第44話 覚悟 その7

 学校では毎朝六時に起きていたが、俊介は学生時代に戻ったかのように寝ている。トーストの香ばしいバターの誘惑で眠りから覚めた。「八時か……」ジェンの姿は部屋に無い。俊介は布団を簡単に整え、着替え始めた。ズボンは昨日と同じチノパンだがシャツだけスーツケースの中から取り出した新しい物に替えた。手で軽く髪をとかしながら一階に降りて行くと、シェリーが待っていたかのようにシッポを振り、俊介に飛びついてきた。耳を後ろ側に倒して俊介に甘えている。シェリーの首周りを両手でわさわさと撫でながらリビングを見渡したが父はまだいないようだ。

「おはようございます」

 俊介の挨拶に、

≪グッドモーニング≫

 ジェンが手を上げ挨拶を返した。そして、

≪おはよう。ゆっくりと寝れた?≫

 チユウが朝食を運びながらそう訪ねてきた。日本語ではないが、何となく言っていることが分かる。俊介は器を受け取り、笑顔で頷いた。

「俊介、おはよう」

 チユウの後ろからユウリの弾んだ声が聞こえる。無邪気な笑顔で、右手にミルク、左手にコーヒーを持っている。『そう言えば、ユウリに直接「おはよう」と言われるのは初めてだな』そう思い、

「おはよう」

 と丁寧に挨拶した。

 ソファーで伏せていたシェリーは何かに反応するように耳を動かし、勢いよくシッポを振りながらリビングのドアに駆け寄っていく。ウィヨンが来たようだ。俊介は恐縮きょうしゅくしたように立ち上がり、

「おはようございます」

 とお辞儀じぎした。

≪おはよう≫

 ウィヨンは軽く挨拶すると席に座り、立ったままの俊介に、

≪君も座って、食べなさい≫

 そう言って新聞を読み始めた。ジェンは相変わらず不愛想な父に不満ありげな表情を見せたが、眼で俊介に座るように伝えた。俊介にカップを手渡すユウリの表情からも無邪気な笑顔は消え、俊介を気遣きづかうように頷いた。チユウだけは何も気にすることなく、スクランブルエッグを口に入れ、微笑んでいる。

 俊介は『お父さんは、どう思っているのだろう……』そんな事を考えながら、ユウリが作ってくれたミルク多目のカフェオレを口に運んだ。

 新聞の活字かつじを眼で追っているウィヨンがぼそりと話し始めた。

≪昨夜はジェンの部屋で寝たのか?≫

 突然の問いかけに、ジェンは目を丸くしてトーストをかじりながら頷いている。

≪お前の部屋じゃ、むさ苦しくて彼もゆっくり眠れないだろう。今夜はユウリの部屋に泊めてあげたらどうだ≫

 ジェンとユウリは父の言葉に耳を疑い、あっけに取られている。チユウだけは、クスっと微笑みながら夫を見ていた。新聞を降ろしたウィヨンはジェンとユウリに眼をやり、

≪どっちでもいいから、早く訳せ≫

 そう急かして少しだけ俊介を見ると、また新聞に眼を落とした。

 ジェンが父の口調を真似まねるようにわざと眉毛をしかめて英語で伝えている。俊介はジェンの方を向きながら言葉を聞いていたが、徐々に目線だけをウィヨンに向け、湧き上がる喜びのままに立ち上がり、

「ありがとうございます」

 と、深くお辞儀じぎをした。ユウリの父が安全地帯への立ち入りを許可てくれた。

 ウィヨンは俊介の眼を見据みすえながら、

≪ただし、ここは実家だからな、それを忘れないように≫

 そう釘を刺した。俊介は父の言葉の訳を求めるようにジェンを見たが、ジェンは笑っているだけだ。今度はユウリがいたずらっ子のように笑い日本語で伝えた。

「分かりやすく言うと、ここは実家だから、私に手を出しちゃダメってこと」

「あっ、はい」

 ハッキリ返事をしながらも少し戸惑っている俊介を見ていたウィヨンの顔から笑みがこぼれた。ようやく見ることが出来た父の笑顔はとても優しい。俊介が手のこうっぺたの下の方を軽くさすると、ユウリも真似まねて手のこうっぺたの下の方をさすっている。

 英語で話すジェンと日本語で話すユウリの様子にチユウは、

≪なんだかインターナショナルな朝ね≫

 そう呟いた。


 朝食後、俊介と買い物に出かけたジェンのスマホにユウリからメールが届いた。

『お客さんが来るから、何かケーキを買ってきて』

 そう書いてある。言われた通り、二人は帰りがけに小さなケーキ屋により、シンプルで純白のレアチーズケーキを買った。

 家の玄関にはハイヒールとパンプスが綺麗に並んでいる。『お客さんか……』リビングのテーブルに座っている女性には何となく見覚えがある。それはサキラとエミリだ。俊介はレアチーズケーキの入った小箱を両手で持ったまま、立ち尽くした。

「お久しぶりね」

 サキラの澄ました表情が更に俊介の動きを封じた。俊介は女性と話すのが苦手だが、特に年上の女性と話すと過度に緊張してしまう。ましてや相手がサキラなら、なおさらだ。思わず、

「い、いらっしゃい」

 と言ってしまった。サキラは、エミリの方を向き怪訝けげんそうな表情をしている。

≪この子、いらっしゃい、って言ったわよ≫

 エミリは口元に手を当て、俊介を少し見て笑った。さらにサキラが、

≪すっかりあなたの、旦那だんなさんみたいね≫

 と不愛想に言うと、ユウリも照れ笑いをしながら、

≪まだ旦那様じゃないよ≫

 そう答えた。その言葉で二人の間で既に結婚の話が有ったのだと思った。

 リビングの隅でソワソワしている俊介は、近寄ってきたユウリに小さな声で、

「サキラさん、怒っているの?」

「怒っていません」

 地獄耳のサキラが即答した。

「どうも……」

 俊介は頭を下げながら恐る恐るサキラの前に座り、ヒマワリのように笑っているエミリと目が会うと愛想笑いをした。

「今日はユウリの事をどう考えているのか、直接聞きたくて来たの」

 サキラの淡々とした話し方に神妙しんみょう面持おももちで、

「はい」

 と返事した。『なんか姉貴に説教されているみたいだな』年上の女性の前では緊張してしまうが、無難に対応するすべは姉のおかげで自然と身についている。『逆らわずに話を聞いているのが一番だな』じっとサキラの次の言葉を待った。

「でも、もう安心したわ。ご家族を見てすぐに分かった。あなたが真剣に考えているって事が」

 サキラは張り詰めていた糸をゆるめるように微笑んだ。穏やかな眼差しで聞いていたエミリが俊介に声をかけた。

「良かったわね、サキラから合格点がもらえて」

 何処かで感じたことのある雰囲気に、『ああ、沙友里さんに何となく似ているんだな』と思った。それと同時に『と言う事は、怒ると怖いのか……』以前に怒られた時の事を思い出し、ちょっと可笑しくなった。

 そんな俊介をユウリは自慢げに見ている。


 俊介達が買ってきたケーキを食べ終わり、

「あまり二人の邪魔じゃまをしてもいけないから、もう帰るわね」

 サキラは席を立った。

 ユウリがサキラとエミリを送ってもらうようにジェンを呼びに席を外した時、サキラはさっきまでとは違う柔らかい表情で、

「ユウリを好きになってくれてありがとう。これからも大切にしてあげてね」

 そう言って俊介に頭を下げた。そんなサキラの素顔に、俊介も慌てて頭を下げて喜びを噛みしめた。

 サキラとエミリを乗せて走り去っていく車を見送りながら、

「ユウリは皆に愛されているんだね」

 そう呟く俊介にユウリは幸せそうに寄り添った。

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