花のまぎれに

有智子

分類

陛下

千年の孤独

 普段なら取り次いでくれる世話役が誰もいなかったため、ラインハルトは直接執務室の扉を叩いた後、返事を待たずに開け(いつもそうやって怒られているのだが、怒っている姿を見るのも多少の楽しみになってしまっている)、彼の最愛の王陛下が執務室の豪奢なソファに沈みこんで、静かに泣いているのを発見した。夕日の差し込む部屋の中で遠目にもその頬を伝って落ちる雫が、光っているように見えた。その光景に驚いている姿を認め、陛下は苛立ったように立ち上がった。

「アモン……またお前か……」

 王陛下はうんざりしきった声音で悪態をついた。立ち上がりざま、そのしなやかで薄い肢体がわずかにふらつく。静まり返った部屋だ。陛下の細い手首を飾っていた二連の腕輪がしゃらりと音を立てたわずかな音さえ、ラインハルトの耳に届くほど。

 陛下が長い前髪を透かして嫌そうに睨む視線に一瞬、ラインハルトはまるで鋭利な刃物を突き付けられたように体がこわばる。たとえ七十二柱の悪魔であろうと、魔王だけが持つ金の瞳を直視すれば、その身の濃い魔力を注ぎ込まれて体の魔力バランスを崩し、内臓を傷つける。その恐怖は、理性より先に器である体、魔族である本能が否応なく感じる、生理的な反応だった。三大公だけは真正面から王陛下に対峙したとて耐えうるというが、己のようにある程度序列が高ければ、前髪を透かして見られる程度ならばまだ怖気付くだけで済んだ。

 理性の端から遠く湧きあがった恐怖感を、しかし好奇心が抑え込んだ。その力の強大さのあまり人を正面から見据えないよう配慮しているうち、癖になってしまったらしい伏せがちの長い睫毛が、陶器のような頬に影を落としている。こんな風に泣いているのに、声は震えないのだと、どこか冷静に感心していた。

「どう……されたんです」

「何でもない。勝手に出てくるだけだ。まったく、何のために人払いしたんだか」

 拭っても無駄だとすでにあきらめているらしい。ラインハルトはその様子を、まるで朝露に濡れる百合のようだと、熱にうかされたような気持ちで考えた。それくらい美しく、そして扇情的だった。かなうならそのひとしずくになって、なめらかな輪郭を滑り落ちたいと想像するほどに。

「下がれ。取り込み中だ」

「陛下」

「おい、近寄るな」

 ゆっくり近づくと、先ほどよりも顕著に顔に嫌悪を表して制止の声を上げた。構わず、傍へ寄る。陛下は半歩後ずさったが、それも癪に障ったのか避けるのをやめた。ラインハルトが近くへ寄ると、背丈のわりにひどく華奢な陛下の首や肩がやたら目につく。陛下は額に手を押しつけて、あきれたように首を振った。

 布一枚向こうにあるその体の存在を、体温を、ラインハルトは妙に生々しく思った。なぜこんなにも愛しいのだろう?まるで我が子のように、恋人のように、神のように、時にいたいけに愛しく、時に劣情を掻き立てられるほど恋しかった。文字通り人を射殺す金の瞳も、人形のような整いすぎた容色も、絹糸のような光沢の長い髪も、華奢な手指も、痩せた肢体も。傷つけられることへの本能的な恐怖や、その存在から注ぎ込まれる魔力の所為だけでない感情が沸き起こって、脈が早まる。陛下が前髪を揺らして視線を寄越すただそれだけの仕草に。

「なにか悲しいことでもありましたか」

 答えるのも億劫そうに、うんざりした様子でまた目を伏せた。その拒絶するような振る舞いが、同様に煽った。なんとしても返事をしてほしくて、半ば意地になる。

「貴方はいつも孤独だ」

 途端、わずかに体を震わせて、伏せていた目を見開いたのがわかった。間髪入れず、華奢な手首を掴む。こちらの予想外の行動に驚いて一瞬反応が遅れた、骨ばった体を抱き寄せた。瞬間もがいたが、体格に阻まれて細い腕はあえなく空を掻いた。

「おい!離せ!」

 おそろしく薄い体だった。本来であれば、不敬と罰されても言い逃れできないほど大胆な振る舞いを今していることに、ラインハルトは高揚した。

 腕の中のその体はじんわりと温かかった。陶器でできた人形のような見た目だから肌も冷たいのかと思えば(もちろん指先はわずかに冷えていた)、きちんと体温がある。我々まぞくはいつもそれに驚くに違いない。同時に、愛おしさがこみあげる。

「どうして一人きりで泣いておられるのですか?」

「黙れ」

「貴方はいつもこうして一人で……?誰かに吐露してみたいとは思いませんか?何を憂いておられるのか……」

 ラインハルトは掴んでいる手を引き寄せ、耳元で囁いた。やわらかく白いその耳朶が、自らの吐息を受けていると思うだけでひどく昂揚した。

「他人と肌を合わせて……ほんの一時、ほんのわずかで構わないのに」

 うつくしく咲いた薔薇にそっと唇を這わすように、ラインハルトは引き寄せた陛下の左手の青ざめた指先を、唇に押し付けた。皮膚よりも硬質な爪の感触。冷たくにぶく光る魔力封じの指輪。繊細な硝子細工のような美しい瞳が、長く揃った睫毛の隙間で潤んで光っていた。その涙を舐めとって舌を火傷してもいいと思った。舌で掬い取って、唇で確かめて、柔らかい頬に、果実を味わうように、歯を立ててみたい。それを想像しただけでたまらない気持ちになった。吐息とともに言葉が漏れた。

「私に預けてください。私が貴方を救ってさしあげたい」

「黙れ!」

 直後、その腕でしゃらしゃらと音を立てていた華奢な腕輪は魔力を加えられて鋭利な棘を生やし、腕輪ごと掴んでいたラインハルトの右手を貫通した。

「っ……!」

 唐突な痛みに思わず体を離す。

「勝手なことを」

 わなわなと体を震わせ、涙に揺れる瞳でこちらを見た。途端に射抜かれるような魔力の奔流に、足元がおぼつかなくなるような感覚を覚える。

「貴様に何がわかる……勝手なことをべらべらと……八つ裂きにされたいのか?二度と見られないほど顔を焼いてやろうか?!ふざけるな!私に触るな!私に近寄るな!」

 激怒のあまり蒼白になった顔を凄絶に歪めて、振り絞るように怒鳴った。

「貴様に救えなどするものか!」

 振り向いてほしいあまり、踏み込みすぎたと思った次の瞬間には、世界が暗転していた。ラインハルトは身の内に、燃えるような魔力の奔流を感じる。彼の激情に、そのまま魂を食われるような恐怖を感じながら、意識が暗闇の世界に放り込まれた。


***


 こんなにもひとりだ。恐れられ、あるいは崇拝されながら、誰にも内側まで踏み込ませない。誰にも助けることなどできない。期待したところで、何度も何度も、何度も期待したところで、誰にもこの気持ちは、わからない。誰にも。

 誰にも助けることなどできない。なぜなら私以外誰も、私にはなれないからだ。溺れそうな魔力の海にもがくこともない。永遠の闇の中で自分の輪郭を忘れないよう刻み続けることも。こんなに気持ち悪いのも。厭きるほど長い生も。

 鮮烈な光が目の前の光景を焼いているように感じられた。爆発するような感情の高ぶりのあまり、何も見えなくなる。あるいは気づかないうちに目を閉じていたのかもしれない。頬を伝う温い水の感覚。

 自分だけが、自分が生きているというその事実だけが、螺子巻人形の螺子のように、それだけがいつまでも自分を生かしている。精神など、とっくに崩壊しているに違いない。ほしいものはなにもかも、何もかも手に入る。けれど何一つとして自分のものにはならない。

 名前を忘れてしまった。きっと思い出す必要も無いから忘れたのだろうに、そのことが、時折こうして胸を焼いた。何も恐ろしくはなかったし、何も悲しくなどなかったのに、形骸化した枠ばかり残る感情が、時折忘れることを拒むように、涙を流させる。馬鹿馬鹿しい。


***


「それで、アモン様がいつものように勝手にいらして、陛下の魔力にあてられてこちらでぶっ倒れたということで合ってますか?」

「そうだ」

 人払いしたのが逆効果でしたね、と呟いて、世話役のクラウスは床に倒れたラインハルトの顔を覗き込んだ。血を吐いた形跡はあるものの、七十二柱の身体恒常性のおかげか損傷はすぐに治癒しているらしく、呼吸は穏やかだった。陛下は再びソファに沈み込んで呆れたように額に手を当てていた。クラウスは、では回収していきますねといってラインハルトを担ぐようにして起き上がらせる。上背のある彼を引っ張っていくのは難儀だと思っていたが、陛下が多少軽くなるよう魔法をかけてくれていたことを、担いでみてはじめてクラウスは察した。ここでお礼でも言おうものなら解除されてしまうので、気づいていないふりをする。

 およそ人並みの感情のなさそうな陛下でも泣くことがあるのだな、と最初のうちは思ったものだったが、本人が見られることを厭うて人払いし、いつも構うなというのでクラウスは何か言及したことはなかった。ただ多少気まずいだけだ。涙腺が壊れたみたいに、とくにしゃくりあげることもなくぼろぼろと泣いているだけらしく、それ以外は陛下は至っていつも通りだった。こういう風に騒がれると困るからいつもそうしているのだろうと、意識のないラインハルトの様子を見て合点がいった。

「また何かありましたらお申しつけください」

 特に返事もなかったので、ラインハルトの長い脚をずるずると引きずりながら扉を開ける。人払いを所望したはずなのに呼び鈴が鳴ったので不思議に思っていたが、まさか闖入者の存在があったとは思わなかった。日頃の様子からいっても、彼が陛下に何を言ったかは想像に難くなく、ずいぶん辟易しただろうなと思って少しだけ同情した。

「クラウス」

「はい」

「そいつが起きたら二度とこの部屋に直接来ないよう言っておけ」

 不機嫌そうな声音でぼそっと呟いたので、また面倒な仕事を押し付けられたなあと思いながらクラウスは、かしこまりましたと言って扉を閉めたのだった。

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