花を供える
桝克人
第1話 梅雨明けのある日曜日
日曜日の午後、丁度昼食も済み腹も気持ちも満たされたところだったのに、内田利一は気持ちがすぐ滅入ってしまった。畳の上に置いた重厚な座卓を囲んでいる空気が重苦しい。息子の繁は一歩も譲らないと微動だにせず正座も崩さない。娘の智子はあきれ顔を浮かべて肩を落としていた。息子の嫁、英恵は肩をすくめて大きな目玉をきょろきょろとさせていた。
問題の中心にいた利一は不機嫌を露わにして庭へと顔をそっぽ向けている。馴染んだ家で一番好きだった庭が空虚に思える。それもそのはず、ここ数か月は碌に手入れもしていないから梅雨明けの夏の日差しが砂利を押しのけて雑草を育ててしまい、剪定していた植木も乱雑に伸び放題だ。庭の手入れをしてこなかった利一でも出来る毎日の水遣りのおかげで、妻の晴子が空いている土地に植えまくった花は生き生きと輝いて見えた。
「お茶冷めちゃいましたね。淹れなおしてきましょうか」
沈黙に耐えかねた英恵が茶器をお盆に乗せようと利一の茶碗に手を伸ばそうとすると、繁が「やらなくていい」と一喝する。逃げるタイミングを逃した英恵は小さく返事をしてまた同じように肩をすくめて座り直した。あからさまではなかったが鼻から小さく息を吐く音が年老いた利一の耳にも届いた。
「いい加減にしてくれよ。もう一人ではどうしようもないってわかっているだろう?」
怒鳴りこそしないが、繁の声に憤りを帯びている。利一には聴き慣れた声だった。厄介なのは繁の性格である。繁は納得がいかなければいくらでも膝を突き合わせて話し合いに持って行こうとする節がある。話し合いなんて生易しいものではない。自分が納得しない答えが出ない限り頑として折れないところが厄介であった。
「何度言っても俺は此処から離れる気はさらさらない。この家は俺が建てた俺の城だ」
「それはわかってるよ。親父がこの家を大事にしていることも愛着があることも充分わかっている。けどな、現実をみてくれよ。お袋がいない今この家の手入れは誰がするんだ」
「ヘルパーがいるじゃないか」
「週に二度しか来られない幸代さんが家を守ってくれるわけがないだろう。親父の食事と掃除だって時間が足りないくらいなんだから」
自分から振ったとはいえヘルパーの話題にいら立ちを覚えた。利一はヘルパーを疎ましく思っていた。食事は一週間分には足りない上に、大味で品のかけらも感じない。掃除も大雑把で掃除機をかければ良いと言わんばかりに適当だ。もう少し丁寧にと頼んでも時間に限りがあると突っぱねて改善しようとしない。結局意味のない押し問答を繰り返すだけなので諦めている。
「それでも老人ホームなんて入る気はない」
「何がいやなんだよ。親父は足は悪いけれど頭もはっきりしてるし、趣味の読書はホームでも出来るじゃないか。外出だって願い出たら出来るし悪くないだろう?」
「そんなところは身体も心も老人になった奴が行くんだ!俺はそこまで落ちぶれちゃいない」
繁は何言ってるんだと目と表情で言った。追い打ちで口からは「はぁ?」と呆れ声が漏れ出す。その後に続いたのは「老人そのものじゃないか」と馬鹿にするように言った。いや、本人はそんなつもりじゃないのだろう。白髪を蓄えた見た目と年齢八十二歳、誰もが認める老人ではある。気持ちは本人の気の持ちようだ。それは利一だって本当は解かっている。
「父さん」
二人の言い合いを長年見て来た智子が冷静な声で口を挟んだ。顔も背丈も晴子に似ている。口調も比較的そうだが、彼女より遠慮のなさと優しさに欠けた物言いは利一の眉間の皺を作る原因だ。
「この間、家で躓いて転んだよね。元々足は悪いから慣れてるつもりなのかもしれないけれど、その時は手を突いたおかげと、それほど勢いがなかったから大した怪我じゃなかったのよ。たまたま幸代さんがいてくれたから大事にはならなかったけれど、父さんが思っているよりも身体は衰えてるのよ。誰もいないところで転んで骨を折って動けなくなったらどうするの。いざという時のために人の目がある施設に入った方が私たちも安心なのよ。そこはわかってるよね?」
「安心するから」免罪符の様に事あるごとに智子はそう諭す。そして必ず次に言う。「安心をお金で買えるなら払うのを惜しまない」と。
「施設のお金だって父さんの安全のためなら惜しまず使えるわ」
惜しまず使えるといっても、使う金は利一が長年働いてこつこつ貯めた金だ。晴子が細めに家計簿をつけ貯金をしてきた成果である。それを自分の為と言って本人の意思に反する使い方をされるのだから堪ったもんじゃない。
「なんと言われても俺は此処にいる。いい加減にしてくれ」
「いいや。今日は良いと言うまで帰らない」
「帰らないってどうするんだ。泊っていくのか?明日は月曜日だぞ。仕事もあるし、さやかだって家でまってるだろうが」
繁の子供、さやかはまだ中学生だ。学校が終わると夜まで塾に行っている。帰ってからご飯くらいは炊けるが、未成年の子供を置いてくるのは躊躇いがあった。独り身の智子だって肩書つきの忙しいOLだ。有給をとって来た様子はないし泊まっていくなんて言えるはずがなかった。事実、繁も智子も言い淀んでいる。
このまま時間が過ぎるのを待つことになれば折れて帰るしかない。勝った気になった利一は心の中でほくそ笑んでいた。
「英恵がいる」
繁のお得意の最後のカードが出た。英恵は週一のパート業をする主婦だ。時間の余裕はいくらかある。子供も決して小さくはないし、繁はそれなりに家事が出来る。料理はあまりしてこなかったし、栄養バランスを考えた食事は無理でも、味噌汁は作ることができる。おかずは適当に惣菜を買えばなんとかなるだろう。洗濯や掃除は一日二日抜いたところで困るほどではない。休日に溜まった家事をすれば一週間以上なんとかなる。繁は自信をもってそのカードを切った。
「ただし」
いつもならここでお世話する英恵が「お世話になります」と言って利一が「そこまでせんでもいい」と返す。後は遠慮合戦を繰り出し有耶無耶にしてどこかで区切りをつけるのがお約束である。
しかし今日は違った。繁の目は炎を宿したような熱意があった。此処で絶対に引かないという決意が滲み出ていた。
「親父が英恵をこき使うことに躊躇いがないのならな」
そう言うと英恵はびくりと肩を震わせる。勿論暴力や無理強いをすることは今まで一度もない。ただ言葉の意味を間に受けたことによる小さな恐怖を抱いたような感覚を覚えたのだろう。利一は即座に否定した。
「こき使うとは人聞きが悪いじゃないか。こちらは頼んでなんかいないんだぞ」
「よく言うよ。ヘルパーだけでは手が足りないから定期的に様子を見に来てるのは誰だよ」
それは英恵だ。利一は事実を口にしようとしたが躊躇った。
そうだ。英恵は時々この家にやってきて家事をしてくれていた。それはいつからだっただろう。昔は違った。小さかった孫を季節の休み毎に連れてきてくれた。晴子の手助け程度の家事をしてくれていた。でも年に二、三回のことだ。いや違う。それは利一も晴子も今ほど年をとっていなくて、体の不調もそれほど身に沁みるほどではなかった。
子供を連れずに来ていたのは晴子の身体に変化が起きた頃だ。小さな体の不調を時折訴えてはいたが年齢のせいだと笑っていた晴子が、ある日を境に言うことが利かなくなった。急に倒れて入院を余儀なくされた。家のことを一手に引き受けていた晴子がいなくなり、片付けひとつ碌に出来ない利一の身の回りの世話に英恵が通っていた。当時は介護保険なんて使う必要もなく病気ひとつしないで元気でいたから、何も手続きをしていなかった。ヘルパーが入るようになった分、英恵が此処に来ることはそれほど多くはなかったが月に二度、多い時は週に一度は通っていた。
半年前に晴子が天に召されてからは利一の気持ちがぐっと落ち込んだことを心配して、暫くは英恵が泊りがけで来ていた。おかげで利一はゆっくりと日常に戻りそれなりに元気を取り戻していた。
決して英恵をこき使っているつもりなんてない。とはいえ、自分の家族の事に付け加え、此処に通うのはどれほどの心労をつくしていたのだろうか。気付かなかったが英恵は少し老けたような気がする。年齢のせいではなかったのだろうか。
「親父、これまでは英恵が気を利かせてくれたし、俺も英恵に甘えていたところもある。さやかだってでかくなったとは言ってもまだ中学生だ。これから高校受験もあるし、まだまだ手がかかるんだよ。親父の世話の為だけに此処まで二時間かけてくるのは限界なんだ。わかってくれよ」
繁は懇願した。こういう折れ方はしたことがなかった。英恵も普段なら嘘でも「大丈夫です」の一言がある。智子も英恵がこれまで尽くしてくれたことを熱く語った。自分が東京に出て繁や英恵以上に通うことが難しく、英恵に負担をかけていることを詫びていた。
利一に反論のカードは一枚も残っていなかった。
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