第1章 魔法と盗賊

第001話 旅立ち

 それは突然に生まれた。

 それは秩序を持ちながらにして、不可能を引き起こす。

 物理と化学の区別さえ間々ならない。

 もはやこれと信じることのみが真実となり、既知なる事実はいつ崩壊するか知れない。


 それはこの世界。

 誰かによって創りだされた世界。


 賢者はその誰かを神と名づけた。



   ***



「レン、旅に出よう」


 その提案はあまりにも突然だった。

 なんの準備もしていないこの状況で、なんの前触れもなく、こいつは僕の手を引いて村を出ようとしている。


「どうしたんだ? 行かないのか?」


「い、いや、その……」


 当然ながら僕は戸惑った。

 なぜ旅に出なければならないのか、なぜ彼はそんなことを思いついたのか。

 僕には何ひとつ理解できなかった。


 しかしいま、僕は無性に旅に出なければならない気がしている。

 なぜなのかはサッパリ分からない。

 焦燥感というか、とにかくそういう気がするのだ。


「なにを迷っているんだ? ここには何もないだろう?」


 そのとおりだ。たしかに何もない。


 僕がいるここは、殺風景でとても小さな村。

 この村には民家しかないし、老人しかいない。

 まるで老人を培養している箱庭だ。

 本当に何もない。

 理由なんてない。それが事実であり、事実は理由がなくとも受け入れるしかない。


 この村では僕と僕の手を掴んでいるゲンだけが子供だ。

 しかも、この村の老人には誰一人として面識がない。言葉を交わしたことさえない。


 おかしな話ではあるが、事実だから仕方がない。

 このおかしな環境に自分がいることを、僕は初めて認識した。

 氷づけにされていた魚が解凍されて水槽に入れられたみたいに、僕の自我というものが、いまという時間を泳ぎはじめたみたいだった。


「分かった。行こう。旅に出よう」


 僕はその誘いに乗った。

 そうすることが何よりも自然だ。

 戸惑いは自然と消えていた。


 こうしてレンこと僕と、唯一の知り合いであり親友のゲンとの二人で、いまこの瞬間に旅立ちを向かえたのだった。



 旅に出た僕とゲンは平原を歩いていた。

 周りには何もない。どこを見渡しても地平線だ。下に緑、上に青と白。視界にはこの三色しか映らなかった。

 平和な天気だ。気持ちのよい青空でありながら、うんざりするような日差しはない。ささやかな白い雲が青いキャンバスを飾りつけている。


 そういえばけっこう歩いている気がする。

 そう思うと急に足に疲労を感じ、ヘトヘトになってしまった。

 ゲンを見ると、彼はえりを立てて前を開放しているトレンチコートに両手を突っ込んだ格好で悠然と歩いている。

 彼の茶色い髪より薄い色のトレンチコートには、一つの染みも埃すらも付いていない。

 さらに小洒落こじゃれた同色のブーツにも同様の清潔感がある。

 僕の貴重な一張羅にはいつの間に付いたのか、道中の泥が跳ねて描きかけの地図の様相を呈していた。


 ある意味対照的な二人が並んで歩いていたわけだが、ときおり僕の足取りが頼りなくなって、ゲンの背中が視界に映ってしまう。

 その頻度は歩けば歩くほど増していた。


「ゲン、僕は疲れたよ」


 僕の前をテクテク歩いていたゲンは平然とした顔で振り返る。


「そう? じゃあ近道でもする?」


「近道?」


 もう一度言おう。ここは地平線に囲まれた大平原である。

 この何もない大平原で近道などと言い出したゲンに、僕はいぶかしみの視線を送らずにはいられなかった。

 近道がどこにあるというのだ。


「レン、こっちだよ」


 道は下にあった。


「なにこれ!」


 近道は地下道だった。

 まるで地底へ続く洞窟のごとき穴が足元にポッカリと開いていた。

 さっきまでこんな穴はなかった気がするのだが、確かにそれはそこに存在していた。


「これが、近道?」


「そうだよ」


 おかしい。どうも納得がいかない。こうもタイミングよく近道が現れるなんて。しかも地下にだなんて。


 風が地下穴の上をかすめて雑な音色で鳴き散らしていった。


「そう驚かなくてもいいんだよ。望めば現れる。信じれば実現できる。それは疑う余地のない、この世界の真実。ああ、謎があればすぐ疑問を抱いてしまう君の思考は少々精巧すぎるのかもしれないね」


 何のことやら。僕は彼の言うことがまるで理解できない。

 だが、彼は何かを知っている。というよりは、すべてを知っているようにも思える。


「なんで?」


 僕はたまらず尋ねてしまった。


「なんでって? 何が?」


「いろいろと物知りだから。なぜ、何でも知っているの?」


 その質問をすることで、まるで自分が何者なのかを知ろうとしているような気分になった。


「そりゃそうさ。僕は賢者なんだ。特別な存在。そして君も特別な存在さ」


 妙ちくりんな回答だ。賢者という言葉がいまいち理解できなかった。賢者という存在はどのような存在なのか、僕にはまったく理解できそうにない。

 少なくとも、いまはそう思った。


 それから、もう一つ聞き捨てならない言葉があった。


「僕が特別? 僕も賢者ってこと?」


「君は賢者なんかじゃないよ。君は特別な存在の中でも、さらに特別なんだ。なんだろう。まぁ、あえて言うならば、勇者かな」


「勇者?」


 またまた滑稽な肩書きが出てきた。

 しかもそれは僕のことを指しているのだ。


「君は選ばれた。というよりは創られた、っていうのかな。神という存在にね。君は神に会うために創られたんだ」


 僕は必死にゲンの言葉を整理したが、どうも理解の範疇はんちゅうを超えている。

 説明するゲンの表情は、雑談をするときのそれとまったく変わらなかった。

 対する僕は眉間にしわを寄せて頬を強張こわばらせているというのに。


「君は神に会うために旅をしなければならない。僕は君を神に会わせるために旅をしなければならない。僕たちは神に直接創られた特別な存在なんだよ」


 出た。究極のファンタジックワード、神。


「ねぇ、ゲン」


「何だい?」


「とりあえず、休もうよ。僕、疲れたからさ」


 僕の思考回路は賢者にはついていけない。それだけは分かった。


 だが、なんとなくではあるが、自分自身の使命じみたものを感じ取ってもいた。

 理由なんかない。そうなのだから仕方がない。

 僕の本能は彼の言うことを知っているのかもしれない。


「じゃあ昼飯でも食うか。何を食う?」


「何があるの?」


「何でもあるよ」


 そんなバカな。何も準備せずに出てきたんだ。

 それに見る限りゲンは何も持っていない。


「じゃあ、おにぎりでも……」


 僕がそう言うと、ゲンは眉をひそめた。


「本当にそんなものが食べたいの? 僕はカレーライスを食べるよ」


「ちょっと待って! どこにそんなものがあるのさ」


「ここ」


 僕は驚いた。とにかく驚いた。休みたいのに、彼は僕を疲れさせる。

 そこにはカレーライスが確かにあった。しかも湯気ができたての証明をしている。


「なんであるの!?」


「僕が賢者だからさ。カレーなんて念じて出して終わり。旅の雰囲気を味わいたいなら焚き火でもする? まきも出せるし、火だって指一本で点けられるよ」


 そう言ってゲンは空に突き立てた人差し指から火を出してみせた。


 それにはかつてない驚嘆をいられた。

 この世界が僕の認識下にある普通の世界ではないことを僕は知った。


 賢者にはそういうことができるらしい。

 なんとも信じがたいが、事実ならば仕方がない。

 物理の法則や化学の原理なんてものが実在するのか疑わしくなってくる。

 そもそも、それらはこの世界には似つかわしくない言葉のようだ。


「そんなに不思議かな? デフォルトで君も賢者並みの知識があれば、僕も説明の手間が省けるんだけどなぁ」


「デフォルト?」


「神は君を創ったときにね、君が一からすべてを学ばなければならないようにしたんだ。神は君の成長を観賞したいのだろうさ」


 また神の話だ。

 僕は神に創られたらしい。

 たしかに親という存在の記憶がなく、自分がどのようにして生を受けたのかということはまったくの謎だ。

 それゆえ、とりあえずいまはその話を信じるよりほかにない。


「君は賢者だけがいろいろできると思っているけれど、君にもできるんだよ。もっといえば、君以外の者たち皆ができるんだ。ただ、できることを知らないからできない。まぁ、当然の話だけどね」


「僕にも?」


 実に夢が広がる話ではないか。僕は素直にそういった能力を習得したいと思った。

 もはや驚きが多すぎて、彼の話に順応しかけている僕がいた。


「そうさ。原理を理解してコツさえ掴めば簡単だよ」


「それで、どうやるの?」


 自分でも気持ちが早っているのが分かる。高鳴る鼓動が鬱陶うっとうしくさえあった。

 指から火が出せたりしたらとっても便利だし、それにかっこいい。


「想像して念じるだけ」


 簡潔というか簡素な説明。

 そんなので分かるわけないが、さっそくやってみた。

 ゲンのように空に指を突き立てて、火をイメージし、『出ろっ』とうなった。


「出ないよ」


 そう甘くはなかった。

 やっぱりという気持ちよりは、残念な気持ちでいっぱいになった。


「想像できていないからさ。三次元的に想像して、全体像を想像するんだ。どんな些細な部分でもイメージが欠けていちゃダメだ。火は動くから少し難しいかもね。まずは石ころでも出してごらん」


 僕は言われたとおり、手のひらを天へと掲げ、丸っこくて起伏の少ない石ころを思い浮かべ、出てこい出てこいと強く念じた。


 すると頭にコツッと何かが落ちた。


「出た……。出たよっ!」


 たかが石ころに歓喜する僕。

 ゲンはそんな僕を見て微笑ほほえんだ。


「おめでとう。やっぱり君には素質があるね。まぁそう創られたんだから、当然だけどね」


「でも、これって誰にでもできるんでしょ? 僕たちだけが特別ってわけでもない気がするけど」


 そう言いながらも、僕の顔は石を出せた嬉しさに緩んでいることだろう。


「うん、できる。でもたいていの人には難しいと思うよ」


「え、なんで?」


 きっと特別な者とそうでない者の差はそこにあるのだ。


「信じていないからさ。誰も自分にそんなことができると信じていないからできない。少しでも疑ったら実現はしないんだよ。イメージすることもけっこう難しいしね」


「へー、そうなんだ」


 僕でもこの世界の原理というか、摂理というか、そんなものを少しは理解できた気がする。


「君はそうやって学び、イメージトレーニングで力をつけ、そして神に会う」


「ところで、神に会ってどうするの? 会ったら何かが起こるの?」


 そこが最も重要なポイントだ。


「さあね。それは神に訊いてくれ」


「要するに神に会わなければ分からないってことか。結局、旅の目的は神に会うことなんだね」


 ゲンは微笑んで頷いた。


「食べようか」


 いつの間にか薪に火が灯っており、カレーがグツグツと唸っていた。手

 元には平たい皿にライスが盛ってあった。

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