なんだ??」


「ふふ、いいんですよ、奥さん。実際、中身はおばあちゃんみたいなものです」


 いただきます、と言ってまずは奥さんの淹れてくれた緑茶を味わう。そう、まさにこういう仕草が似合うと言われる。

 この海沿いの町に住み始めてから大体五年くらい。その間に何度“若年寄り”と言われたことか。食べ物の好みだけでなく、おそらく性格的なことも言ってるんだろう。私もそこは慣れっこなのだ。


「う〜ん! 美味しいっ! さすが琉夏ちゃんね! 若いのにこんな優しい味の料理が作れる子、なかなかいないわよ」


 気遣い屋さんの奥さんは、自分の作った朝食よりも先に私の料理を口にしてくれたようだ。

 ほっぺたが落ちそう、と示すかのように頬に手を添えている。


「ま、まぁ……」


 私の隣の拓海くんがおやきに箸を伸ばしながらためらいがちに切り出した。


「ルカ姉の料理はみんな美味いからな。お、俺は好きだぞ、こういうの」


 ありがとう、拓海くん。私も君のそんなところが好きだ。

 私の笑みにつられたかのように奥さんがくすくすと笑い出す。


「そうねぇ、拓海があと十年くらい早く生まれていたらお嫁さん候補にしたかったくらいだわ」


「およめさん!!」


「は!? 何言ってんだよ。それに俺だってすぐ大人になるし!」


「あらっ、それって琉夏ちゃんのこと……」


「ちっげーよ! ばーか! ばーか!!」


 カチャン、とお皿の上に箸を置いた拓海くんが「ごちそうさま!」と言って素早く廊下へ走り去っていく。

 私がぼんやりそちらを眺めていたとき、入れ替わるようにして店長が部屋に入ってきた。開店前の仕込みが終わったところなんだろう。


「なんだぁ、拓海がすごい勢いで走ってったぞ」


「いつもの照れ隠し。どうせすぐ戻ってくるわよ。ね、琉夏ちゃん」


「は、はい……あっ、店長おはようございます」


「おう、おはよう! 今日も一日宜しくな!」


 そうしてまたみんなで食卓を囲む。

 私はお味噌汁を啜りながら、ふと見渡してみる。その場の空気を感じてみる。


 声も体格も大きい店長、おおらかで細かいことを気にしない奥さん、しっかり者の拓海くん……みんながどんな人かもう大体知っている。唯ちゃんなんて赤ちゃんの頃からの付き合いだ。

 まだ二階で寝ているのであろう長男の翔太しょうたくんは中学二年生という多感な年頃の為か、あまり積極的に家族の輪に入ってこようとはしないけれど、決して愛想の無い子という訳でもない。顔を合わせればちゃんと挨拶だってしてくれる礼儀正しい少年だ。


 そこまで理解していて、長谷川さん一家の会話のやり取りにも慣れているはずの私だ。

 それなのに何故か……


 時々、本当にたまにだけど、ふわりと宙に浮かぶような感覚を覚える。

 テレビのモニターでも見ているような、私だけが外側にいるような。

 数秒、現実味を失うような不思議な気分により、会話が頭に入ってこなくなることがあるのだが……



「特にお菓子作りが苦手なのよねぇ、私。あれって温度計ったり結構繊細な作業じゃない? 子どもたちの誕生日くらいケーキ作ってあげられたらいいんだけどね。今度、琉夏ちゃんに教えてもらおうかしら」


「はい、私で良ければ」


 まぁ、大事なところさえ聞き逃さないよう気を付ければ、それほど生活に支障もない。


 病院のベッドの上で目覚めた日から約四年、それでなんとかなってきたのだからと、このときの私は随分気楽に考えていた。


 運命が再び動き始める音は、実際のところすぐ側まで迫ってきていた。


 後になって思うと、本当の意味で平和な時間はこの団欒だんらんが最後だったのだろう。

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