第2話 迷いウサギ
あんなに必死になって勉強した模試の結果はD判定。はじめがズタボロに打ちのめされたのは、夏休み直前のこと。
最悪な気分で夏休みに入って、塾と家の往復が始まって1週間が経った。
文武両道の兄は、医学部に在学していて現在はイギリス留学中。
医者の両親は昨日から学会発表のためアメリカに行ってしまって、家にははじめと家政婦の向田の2人だけ。向田も夕方には帰宅するので、夜はひとりだ。
夕方。塾から帰宅し、一息ついて今日の復習をしようと机につく。
コンコン──
部屋のドアがノックされた。
「ぼっちゃま、向田です」
「どうぞ」
はじめがイスに座ったままそう言うと、向田がそっとへやのドアを開けた。
「これできょうは失礼します。晩ごはん冷蔵庫に入ってますから、温めて召し上がってください」
「ありがとうございます。きょうのメニューはなんですか」
ぐるりとイスの向きを変えて向田の方を向く。向田は、祖父の頃から来てくれている家政婦で、かれこれ40年ほど勤めているらしい。もうすっかりおばあさんになったが、それが安心できる要因でもあった。
「ぼっちゃんのお好きなハンバーグです。おかわりもありますからたくさん食べてくださいね」
やったー! とはじめが両手をあげると、向田は嬉しそうな顔をして階段を降りていった。
17時30分。まだ日も高く、エアコンをかけてもジリジリと暑い。お茶でも飲んで休憩しようと立ち上がりふと窓から庭をみると、何かが動いたように見えた。
なんだろう。パタパタと一階のリビングへ行き、窓を開けてあたりを見回す。
向田もまだ家にいたようで、はじめがあわてて一階に降りてきたのに気がついてリビングへと入ってきた。
よく手入れのされた青い芝に、白くてもふもふのお尻がひとつ。んんっ? なんだあれは?
それはかわいらしい白ウサギであった。どこかで飼われていたのが逃げ出したのか。じっと見ていると、とことことやってきて、ちょこんとはじめの目の前に座った。
「ウサギ……?」
かっ……かわいいっ!! 思わずそう叫んでしまうくらいかわいらしいウサギだった。きれいな翡翠の勾玉の首輪をつけている。どこかのペットだろうか。
「まあ、こんな都会に。どこからきたのかしら」
向田も不思議そうに首を傾げる。
そのかわいらしさに、はじめはたまらずウサギを抱き上げて、家に招き入れた。
「ああ、ぼっちゃま、ウサギの足を拭かなくては」
ウェットティッシュで足を拭かれたウサギは、文字通り脱兎の如く駆け出して、リビングを出て行く。
「待って! どこ行くの?」
「まあ、勝手に……!」
はじめと向田が慌てて追いかけると、ウサギは祖父が使っていた離れの方へ向かっていく。離れといっても母屋と廊下で繋がっていて、ドアを開ければ行き来は自由だ。
昨年、祖父が亡くなってからは使っていない。どうやらそっちに行きたいらしい。廊下の先にあるドアを開けると、ウサギはトイレの前で座り込んだ。
「トイレなの?」
はじめが声をかけて扉を開けると、昔ながらの和式のトイレがどんっと現れる。向田が掃除してくれているので、使ってはいないがいつもきれいだ。
あわててた様子でウサギはトイレに入っていく。
なんだかトイレ中の姿を見るのもかわいそうかと思い、ドアを閉めて待っていると物音がする。中をのぞくと器用に前足でレバーを押して、水を流しているところだった。
「まぁ」
「すごいね」
はじめは、すごく品行方正なウサギだなと感心した。ここまで躾けられているのならペットに違いない。
「どっかの迷いウサギだね。動物愛護センターに連絡しておこう」
「そうですね、しばらくは家に置いてあげますか?」
「向田さんがよければ」
「トイレのしつけはできているようですし、飼い主が見つかるまでなら」
向田も珍しく賛同すると、家をあとにした。
動物愛護センターへ連絡を入れたが、飼い主らしき人からの連絡はないようだ。しばらく家で預かることを伝えて電話を切った。
ウサギは、電話をしているはじめの様子を心配そうに見つめていた。
「大丈夫。飼い主がみつかるまで、ここにいていいよ。僕もひとりじゃさみしかったし」
そう声をかけると、あからさまに嬉しそうにぴょんぴょん走り回った。言葉もわかるのかな? かしこいウサギだ。
駅前のペットショップへウサギのエサを買いに行く。途中で幼なじみの
「はじめくん、こんにちは。おでかけ?」
かえでは高校ではアイドル的存在。きれいにまとめたポニーテールに、くりくりの目。天使のほほ笑み。膝丈の白いワンピースがまぶしい。
「ああ、うん。駅前のペットショップ」
「ペットショップ? 飼ってた犬は死んじゃったって言ってなかった?」
「それが、庭にウサギが迷いこんできて。飼い主が見つかるまで預かることにしたんだ」
「そうなんだ。ウサギいいね、飼い主見つかる前にまた見せてよ」
そう言われてはじめはドキッとした。小学校まではよくかえでも家に遊びにきていたが、それ以来きていない。遊びに行きたいと言われたようで顔が赤くなる。勘違いもはなはだしいが。
「うっ……うん。よかったら勉強の息抜きにでも」
「ありがとう。ねぇ、はじめくんもお兄さんと同じA大の医学部めざすの?」
はじめとかえでは塾でも同じ医学部コース。かえではいつもいちばん前の席で真剣な眼差しを黒板に向ける。誰しもが一度は恋する高嶺の花だ。
「いや、そこは無理。M医大目指してるけど……」
「けど?」
黙りこんだはじめの顔を、かえでは覗き込む。あんまり近づかないで!!
「夏休み前はD判定だった。だからもっと勉強しなくちゃ」
「そっか……。お互いがんばろうね!」
憐れみともとれるその笑顔に、胸がギュッとなる。かえでは日本で1番難関と言われる大学の医学部にすら、楽々と合格できるくらいの秀才。
泥臭く勉強に明け暮れなくても、志望校には余裕で入れるのだろう。
なんだかバツが悪くなってかえでと早々に別れた。悪気はないのだろうが、あの透き通るような目で見つめられるのが辛かった。
ウサギのエサを買い、家に戻る。
はじめは自分も夕食をとりながら、ウサギにエサをやった。
カツカツ食べるその姿もかわいらしい。
ずっとここにいてもいいぞ。そう思うくらい。
夕食の片付けをして、部屋に戻って勉強をする。
高3の夏でD判定。親にはまだそのことを伝えていない。
ただでさえこの家の劣等生なのに、自分の自尊心を保っていられなくなるのではと怖かった。
机に向かうも、集中できない。
ふーっと息をついて両手で顔を覆う。焦れば焦るほど、勉強に身が入らなくて精神的におかしくなりそうだった。
ふとウサギに目をやる。
2階につれてきていたが、やつは静かだ。
クッションの上で静かな寝息を立てている。そのかわいらしい姿に少し癒され、笑みが溢れた。
鬱々とした気分を変えようと、シャワーを浴びに下におりる。ザッとあびてお気に入りの墨色の着流しに着替える。
やっぱりこの姿がいちばん落ち着くな。
母親の趣味の茶道。
小さいころはよく一緒に通った。稽古はさておき、着物を着せてもらって行くのが好きだった。
稽古には行かなくなったけど、着流しを着て過ごすのは自分にとってリラックスタイム。気分を変えるのにもうってつけ。
21時。今日はもう寝てしまおう。塾は9時からだから、5時に起きれば少しは勉強できるだろうと踏んだ。
階段を上がろうとすると、ウサギがドスンドスンと、お尻から器用に階段を降りてくるところだった。
「どした?」
そう声をかけて階段の途中で抱き上げると、ウサギは足をばたつかせた。1階まで連れて行って下ろすと、祖父の離れへまた走って行く。どうやらトイレらしく、ウサギはトイレのドアの前で、はじめが来るのを待っていた。
2階のトイレは洋式なので、きっと自分では上がれなかったのだろう。それなら1階の祖父の部屋で寝ようか。
ウサギがトイレに入るのを見送って、久しぶりに祖父の使っていた和室へ入る。
まだそこに誰か生活する人がいるかように、きれいに整えられた和室。
布団はときどき向田が干しているのですぐ使える。
はじめは押し入れから布団を引っ張り出して、そこに寝ることにした。
トイレから出たであろうウサギは、不思議そうに廊下から中を見つめている。
「おいで、一緒に寝よう。ここならいつでもトイレに行けるから」
ウサギはとととっと走ってきて布団に潜り込んできた。なかなかかわいらしいやつだ。ふわふわの毛並みを撫でながら、眠りにつく。
昨年まで飼っていた犬も、こうやっていつも一緒に寝ていた。なんだか懐かしい気持ちになって、心がほわんと温かくなる。
久しぶりによく眠れそう……。いつもなら、不安や心配、焦燥感に襲われて眠るのに時間がかかっていたからだ。
どのくらい眠ったのだろう。祖父の部屋の丸窓から月明かりが入っていた。
京都の源光寺の悟りの窓を模した丸窓。祖父はよくここから月見酒をしていた。友人呼んで、将棋を指すこともあった。その姿はいつも楽しそうだったが、どこか憂いもあるような顔だった。
満月の時は一段とその顔に憂いが乗る。話しかけるのすらためらわれたその雰囲気。早くに亡くした祖母でも思い出していたのだろうか。いまとなってはそれを知る術もない。
今日は美しい下弦の月だ。あまりの美しさに体を起こすと、ふわっと甘い香りがする。
えっと思って目を下に落とすと、そこにいるはずのウサギはおらず、裸の女の子が気持ちよさそうに寝息をたてていた。
「──っ!!!!!」
えええっ!? だっ……だれ!? ウサギはどこ??
「あわわわわっ……」
痴女か? 不審者か? あわててスマホで警察に連絡しようとしても手が震えてタップができない。
慌てている間に、女の子が目を覚ました。
「んんっ……。もう朝?」
「ちょっと!! 待って待って!!」
はじめは慌ててタオルケットを女の子に被せる。なんとか上下の大事なところを隠してもらって、はじめはたたみ一畳分、布団から離れた。
「きみ……だれ?」
あまりの恐ろしさに女の子をきっと睨みつける。
白いタオルケットに負けないくらい透き通った白肌。腰までありそうな艶やかな黒髪。くりっとした目が潤んで、こぼれ落ちそうなほど。
かっ……かわいい。
あまりのことに喉に何か詰めたように、言葉が出てこなくなった。
「ここは……地球?」
「へっ? あぁ地球だよ」
まだ起きたばかりで頭がぼうっとするのだろうか。女の子の気怠そうな目がすうっとはじめに向く。その途端、大きな目をさらにカッと見開いたかと思うと、ぼんっと顔が赤くなる。
「あっ、あの……えっと……」
うろたえる女の子のタオルケットが少しずれる。首には翡翠の勾玉首飾り……、翡翠の勾玉の首飾り!?
「きみ、もしかして……いや、まさか……」
女の子は慌てた様子だったが、大きく息を吸って、布団の上で座り直すと、タオルケットをまとったまま、三つ指ついて頭を下げた。
「お初にお目にかかります。月の宮殿より参りました、
はじめは理解ができず「はぁ」と呆けた返事しか出きなかった。
その様子を見て、月夜は首をかしげた。
「まだ、説明を受けていないの?」
「せっ……説明って??」
ため息をつくと、姫はぽんぽんと2度手を叩いた。丸窓からすうっと何かがはいってきて、半透明のスーツ姿の男性が現れた。
「朔、なによそのカッコ」
「いろいろありまして、このような姿に。遅れてすみません」
「まあいいわ。説明、まだなのよね? お願いします」
朔と呼ばれたその男性は、呆気に取られているはじめに向かって深くお辞儀をした。はじめもそれにこたえて会釈をする。
「はじめまして、月の宮殿より参りました。家来の朔と申します。こちらは、月の大王の次女、月夜美谷之命さまにございます。このたび姫さまは、地球見物へとやってまいりました。2週間こちらでお世話をしていただきますよう、お願い申し上げます」
「2週間? 彼女を……?」
「はい、さすれば願いをひとつ、叶えてさしあげます」
「えっ……」
はじめはあまりのことに目を見張った。
「願いって……なんでも?」
「はい、何でもです」
「志望校に合格したい……とかでも?」
「はい。もちろん」
何ということだろう。2週間姫を家におくだけで、願いを叶えるというのか。あまりの幸運と、猜疑心の狭間で心が揺れ動く。
「ね、はじめ。悪い話じゃないでしょ? 地球見物にきただけだから。2週間いたらすぐ帰るし。月の出てない間はウサギになって静かにしてるから」
あれ、自分の名前言ったんだっけ? ちょっと引っかかるが話にとりあえずついていく。
はじめは朔の方を見て口を開いた。
「2週間?」
「2週間です」
「ほんとに叶えてくれるの?」
「二言はございません。ですが、条件がいくつかございます」
朔はいつの間にかひざまづいている。
「えっ、条件あるの?」
はじめが驚いていると、朔は書面をスーツの内ポケットから取り出した。それにはこう書いてあった。
1.姫が月からきたことを知られないようにすること
2.ウサギから人間になる姿、またその逆を他人に見られないようにすること
3.性的行為をしないこと
※8月14日、月の入りとともに帰還します。
「うーん、まずひとつめなんですけど、うちには向田さんもくるし、知られないようにするのは難しいと思います……」
「
朔は相変わらずひざまづいて頭を下げたままだ。
「親戚の子だと言っても大丈夫ってこと?」
「そうです」
「わかりました。2は僕も気をつけるようにします。3は……問題ないです」
3については、さすがにそんなことできないと思った。そんな見ず知らずの女の子に……。一応理性は持ち合わせてるつもり。問題なし!!
「もっ……もしこの条件を破って、他の人にバレてしまったら?」
朔は顔を上げ、こちらをジロリと見た。冷たい視線に、体が凍りつく。
「地球見学は即終了となり、あなたさまの願いを叶えることは致しません」
「なるほど……。えっ、これってどこかで監視されてますか?」
「はい。月の宮殿で監視しています」
壮大なSFか。はじめはしばらく考えこんでいたが、「わかった」というと小さく息をついた。
「向田には、遠い親戚ということにしておきます。両親も兄もその間は帰ってきませんので、問題ないと思います」
「ありがとうございます」
「やったー!!」
朔は深く頭を下げ、月夜は両手を突き上げた。
「ねぇ、このカッコじゃ寒いから、服貸して?」
なんだがずいぶん図々しい姫だな。はじめは先が思いやられるなと思いつつも、渋々立ち上がる。
「服って、母のでいいですか?」
「いいよ。いまから舞をやるから、着物貸して」
「舞? 着物?」
「そうよ、置いていただくのだからこの家にもはじめにも、ご挨拶しなくちゃ。感謝の舞は得意だから」
「わかった。母さんの着物とってくる」
はじめは着崩れた着流しを直しながら、母の着物を取りに行った。
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