さよなら、現実。~Summer Time Blue~
たきくんちゃん
全編
◎第0/4=0章「何も変わらない笑えない日々」
〇自室。
3DSの写真フォルダーの少ない一枚の中に、田舎臭い素朴な少女のくしゃっとしたいい笑顔が、間違いなくあの家の縁側と一緒に写っている。
ふと、何かに突き動かされて、引き出しの奥から引っ張り出した、埃とポケモンのシールをはがした跡が何枚も残る黒い3DSを、下画面に表示された灰色の「電源を切る」を親指で何度も連打しながらそっと閉じて、そのままベッドの枕元へ放った。
あの夏から一体何年が経っただろうか。
今の現状を端的に言えば、受験勉強のストレスから完璧なうつ病に罹患し光も届かないこの部屋で、ただ心臓と肺を動かしてる。
あの頃は何であんなに頑張れたのだろうか。
ある日、目覚めると自分が役立たずの毒虫になっていたというカフカの「変身」は、自分のような状況に置かれた人間のメタファーなのだと、今初めて理解する。
脳は常に「もう死んでしまえ」と囁き、心臓は鉛を混ぜたような血液を送り出して、全身をずんと重たくし、本当は色々なことがやりたいのに、身体はただベッド上から動くなと命令する。
そんな焦りと不安の渦の中にたったひとり残されて今日も昨日も消えそうになる。
「現代はまだ、人間が住める環境じゃないね。」
彼女が言ったあの諦めと慰めの言葉をもう一度思い出した。
ディズニーランドにはゲストが現実逃避をしやすいようにするため、時計や鏡がなく季節感を感じさせないために、落葉樹は植えられていない。
この部屋も必死に現状と未来を見ないように参考書と制服を目いっぱいの労力を使って部屋の前に放り出した。
あの日、彼女から奪い取ったTシャツが、もう一切の香りを失って、部屋の中で一番いいハンガーに掛かっている。
いつもの手順通り、Tシャツに目を凝らしてから、あの過去だけに心を向ける。
現実の物音ひとつ聴かない様にイヤホンを両耳に詰め込んで、あの凡庸に輝いていた三日間のあいだ、いつも傍にあったこの曲をガンガンにかけて現在を遮断し、妄想にふけると、だんだんセミの鳴き声と踏切のリズムが響いてきた。
さよなら、現実。
今日も、特になにも刺激がなかった素晴らしいあの日を、いつしかの彼女と観た映画のように、ただコンテンツとして消費する。
ああ、夏を今もう一回。
青春の苦く苦しい濃過ぎる蒼を限りなく薄めた、
純朴で淡い水色の身の丈に合った青春のあの日を。
◎第1/4章 「感傷に浸ってばっか、」
〇夏季長期休暇中盤。一日目。電車内。
ゴトンゴトン。と、
誰もいない鉄くず感の強い電車の座席の真ん中でひとり、仁王座りのように態度を少し崩して、進行方向斜め前の窓から流れる代り映えない緑と黄緑色の田園風景をただ見つめている。
振動と同じくらいちらちらと揺れる吊り革。濁った銀色の鉄のポール。さんざめく陽の光を蔓や、葉や、水源が、たっぷりみずみずしく乱反射したまま風にも揺らめき、昼間から一面の地上にプラネタリウムを形成していた。
せめて、眼鏡だけでも持ってくれば、もっと葉脈一管先鋭に映った景色を見れたはずなのに、裸眼のままでは、それは印象派の絵画のようなぼやけたタッチの絵にしか見えないがこれはこれで味があってきれいなので特に気にしていない。
もしこれから先、秀麗で精緻な田舎景色が見たくなっても、新海誠あたりの誰かが何とかしてくれるに決まっている。
ふと、思い出したかのように喉が水分を求めたため、左手に握ったままのミネラルウォーターのキャップを、雑巾を絞るように大げさに開けて、ウイダーインゼリーのようにつぶしながらごくごくと飲む。
冷房が効いているとはいえ、まだまだ湿気と、窓から刺すように差し込む日差しが暑く、ファッション的な限界ギリギリまで腕捲りした薄手のパーカーの首元からじわりと汗の粒が顔を出していた。
不快感を拭おうにも、タオルの類などは今手元に無い。
夏休みの二泊三日の帰省に際し、忘れてきたのは、眼鏡だけではなく。お泊りセットが入った肩掛け鞄をまるまる一個だった。
現状所持しているアイテムは、ズボンのポケットに突っ込んだ財布と携帯、首にかけたワイヤレスイヤホン。そして乗り換えた駅で買った今はもうぬるくなった水だけ。
だいぶをミニマリズムを感じる持ち物構成だが、親戚の家に泊まりに行くだけならきっと問題はないだろう。
車輪に何か引っかかったのか、車体が大きく揺れる。
今から行く祖父の家に最後に行ったのは、十年ほど前に家族で行った時だけで、それ以来一度も顔を合わせておらず、正直顔はかなり曖昧でよく覚えていない。
最悪着替えなくても大丈夫かとも思ったが、シャツの内部に空気を入れるため、下腹部を触ったときに手のひらに感じた肌の湿度の高さを理由に、その甘い考えは否決した。
電車が駅のホームで間際でゆっくりブレーキをかけて停車する。
いい機会なので、ここで降りないけれど立ち上がり、着ていたパーカーを脱いで腰に巻いて、腕の部分をへその前でリボン結びにした。
半袖の状態になって、機械的に消毒された独特匂いがする車内の冷房からの冷たい風が、直接体を冷やして気持ちいい。
電車のドアは再び閉まり、ゆっくり重みをかけて再び発進するがそろそろ臀部も痛くなって来る頃だろうし、また座りなおすことはせず、このままポール状の手すりに掴まって立っていようと思った。
勉強道具一式もちろん忘れ、これから学生にとって大事な大事な夏休みの二日をノー勉で過ごすわけだが、正直もうどうでも良かった。
平均より少し上下の一般家庭の出身者が今以上に頑張ったってどうせ成績や進路はもうこれ以上は変わらない。
遺伝子と環境の豊かさを高レベルで享受した同級生には幼児教育からの質の高さや習い事などの体験格差から完全に出遅れていて、もう絶対に勝てないということを勉強を重ねる度に模試で理解し、お金持ちの子供が金持ちになる現実を痛烈に体感する。
選べる選択肢がひとつひとつ増える度に、この人生では絶対に選ぶことが出来ない選択肢があることが明確に分かり、遺伝子の差で、生涯なれない人間像があることを知る。
必死の努力でつかみ取った選択の自由で出来た脆いロウの翼は、不自由の真実を燃焼させて照らす太陽に向かっている。
それは、明らかな貴族制が現代に確実に存在することを溌剌に啓蒙していた。
本当に、夢を見せたくせに叶えられる力を与えないのは、暴力だ。
自分は、今のレベルをキープしたままで確約された、人生で満足する他無い。
このレールの上に敷かれた電車のように、他の路線には目もくれず、せっかく自分でつかみ取った社会のレールの少し上の人生をこのまま送ろう。
この少し高めの社会のレールの上。
そこだけが居場所で、それを守るために、そのアイデンティティをキープするただそれだけのモチベーションで、何とか努力を継続している。
つまらなくて卑しいとは思う。
けれど、徹底的に社会的な動物である人間である自分にとって、自分の明確な価値が無くなるのは死ぬより怖い。
今まで見つめていた、印象派の絵画が暗闇に変わった、どうやら電車がトンネルの中に入ったらしい。
ひとつたりとも好きなものではないから、急に窓のガラスに映った自分の姿、容姿から思わず目を逸らした。
…ぴろぴろと軽快な電子音が車内に響くと、アナウンスがもうすぐ目的地に到着することを伝えた。
そこで降りて駅の改札を抜けると、駅前まで祖父が迎えに来てくれた車で、実家へこのまま向かう手筈になっていたと思う。
…ところで、もし先ほどのレールの話に改札を付け加えようとするなら。
改札は、階級社会の象徴に感じる。大体同じような遺伝子と環境の切符で同じようなレベルの人間が同じ路線のレールの上に乗って、同じような目的地の改札を通って、棺桶の中で同じような顔をして死ぬイメージを想像できる。
電車は、まだ知らない場所までどこへでも連れて行ってくれる自由の象徴から、決まった目的地へ冷酷に機械的に送り届ける、不自由の象徴に、ここ数年で変化した。
暗闇が再び色彩を取り戻す。けれど、トンネルを抜けてもその景色は、さっきと特に変わらなかった。
そのまま、電車は夏の光を燦然と乱反射する広い大河を横断する鉄橋を渡り、目的地を告げるアナウンスが響いて、ゆっくり電車は停車し、ドアが開く。
風と一緒にセミのつんざきとムワっとした熱気と、懐かしい匂いがした。
嗅覚と記憶が直につながって、何かを鮮明に思い出す。
永遠に感じる夏の時間の中で、ぬるま湯の安心感につかっていた、茹だるような正午過ぎ。
縁側に腰かけ、3DSでもう何回も倒した四天王をもう一度倒しながら、手頸に垂れるアイスを気怠く舐める。
そして、あの頃はまだきっと好きになれていた、異性が隣にいる。
...ような気がする。
〇助手席。
バン!と予想以上の大きな音が助手席のドアから車内に響いた。
力の加減を間違えて、車を揺らすほど大きな力で人の車のドアを閉めてしまったのだ。
しまった、と思って恐る恐る、運転席でハンドルを緩く握っている祖父の表情を覗き込んだが、特に不機嫌になった様子はなかったのでほっと安心した。
こうやって、年上の人間の機嫌を敏感に気にするようになったのは、きっと普段の学校生活から意欲関心態度の項目の内申点を死守するために、背筋をピンと伸ばして、雑談や世間話にも常にうなずき、不当に内申点を下げられないようにするための必死の努力の賜物だろう。
理想と綺麗で出来た白い学校教育は見事、権威に根源的な畏怖を感じておののく自分のようなパブロフを作ることに成功している。
こんなことが起こる少し前。
電車のドアから弾みをつけて降車し、少しだけ気温がマシになってきた空気に逆らいながら、改札に向かう。
祖父の連絡先を知らないので、出口を間違えてぐだぐだ祖父を待たせてしまったらどうしようかと考えていたが、この駅には、そもそも西口東口といった概念がなく、間違えようがなかったからすぐにそれが杞憂だと分かった。
普段この駅を利用している人たちはレールの向かい側に行きたいときはどうしているのだろう。
...わざわざ踏み切りを使うのだろうか。
少しだけ中身が残っていたペットボトルを惜しみなく分別ごみ箱の穴の中に滑らせようかと思ったが、いったんやめ、改札にICカードをタッチして難なく通過し、綺麗とも汚いとも言えない微妙なまだら模様の短い階段を一歩一歩降りる。
目の前に広がる景色は、田舎という想像よりかは、建物も多く、ここが町と言っても全く過言にならないなとは思ったが、駅のホームからここまでで見かけた人間は10人もいない事はかなり気がかりだった。
乗用車や一台のタクシーがまだらに停まっているロータリースペースの中に、白い軽トラックの前に立って、煙草をプカプカふかしながらこちらに手を振っている初老のおじさんが目に入る。
「...おう!久しぶりやね。でかくなったんなぁ。」
「お久しぶりです。...お元気でしたか?この度は、二日間お世話になります。」
立ちどまってお辞儀をした。
「あら、なんか礼儀正しゅうなって。今の子らしく謙虚で良いなぁ。」
煙草のむせと一緒ににこやかに笑う田舎らしく日焼けしたこの人が、自分の祖父だということで間違いはないだろうが、正直胸を張って断定するにはかなり微妙なラインで、形式的にお久しぶりですとは言ったものの、最後に会ったのはたぶん十年は前なので、見覚えがあるかと言われたらかなり曖昧だった。
祖父はの姿は、イメージより若々しく、自分の隣に並んでいたら父親と間違える人間もいるだろう。
手を振って出迎えてくれなければ、たぶんそこら辺を一周は探し回っていたに違いない。よく見ると目元の感じが若干似ているかもと思いはしたが、そもそももう何年も自分で自分の顔を鏡でじっくり眺めていないので、余計自信が無くなってきた。
祖父に促されるまま、軽トラックの反対側の助手席の方まで荷台をぐるっと回りこむ形で歩く。
田舎よろしく荷台の上に乗れと言われるんじゃないかと勝手に期待したがそんなことは無かった。
短い人生の一回くらいは乗ってみたいなあと少しだけ思ったが、その欲はすぐに大人しく消え去った。
祖父は、吸っていた煙草をひと吸いで一気に消費すると、堂々とアスファルトの上にぽいと捨てて、硬い靴の裏で、吸い殻をもみ消す。
見慣れていない光景だからなのかもしれないが、祖父のその一連の動作は、色気があってかっこいいなと思った。
都会の相互監視社会ではなかなか公の場でそれする度胸を持った人間はいない。
その吸い殻一つの動作だけで、別世界に来たんだなぁと感じる。
地面をよく見ると、ところどころに煙草の吸殻があり、休憩中のタクシー運転手も、堂々と吸殻を捨てていた。
やはりここは地元とは別世界で、そこから狂気と常識の境界線引きはいつもそこに住むマジョリティがするものなのだと飛躍して考える。
自分の稚拙だと思っていた未熟な意見に確かな論拠が追加されて、無愛想な有名人が不祥事を起こしたときのように、「辻褄が合っていて欲しい欲」というべき人間の本能的な部分の欲が刺激され、快楽物質が、病院でもらう吸引薬くらい少量分泌した。
ゆっくりと軽トラックは発進し、開いた窓から酸素を多く含有した新鮮な空気が肺まで流れ込み、脳細胞が入れ替わるような錯覚に陥る。
見覚えが若干あるようなほぼ初めての豊かな緑と、晴れた青と、サビついたガードレールの汚れた白だけの景色が時速幾ばくキロのなかで目いっぱい後ろに飛んでいき、青い稲色に、使われなくなったカーブミラー色に、アスファルトを盛り上げるほどの生命力を輝かせる大木の根っこ色に、乱反射した光の粒はまるで教科書で見た流星群のようだ。
何百メートルの間隔をあけて連続してそびえる鉄骨の送電塔が青空と自身を常に対比させながら、遠近法を順守してゆっくりとこっちに迫って来る。
丁度今さっき、目的地の家まではさらに車で30分程かかる、と運転している祖父がまるで冗談を言うように言った。その言葉を真には受けずに、意外と快適だった軽トラのシートの揺れを受動的に享受していると。
「手ぶらで来たんけ?」
祖父が正面を見ながら質問をした。
「...はい、多分行きの駅まで送ってくれた母の車の中に忘れてきてしまって…。財布と携帯は持ってたんですけど。あ、もしよろしければ着替えとか貸してもらっても良いですか?」
若干睡魔にチクりとやられて、レスポンスが一瞬遅れたが、言おうと思っていたことをすべて伝える。
「おう、ええよ。」
二つ返事で提案を快諾したまま、特に祖父は言葉を続けて余計な詮索をするようなことはしなかった。こちらの本質的なコミュ症をなんとなく見抜いてそっとしてくれたのか、もしくは自分の少し疲れた顔を見て気を使ってくれたのか、は分からないが、そのまま沈黙は続いていった。
他人の車の中は往々にして各人の家の匂いがする。
最近では、自分の車の中を子宮の中の象徴だとした主人公が登場する邦画が、有名な映画賞をもらったことを聞いた。
一般的な論説では、車や電車の振動は胎内にいたときの感覚に似ているので、心地いいと感じるらしく、そこに付け加えるなら、何もしなくても、ほぼ確実に出産という決まった目的地に進むという感じもまた、似ているのかもしれない。
自分も、母親の胎内にずっといたまま、何も考えず、漠然とした安心感の中で生きていられたならどんなに楽だっただろうか。
そんな物思いに耽りつつ、やり過ごしてきたエンジン音とタイヤの振動だけの沈黙にもそろそろ飽きを感じ始めたので、一応失礼に当たらないよう右側の運転席にいる祖父から見えないように、首にかけていたワイヤレスイヤホンを左の耳にだけこっそり装着して、質問が投げられたときにもすぐ反応できるように、音量は気持ち小さめでこの状況にピッタリ合ったOrangestarのあの曲をスマホを淡々と操作して、ループ再生した。
前奏からの単純なリズムを、指を太ももに打ち付けて取り、そのまま心地いいボーカロイドの的確な押韻を感受する。
時々、癖で曲をききながら歌詞を口ずさむことがあるのでそれに目いっぱい気を付けながら、曲インプットすることだけに集中する。
人間という現実の肉の塊一つの自分が、決定した形態のない虚構の象徴の歌声を真似ようとするなんて、身の程知らずで下品だ。
やはり、ボーカロイドは良い。自分の心の一番奥まで侵入できるのは彼女だけだ。
やはり初音ミクは良い。
人間という動物では敵わないことがあると教えてくれるから。
やはり初音ミクは良い。
不祥事を起こさないから。
せっかく自分がわが子のように大切に凝り固めた頑固で繊細なイメージを外的要因で壊すことがないから。
やはり初音ミクは良い。
固定されたイメージに囚われていないから。
自分だけの彼女を虚構から生み出したとしても、自分や他人だって紛れもない彼女だと認識することが出来るから。
やはり初音ミクは良い。
性とジェンダーに支配されていないから。
我々人間の種の存続のためのレースからとうに外れた立場にいるから。
なんて羨ましいのだろう。現実の人間はこんなにもジェンダーに縛られて不自由なのに。
そんな一つの小さな出来事の集合が、恋とは、性とは、ただの動物的本能からくる装置に過ぎず、自分は特別でもなんでもなく、人類種という組織を存続させるための部品の一つに過ぎないのだと強烈に示唆してくる。
例えば、ほぼ無意識的に同学年のスカートの下の露出した太ももの肉の塊を見つめてしまったとき。
宝物のように思えた幼少期のあの恋の正体が、思春期から急に侵入してきた性欲によって「醜くていやらしい私こそ、煌めいて見えた恋の正体だ。」だと暴露されたとき。
そんな負の伏線回収を経験したとき。
そんなとき、自分たちのアイデンティティの広がりのなさに絶望する。
人間は完全に動物の一匹なのだと完全な証明を嬲りつけられる。
結局周りの為に自分は存在するのだと個人の力の無力さに夢を失くす。
恋の正体がこんなに醜く、憧れの感情を想起させないものなのに、それでも自分の性的役割を遂行しなければいけないと本能に言われて本当に本当に苦しくなる。
理想のそのすべてが地に落ち。概念がすべて物体化し、そこに希望も憧れも見いだせず、とうとう苦手になりつつある。
徹底的に社会的な人間という動物において、繁殖欲からなる色恋の感情を共通言語として持っていないのは致命的な弱点であって、脳は直ちにこの状況に警鐘を鳴らし続ける。
適齢期の人間が、繁殖欲に興味を示さないのは絶対的な間違いだと警告する。
脳は旧石器時代のまま変わっていない。
だからどんなに論理的な回答も脳は間違いだと宣告し続ける時がある。
なぜなら、集団で生きることがプライオリティだと脳にプログラムされているから。
どんなことがあっても孤独だけはいけないと常に脳が警告し続けるから。
やはり現代はまだ人が生きられる環境ではないなと強く思う。
恋の本質が人類種の永遠の存続のためというやりたくもないことだと知りながら、脳は永遠に役割を果たせと警告し続ける。
やる気も無い絶対できない課題を一生押し付けられ続けるように。
ガタンゴトンとこの軽トラックは、鋪装があまりうまくいっていないアスファルトの上を走っている。目的地に近づくたび、悪路度が加速している気がするのは考えすぎだろうか。
左の窓から景色を眺め続け、流れていくもう普遍化したオブジェクトが果てていく頃。
…すると、そこに高齢化が進むこの場所に珍しい、女子高生のような姿の人間がいた。
青みがかったブラウスに、一般的な長さのチェック柄のスカートその下に、学校指定であろう折り紙のはずれのような暖色系統の謎色のジャージを履いた黒髪の少女が、緑の草むらの上に胡坐をかいてぺたんと座っていた。
穏やかな風が、肩までかかる彼女の髪の毛をそっと揺らす。
そのステレオな女性的特徴であるさらさらした長い髪の毛を見ても、不思議と苦手意識は持たなかった。
少々肉付きのいい、思春期特有のあの体型。
今どき珍しい、手を加えていない自然なままの眉毛に当然のようなノーメイク。
古典的価値観から見つめて、女性らしくない胡坐という姿勢。
彼女からは、自分が苦手な「女」をダイレクトに感じるようなジェンダー感を一切感じない。
素朴で、少し芋臭いと、スラング交じりに言うならその通りなのだろうが。
...もしも。
もしも、自分が、脳と人類のサイレンから逃げるように、防空壕に避難するように、人生幸福の為に、異性と付き合わざるを得ないのなら。
そうなったら。
...彼女のようなタイプの人間と、性愛の関連しない、友達や兄弟のような関係性を保って安心感だけを一生享受していきたい。気持ち悪い押しつけの傲慢だけでそう思った。
「...最前線飛ばせ僕たちは星もない夜ただ東を目指して行く...。」
「...音楽聴いとるの?」
あ。
...どうやら、気付かないうちにぼそぼそと歌詞を口ずさんでいた。
「あ、そのすみません失礼でした。ごめんなさい。」
「べつにええよ?なんで謝るん?いい子に育ったなぁ。」
祖父は目元をくしゃっとして笑う。器が広い人のようで良かった。
「ちなみになに聴いてるん?」
…この質問になんて返したらいいのだろう。
年配層でも知っている有名な曲が咄嗟に出て来ないので嘘は付けないけれど、このコテコテのボカロをどう初老の祖父に説明すればいいのかわからない。
タイトルを聞いただけで知らない曲だと、笑ってそのまま流してくれれば一番いいのだが。
「...えっと一応今聞いてるのは、オレンジスターのデイブレイクf。」
外したイヤホンからガンガンに音が漏れてくる。
「あ、それ、あれやろ?ボカロいうやつ?ええよな」
曲名をすべて言い切る前に祖父が咄嗟に言葉を投げる。
「え?…あ、はいそうです。...けど。」
思わずぽかんとなった。皺が刻まれた人間の口からぼかろという三文字が飛び出してくるのがあまりに予想外だったからだろうか。
「ん?どうした?驚いて?」
「いや、なんかカタカナ語が飛び出してくるのが意外過ぎて...。」
「はっはっは。」
「まあ、普段から若もんがちかくにおるんからやぁ。」
軽い緊張から解き放たれたら急にのどが渇き、左手にまだ持っていたぬるくなった水をすべて飲み干した。
「あ、よかったらその空のやつ捨てとくわ。ちょうだい。」
「あ、ありがとう御座います。」
ごつごつした大きな手に空のペットボトルを手渡す。
「はい、どうも。」
祖父はそのまま自分側のドリンクホルダーにそれを装填した。
〇実家。
「お疲れさん。」
昼間からの長い旅路を終え、ようやく目的地である父の実家に到着した。
丁度今引き抜いた軽トラの鍵と、手渡した空のペットボトルを片手でだけで器用に握る祖父が、助手席からの離席を促す。シートベルトを外して外に出ると、時刻はもう夕方を越えていた。
日差しの脅威が身をひそめる様になったので、腰に巻いていた薄手のパーカーを再び羽織って腕捲りをして、その動作のまま、ゆっくり伸びをした。
時刻は、十七時と十八時の合間ほど。
ここへ来た理由は、面接や、英作文で書ける具体的な体験を増やしたかったからで、特にここでやりたいこともない。
統計的に考えるなら。夏が来るのはあと67回。焦らなくたって別にいいし、巷で言うような今しかできないことなんて、きっとない。
ここに到着した時点で、目標の八割は達成したと思って、あとは、義務を消費するように二日間ここに滞在しよう。どうせ、自分はうまく青春を謳歌できる人間ではないに決まっているのだから、無駄に挑戦して苦い思い出を作らないように、やるよりも、やらないで後悔した方が精神衛生に良いに決まっていると思い込んで保守的に。
スマホを軽快に操作して、曲の再生を止め、イヤホンをパーカーのポケットの中にしまった。
ラストの一番盛り上がる所は、ギリギリ聴けなかった。
実家の飼育小屋から、こけこけと鶏の生活音が聞こえ、カラスや雁が各々の進路で自由に鳴きながら濁ったオレンジ色の空に飛んでいる。
ポケットに手を入れて歩きながら、マリファナを吸うように、顎を天に向けて大きくのけぞり、鼻から大きく深呼吸をする。
やはり、懐かしい匂いがした。昔、絶対ここに来たことがあると自分はようやく確信した。
辻褄が合う快楽と一緒に、わくわくする気持ちをふつふつと感じたことを、自分は見なかったことにした。
◎第2/4章「幸せって今はわかんなくたって。」
〇道路脇。
永遠に昨日と同じ匂いのする土埃の混じった不快な風を静かに受け入れる。ここから左右に見える山々の青白く輪郭の歪んだ影は、私をこの土地に一生閉じ込める大きな蜃気楼の壁のようだ。
もし、その中に穿かれた山岳トンネルをひとりの力で抜けられたのなら、その先にはどんな景色が待っているのだろう。
一瞬だけ、希望が内包された気持ちが心臓に芽生えるが、それはすぐに溶けて消え去っていく。
私を構成するたくさんの診断名が、猛烈に足元から蔦を絡ませ、選択の翼がない私のような人間は、一生この鳥かごから物理的にどこにも行くことが出来ない。
どうせ馬鹿に生まれて育ったのなら、そのことに気付かないくらいもっと馬鹿でいたかった。
夢を見せたくせに叶える力を与えてくれないのは本当に酷い。
現代に明確に存在する、自己責任論では説明できない生まれながらの不平等。
でも、結局。彼らの階級の愉快な人生に私のような人間は登場しないから、彼らはずっと自分の論説の穴に気付かない。そうやって、今日も彼らの自論が世間の正論に変わっていく。
膝を畳んだり、伸ばしたり、胡坐をかいたり、体育座りをしたりして、定期的に体勢を変えて退屈を紛らわせている。今の個人的な暇つぶしの主題は、「知らんけど。w」の(笑)の中に内包された無責任さを、法廷立たせる方法だ。
地べたに座るなんてみっともないのは良く分かっているが、どうせ誰も見ていないので別に問題はない。このためにこの蒸し暑い中でもわざわざスカートの下にカーマイン色のジャージを着こんでいる。
...自分のコンプレックスを隠すためでもあるけれど。
ここは、私が能動的に孤独になれる数少ない場所。春の地獄を乗り切って、私はようやくこの夏に来たのに、この夏もきっと何も起こらないまま終わり、また地獄の秋が始まる。
クラスメイトの求めるキャラクターを演じる日々がまた始まる。
やはり煌びやかな青春など、ただの欺瞞だった。けれどそれでも、強く憧れてしまう。
...もし、人の目さえなければ。ある時点で同級生や地元の人間に別れを告げることが決定していたのなら。この先の人生永遠と彼ら彼女らと付き合うことを想定しながら付き合わなくて良いのなら。顔色から常に未来を思慮しなくていいのなら。自分にもっと能力があったなら。
私はもっと、自分らしく人と接することが出来るのに…。
少しだけ立ちあがって、ジャージのポケットから残り半分ほど入った家のスナックで、常連客が置いていったものをそのまま拝借した煙草を取り出そうとして、やめた。
そういえばこれを初めて吸う前、この閉塞的な今の状況に革命が起こると思っていたことを思い出す。未成年禁止のその先に、誰も到達していない幸せの正解があるのではないかと、その時は本気で信じていた。
けれど、そんなことはさらさら無く、脳はニコチンという異物をさも当然のように消化し、すぐ元の人生に戻るように命令し、ここには前科と煙と依存をまとったただの少女一匹。革命のおざなりな失敗は、余計に薄い絶望感を重ねただけだった。
今日はおじいちゃんの家には行かずそのまま帰ろうかと、湿った風が頬に髪の毛を張り付かせたその一瞬。遠くから車のエンジン音が迫ってきたのが聞こえる。
おじいちゃんの車だ、相変わらずの安全運転ですぐに分かった。全く車通りのない、目の前のガタガタの道を、ここでは一つも珍しくない軽トラックの一台が轟々と通り過ぎ、珍しく助手席に誰か乗っていることに気付いた。
「...あ。」
たった一瞬目が合った彼を見てすぐにあの彼だと分かった。本当に楽しかった一瞬のあの夏がまた鮮明によみがえる。彼はきっと私のことなんか覚えていないだろう。でも、私にとって本当の本当に大切な思い出だから、彼と過ごした何年も前の夏を今も鮮明に覚えている。
...ふと、私はまだ、何も諦めたくないことにも気付く。
それは、さよならに再会の意味があることを思い出した今日から。
〇二日目。昼。実家。
ハッピーともバットとも言えない微妙な終わり方をした夢の余韻がまだ体を重くし、ぼやけてまどろんだ視界から、知らない天井を通り過ぎて壁の掛け時計を見つめる。
長いこと見ていなかったアナログ時計の読み取り方にほんの一瞬躊躇いが生じたが、現在、時刻は十一時を順調に回ったところだ。
ここまで遅い時間に起きたのは何年ぶりだろうか。想像以上の長い移動で思っていたよりも疲れていたらしい。
もういちど頭から薄い毛布をかぶり、二度寝の体制を本能が勝手に整えようとする。
普段はそんなことないのに、人の目が無くなった途端にすぐに怠惰になる。
「真面目」だと自分の事を評価してくれる不特定多数の人間には大変申し訳ないが自分も所詮この程度の人間なのだ。
ドンキホーテのシャンプー売り場のような、安価で確実ないい匂いが時々この部屋から顔を出している。
今の格好は、風呂に入ったときに貸してもらった動きやすくて、眠りやすいシンプルな白いTシャツと茶色い短パン。
もちろん、これをスケジュール過密のいつもの日常でやったら、きっと罪悪感で気持ちよさを享受するどころの話じゃなくなるのは目に見えているが、睡魔に身を委ねると、なんだか心地いい堕落感を感じた。たまにはこの感覚も悪くない。
…でもさすがにこのまま、眠ってばかりいる訳にもいかないので、目覚ましのブルーライトを摂取するために、祖父から借りた少し絡み癖のある黒いケーブルの充電器につながっているスマホを指紋で起動する。
結局自分の寝泊まりする二階の部屋から下に降りて行ったのは、目が覚めてから一時間は経過した後だった。
「あ、おはようございます。」
「お早う。よう眠っとったね。」
「恥ずかしながら…」
古い型番のテレビと、本棚がある六畳ほどのスペースに布団が敷かれた和と実家をひしひしと感じる二泊する用に用意してくれたというこの部屋から、木製の手すりに捕まりつつギシギシと喚く階段を一枚一枚踏み抜けてゆっくり祖父のいる一階へ降り、朝の挨拶を交わした。
「飯、用意するわ。あっため直すだけやからすぐ出来んよ。そこ座ってて。…なんかアレルギーとかは...ないんよな?」
「あ、はい、無いです。ありがとうございます、頂きます。」
ところどころから暖かい気遣いが滲んでいる祖父の言葉に甘え、促された場所の座布団に胡坐をかき、腕を伸ばして足首の部分を軽くつかみながら、ぐるっと辺りを立体的に見渡す。
自分は、旅行先で描いてもらった家族の似顔絵を堂々と飾ってるタイプの家が家族の正解の形を押し付けてくる感じがしてどうも苦手だけれど、典型的な田舎の二階建て建築で、存在しているものすべてに背伸びしているのが伝わってこない生活感があるこの家は、かなり居心地がいい。
ここも車の中のと同じ、人の家の匂いがする。
ふすまが開けられた先の、正面の台所に立った祖父は、祖冷蔵庫から取り出したタッパーに入った味噌汁を小ぶりの鍋に入れて、ガスコンロでチチチチチとゆっくり再加熱していて、食器どうしがちゃかちゃかと鳴る。
祖父は祖母が亡くなってからこの家にひとりで暮らしており、綺麗に整頓された仏壇には、聡明に微笑む和服姿の祖母の遺影があった。
ほんの数年前、ほとんど寿命という形でこの世を去ったらしい。
らしい、と、どこか曖昧なのは自分が祖母が危篤という連絡を受けてもその葬式にも、塾の模試の勉強を理由にここには行かず、死後何日か経った後にそれを母親から聞いたからに他ならない。
そういえば、自分が出席しなかった理由を両親はなんて説明したのだろうか。
「はい、できたよ。」
辛気臭い話もほどほどに、祖父が食欲をそそるいい香りがする色とりどりの料理をお盆に詰めて運んできた。
〇食後。
「ごちそうさまでした。」
「はい、お粗末さん。」
漆塗りの箸を親指と人差し指の間に挟んで、丁寧に手を合わせる。
祖父が作ってくれた健康的な温かいご飯は、学校を休んだ日に食べる遅い時間の朝ごはんのあの別世界の味と同じ味がして、自分の限界も考えず白飯の茶碗を起点にたくさんの栄養を胃袋に押し込み、普段睡魔が勉強の邪魔をするのが嫌でなかなか満腹一杯まで食べることがないから忘れていた久しぶりの甘い不快感を自分の後ろにそっと体重を預けるように両手をついて受け入れている。
よく考えたら、初老の男が作る家庭料理を、人生で初めて食べたかもしれない。
要所要所から感じていたが、祖父は従来の老人像の固定観念に捉われず、自由で優しい人なんだなと思い、彼のような人間が増えるだけで、どれだけ生きやすくなるだろうかと考えた。
「今日、天気もいいし、ちょっと外でも散歩してくるといいよぉ。」
祖父が、よく考えたら客である自分も率先して手伝いを申し入れるべきな洗い物を終えようとしながらそう提案した。
「あ、はい。そうします。」
丁度今、珍しく外に出たい気分だったので、快く快諾した。
「あいよ、日が暮れる前には帰ってきんしゃい。」
ハンガーに掛けてあった自分のパーカーを一応羽織って、ワイヤレスイヤホンの電源を入れて、ネクタイのように首から下げ、玄関をガラガラと横に大きく開けて、勇み足で靴を履いて、ゆっくり飛び出した。
「っぶね。」
周りを良く見なかったせいで、危うく玄関の前に止めてあった、少しさびれたママチャリを倒しかける。二、三歩よろけてから感じる揺らめく地を揺らす熱気。夏の青い匂いが、多様なセミの鳴き声が、遠くから聞こえる踏切の反響音が、この記憶は人生に残すべきだと、海馬に信号を送った。
〇外。
勢い良く飛び出したは良いものの、本当の本当に右も左もわからないのでとりあえず、駅からここまで車でやってきたときの道のりを遡りながら進もうと思った。
それなら、最悪迷うことは無いだろう。
首にかけてあったワイヤレスイヤホンの両方を耳に装着し、スマホとなめらかに接続して、適当なプレイリストをランダム再生する。
車通りはほとんどないので、左側と中心線の真ん中あたりの場所を大きなスペースを意識しながら自由に歩いて、両手を、パーカーのポケットに仕舞い込み、ひび割れたアスファルトの大地を道なりに噛み締め、祖父の家の電気を供給するために建てられた電柱を、一本、三本、十本と通り過ぎる度、最新鋭の電子音に対抗するように生涯すべてを懸けた蝉の求愛音声が、微かにイヤホンで密閉された鼓膜に届いている。
プレイリストが適切に選び届けた音楽が何曲も終わった頃。
大きなあぜ道のようだった今までの道が終わりを迎えて、ガードレールに左右から補強されたうねったS字カーブを越えると両手側に木造の建物が何棟も見えてきた。
目の前には、行き止まりと、自分と垂直にそびえたつ一直線のガードレール。
右に行くか左に行くか、選択を迫られる。
昨日この左右どちらかから来たときは、一応窓の外をずっと眺めていたとはいえ、音楽と、あまり面白くない思慮に耽っていたので、どこから来たのかどこへ行くべきなのかが分からない。
とりあえず、今の体の軸が若干左に傾いていた、ただそれだけの理由で、惰性と慣性で左に曲がると、傲慢な緑の蔓に体を侵食されかけているくすんだカーブミラーに、一瞬だけ自分が映った。
本当にこの選択に特筆した意味はない。
だって、どっちの道を選んだところで、どのみち彼女には出会えていた。
薄汚れてさび付いた赤いポストや、透明部分の黄ばみがかなり進んだもう回ることは無いであろう床屋の赤と青のオブジェを通り、何かを育てる用の緑のネットと支柱に物珍しさを感じつつ、厚く短いコンクリートで出来た用水路のカバーの上をかぽかぽ足で鳴らしながら進み続けている。
さっきまでの道よりも、歩道はかなり狭く、歩道と車道を分ける白線もところどころ擦り切れて見えなくなっていき、もしこのまま両耳で音楽を聴き続けて、車に気付かなかったら大分危ないなと思い、イヤホンを片耳だけ外して、再びポケットに手を突っ込んだ。
途中。上の方に「カラオケスナック」と小さく白色の妖艶なフォントで書かれた紫の看板が置かれた建物から、お菓子の家のような茶色い扉越しに、演歌が聴こえてくる。
左耳から演歌、右耳からボーカロイド。
頭が世代の差でキーンとなりそうになった。
看板のど真ん中の筆記体は読めないので、店の名前は分からないが、昼間から盛んだなとだけ思って、そのまま、何も気にせずに通り過ぎた。
家からずいぶん歩いた気がする。体感では一時間は経過しただろうか、自分が見つけたメリーゴーランドの木馬に似たお気に入りの形の雲は、もう晴天の何処かの彼方に飛んで行ったに違いない。
見るからにこの先に曲がり道はなく、このまま、定期的に左に曲がり続けて、一度も同じ道を引き返さないまま、大回りで実家に戻るというトリッキーなプレイもできそうになかった。
ここからは、引き返すのに丁度いいシンボルを見つけることを歩く目的にしよう。
そんなことを思った矢先、鼻先をくすぐった、ドンキホーテのシャンプー売り場のような、安価で確実な化学のいい匂い。
次いで視界に入ったのは、制服の下にジャージを着こんで、道路より少し盛り上がった草原の上に尻餅を付き、ただ正面の木々の揺らめきを見つめている同い年くらいの女の子。
あ、あの子だ。ここに来るときに助手席から見つけた自分が苦手ではないタイプの化粧っけの無い女の子。よく見ると、少女という風体に似つかわず、もう中ほどまで短くなった火のついた煙草を左手に挟んでいて、あの時と同じように、肩まである髪の毛が優しい風にそよいで揺れている。
一歩一歩直進するにつれ、彼女も自分の存在に気付いたらしく。
ふとしたきっかけで、目と目が合う。
瞬間。
「ねえ、これからどっか行くの?」
彼女が前触れもなく話しかけてきた。
「...え?うーん。どっちかって言うとこれから引き返して帰ろうかなって思ってた所。キリのいい所まで散歩して。なんかどっかいい場所知らない?」
咄嗟に言葉を返せた自分に正直驚く。
…まあ、でも、初対面の人間とは意外と会話出来たりするのも人見知りあるあるではある。
敬語かタメ語か一瞬かなり迷ったが、直感が選択したのは、馴れ馴れしい友達同士のような口調だった。
それは多分いきなり仲良しの友達のようなフランクな態度で接する彼女の姿勢に呼応したからだと思う。
「ふーん。あ、このままずっとまっすぐ行くと橋の下にちょっとした川あるよ。」
「へーいいじゃんそれ。もしかして、入れたりもするの?」
「足首までなら。」
「...わかった。行ってみる。ありがとう。」
初対面のはずなのに、コロコロと顔のパーツを連動させ、明るく話す彼女とは澱みなく滑らかに会話は弾む。
それは、間違いなく話しやすい彼女のおかげなのに、自分のコミュニケーション力が上がったみたいでなんだか嬉しかった。
止めていた足を再びセミの鳴き声がより強くする方へ進める。
目的地が定まった安心感と、その他のポジティブな感情が、足取りを確かに軽くし、地べたに座った彼女に会釈をして、堂々と通り過ぎようとしたその時。
「ねえ、あのさ、良ければ私も一緒に行って良い?」
彼女がそう言った。
〇散歩。
何種類もの鳥が、どこまでも広い入道雲交じりの晴天の中を自由に飛び、さっきよりかは広くなった田舎の歩道を十代の若者二人が横並びで歩いている。
なぜ着いて来たのかやわらかい口調で何回か彼女に問うても、答えは「暇だったから。」の一点張りが返ってくるだけだった。
彼女の歩幅は自分より広く大きく、一歩一歩目的地へ進む度何歩分か遅れが生じてしまい、その結果、時々歩くスピードを加速して距離をリセットしては、遅れるを何回か繰り返していた。
けれどその状態もすぐに終わり、いつの間にか特に自分が何もしなくても、二人はずっと横並びのままになった、きっと彼女が知らぬ間に気を使って何も言わずに自分に合わせてくれたのだ。
配慮の出来る良い子だなと純粋にそう思った。
「あのさ、さっきまでそれで何聞いてたの?」
両耳ともとっくの昔に外して、今は歩く振動と一緒にぷらぷらと胸元の前で踊っていたワイヤレスイヤホンをちょこんと指さしている。
「プレイリスト適当にランダム再生してたから、あんまり一個一個の名前覚えてないな。なんだっけ。でも、基本ボカロとかそっち系とか入ってる。」
「へー。じゃあさ、...一曲聞いても良い?」
「...かして、それ。」
彼女が口角をにんまりあげながらイヤホンに向けて手のひらを伸ばす。
断る理由も特にないのでメダリストが、コーチに自身のメダルを持たせてあげるかのように首から外して、渡す。
「こっち左?」
「うん、そう。」
「じゃあ、こっちあげる。」
「どうも。」
彼女が右側のイヤーピースを差し出す。
「なんか流して。」
わくわくした顔で自分に迫ったので、ほんの一瞬立ち止まり、パーカーのポケットからスマホを取り出して題名もよく見ないまま、再生を一時止めていた曲の時間をぐいっとゼロまで引っ張った。
もしイントロからいきなりプリッキュア!と鳴ったら太陽が沈むのよりも早く動いて急いで次に回そう。
印象的な和音だけで出来た単調に弾むピアノのイントロが流れ始める。
Orangestarの「DAYBREAK FRONTLINE」
イヤホンが耳から落ちないように、右と左のイヤーピースをつなぐケーブルを手で持って支えてくれている彼女が再び歩き始める。
まるで、囚人につけた腰縄のように、少なくとも、この曲が終わる三分三十八秒間は、この無線イヤホンの三十cm以上の長さ分だけ離れないことが物理的に確約され、自分は彼女と同じ目的地まで歩く以外の選択肢を失った。
この、誰かが自分の未来の人生を決めてくれる安心感。
多様な選択肢から一つを選ぶ贅沢でだるい行為とは正反対の行為。
そこには、一切自己に責任はなく、全く悪い気持ちはしない。
そのまま、片側だけの音楽に奇妙なものを感じながら曲に浸っていると。
「あ、やば。」
「おっと。」
イヤホンが一瞬外れかけたので、それを片手で抑えながら彼女の方を見ると、今まで自分がいる方とは反対の手でずっと燻らせていた短い煙草を丁度吸って、車道の方へ吐き、長くなった灰をトントンと地べたに落とした。
「ごめんね。なんか貧乏性でさ、もったいないって思っちゃうとつい。あ、なんかいまさらだけど煙草大丈夫?嫌なら辞めるけど。」
「あ、それは別に大丈夫。」
「...てか、ずっと聞きたかったんだけど、どこから来たの?」
どうやら自分が異邦人であることはもうとっくの昔にバレていたらしい。
この規模の田舎ともなると、もはや、全員が顔見知りと言った状態なのだろうか。
「ええっと。埼玉の、」
「うん。」
「比較的ビルがある所の、」
「うん。」
「...周りがみんな中学受験するとこ。」
「結局どこ?w」
腑に落ちていないかのように、彼女が曖昧に笑い、三十cmの距離を死守しながら、隣同士ただ歩き続ける。
彼女の歩幅に自分が合わせる。
自分の歩幅に彼女が合わせる。
そうして二番のサビが始まる。
「ねえ、ここまで電車で来た?その時さ、山の中のトンネルとか通った?」
トンネル、と言えば自分の顔が窓ガラスに映って咄嗟に目をそらしたあのトンネルのことを指して言っているのだろうか。
「うん。通った。」
「その先の景色ってどんな感じ?ここと違う?」
ほんの昨日のどこまでも日の差したグラスのようにきらきら光った同じ多彩な緑の田園風景の記憶を反芻する。
「いや、あんまりここと変わらなかったよ。」
「...そっか。」
ほんの少しだけ彼女の顔に絶望ではなく、諦めのクマゼミのような陰りが落ちた。
〇煙草。
「あ、終わった?」
「DAYBREAK FRONTLINE」が終わり、軽快に二曲目に入った所で彼女はイヤホンを外して、ブラウスの裾でイヤーピースを軽く拭って丁寧に自分に返却した。
「ありがと、いい曲だね。」
自分で作った訳でもないのに、褒められると何故かうれしくなる。
次に流れていたのは、プリキュアのオープニングではなく、AIRの「鳥の詩」だったので、このまま、二人で聴いていても良かったのだけれど、仕方なく再生を止めて、再びイヤホンを首に掛ける。
「あのさ。」
彼女は、二本指に挟んでいた尽きかけの煙草を再び咥え、唇に柔く固定すると、その手をそのまま自分のジャージのポケットに入れて、何かをまさぐり彼女が取り出したのは、ソフトタイプの白い煙草の箱だった。
「良かったら吸う?」
「え?」
「聴かせてくれたお礼。どうせ都会の子はこういう悪さした事ないんでしょ?」
艶っぽくニヤニヤした顔をしながら、箱をぐいぐい押し付けてくる度、咥え煙草が元気に揺れ、手首をスナップさせる度、消費してほしそうに、煙草の一本がぎゅうぎゅうとその顔を出してくる。
...一応前後左右を確認して、箱から一番飛び出た一本を摘まんでそのまま口へと運び、内申や教師の監視がないところだと、自分はここまで簡単に理悪的になれるのかと少し驚いた。
このようなちょっとした人間同士の共同体のルールのずれが、重なって、負の日本史世界史の出来事は起こって行くのだろうか。
...ならもし内申点が受験に必要無くなったら、自分はそれでも真面目な「いい子」でいられるだろうか。もし仮に、内申の為に、人を殺すことが必要になったなら、自分は躊躇なく遂行するのだろうか。
...分からなかった。というより、やらない理由がぱっと浮かばなかったから、少し怖くなった。
やはり、性善説は、いろんな視点から多面的に見ても、間違っている。
「あ、吸うんだ...。」
吸った理由は単純で、自分も別世界の人間の仲間に入れてほしかったからかもしれない。
あまりにもすんなり未成年喫煙を遂行しようとした為、勧めた張本人が一番驚いている。
彼女は、そのまま、煙草の箱を握っていた手と反対の手で、アイスキャンディーみたいなチープな色のライターをポケットから取り出し、煙草の箱を指の間に挟んだまま、もう片方の手を丸めて風よけを作る。
ライターの硬いやすりを何回か擦って、ようやく出来た気弱な炎を、自分が咥えている煙草の先端に持ってくるが、そのまま、ライターの火はひたすら煙草に着火しないまま、先端を焦がし続け...。
「あのぉ、そっちから吸ってくれない火ぃ点かないんですけど。」
「あ、そうなの?」
アドバイスを受けて、息を整えるように煙草のフィルターから息を吸うが、それに反駁するかのように、ライターの炎はみるみるうちに弱くなっていって、とうとう完全に消滅した。
「あれぇ?」
また、彼女が何度もやすりを回して再度点火にチャレンジするが、今度はなかなか火がつかない。
「あーガス切れてる。」
スケルトンになっている、ライターの燃料タンクをしたから覗きながら彼女は報告した。
「...もーしょうがないか。」
そう言って、彼女は自身が咥えていた煙草を二本指で支え、そのまま、先端を赤く光らせる。
「...ほふぁ!火ぃ消えちゃうはひゃくはひゃく!」
アヒルのようにすぼめた口の先端をこちらに向け、何かを喋るたび、咥えた煙草から灰がぽろぽろ落ちている。
正直何を言ってんのかよく分からないが、彼女がやりたいことだけは分かった。
こちらも二本指で煙草を支え、優しく彼女の赤い先端にこちらの先端をくっつける。
彼女の睫毛との距離は煙草一本と四分の一本分。
帯分数はこの日のために習ったのだろうか。
目いっぱいの呼吸音まで聴こえてくる。
...でも、本当に対異性的な感情は浮かばない。
先ほどよりも大きく息を吸って赤色をゆっくり侵食させる。
この点火方法に、「シガーキス」という名前が付いていることを知ったのは、この日から随分時間が経ってからのことだ。
案の定フィルターから息を吸いすぎたせいで、多量の煙が一気に口から肺に入ってきてしまい。
「ゲッホ!ゲッホ!」
案の定。そのまま、地面に向かって仰々しく咳き込んでしまった。
初めての悪さは見事失敗に終わる。
「大丈夫?w」
彼女はその様子を楽しげに笑いながら、真っ先に他人の心配をすると、役目を終えた自分の煙草をアスファルトに放り投げ、ローファーの裏でもみ消して、再び歩き始めた。
自分もそれに倣って、歩道のど真ん中に、まだまだ新品同然の長さのタバコを投げ捨てて、足で丁寧にすり潰し、別世界の人間の仲間に入れてもらうための儀式を遂行する。
程良い堕落感が背中を侵食して笑った。
〇川。
「なんか趣味とかあんの?」
「うーん、映画とかはたまに良く見るよ、おじいちゃんの家で。」
「へー。」
「振った人がリアクション薄くないですか?」
「...ごめん普段あんま映画とかテレビとか観ないから。」
「じゃあ、そっちは普段何してんの?」
「...勉強と暗記と家庭学習。」
「...ひぇー。すごいね。私には無理だわ。」
やれやれとジェスチャーをしながら、皮肉めいた顔をして言った。
「...。」
「...。」
「...あとどんくらい?」
「ん?もうちょい。」
彼女と自分は、まだまだ田舎道を歩いていた。
くねくね曲がるS字の道。時々欠けた苔むした石の壁。今にも外れそうな、錆色の雨樋を伝った先の屋根の上で、呑気に惰眠を貪る猫二匹。傾いた柱に、ダルダルの電線。
初めて会話してからまだ20分も経過していないのに、不思議と何年来もの友人のように気楽な会話が弾んでいく。
彼女にはなんだか普遍的な女らしさを感じないから、不思議と性差なんて考えずに自然体で接することが出来てとても気軽で手軽で楽だ。
まるで、心を許せる友達が出来たような気分。
彼女となら、猥雑な恋愛指南書に書かれているような、男としてのマナーという名の性的役割を果たさなくていい気になってくる。
...そういえば本来なら、自分も旧時代的な男らしく、車道側を歩くべきだったのだろうか。
結果的に一台も往来しないこの場所で、その行為には見栄以外の意味はないのに。
「ほら、あそこ!」
「おおー。」
関東のレジャー的な河川の良い所をすべて詰め合わせたような立派な河川が、日の光をすべて乱反射して、今自分たちのいる橋の下に大きく煌めきながら広がっていた。
さらさらと流れる清流に、この橋が揺らめく影を落とし、綺麗な陰影をつけている。
見とれる間も無く彼女は、慣れた足取りで、川と平行に進み、土手に付属した石の階段を一段一段降りたので、自分もゆっくりその後に続く。
より近く、眼前に広がったこの川は、文字通りのオアシスだ。
大きな質量の水がごうごうとゆっくり流れていく音からは、人間の根源的な安心感を感じ、様々な生物の鳴き声が、鷹揚な生命力を誇示している。
その場に中腰をして、手をそっと流れの中に差し込み、水温を検査すると、この猛暑の夏に一切負けないような清涼感を手のひらに感じる。
ゴミは一つたりとも流れてこない。
隣にいた彼女が、ジャージをふくらはぎの高さまで几帳面に何度も折って捲り、若干苦戦しつつもローファーと両方の白い靴下を脱いで、雑に揃え、裸足の状態で何の迷いもなくその清流へ一歩一歩歩む。
「入んの?」
「え?入らないの?」
「...。」
ほんの一秒考える。
でも、まあせっかくここまで歩いてきたのなら、足首までにも清涼を感じよう。
履いていた靴を片方だけ脱いで、靴下もそのまま靴の中に押し込み、もう片方も同じように、靴を脱いで、靴下を脱いだ靴の中に入れる。そうして露わになった裸足の裏を、角が丸くなった小石の群れが、ぐいぐいと容赦なくツボ押ししてくるので、つま先立ちで急いでさっさと移動し、鶏のような歩き方で透明な天の川を目指す。
「ほら、早くこっち来なよ!」
いつの間にそこまで行ったのか、彼女はもう大海の中程にいる。
どこまで行っても、水深は足首以上は深くならないようだ。
「冷っった。」
足の甲に張り巡らされた毛細血管が心地良い刺激で程よく痺れるのを感じ、水の抵抗にゆったり抗いながら、大股で彼女を目指す。
〇水遊び。
「うおっつ...!」
何かが、急に足首に触れたので思わず声を出して驚く。
その正体は、清流を優雅に泳ぐ川魚のようで、透明な川の中に、何匹かの川魚が黒いシルエットのまま、足元を通り過ぎていく。
「あ、魚か、自然に泳いでんの見るの初めてかも。」
「...え?もしかして『魚』見て驚いたから『うおっ』って言ったの?」
「...いや、たまたまだって。」
「ふーーーん?」
「絶対納得してないじゃん...。」
「別にそんなこと...ねえですけど?」
からかった上、彼女は変な口調でそれ全体を憎たらしく否定して来た。
ほんのちょっぴりムスッとしながら、暇つぶしの一環として、両手を折り紙の手裏剣のように互い違いに重ねて、手のひらを軽く丸めてタンクを作り、そこに水を溜める。
銃口を自分から斜め前方向へと向け、両手のスペースを一気に圧縮して、手のひらのタンクの中の水を勢いよく前方へ放った。
昔、湯船でよくやっていたのを思い出す。
今度はもっと銃口を狭めてもっと遠くへ飛ばそうと、タンクに再び水をためていると。
「ねえ、それどうやってやるの?」
それを見ていた彼女が教えを乞うて来た。
普段ならきっと親切丁寧にやり方を教えるだろう。
けれど。
「すいません。ちょっと教えらんないです。企業秘密なんで」
慣れない冗談を言って、レクチャーするのを断る。
少しは、さっきからかって来たことへのお仕返しの感情があるのかもしれない。
「えー、ひどーい。」
頬をぷくっと膨らませる。かわいらしいリスだ。
「...そんなこと言わないでさあ?」
「叶わない夢ですね...。」
仕方がないので、引くことを知らないこの生意気な少女に現実を教えてやると、そのままお互い、しばらく見つめ合ったまま沈黙を重ねる。
「...。」
「...。」
「...えい。」
「ひゃああ!?」
何の前触れもなく手をおたまの形にしてひょいっと掬った冷たい水を、片足の短パンから露出した部位全てを濡らすように引っかけてきた。
明らかに心臓に悪い冷たさに、思わず人生で一度も出したことない声で鳴く。
「ははははははははははw」
彼女は手を叩いて大爆笑している。水しぶきが余計に上がる。
「...。」
「あ、怒った?」
「...おこってないよ。」
「いや、ぜったい嘘。...怒った?」
「...こってないよ。」
「ねえ、ぜったい怒ったでしょ、まちがいないね。怒った?ねえねえ、怒った?おこ、ひゃああ!?」
自分の水鉄砲の中に辛うじて残っていた水をめいっぱいの握力を込めて放出する。
あろうことか銃弾はすべて、彼女の顔面にクリーンヒットした。
「あはははは、もう!最悪なんだけど!」
ジブリ映画のワンシーンのように、彼女は表情筋を大きく使って、豪快に笑う。
それにつられて自分も笑う。
そうやって、何度も何度も時間の流れを忘れるくらい、少年少女のように自然の遊び道具だけを使って、二人豊かにじゃれ合った。
夏を誘う風が通り過ぎて、
橋が落とす影の闇と混ざりあって。
彼女と自分の笑い声が、
小さく藍の空に響いた。
〇夕方。
ひぐらしの一匹二匹が、自分の存在を表し始め、あんなに猛威を振るっていた太陽が、明日の英気を養うためなのか、段々西にある住処に帰ろうとしている。
「あのさ、そろそろ帰るわ。」
「ん。りょーかい。」
もう一度、緩やかな水の抵抗に抗い、岸辺に残してきた二足のわらじを目指すし、彼女も自分の後に続く。
思っていたより水に浸かっていたらしく、足の指の皮が少しふやけ、かなり冷たくなっていた。
「あ、やべ。どうしよ。」
河川敷の石ころの地面まで到着してから初めて、自分の危機的状況に気づく。
ここにあるのは履きつぶしたスニーカーと短い靴下とびしょびしょの両足。
タオルやハンカチの類いのが無いので、この両足を乾燥させるものが無い。
「まいいや。」
と、足をぶんぶん振って軽く水を切った後、靴下はとりあえず、丸めてズボンのポケットに突っ込んで、裸足のままサンダルを履くように、つま先を無理やり靴の内部に押し込んだ後、踵の僅かな空白の部分に指を入れ、靴の強度の限界を試すように目いっぱい引っ張って、蓋をするように履いた。
靴の内部がじんわり湿っていく不快感を感じるが、普段から踵を踏みつぶしたり、靴ひもを解かないで無理やり履いたりして、買ったときの形状は何処にも残っていないこの靴の状態に、未練はこれっぽちも無い。
ここに来てから随分適当な性格になったなぁと感じる。
もしくは、この解放的な環境が自分の本性的な性格を暴いたのだろうか。
ふと隣を見ると、流石にジャージは濡れてしまったのか彼女がいつの間にジャージを片足の先まで脱ぎ切り、靴下をその中に内包した状態で、浴衣姿で温泉へ向かう人間のように、くるくると畳んだジャージを右手に抱えていた。
そして彼女も自分と同じように、裸足にローファーを履く構えを見せる。
「なに、脚ばっかし見て。」
「見てねえよ。」
普通に見てたので嘘を付いた。
「はぁ...。やっぱり生足が良いんですよねー、はいはい。」
地べたで足を汚さないようにローファーを履くため、片足で器用にバランスを取りながら、呟くように言った。
「...いや、その逆。見えてない方が良い。」
「なんじゃそりゃ。」
一瞬迷うが、友達のような彼女になら自分の拗れた癖を外に出せる気がする。
「...なんか、こう。女って感じのする場所とか人が全般的に苦手っていうかなんて言うか。」
「ふーん。」
あまり納得いっていないようで、不愛想に考え込んでいるようにも聞こえる相槌を打つ。
「素朴な感じの子が良いってこと?」
質問を受ける。
話を聞いてくれた上で、興味も持ってくれるなんてとっても有り難い。
「うーん。どうだろ。なんかタイプの話でもない...。」
かといって、自分でもこの拗れた癖の具体的な構造を把握している訳ではないので、答えは曖昧になる。
手元にある語彙を紡いで必死に表現するなら、女性としてのタイプを持たないタイプが好みという事になるのが妥当な気もする。
「...彼女とか居る?」
「居ない。居たことない。」
淀まず、短く言う。
「でしょうね。」
「おい。」
彼女がクスクスと笑っている。
それを見て、今抱えている。質問も答えも自分の悩みもどうでも良くなった。
「おっちっと。」
彼女は少しよろけるがすぐに立て直し、目線の方向がずっと自分の足元にあるせいで、さっきからの会話の言葉すべてを、呟くように、正面ではなく地面にぶつけている。
片足立ちのまま、右手をジャージで塞がれた状態でローファーを履くのはかなり難しそうだ。
「それ持とうか?」
「お願い。」
「ん。」
自分の提案を彼女は快諾し、片足に目を落としたまま、持っていたジャージを差し出す。
それを、落とさないように汚さないように丁寧に受け取った。
栄養満点の風が、森林と預かったジャージを通り抜け、安価な化学の良い香りが鼻腔をくすぐる。
食料のある場所の匂いと記憶をより強く結び付けられたものが生存していったから、人間にとって、嗅覚と記憶は密接に関わり合っている。
繁殖欲と同じ、自然淘汰によるどこまでも合理的で、面白くない成り立ちの機能だ。
この匂いで曖昧に浮かんだ記憶が何故か三つあった。
一つは彼女。
一つは今泊まっているあの部屋。
そして、最後の一つは、縁側とゲームと風鈴の音。それも、ノスタルジックな感情と一緒に。
本当に何故だろう。
「ょいしょっと、おけ。もう大丈夫。」
「どうぞ。」
渡された状態のまま、持ち方を変えずに預かっていたジャージをそのままさっきと逆の手順で返却する。
「どもー。」
漫才師の挨拶のような、アクセントが文頭にある返事を彼女が返し、そのまま、河川敷にしゃがみ込んで、あんなに堪能し尽くした大きな川の流れにまた両手を漬ける。
煌めく光の中に濃く暗い影が落ちて、今までとはまた違った姿を見せていた。
「...ねえ、いつ帰るの?」
こっちを見ないまま問いかける。
「今日ここのじいちゃんの家に泊まって、明日の夕方にはもうビルの中。」
「...そっか。」
ぽちゃぽちゃぽちゃ。
いつの間に修得していた彼女の水鉄砲が、両手のひらからしおれた放物線を描き、蒼と暗闇の湖の中に力ない波紋を呼んだ。
「すごい楽しかった。ありがとう。じゃあね。」
感想と感謝と別れの言葉。
彼女に対する頭の中にあった単純な感情を言葉にしてすべて表現した。
「うん。さよなら。」
彼女はしゃがみ込んだまま。
まだ、こっちを見てはくれなかった。
〇帰り道。
「...あのさあ。」
「ん?」
「さっきじゃあなって言ったのに、普通にまた一緒の方向に帰るの滅茶苦茶気まずいんだけど。」
てっきり、川で別れると思い込み。先走った別れの挨拶をしたことを改悛する。
川の流れをしゃがんで見つめていた彼女をそのまま置いていったつもりが、土手の石階段を登り切って振り返ったら、さも当然と言った顔をして後ろにいた。
「...つまりさよならって言葉に再会の意味が含まれてるってことだね。」
「急にめっちゃ良い事言うじゃん。ビックリした。」
「いや、驚くも何もあなたが最初に言ったんだよ。」
「...え?いつ?」
「...『魚』見て『うおっ』って言うより前。」
「もういいってそれ。」
二人がクスクスと笑う。
また自分が歩道側を歩いているがそんなことは本当にどうでも良く、お互いが心地いい関係性を保ちながら、隣同士でまた来た道を引き返すと薄くオレンジがかった木造建築がうら悲しく見えるた。
「ねえ、暇だしなんか話してよ。」
「え、やだ。絶対変な空気なる。」
「お願い。」
「うーんそうだな」
「これさ、埼玉だけだってホント最近知ったんだけど。」
「うん。」
「先生が朝出席取る時、」
「うん。」
「普通なら、名前呼ばれたらそのまま、『はい。』って言って終わりだけど」
「うん。」
「埼玉の小学校だと、名前呼ばれたら『はい。』じゃなくて、『はい、元気です。』って言う。」
「へー。」
「で、もしも体調悪い時は、『はい。』の後に『おなかが痛いです。』とか報告する。」
「ふーん。」
「...で、体調悪いのかっこいいみたいな謎の時期に突入して来ると、みんな『頭が痛い』だの『昨日は寝不足です』だの言って一時的に体調不良者が続出する。」
「へぇー。」
「...ていう。」
「...。」
「はい。」
「はい。」
お互い顔を見合わせて、案の定絶妙に微妙な空気が漂う。
「地元トークなんてこんなもんだよ。期待しちゃダメだって。」
「ちなみに体調不良のくだりは、経験?」
「...。」
「シュンとしながら黙るのやめて?」
…自分が選んだのはものもらいで。
ただ、名前がカッコいいという理由だけ選んだのでその時はどんな症状が出るのかも碌に知らなかった。
両の目をぱっちり開けながら、ものもらいを宣言する生徒を、担任はどう思っていたのだろう。
あー、今。とってもとってもとっても恥ずかしい。
そうやって、一生距離が近づくことがない、壮大な入道雲を目指して二人は帰路についている。
同じ経路をたどる時、行きよりも帰りの時間の方が圧倒的に短く感じるのは自分だけだろうか。
適当にだらだら雑談しながらゆっくり歩いたつもりなのに、いつしか、彼女が座っていた盛り上がった草原を越え、気が付くと、昼間誰かが演歌を熱唱していたカラオケスナックまでたどり着いていた。
今はもうがらんとしていてお菓子の家のような茶色い扉越しには、何も聴こえない。
そのまま歩き続ける彼女の足取りは若干おぼついているように見えた。
「あ、あのさ、私ここら辺までで大丈夫だから。」
スナックの紫色の看板を通り過ぎてから何十歩か歩いた後、辺りを見渡しても特に家のような建物はないこの場所で、彼女は唐突にそう言った。
「え?ほんとにここらへん?また、じゃあねって言った後に普通に後ろついてくるとか無いよね?」
もう一度同じ辱めを受けないように念入りに確認すると、図らずとも、口調が威圧的な上司みたいになってしまった。
「大丈夫、今度はほんとのほんとにさよなら。」
「そう?じゃあ、気を付けて。またな。」
「うん。バイバイ。」
お互い手を小さく振り合いながら、自分は両手をパーカーのポケットに入れ、ゆっくり進行方向に身体を向ける。
なぜ、もう二度と会うことはないのに、「またな」と言ったのだろう。
その答えを出すのを邪魔するように、茹だるような暑さが完全に消えた左右の竹林や雑木林の中から、ひぐらしが本格的に鳴き叫んでいる。
まあ別に、こんな些細な語尾の間違いなんて誰も気にしていないだろう。そうして、今一番気にしていることが、祖父の今日の晩御飯のメニューに変わった。
何歩か歩いた後で、何の気なしにふと振り返ると、彼女は別れたあの場所にまだ突っ立っている。
片手をポケットに入れたまま、うたのお兄さんのように大きく手を振ると向こうもそれに呼応して大きく手を振った。
特に体調が悪いとかでもなさそうだ。
再び頭を前にやって、イヤホンを両耳に装着する。
涼しげな今の雰囲気にはひぐらしのなく頃にの「you」が良く似合うだろうと、スマホを操作して目的の曲を探す。
T字路を右に曲がると、彼女の姿は完全に見えなくなった。
〇道路脇2。
一歩一歩確実に私から遠ざかっていく彼を、楽しかった余韻にまだ浸っていたかったから、別れを告げたこの場所でずっと見つめていた。
思ったよりぐいぐい行き過ぎて、鬱陶しい子だとは思われなかっただろうか、ちゃんと普通の人間と同じように空気を読んで接することは出来ただろうか。
いつも勝手に始まってしまう一人反省会をなんとか意図的にストップする。
いったい、いつになったらこの癖は治るのだろう。
もしかしたら、一生固定された人間関係によって完全に閉塞された牢屋のような、この場所で暮らす限り一生治らないのかもしれない。
一人で飛び立つ力のない私は、狭い狭い田舎のコミュニティの共助の力に一生頼って生きていかざるを得ず、そのためには絶対に誰からも嫌われないように時には仮面を被って振舞わなければいけない。
悪い噂を流されたらもうそこで文字通り人生おしまいだ。
...だからこそ、すぐに、私の人生から居なくなることが決定している彼の前では比較的自然体の自分でいられるのかもしれない。
そうやってもやもや考えていると、彼が不意にこちらへ振り返り、自分がまだここに突っ立っていたことに気付かれてしまった。
彼の方からすれば明らかに私は不自然な行動をとっているように見えるだろうが、特に気にする素振りも見せず、彼が幼稚園児のように大きく手を大きく振ってきたので、すかさず私も元気に手を振り返す、その様子を見て満足したのか再び彼は前を向いて歩き始めた。
...彼は最後に「またね。」と言った。
もう会えないものだと思っていたからとっても嬉しかった。
...でも、ただ待っているだけで、本当に自分の理想は叶ってくれるのだろうか。
もし、あの時。勇気を振り絞らず、川へ一緒について行きたいと告げていなくても、彼は自分の気持ちを察して一緒に行こうと私を川へ連れて行ってくれただろうか。
...いや、絶対にそんなことにはならなかった。
これは、断言してもいい。やはり、願いは願うだけでは何も無いのと同じだ。
まだ、平均的に普遍的に謳歌するべき青春を諦めたくない。
ここまで前向きな気持ちは人生で初めて感じた。
こんな私でも、勇気を出して、今しかできないことをやってみよう。
やらないで後悔するより、やって後悔した方が良い。
目的が彼ならそう思える。
もし迷惑だったらなんて考えると辛くなるから考えない。
幸い、彼の居場所はもう知っている。これはただの奇跡だ。
家が騒がしくない今のうちに、シャワーを浴びて、服を着替えて、濡れた靴を履き替えて、少しだけ休憩したら。
楽しい思い出を作るために、もう一度彼に会いに行こう。
〇実家。晩御飯。
「ごめん、ちょい早いけど晩飯にしてええ?腹減ったけん。」
ポケットに入れた濡れた靴下を洗濯カゴの中に放って、代わりの靴下を貸してもらうと、祖父のこの言葉で、思っていたより早く飯に有り付くことができた。
時刻は現在17時を回った所。確かに夕飯にはまだ時期尚早な気もするが、川で思った以上にはしゃいでエネルギーが不足気味だったので、いいことずくめだ。
「好きにチャンネル回してええよー」
朝(昼)飯の時と同じように、祖父の家庭料理の完成を大人しく居間の座布団の上で待つ。
ちなみに、朝食を兼ねた昼食にはブランチという名称が立派にあるのだが、この、半開きの薄汚れた障子や、使い込まれた畳、木造の壁や柱に刻まれた背丈を刻んだ引っ掻き傷などで構成された、生活臭が漂う日本の実家感満載の和をダイレクトに感じるこの環境に居たので、そんな洒落たカタカナ語が出てこなかった。
家のリモコンの半分くらいしかない年季の入った手のひらサイズのリモコンをずんぐりしたフォルムのテレビの方へ向け、電源を付けた後、ポチポチとボタンを押して興味のあるチャンネルを選定する。
1から12番まで全て押してみたが、その半分以上は押しても画面に何も映らない。
何より、せっかく面白そうな番組をやっているチャンネルを見つけても、家のテレビとは放送区域の違いの関係で、番号に対応するテレビ局が異なりもう一度同じ番組を見つけようとすると余計に混乱する。テレビのチャンネル回しに時間と労力を割かれるのも馬鹿らしいので、今付いている地方ローカルのニュース番組で妥協した。
全員初めて見るタレントばかりだ。
そのまま、流れるようにコマーシャルが始まるが、地元の中小企業だと思われるCMに登場する社員のやらされてる感と、あまりに業務内容に合わなすぎるキャッチーで明るい安っぽい音楽に思わず笑いそうになり、下手をすれば本編よりもこっちの方が面白いかもしれない。
「はい、出来たよー。」
肉感が全面に押し出されたボリューミーな夕飯二人分が、お盆に乗って運ばれて来た。
白米がキラキラと輝き、具沢山の味噌汁が表面でゆっくりゆっくり泳いでいる。
「よっこいせ。」
祖父がちゃぶ台を挟んだ自分と対面。テレビに背中を見せる形で、座布団に座った。
画面は見えなくなり、天気予報を伝えるキャスターの声だけが聴こえ、今夜、雨が降るらしいことを伝えている。
「じゃあ、いただきます。」
がっちりと合掌をした祖父が発する。
「いただきます。」
自分も遅れて彼に倣う。
「この鶏肉新鮮でおいしいです。」
「そう?よかった。お前さんの為に絞めた甲斐があったわ。」
「...え?」
...こけー、と家の裏にある鶏小屋から微かに彼らの
「まず、今日のターゲットを決めてこう鶏小屋に入って行ってゆっくり忍び足で...。」
「聞きたくない、いい、いいですって。」
「はっはっは。」
「全力で食欲奪うの辞めて下さいよ...。」
「わるいわるい。」
悪戯がうまくいった子供のように祖父が笑い。
自分も苦笑いをして、甘ダレの油淋鶏を白飯にバウンドさせて口に運びながら、何かの命を奪ってそこに存在している構造が見えた途端、人間の動物感が一気に強まって見えるなと、ふと感じた。
「あ、そういや、言い忘れ取ったんやけど、表にボロっちいチャリンコあるやんろ?」
「あー、はい。」
玄関から飛び出していったときに危うく倒しかけたあの自転車のことだろうか。
「あれ、ここにいる間自由に使ってええよ。ごめんな、今日散歩行く前に言っとくべきやったんわ。」
「ああ、全然気にしなくて大丈夫です!歩きでも楽しかったので。」
また、目を見開きながら胸の前で手をぶんぶん振る。
「てか今日どこまで行ったか聞いてもいい?」
「えっと、橋の下の川の所まで。」
「あーなるほど、だから、玄関にちょっと濡れた足跡が何歩か付いとったんか」
「え?本当ですか?すいません...」
祖父は、ガラスのコップで麦茶を飲みながら、かまへんかまへんと言うように余っている方の手を横に振った。
「そこまで行く途中に誰かと会った?」
コップを丁寧に置いて祖父がまた質問する。
「...はい。同い年くらいの子に。」
「女の子?」
「あ、そうです。」
「あー、あいつか。制服の下にジャージ履いとったやろ。」
「そうです、そうです。お知り合いですか?」
「いや、知り合い言うたら。ここに住んでる全員顔見知りやんね。狭い世界やけん。」
「...そうですか。」
祖父が、ご馳走さんと、蚊の鳴くように小さく呟き。自分よりも一足先に食べ終わった食器を重ねて台所へ向かい、ジャーと水道から水が勢いよく流れる音が後ろから聞こえる。
テレビの画面が再び復活し、またも知らない芸能人がバスを乗り継いで旅をしていた。
「あの子な、ちょっと可哀想な子やねん。」
お互い背中合わせのまま、会話が続く。
「カラオケスナックん所のひとりっ娘なんねけどな。」
「あの、紫の看板の?」
「そうそう。あ、川行くときに通るんか。」
少し思い出す。
...あの時、彼女は、自分の住処であるはずのカラオケスナックを一度通り過ぎてから、いきなりさよならと言った。
まるで、自分の家の場所を知られたくないように、お互い別れた後も、彼女は、自分の動向をその場で見守っていた。きっと、自分の姿が見えなくなるまで。
...もしかして、自分が「女を感じる場所が苦手」だと言ったから?
自分がその「女」を感じる夜の店の生まれである事を隠すために?
まだ確定もしていないのに、自分の発言で気を遣わせてしまったことに罪悪感を覚える。
「その娘がほんの小さい時に、父親が家族に借金押し付けて他の女と逃げ出してしまって。」
「え?」
「その借金返すために母親はスナック以外にも仕事を何個も掛け持って家に全然帰ってこない。それでも子供を食わせていかなきゃいけないから元金は全然減らない。」
「一応破産申請とか、子供を施設に預けるとか色々前向きな話を提案してはみたんやけどな、逆に『自分だけの力で返す』って意固地になってしまって...。」
「...それであいつも高校生のうちからバイト漬けみたいな感じなんですか?」
「...いや、その逆。なんも出来ないんよ毎日この場所に帰ってくるなら、一生。」
「え?どういうことですか?」
キュッと、水道の蛇口が閉まる音がする。
たった一瞬世界から音が消える。
「まず、ここじゃ少なくとも電車を使わないと高校生がアルバイトできる場所が無いんよ。駅前でも。」
祖父はその後も矢継ぎ早に言葉を続ける。
「それに、家から一番近い駅の電車が七時で終わりだから最低でもそれに乗ってこないと自力で山を越えて帰ってこなきゃいけんくなる。」
「ここら辺じゃ時給も安いし、働ける時間も短いから往復の交通費だけで給料の大半が持っていかれる。」
「だから、バイトして稼ごうとしても無理やねん。いっそ高校生のうちから何処かに一人暮らしするか、いっそ高校辞めるかしなきゃ。」
「色んな考えあるとは思うけどな、もしワシの立場なら、自分の家が困っててなんとかしたいのに、何も出来ずに、じっと暇を持て余すんは、頑張るのより辛いわ。」
「...。」
重たい話だ。そんな話、自分の身の回りで聞いたことがない。
現実感がまるで無い話。
明らかな格差の話。
何もかける言葉が見つからずただ黙るしかない。
こんなのは、小説やドラマの中だけの別世界の話だと思っていた。
「まあ、つまり何が言いたいか言うたら...あの子と仲良うしてやって。こんな田舎じゃそんな不祥事すぐ広まって肩身の狭い思い一杯したやろうし、なんとか『かわいそうな子』だって思われないように、時々張り付けたような笑顔で笑って見てて痛々しくなる時もあるもんな。」
「それに、何かの拍子に、自分のままで気軽に接せられる友達が欲しいってぽろっと言っとったもん。」
...それにあいつがむずいんはそれだけやないしな。
その様に聴こえた祖父の呟きは食器に付いた泡を洗い流す音にかき消されて曖昧になる。
「...はい。」
本来なら、元気よく二つ返事で言いつけを守るべきだが、それは出来なかった。
...何故なら、その約束を守れる確信がどこにも無かったのだ。
連絡先すら交換していない彼女と自分。さらに、明日の昼にはもう自分は電車の中。
もう次会う時なんてあるのだろうか。
コンコン。
玄関の方から引き戸を叩く音がする。
「悪いけど、今手ぇ離せんから代わりに出てくれる?どうせあいつやし。」
「はーい。」
...あいつ?
消化しきれない単語を頭の片隅に置きつつ、玄関まで歩き、もうすっかり乾いた自分のスニーカーの踵を潰すようにラフに履いて、引き戸に手を掛け、ゆっくりと横にスライドさせる。
「よっ。」
くたびれたTシャツとやわらかいデニム。そして風にひらひらと舞っていた黒髪を藍色のヘアゴムで束ねた、緩めのポニーテール。
今、他の誰よりも会いたかった彼女が口角を上げて、目の前にいた。
〇再生。
ここ三日間の自分の拠点だと思っていたこの部屋に、私服姿の彼女が堂々と侵入している。
昨日自分が安眠を享受していパーソナルスペースの極致たる敷布団の上にペタンと座り、薄い掛け布団を膝の上に掛け、枕を両手でハグして、長時間視聴に備える構えだ。
丸まった背中からはこれを見終わるまでは帰らないと言うオーラを感じる。
自分よりも慣れた手付きでDVDデッキを操作し、うぃーんと、トレーを出してさっき本棚から取り出した「菊次郎の夏」を円型に凹んだ黒いプラスチックの中に入れた。
まるで、慣れ親しんだ友達の家のように、自分なりにふるまいを見せる彼女だが、この部屋からすれば、部外者なのはむしろ自分の方なので、何も言わずに、畳の上に胡坐をかいて座る。
...この硬く薄い畳の上に二時間。
「あのさぁ、ここだとケツ痛たくなるから布団の上行っていい?」
「いいよー。」
二つ返事で承諾を貰い、テレビと平行に敷かれた布団の端っこに座り、彼女もそれに合わせて少し横にずれてスペースを作る。
お互い胡坐をかいているので片方の膝の先端同士が定期的に触れ合って、ぶつかり合う。
その勢いで、ふと接触した彼女のポニーテールの先端がなぜか川から帰ってきたときより湿っていた。
「風呂入ったん?」
「うん。シャワー浴びただけだけど。」
「なんか、煙草の匂い結構付いちゃってたから。」
「そう?そんなこと無かったけど。」
「え?」
「あ。やっぱなんでも無いです。」
「そーですか。」
ふと、自分は大丈夫だろうかとTシャツの襟を摘まんで鼻腔に持っていこうとすると、
「そっちは匂わないからだいじょぶだよ。いい匂い。」
「...ご丁寧にどうも。」
彼女のジャージの匂いから実家のこの部屋に入り浸っていたのを特定した自分が言うのは説得力ゼロだが、人に自分の匂いを嗅がれるのは、例えいい匂いが漂っていようと結構恥ずかしい。
DVDの回転音が止まって、メニュー画面がテレビに表示される。
この自分と彼女の関係性は、年を重ねてお互い落ち着きを手に入れ、あまり喧嘩をしなくなった姉弟に似ているなと、ふと思った。
〇再会。
「ほんの二、三年前に、家がうるさいって言って蚊に食われながら草むらの地べたに座ってんの見て、良かったら家が静かになるまでわしの家で映画でも観とくか?って言って、今までもたまによく来てたけど、またちょいちょい来るようなって。」
まるで自分の家のように日常の手順の一部と錯覚するような慣れた足取りで、早々と一人二階に行ってしまった彼女についての鮮明で透明な解答を手に入れるため、祖父に「なんであいつがここにいるんですか??」とできるだけ短い文で質問した。
帰ってきた回答からは、祖父の聖人っぷりが随所から滲みだし、器の狭い質問をした自分のような人間は、溶けて消えて無くなってしまいそうになってしまう。
別に自分の家でもない家に誰が入り浸ろうとそれは人の勝手だ。
「...あいつの母親はこの事知ってるんですか?」
「一応ママにこの事言ったら、ありがとうございます。助かります。って言っとったよ」
「...。」
よく考えたらそれもそうだ。なぜ重箱の隅をつつくような質問をしてみたのだろう。
「まあ、人生またとない学生生活を狭い田舎の地べたで終わらすんはさすがに可哀想やん。」
ぐうの音も出ない正論を言われたので流石に納得する他なかった。今思えば、自分が寝泊まりする部屋から彼女と同じ化学のいい匂いがしたのは彼女がここを秘密基地のように利用していたからだったのだ。
「また会えてよかったなぁ。」
「...。」
全てを見透かしたような祖父の言葉に対して、何も反論することなくただ沈黙する。
だって、また会いたかったのは紛れもない事実だったから。
〇映画鑑賞。
「なんか観たいのとかある?」
「これ、二階に持っていきんしゃい。」と二階に上がる前にポンポンと祖父にリズムよく投げ渡された冷たいコーラの缶を持って、やはり開いていた自分の拠点の敷居を跨ぐと、テレビとHDMIで接続された古いノートパソコンを立ち上げ、今まさに布団を材料に自分の巣を作り始めようとしていた彼女が、こっちを振り返りながらそう聞いた。
「...じゃあ、せっかくだからなんか夏感あるやつで、…なんかある?」
開きっぱなしの部屋のふすまを、入ってきた動きの流れそのまま、格子のふちに足先を引っかけて器用に閉じながらそう答える。
網戸の奥から聞こえてくる虫や蛙の合唱がその質問を誘った。
「君の名は。とサマーウォーズは?」
「劇場と金ローで観た。」
「邦画大丈夫?」
「なんでも。」
そう返事すると、彼女はせっかく立ち上げたであろうノートパソコンの電源を切ってパタンと未練なく閉じる。
「あ、そのパソコン使わないんだ。」
てっきりそれでアマゾンプライムなり、ネットフリックスなりを起動して、テレビの大画面で再生するのかと思っていたので思わず内心を吐露する。
「いや、北野作品はね、配信無いんだよ。」
シュンとした声色で諭すようにつぶやくと、布団から手の届く範囲にある本棚の中から「菊次郎の夏」を手に取り、パッケージを開けて中から銀色に輝くDVDを取り出す。
というか、てっきり大型本かと思っていた本棚の中のそれらはよく見るとすべてDVDだった。
そのほかのラインナップは時代劇や任侠ものなど、タイトルのフォントが仰々しい筆文字の物が多い印象で、中には、自分は人生で一回もその再生機械を見たことがないVHSだと思われる横幅の広いパッケージもあり、端の方には、自分でも名前を知っている有名な洋画たちが一角のコーナーを形成している。
こう言う超有名作品は最早一般教養的に視聴しておくべきなのかなと若干の焦りを感じる。
「てかさ、なんでここに居んの?」
「だめ?」
「いやまじで全然良いけど。ほんと暇だったから。」
「...私も暇だったから映画見たくって。それに昨日おじいちゃんと一緒に軽トラ乗ってたでしょ?もしかしたら居るかなーって思ってたらほんとにいてびっくりした。」
「よくわかったな。」
「だってガッツリ目あったじゃん。さすがに忘れないよ。」
「...そうだっけ。」
記憶が曖昧なフリをしたのは、自分もバッチリ覚えていることを知られたくなかったからに他ならないのは分かっている。
あの時、自分は彼女のようなタイプの人間と友人関係になりたいと思ったのを思い出して急に恥ずかしくなった。それなのに、今その願望がなんとなく叶いつつあるのは何とも不思議だ。
映画の再生が始まると、お互い隣同士で、同じような姿勢で一つの画面を見つめる。
物語の「起」に相当するAパートが進む。音質は少しくたびれているが、まったく気にならない範疇だ。
しばらくすると、自分でも聴いたことがある有名なピアノの前奏が流れ、この曲が、映画のテーマソングであったことを今初めて知る。たしか題名は「Summer」だっただろうか。
深い青空の中を轟々と発進する白い白い入道雲。それらを完璧に映し返す、みずみずしい田んぼ。栄養を目いっぱいに蓄えようと深く地に根を下ろして咲く向日葵。思わず火傷してしまいそうになる陽に灼けたアスファルト。届くかどうか不安になる寂れた赤いポスト。がんばったら越えられそうな構成物が鮮明に見える深緑の山々。思考力を心地よく奪う気温と湿度と蝉の声。
この曲を聴くだけで、どこまでも行けそうな解放感と、眩しさだけは忘れなかった幼少期の夏休みを肌で感じる。
普段から、映画はテレビでやっているのを夕飯ついでに眺めるだけなので、途中にCMが挟まらないノンストップの映画を観るのは下手をしたら修学旅行の帰りのバスの中で観たドラえもんの映画以来ではないだろうか。視線はよりこの粗く小さな画面の中に先端していく。
物語は何度もギャグを挟みつつ、着々と先に進み、主人公のふたりは、まるで子役の演技臭がしない自然体の少年が、テレビでよく見るあの大御所芸人をおじちゃんと呼んでいた。
彼らは、遠く離れた少年の母に会うため、ヒッチハイクで、田舎を目指し旅に出る。
「なんかここみたいな景色。」
長い沈黙を破って、思った事をつい口にする。
「そう?どこら辺が?」
「...なんか、こう、すっごい緑と…青。」
「どうした語彙力。」
頭の作業机の大半を映画鑑賞に取られて、感受性がゼロになった感想を言ってしまう。
自分は幾つかの事を同時進行することが出来ない人間だなあと改めて思う。
「...てかこっちはもっと汚いから。」
「え?そう?滅茶苦茶綺麗だったけど。」
「それは多分今だからだよ。海もあるにはあるけど砂浜無くて岩場だらけで危ないし見た目グロいし。秋から冬とか、植物が一斉に枯れてきてもう一面まっ茶色。あと虫が凄い。網戸忘れて寝たらもうアウト。」
「聞きたくなかった...。」
昔は好きだったはずの昆虫も、この年になるとなぜか苦手になった。
よく小さいころは素手でダンゴムシとか触れたよなと思う。
「あーでも。」
「星は綺麗かな、テレビよりは綺麗に見えるよ。」
彼女は常に左上を見ながら言の葉を紡いでいる。
そういえば、右脳と左脳の構造的に、体験や記憶を思い出すときは左上。
まだ体験したこと無いことや嘘を構築する時には右上を見るらしい。
国語の長文問題の中で筆者が話題にしていた。つまり、彼女の言っていることはすべて。景色も、虫も、星空も、自分の経験からなる紛れもない真だろう。
「それテレビの画質が悪いだけじゃね」
「なんですぐそうやって噛み付くんですー?」
何となく緩い刺激が欲しくなって、少し小突いてみてもその場にあった適当なリアクションが帰ってくるその一連の阿吽の動作には揺らがない安心感があった。
その会話を皮切りに若干集中力に陰りが見えたのか、彼女は腰を少し浮かせて、体勢を何度も変え、自分にしっくりくる座り方を模索し始めた。同じ一枚の敷布団という狭い空間の中で何回も何回も姿勢を変える為、さっきから彼女の脚やら名称が分からない身体の部位やらがガンガンぶつかる。
映画を見る上では若干鬱陶しいが、映画ばかりに集中していてはどのみち後半で飽きが来る気がするので、これはこれで楽しいのかもしれない。
物語は中盤を越え、少年は、旅の途中で出会った愉快な仲間たちと目一杯遊んで、きっと絵日記には描き切れないくらいのたくさん思い出を作っている。
「はー。このまま特になんもせずにこの夏も終わるのかね。」
彼らが前に進む度、自分の情けない現状が際立ってくる。
両手を頭の後ろで組みつつ、それらのわだかまりを自虐めいて吐きだす。
「いっつも今日みたいな感じで遊んでるんじゃないの?都会の人は」
「いや、今日は特別。マジで久々に遊んだ。普段はそんなことない。勉強か睡眠か飯。」
「...あと別に埼玉って都会じゃねえし。てかそもそも都会人全員が遊び惚けてる訳じゃないし。そういう奴いるにはいるけど。」
あまりにダイレクトな都会への偏見を受け、思わず言いたいことを箇条書きのようにポンポンと放ってしまう。
「こっちからしたら、関東ってだけで十分都会だよ。」
「...そう?」
「うん。」
「そっかあ...?」
「...。」
「どっか旅してみたいな、ここ抜けだして。」
賽銭箱の前で願いを込める様に小さく呟く。
「あ、てか今日はありがとね。ほんとに楽しかった。」
「あの時一緒に行くって言ってよかった。」
「...なんで映画のド中盤でそういう事...別れ際に言えよ。」
突然の感謝の言葉になんだかむず痒くなって、まるで初恋の子の名前がバレた小学生のかわいらしい反抗のように思わず口が強くなる。
「だって最後にしんみりすんのなんか嫌じゃん。」
そうだろうか、と思いつつ、まあ人それぞれかとすぐ納得した。
「私も青春したい。」
―青春。
商業的に受動的にいつも自分たちに襲い掛かってくる二文字の響きは、女が苦手なガリ勉の自分にはあまりに縁の無い言葉過ぎて、イメージの中、いつも霧もやのような淡い楽しさだけが、具体を持たずに存在している。
「...青春て、何すんの?」
意地悪な質問をした、と言った傍から反省した。自分の周りの楽しそうに夏を消費する同級生たちと、自分を明確に分断する青春という曖昧な透明の壁を形成する一言の正体を知りたかったのだろうか。
それとも自分だけはなぜか手に入れることが出来なかったその言葉に思わず焦燥したのだろうか。
「え?...今しかできない事とかじゃない?」
「ある?そんなの。」
「なんか想像できねー。大人になってからでいいじゃんみたいなのばっかじゃない?みんなが言う青春って。」
口を開けば開くたび自分が嫌いになりそうになる。
どうやら自分の本能的な脳はなぜか自分が攻撃を受けたのだと勘違いし、生命の危機感を募らせて、自分の論説、考えが正しいということを証明するため、まるで、法廷で当時の状況をしつこくいやらしく何度も何度も確認する検事のようにしたたかな質問を投げ続ける。
「そうかなぁ。」
「みんな焦って必死になんかやろうとするけど、結局全部おざなりで空回りしてんなって、ってちょっと思ったりしない?」
共感を誘うという体制をとった反論の余地を無くし、他人の全てに息を止めることを強制する、暴力的に強い言葉。まるで赤ずきんの祖母に変装した狼の巧妙な誘い文句のようだ。
こんなのは共感ではなく洗脳と呼ぶのに。
「...あー確かにそういうのあるよね。」
「...。」
空気が、あんなに守りたかった空気が淀む。
物語と時間が、わだかまった空間の中でもお構いなしに前方向へ進んでいく。
...掛け時計の秒針の脈拍が百回近く聴こえたとき。
「...ごめん。なんか変なことばっか...嫉妬してんのかな。」
血潮が正常な流れを取り戻してからようやく、上唇と下唇を剥がしながら、そっと呟いた。
「...。」
「じゃあやっぱ、今しかできない事あると思う?」
「...それは、どうだろ。」
「わかんない。」
「だって俺、何にも知らないし...。」
間違いなく心の中心が、出現した。
淡々と言葉がぽろぽろと流れ出て、もはや、そこに自由意思が入り込む余地はない。
周りが観測した自分のイメージに乗っかり、外装で会話して、いつもロボットを操縦しているような気分になる自分のふいに出してしまった一番の弱点。
何よりも脆く切ないこれを、もし傷つけられるようなことがあったら、自分は...。
「...いやぁ、そんなこと、...ないでしょ。」
宥める様な優しい口調で少し口角を上げつつそう言いながらそっと彼女が、全体の半分以上の体重をだらんと隣の自分に預けた。
そのまま、重たい頭蓋も重力のまにまにに任せ、彼女の頭部が自分の肩幅の上から、耳の下にかけてのスペースにすっぽりと収まり、少し湿度の高いお風呂上がりの彼女の髪の毛が、毛細血管が集まる首元の辺りをぬるく冷やして気持ちがいい。
身体の右側全面から伝わる柔らかい彼女の全て体温が、自分の神経全体の攻撃力をどんどん溶きほぐしていく。
「あんま無理に気にしなくてもいいんじゃない?私なんてしょっちゅうみんな羨ましいなーって思ってるよ。」
「...。」
映画の内容が徐々にだんだん頭に入ってこなくなる。
「今日の午前さ、補習で学校だったの。全教科で赤点取っちゃって。」
「まじか。」
「あ、でも、物理基礎は二十点も取れたんだよ?すごくない?」
「二十点取って喜ぶの仮装大賞だけでしょ...。」
「はいはいそ-ですね。」
彼女が顎関節を動かして話す度に、自分の肩が遊ぶ。
「私以外に補習だった子ってみんな遊んでるって感じの子ばっかなんだけどさ、会話聞いてるとやっぱ楽しそうでやっかんじゃう。」
「...一緒に遊べば?」
「本気で言ってる?それー。無理だよ絶対話合わないし。住む世界が違うもん。」
こんな偏狭な地にもスクールカーストのようなものは確かに存在する。
もはや、カースト制度とは人類の普遍的な性質の一つなのかもしれない。
「それに、いま買いたいものあって貯金してるから遊ぶお金無いんだよねー。」
うーんと伸びをしながら彼女は密着していた自分からどんどん離れて基本的な胡坐の姿勢に戻っていく。少し、いやかなり名残惜しかった。
「...へーいくらくらい?欲しいの。」
「うーん中古で一万五千円くらいかな。買いに行く交通費でもっとかかるけど。」
「...あーでも、今なら別に買わなくてもいいのか。うーん。」
「私どうすればいいと思う?」
「知らねえよ。」
しばらく使われていなかった表情筋が、めりめり悲鳴をあげながら動いて邂逅していく。
中古で一万五千円。青春。
...ギターか何かだろうか。
アップデートしない娯楽価値観が、そう仮定した。
「どーしよ、夏休みって結局すぐ終わっちゃう。」
「...あんま焦んなくていいんじゃない?」
「でも、学生の時は人生で一度しか無いんだよ?」
「だからこそ失敗できないから勉強してんだけど…。」
「...。」
「...え、ちなみにさどれくらい?」
「時間?週四十時間くらい…?学校無いともうちょいやる。」
「...すごいねー。飽きないの?」
「友達あんまいないからそれ以外特にやること無いだけ。全然凄いとかじゃない。つまんない人間なだけ。」
彼女は何処か納得いっていないような、不満げでアンニュイな横顔を見せた。
そのまま、映画は大きな転換点を迎える。
旅の目的だったいなくなった少年の母親は遠い田舎の地で新しい家庭を築いていた。
透き通るような砂浜で、悲しみに暮れる少年を不器用に慰めるおじちゃん。
ざぶんざぶんと白い波が幾度も幾度も押し寄せては引いていく。
いつの間にかまた少し密着していた自分の肩がまた勝手に動き出す。
眼窩と下まつげの間をそっと指でなぞっている彼女。
「...え?泣いてる?」
「...いてない。」
大泣きをした訳じゃない、アイライナーで消えてしまいそうなくらい薄い一滴にすらならない涙。
確かに感動的なシーンだけれど、作品で涙を流した経験がない自分には少しだけ数奇に思える。
単純にこういう感受性のある性格なのだろうか。
それとも、少年と自分の境遇を重ねて...。
ふと、自分の何かにぞっと気持ち悪さを感じ、分の妄想に体調不良のような違和感を覚える。
勝手に自分が想像した理想を人に押し付けてキャラ化しようとするなんて、なんて傲慢で卑しいのだろうか。
そのまま、ふと「配慮」の正体の難しさに気付く。
表面的には何も変わっていないのに、ただそれを知ってしまっただけでも、行動の中身の意味が勝手に変わってしまう。そんなことを今更発見するなんて、自分はやはり一般よりも人間関係障害者に近い。
「...いや、海ってやっぱ良いなーって。」
「だからって泣く?」
「泣く...。泣いてないから!」
「さいですか。」
「本当だもん。」
「へー。」
「...。」
「海ってさあ、綺麗で広くて青いから希望感じるじゃん。いいなーって。」
童謡の歌詞にありそうなくらい当たり前のことを言った。
「それだけ?」
「それだけ。」
「海か、身近に海ないからあんまピンとこないわ。埼玉だし。」
「じゃあ、行ったことない?」
「あるにはある。小さい頃家族で。」
「へー。どうだった?やっぱ世界の広さとか感じるよね?」
「いや普通に向こうの房総半島、見えて萎えた。めちゃコンテナと千葉。」
「()…ボスッ」
「いってえ!」
一番近い海に手軽に行こうとすると来た必然的にそうなるのだから、しょうがないのに、脇腹に一閃のパンチが飛んで来た。
『菊次郎だよ、ばかやろう!』
と、故郷に戻ってから、初めて少年が一緒に旅をしたおじちゃんの名前を知って、物語が終わる。
「面白かったー」
「うん、面白かった。」
小説を一冊読み終わったときのような。テスト用紙をようやく一周した時のような。
心地いい読了感と疲れを感じる。
「そういえばさ、この映画の主人公の子さ。」
「うん。」
「今、JRの社員なんだって。」
「へーそうなんだ。今も俳優続けてんのかと思った。」
「ね、私もそう思ってた。…でも意外とみんなそんなもんなのかもね。自分の十年後とかって想像できる?」
「...そっちは?」
回答権を彼女にパスする。
「私?私は…。」
「今のまんまなるようになってるんじゃないかな…。選択の余地とかぜんぜんないよ。」
自分で人生を選択しなくていいのは気楽で、グラグラの自由感に不安を常に感じることもなくて羨ましいなと、贅沢者の戯言のようにそう思った。
「私の周りもそうだよ、田舎の子は親の人生トレースするように生きてる子ばっか。」
体育座りで前後に少しずつ揺れながらアンニュイにアイロニーな哀愁を呟く。
そのいじらしい仕草に何故か、正夢のような既視感を覚えた。
「じゃあ、そろそろ帰るね。」
映画を見終わった後も、何十分か幾時間か、だらだらと刺激のない話を続けていったが、ただ映画を見るだけそれ以上の目的で来た訳が無く、話の切れ目に、時計をちらっと彼女がそう言って、お開きになった。
「あ、そういえば、さっきの話。」
「どれ?」
そう疑問するほどお互いの中身には触れないような当たり障りのない文字の上をなぞるような話を沢山した。
「...自分の十年後の話。あれわざと私に聞き返して自分は答えるのパスしたよね。」
上目遣いでこちらを艶っぽく見つめながら、少し丸まった人差し指でこっちの心臓を指差しながら的確に痛いところを突いてくる。
「...なんか、よく分かんなくて、今まで考えた事なかったし。」
「あんな勉強してんのに?」
「...。」
「あのさ、」
「?」
「あんま助けになるかわかんないけど」
「おじいちゃんはさ、」
「人生まだまだAパートだから、分かんなくても迷っても間違っても大丈夫って。」
「...そっか。」
「うん。」
映画好きの祖父らしい良い言葉だと感じた。
それ以上は、言葉が具体的にならなかった。
「今日本当にありがとう。ほんと楽しかった。もう…大満足。」
右上をチラチラ見ながら彼女はそう呟く。
「じゃあ、おやすみ。」
「じゃあな。」
今度は間違っても「またな」と言わないように気を付けて、別れの挨拶を淡々と交わした。
一段低くなった玄関の先では、彼女が揃えてあった自分の靴を丁寧に履いている。
明日の昼にはもうここを後にして、ずっとずうっと、大自然から鉄の塊の中に身を潜めるのだと決まっている。
だから、祖父の言う「仲良く」なるためには圧倒的に時間が足りないと身に染みて感じる。
ああ、もう少しで彼女ともう二度と会えなくなる。本当にこのままでいいのだろうか。本当に今しかできない事など存在しないのだろうか。
ふと、彼女の靴底が、石造りの玄関を擦る音が止み、彼女だけ時間が止まってしまったかのようにピタリと止まる。
宙に舞っているわたぼこりひとつひとつが蛍光灯の光に反射して、彼女は、荘厳に降る雪の中に寂しくひとり存在しているようだった。
指先の二つはすでに引き戸の取っ手に掛かっている。
「...あのさ。」
「...結局気付いてくれなかったけど。」
こちらを振り返ることは無い。
「―私たち。昔もここで会った事あるよね。」
自分が言いたかったすべてが乗った息を遮断するように、扉が無慈悲に閉まった。
ガタン!
◎第3/4章 「夜に腐っていたって、間違いなく明日に向かっていく」
結局お互い飲むことがなかった未開封の二つのコーラに伝う水滴が、年季の入った薄い畳に染みて、何の集合も表さないベン図を薄く生成しているが、特に何も対策を打とうとはしなかった。
今はそんなことすら出来ないほどに、脳のスペースが空いていないのだ。
彼女が爆弾を置いて帰ったあと、臆病でどうしようもない自分は、彼女を追いかけることもせず、閉じたままの引き戸をしばらく見つめたまま、祖父に促されるまま、軽く風呂に入った。
長く入れば入るほど、この心のもやもやした感情が育っていくような気がして、風呂嫌いの子供のように、身体を洗ってせっかく入れてくれた熱い湯船に十秒も浸からなかった。
脱衣所に自分用に畳まれていた祖父の服を借りて着替え、そのまま足早に二階に駆け上がって、自分の部屋の敷布団の上に、マット運動の準備体操をするようにゆっくり寝転がった。
敷布団の上には、自分と彼女が確かにここに存在した証が体温となって記録に残っており、とても考え事をやめるために考え事を忘れることは出来なかった。
トントンと障子の格子が様々にぶつかり合って揺れる音がする。
「あ、ちょっと今ええ?両手塞がってるから開けてくれー。」
祖父の声だ。
本当はこのまま、時間をかけながらここでゆっくり大脳の機能を停止して眠りに就きたかったのだが、身体中に残っていたエネルギーすべてを起床に注いで起き上がり、障子を開けた。
「サンキュ。これ、昨日来た時に着てた洗濯もん。乾いたから今日の着替えと一緒に畳んで置いといたんけど、気付かず上、上がってったから持ってきたんで。」
「あ、すいませんわざわざ。ありがとうございます。」
「ん。」
「...あ、それ結局飲まんかったんか。」
祖父は、床に置いてある隣り合う二つの濡れたコーラを指さす。
「お互い遠慮したん?そんなのええのに。」
祖父はそのまま、それをこっちに持って来いというジェスチャーを腕から下全体で大きくしたので、さっと障子から一、二歩後ろに下がり、軽くしゃがんで、二つのコーラを片手で掴み、そのまま大きく弾みをつけて一気に祖父の元へ向かって、「どうぞ。」と言ってそれらを手渡した。
「どうも。あ、てか、菊次郎の夏観とったんけ?久石譲のSummer、下まで聴こえて来たで。あの子が選んだん?」
「そうです。」
「ええなー。」
彼女の映画選びのセンスに感心したかのように、たくさんの甘い感情を頬張りながら頷いてる。
「ところで、父ちゃんから聞いたで、勉強いっぱい頑張って学年で何度も一番になってるって。」
「...それ中学の話ですよ。高校行ったら何とか三十位キープするのでやっとです。」
「それも十分凄いことやん。もっと自分を褒めてあげんと。」
「ははは。」
斜め下を眺めながら、人間に変装した怪物のように違和感のある引き攣った笑いをしてしまう。自分の褒め方なんて一切知らない。それが甘い妥協と何が違うのかわからないから。
「ばーちゃんの葬式一人だけ来なかったんも、塾で勉強する為だったんやろう?」
「あ...その節はホントすいませんでした。」
出来るだけ丁寧に頭を下げる。
「ああ、そんなんやめて。天国のばーちゃんだって自分の孫が努力家で誇らしいと思っとったと思うんで。だから気にせんで。」
「...はい。」
「父ちゃん母ちゃんはお前さんになんか言ってる?」
「…そうですね。勉強ばっかしてないで早く寝なさいとは、散々言ってきますね。」
「善意なのはもちろん分かるんですけど、正直ちょっと鬱陶しい…。」
「はっはっは、まあ、二人とも心配してるんやろう。にしても、勉強しろじゃなくて勉強すんなって言われるのは中々珍しいな。」
祖父は気分良く、表情筋のすべてで笑っている。将来の自分の形が見えない自分にとっても、彼の人生はきっと楽しいものなのだろうと簡単に想像できてしまう。
「それに、これはただの想像やんけど、二人とも、お前さんにもっと今しかできないことやって欲しいと思ってるん違う?」
「...あの。」
「ん?」
「今しかできない事って何ですか?やっぱり青春を楽しむ事とかですか?」
久々に、大人の人間に自分の弱さの一つを見せた気がする。
そこまでしてでも、彼に、このわだかまる気持ちの正体に名前を授けて欲しくなった。
「全部よ。そんなの。」
「...ぜんぶ?」
今までにないまったく新しい世界観の視点だった。
「甘いのも、楽しいのも、辛いのも、苦いのも、心地良いのも、悲しいのも、怒るのも。」
「ぜーーんぶ今しかできない。」
「...だから何も行動しないのが一番もったいない。」
「...それだと失敗した時、後悔しませんか?」
その質問を待ち構えていたかのように、祖父はそっと和らいで、言葉を続ける。
「若い時の失敗なんて金払っても欲しいくらいやわ。それに、後悔のない人生なんて、生きてきた証が無いのと同じやけんね。」
祖父の言霊一つ一つには、紛れもない安心感があった。
まるで、友達と人生で初めて喧嘩した後に先生が、優しく未来を諭す時のように。
「...大丈夫。人生まだまだAパート。間違えても、雑になっても、まだまだこれからよ。」
「...それ、あいつも言ってました。」
「...マジ?」
目を合わせて。互いに気持ち良く苦笑しあった。
「あ。」
「そういえば、明日何時くらいに帰る?駅までワシが送ったるわ。」
急に話題が変わり、ありがとうを言わせてもらえなくなった。
「...えっと、午前中に一本とかの電車ですよね。」
「うん。ほんとは夜にあと二三本来るけど、それだとたぶん最後の方の乗り換えが終電ギリギリになってしまうから、そのどっちかの方が良いと思う。」
「...その、明日改めて決めてもいいですか。今日疲れてて、いつ起きれるのか分かんなくて。」
「わかった。じゃあ、また明日な。おやすみー。」
「我儘言ってすいません。おやすみなさい。」
祖父が障子を力強く、でも丁寧に閉めて、ミシミシと床板を言わせながら、部屋を後にした。
溜息にしては、少量の息をさっと吐き、自分の方向を逆にする。
布団へ向かう一連の動作の流れの中で、電気のひもを何回か引っ張って完全に暗くするが、障子紙の向こう側から廊下の明かりが漏れてくるので、ここは闇にはならない。
再びゆっくり、布団に倒れこむ。
今度は掛け布団を開けて、その中に潜り込み、本格的に睡眠を実行する構えを見せた。歯磨きは明日の朝にでもしよう。
敷布団はすっかり人肌の温度を忘れたものだと思っていたが、彼女が存在していた部分だけ、上から掛け布団がかかっていたので、記録は保存されていた。
太ももの裏を中心に、人の体温に調整された温度が伝わって心地が良い。
...天井を見上げて、そっと両の目を閉じる。
川で久しぶりに全身を動かしたから、今夜はきっとよく眠れるだろう。
瞼の裏に映る黒い入道雲のようなぐるぐるを追いかけながら、睡魔が安楽死に導く霽れをそっと待つ。
けれど、今日だけはそんなことしなくていいのに、脳がいつもの癖で勝手に今日の出来事総てを復習しようと、記憶をひとつずつ反芻する。
そんなことをしたら余計に安眠から遠ざかってしまうというのに、曖昧な形のその奥、瞼の裏に彼女の横顔がいる。
...自分と彼女は、今日出会ったすべてを通しても、お互い探り合った話はしなかった。
まるで、あのぬるくなるまで寄り添った二本の未開封のコーラの缶のように、プルタブのふちをなぞるような表面的な世間話をただ続けられるだけ続けてただけで、中身が飛び出るような互いの核心に触れる対話はしなかった。
「自分の十年後って想像できる?」
答えを出せないまま終わったその問題が悶々と安静を妨げる。
「―私たち。昔もここで会った事あるよね。」
悶々に追随するように、解決不能な感情論が押し寄せる。
彼女とは間違いなく今日が初対面の気がしたのに、この家とこの環境のノスタルジーがその正解に待ったをかける。
深く、思い出を詮索する度、五感がどんどん冴えてしまって、掛け時計の針の音を越えて、夜に駆けだした生物たちの、鳴き声が壁から染みて、徐々にうるさく感じる様になった。
布団の中に引きこもったまま、杞憂の暑い寝苦しさに、何度も寝返りをうって、枕のぬるくなった場所を必死に探すが、又すぐ、自分の体温に犯される。
快適とは言えない居心地に徐々に苛立ちを考え始める。
問題を解決できないまま、ここにじっと眠りを待っていると、焦りと不安の渦で洗濯されそうだ。
この気持ちはまるで、鳥籠の中に閉じ込められたかのよう。
疑いが一つまみ。
...本当に檻は閉まっているのだろうか。
本当に、この生ぬるい布団の中で明日を迎える以外の選択肢はないのだろうか。
...それは、人間の根源的な恐怖のせいで、囲いがあると、妄想しているだけなのではないか。
それともこのまま、翌日からのいつもと何も変わらない日常に戻るつもりか。
「...眠れない。」
風もなく茹だりそうな夜にそう呟いた。
彼女は、ここは星が綺麗だと言う。
ぎんぎら夜も眠らない輝く地元では、星なんて見たことがない。
このまま、見えたはずの今日と明日の夜空を見逃して、自分は、大人になってからもこの日を後悔して、見えないものを見ようとし続けるのだろうか?
それが十年後の正体なのか。
ならば、何も行動を起こさず、ただもやもや考えて、このまま家に帰っても良いのだろうか。
―彼女との確執を諦めたまま。
「...だから何も行動しないのが一番もったいない。」
祖父の言葉が、魚の骨のように喉に引っ掛かる。
...今しかできない事があることくらい本当は分かっていた。
けれど、それに気付かないふりをしたのは、今の人生を送るために拒んだ物が多すぎて、見えないものがあまりにも多すぎるいうことを知りたくなかったから、考えたくなかったから。
青春の為に、行動を起こさなかった理由は、今まで信仰していた勉強に戻れなくなるのが怖かったから。
楽しいと知ってしまったら、今までの人生が惨めで間違っていたことの何よりの証明になってしまうから。
...一見良いように見える、ただの臆病な思考停止。
挙句の果てには青春を謳歌する人間を学力で下に見る始末。
そんな自分に、彼らを攻撃する価値なんて...。
もはや義務と化した自己批判に心臓から鉛が走る。
こんな自分が嫌いで嫌で、いつも自分の姿形が映るものを避けている。
だからこそ、いい子の自分ではない別世界の自分に憧れて、躊躇なく煙草に口を付けたのだろうに。
今、憧れるのはあの青い青い群青。
...ここから飛び出しても、気分が晴れるとは限らない。
けれど、このままでは、いつまで経っても何処にも行けない事はもう知っている。
何も行動しなければ、何も変わらないことはもう知っているし、今しかできない事は、確かに存在している。
「...!」
ハンガーに掛かっていたパーカーを勢いよく剥ぎ取って、イヤホンとスマホと財布を詰めて、
荘厳な静寂の中に、一匹が飛び出した。
〇スナック。
あのことを打ち明けて、逃げ出すように彼と別れてから、火花のように弾け飛び回るやぶ蚊を躱しつつとぼとぼこの家に帰ってきた。
彼はやっぱり、私の事なんて覚えていなかった。
私にとっては大切な思い出だけれど、彼にとっては日常の薄い出来事の一つに過ぎなかったのだろう。
でも、それが分かったって特に傷つきはしない。
思い出の重要度は人それぞれだということにして、早く得意なように忘れてしまおう。
そう洗脳して、いつも通り、裏口から入ろうと敷地内に深く侵入すると、いやらしい曲がずんずんと、壁越しに聴こえてくる。
しまった、と思った。
この時間なら、木村さんはまだここに来ないだろうと思っていた。
完全に読みを間違えた。
このまま裏口から入っても、どのみち階段から二階に上がる一瞬にあいつに見つかる。
もしそこで、あの三大欲求を貪るためだけの人生を生きているような人間もどきの本能おじさんに愛想がないと判断されてしまったら、私がここで生きるのに大きく不利になってしまう。
彼は、貴重なうちの店の常連客で、私の大きな身体の幾ばくかは、あれの下銭からの栄養で出来ている。
その事実を知りながら、彼に嫌われるリスクを背負ってまで、強く自分を勝手に生きる理由なんて私にはない。
「...はぁ。」
質量もないような軽い呼吸を吐き出して、いびつに完璧な笑顔を装備し、女が女の子のコスプレをする。
馬鹿が、男が好きなバカな女のフリをして、覚悟を決めて正面の入り口へ踵を返した。
カランカラン。自分の意志よりも重たい扉をゆっくり開ける。
「いらっしゃ…あ、おかえり。」
「おう。望美ちゃん。おかえり。」
大分酔いが回った木村さんが、脂ぎった中年の顔ににへっと腑抜けた助平な顔を浮かべてカウンターから顔を出し、馴れ馴れしく下の名前を呼んで、父親ヅラして母と一緒に帰宅の挨拶をした。
この店には、カウンター越しに接客をしている紫の安いドレスを着た母と、清潔感の無い身だしなみの木村さんしか居ない。
彼が居なかったら今日の売り上げは恐らくゼロだ。
「うん、ただいま~^^」
喉の上の方に力を入れて、いつもより高い雌の声で返事を返した。
生黒く照り返す丸テーブルを避けながら、失礼にならない程度の若干の早足で、自室につながる階段がある、店の一番奥の暖簾の向こうを目指す。
...このまま何も起こらなければ。
肉体だけは大きく横幅に発達した恐ろしい男性的身体の後ろを祈りながら横切ろうとするが、獣のような双眸が、雄臭い異物の臭いを付随させて、こちらの肉を覗くように振り向いた。
「あ、望美ちゃん。そういやもう高校生?やっぱママに似て、おっぱい!大きくなったな!そんなんならクラスの男子が黙ってないでしょう。」
気持ち悪い。
「え~そんなことないですよ、全然モテないですしぃ。」
自分も気持ち悪い。
「アピールが足りてないんじゃないの?やっぱ、長いズボンで生足隠すのは感心しないなあ。魅惑のボディェで男を誘惑していかんとぉ。ええもんもってんだからさあ!」
「...!」
大漢の背中を何事も無いように通り過ぎて、このまま地平線の彼方に行けると思ったのに、醜く毛むくじゃらの大きな手が、あろうことか薄手のデニム越しに私の臀部を掴んで、まさぐった。痴漢した。
なぜ私だけがこんな目に合わなければいけないのか、情けなくて腹立たしくて切望して怖くてとにかく気持ちが悪くて気持ち悪くて気持ち悪い。
「...ちょっと、」
カウンター越しの母の制止を制止して喋る。
「...ちょっとぉ!やめてくださいよ~。」
最大の笑顔で笑って流した。
あの邪悪は、悪気の無いようににんまり嗤っている。
決して重大な出来事にしないように、心に渦巻くすべての黒を無視してスキップにすら見間違われるような軽快な足取りで、カウンターの蝶番を開けて、暖簾に助けを求めて腕押しする。
「ごめん...ごめんね。」
化粧下地のまろやかな匂いを強烈に輝かせる母が、私にだけ聴こえるように耳元で情けなく謝った。
その親子という上下関係がふと逆転したその一瞬。抑えつけていた私の中のぐるぐるに穴が穿かれ、苛立ちが全身を刹那だけ大いに侵食した。
餓鬼に等しいその反抗心が駆け巡った私は、そのどこにも行かない感情を消化するように、手元に置いてあったガソリンの味がする母の安い焼酎のコップをこれ見よがしに一気にあおって、空のコップを鬱憤を代表させて少し力を入れて煩雑に置き、母の表情を見ないように細心の注意を払って、二階へ駆け出した。
...母は何も言わなかった。
階段を一段ずつ上がるたび、私はどんどん自分と正気に戻り、すべての情けない行為に泣きだしそうになっている。
私は馬鹿で、どうしようも無くて、語彙力も、言語能力も表現力も無いから、感情の発露を言の葉に乗せる事が出来ない。いつも、いや、生まれてからずっと、心の内情は稚拙な何パターンかの単純な行動でしかこの世に発散して表現する事が出来ない。
もし、私が母を嫌いになる事が出来たのなら、私の世界はもっと勧善懲悪の完全二元論に則っていたのに。
なぜ、心配してくれた彼女にあんな態度をとってしまったのだろう。
私なんて、借金まみれのこの家にぶら下がる、邪魔なキーホルダーのような役立たずの無力の分際なのに。
産まれてこなければすべてが上手くいったはずの人間なのに。
まだ冷たい布団に胸骨を上から押し付けるようにうつ伏せに倒れこんで、この現実から逃げる為に、いつものひとり反省会の要領で、楽しかった今日の前半を想う。獣に触られた痕が強烈な思考の邪魔になった。
あんな日常的な最悪の一つが無ければ、今日は今日として輝く宝物の一つに加える事が出来たに決まっている。
...今日の映画鑑賞はいつもとはまるっきり違う顔を見せた。
私にとっての映画は、学歴社会的側面でまあまあ終わったこの環境から逃げ出させてくれる貴重な媒体のひとつで、だからこそ、映画は完全に世界から分断された一対無機物の孤独の行為だと思っていた。
けれど、今日。映画はひとりよりふたりで観た方が面白いと初めて気づいた。集中が続かなくても、映画を止めることなく、彼の横顔を眺めればよかったから。
センチメンタルな感想の交換、共感に快楽があることを知った。私は馬鹿だから、面白い以上の感想は言えないけれど。
ごろんと大きく寝返りをうって仰向けになると、一気に摂取したアルコールが胃袋の中を灼くようにぐるりと回転する。
若干の気持ち悪さから、二周した蛍光灯にぷらんぷらんと垂れ下がる点灯スイッチの紐を無意識に目で追った。
今日は楽しかった。それは間違いない事実だ。涼しげな目元に幼さを残したまま、変わっていなかった彼と再会できた事。それ以上の幸福は無いと思っていた。
けれど、
―けれど、どこか物足りない。
こんな能力も才能もなく、人の役にも立てずに、生きている価値も無い自分が何を贅沢を言っているのだろう。それは、まるでメイクが上手くいった日にだけ白馬の王子様を待つようなものだ。
明日には彼は居なくなっているのに、むしろそのドライな関係に惹かれたのに。
それでも、もう一度だけ、会いに来て欲しいと思う。海の向こうへ連れ出して欲しいと思う。
あんな卑しい暴力を受けてもなお、ここから逃げ出さない根性無しが、助けを口に出さないように彼に助けを求めている。
涙腺から確実な液体が、こぼれて。
水滴が、ゆっくりとトタン作りの隣の家の屋根を打ち付ける音がする。
雨が降ってきたらしい。
その雨音の中に沈み込むように、止まらない自己嫌悪と罪悪感が今日も私から青春を奪う。
〇自転車、外。
イヤホンをガンガンに装着して、祖父のボロいママチャリに窃盗犯のようにまたがって、碌に左右も確認せずに、ゴムのタイヤが地面にめり込むくらい、ハンドルとペダルに体重を乗せて踏み込んで走り出し、家の庭のコンクリートと地続きの道路だけをコンパス頼りに家を飛び出した。
完全に深夜を迎え、密閉された鼓膜を貫通するウシガエルの合唱、まだ湿度を残した反駁的な風、薄く首元に滲む汗で冷やされる精神、いつもなら寝ているこの世界を堪能する暇も無く前へ進む。
自分の進撃を邪魔する羽虫を首だけで避けて、不細工な舗装のコンクリートをタイヤが噛みしめる度に、チェーンカバーがガサゴソと音を立て、両隣の雑木林に大きく響く。
ハンドルに変速機の類はもちろん無く、ねじが緩んで逆さになったベルと、時々蜘蛛の糸が光る歪んだ前カゴが、視界の前を左右に揺れる。
ある程度家から離れ、自分の脱走先を祖父が勘づく心配がなくなった時、身の安全のために、自転車のライトを点灯させて、自分の行く先を道案内させようと、発電式のライトのレバーをつま先で器用に下げるが、ガチャリと前輪の回転から運動エネルギーを吸収しだしたとたんにペダルがうんと重たくなる。
しばらくは、チラチラと自分のペダルの回転数に合わせて不規則に光量を変えるライトに身を託していたが、思い切って消した。
この程度の道しるべでは自分の欲しいものは到底見つからないと思ったから。
一切街灯の気配がしない完全な闇を、月明かりと夜目を頼りに切り裂くように進んでいく。時々の登り道を立ち漕ぎで処理するたび、徐々に左側通行の原則が崩れ、人気の無さを免罪符に段々道路の中心よりを走るようになっていった。どうせ誰も通らないさびれた信号機が赤か青か曖昧なまま突き進み、虫がたかった薄明かりの自動販売機に一目だけ置いて、追い風を追い抜く気概で走り去った。
完全に聴覚を奪っているイヤホン越しの音楽と、夜間の無灯火運転と、軽車両の右側通行と、信号不注意と、いくつもの交通法を間違えて、背徳感まみれの自由を感じる。
この旅に目的地はない、けれど目標はある。
自分のこれからを見つけること。
決してその願いが叶うことが無い事を知りながら、何故か身体の吸って吐く呼吸に希望を感じる。
自分を殺すかのように感じたあの焦りも不安も、限界を越えそうな身体の躍動と、透き通った外の外気で何処かへ行ってしまった。
恐怖とは、何かをやる前が一番強くて、それを乗り越えたら案外大したことは無い事ばかりかもしれない。
この旅で得られたその教訓に、あの前科ひとつふたつが値する価値はない。
何回か直感的に交差点をいくつも曲がって、そのたび転びそうになって、とうとう視界の両側とその上を額縁のように覆い彩っていた深い緑の雑木林を抜けて、とうとう天球が大きく広がった。
眼鏡が無いので、ピントはうっすら合わないものの、彼女が言った通り、ビル群の牢獄の中では考えられないような燦然と煌めく満天の星空は東から西まで大満足に広がっていた。
それに呼応するように、お気に入りの名曲を詰めたプレイリストが切り替わり、運命的にあの曲が鼓膜と心拍を揺らし始める。
変わらなかった自分の何かがゆっくり音を立てて動き出しそうな予感を肌で感じたこの楽しかった夏の想い出を詰め込んだような曲。
「DAYBREAK FRONTLINE」
音量ボタンを出来るだけ連打し、最大音量のアップテンポが全身の髄まで染み渡らせると、大声で歌詞を追随してしているはずの自分の稚拙な歌声がとうとう聞こえなくなった。
未だ見ぬ夜明けを信じて歩み、完全に建物が見えなくなっている。
あるのはただ未来に備えて栄養を蓄えている寝静まった田んぼと、淡々と大地に生えている電柱だけ。
今までと世界が一切変わって、きっと一筋縄では帰れない。
けれど恐怖は一つも無かった。有るのは、満足感と、飢餓感と、そして冒険心。
もう戻れないと揺らぐ想いをアクセルに、このまま地平線を追い越してやる。
緩みかけたペダルを漕ぐ足に喝を入れて再び最前線を目指して車体を飛ばす。
あんなに不愉快だった湿った夜風が、背中を押した。
出来るだけ今の風景が変わりそうな場所を勘で探してハンドルを押し付けていると、また住宅や木造がぽつぽつと現れはじめ、ここの住人二人とすれ違った。
ふと、風の当たり具合が変わったなと感じた一瞬。
目の前に、どこまでも吸い込まれそうなほど急激な角度の下り坂が僅かな潮の香りを伴って現れた。
さすがの一瞬。効きの悪いブレーキを音が立たないようにかけて停止し、止まれの標識の停止線に則って、足を地面につける。
今まで時々現れた登りの斜面はこの為の伏線だったのだ。
車体に跨ったまま、不安定に背伸びをして坂道の深淵を先を覗き見ようとするが、街灯も光源も月明かりもなにも届いておらず、遠近感を失った完全な暗闇を無意味に見つめただけだった。
ほとんど一本道のこの地点。自分に残された選択肢は、突き進むか、それとも引き返すか。
ハンドルの鉄棒の中心点に腕をぷらんと交差させて机で居眠りをするようにぐでんと首を垂れて突っ伏した。
10年後の自分についての糸口なんてまだ何も見つかっていない。
彼女の残した置き土産の答えなんて知らない。
けれど、家でじっとして濁った闇の中でもがくよりは何倍も行動して良かったと思う。
...いつも尻込みしてばかりの保守的な人生が変わる気配がしたから、自分は人目も凝り固まったプライドも気にせず“終わってる”行為に身を投げたのだろうに、このまま中途半端に引き返してはそのテーマが揺らいでしまう。
つま先を再び器用に使ってライトを付け、ペダルが千切れそうなくらい強く踏み抜いて自転車にエンジンを装着する。
蛍のようなおんぼろのライトの頼りない光を自分の命綱に、ブレーキをいっぱいに握りしめながら、ゆっくりゆっくり確実に、先の見えない坂道の風を肩で切って走り出した。
ガタガタガタガタ。
舌を出そうものなら、噛み千切ってしまいそうなくらい舗装されているのかすら怪しい感触のでこぼこ道が、ハンドルから握力を奪う。
いくらブレーキを利かせようともお構いなしに加速していく自転車の恐怖にもはや笑うしかなく、何とか主導権だけは握られまいと必死に右に左に格闘しつつ、動力機としての意味がなくなったペダルから両足を外して、道の真ん中で両脚を思いっきり前方、横方向に投げ出して、窮屈な二足歩行動物としての役割から解放してやった。
限りなく灰色に近い深夜の中にぬらりと立つ電柱一本一本の間隔が徐々に小さくなり、大気の塊が羽織っていたパーカーをばっさばっさとコウノトリの羽ばたきのように揺らす。何度も何度も身体が無重力に投げ出されるが、一向に動かない目の前の夜空の煌めきが流星群のように自分に向かってくるくらいもっと車体に紐付けられた自分が速くなることを願う。
まさにこの瞬間、独裁的な勝利感が全身を充実させている、間違いなく今しかできない青春の行為のそれを享受しているから。
坂道はまだまだ続いている。
「...!」
―ずっと欲しかったおもちゃが手に入ったという安堵が一瞬、ほんの一瞬だけ気を緩みを誘ったのが間接的な原因だったのだろう。
蝋燭の灯火のような 今にも消え失せそうなライトですら確かに存在を照らしていたコンクリートの陥没穴への反応が遅れ、前輪が急激な高低差に進むべき角度を見失ってしまった結果、手首に想像以上の痛みを伴った衝突と共に、かなりの速度が出ていた車体が完全にコントロールを失った。
完全に浮かび上がった身体の着地点などなく、首を絞められた猫のような甲高い声でブレーキパッドが鳴く。
運動エネルギーを見事に保存したサビ鉄の物体が勢いよく地面に衝突して、坂道を余韻のようにすぅっと少しだけ滑って、止まった。
人間を維持する上で必要な器官を見事に守りぬいた利己的な遺伝子が乗った人間が、ふくらはぎの皮膚の表面上を大根おろし器の要領でコンクリートに擦り取られ、しばらく横たわっている。
はるか遠くからどす黒く分厚い雨雲がこちらに遊動する音が聞こえ、耳穴の中から吹きとんだイヤーピースから、機械音声だけが取り出されて静寂の空間に微かに響いた。
〇帰り道2。
「...ふぅ。」
体調不良になった二輪車をズキズキ痛む身体で押し込みながら、どうにかこの長い長い坂を登り切って、多様性的な感情をすり抜けて白くなった渦中を吐息にして吐く。
猛スピードの坂道から盛大に落車した割には、右脚と身体を庇った両手首以外、かすり傷程度の症状で済み、側道の土煙にデコレーションされた自転車の前かごは、元々からさらにひしゃげた。
流石にそろそろ帰ろうかと、悪魔の囁きと天使のファンファーレの意見が一致した所で、大層な形相で自転車に跨り、来た道を引き返そうと試みるが、ペダルを踏み込んでもぬるっと運動に変わる感じがせず、ペダルに直径したクランクが一回転空回りした。
一度ギア関係の様子を見る為、痛む右側面に負担をかけないように左足を軸に自転車を降り、ハンドルの端とサドルの淵に手をかけて、サビで動作が鈍ったスタンドを足で蹴って下ろす。
暗がりを照らすため、ポケットを探ると、そこから取り出されたのは見るも無残なガラスの保護フィルムがバキバキに割れたスマートフォンだった。
盛大に転んだ代償として当然の対価だが、あまり考えが及ばなかった不運に息を飲んで冷や汗をかく。
ある程度の直線法則に則ったまだら模様の上をいくら指でなぞって滑らせようとも画面は一切反応せず、仕方無しに保護フィルムをバキバキと剥がし、丸めた残骸をパーカーのポケットの中に捨てた。
フィルムの保護を貫通して付いた何本かの画面のかすり傷が、銀色に光る梅雨明けの蜘蛛の糸のようにきらきらしていた。
簡単な四桁の暗証番号を入力し、ホーム画面から懐中電灯をタップして足元から自転車のクランクの部分を照らす。
予想のひとつの通り、クランクの大きな歯車部分にかかっているべきチェーンが外れ、ぷらんと力なくたわんでいた。
これでは、後輪にせっかくの回転運動を伝える事が出来るはずもない。
心底面倒臭い試練に、その場にしゃがみ込んでから一息二息もついて、画面が傷つかないようにそっとスマートフォンを地面に伏せて光源のビーコンを作り、そのか弱い光に照らされた垂れたチェーンを両手で掴む。
チェーンカバーに阻まれ、慣れない手工業と格闘すること五分か四分。
ペダルを手で回してスタンドで地面から浮いている後輪がしっかり連動して滑らかに回転することを確認すると一件落着の風体を醸し出しつつ、車体を杖に立ち上がって、立ち眩みに耐えた。
作業を灯台のように照らし続けていたスマートフォンを地面から回収しようと、手を光の中に突っ込むと、両手の指先がチェーンに差された潤滑油でべたべたと黒く汚れているのを知った、良く見ると銀色のフレームに丸々と肥えた指紋があちこちにスタンプされている。
辺りを見渡しても、身近に水道や川の類は無い。とりあえず、何とか汚れていなかった左手の薬指と小指の間で菜箸のようにスマートフォンを挟んで素早くパーカーのポケットへ入れ、汚れはそのまま、自転車のハンドルの端っこを手のひらの中心で握りこむようにして掴み、スタンドのばねを蹴って、再び帰り道へ前輪を向けてゆっくりふらふらと走り出した。
ぼつりぽつりとアスファルトの上を雨粒が染みていく。
完全に忘れていた予報通りの雨が、出来すぎなくらい、満身創痍な自分の心象風景を表現してしまった。
霧雨程度だと思っていた雨足は次第に段々と強くなっていき、ゆっくりゆっくりと自転車を漕ぐ自分の瞼の中に木っ端微塵になった水滴が侵入してくるようになった頃には、梅雨明け以来の強く攻撃的な雨に変わっていた。
本当に何もない田んぼの中心を行きの時ほどのバイタリティーを発揮せずに走り抜ける。
家を飛び出してから、一時間以上は経っただろう。このまま祖父に気付かれることなく、何事無かったように朝を迎える事など出来るのだろうか。
もし、バレたとして、ずぶ濡れで傷と泥だらけの自分と、更にひしゃげた前かごを持った自転車についての論理的な理論を持った説明と経緯の嘘を作り出すことが出来るだろうか、どんなに考えても、直感的に夜に飛び出した事実以上の良い言い訳が思いつかない。
目線の上で黄色く曖昧に輝いていたよだかの星が、とうとう分厚い雨雲のカーテンで閉め切られ、セミの最期と思わしきたった一匹の声が、最終順位付近のマラソン大会の生徒を形骸的にがんばれと励ますような憐みの声援のように感じた。
〇再会2。
歩行者用の青信号が点滅を始めた、今から飛ばせばギリギリ間に合うか、ああ。
赤になってしまった。
白いワンピースの少女の麦わら帽子のフチのように突っ張り出た信号機の雨よけから、大粒の水滴が滴り落ちて、一滴一滴コンクリートに打ちひしがれる。
ほんの何時間前に、沸々と煮えたぎる冒険心が妨げられると感じて無視したこの信号を、情けない雨にうたれて精神を冷却去勢された今の自分は順守する。
半透明なアクリルの上辺の隅に寝静まる蛾と共に、薄白く土汚れた自動販売機の微かな薄い光に横顔を照らされた自分は、ひたすらひたすら何事も考えないようにだけ、ペダルと一緒に宙を空回っていた両足をピッタリ地面に接着し、それに反比例するかのように、もはや趣味と化した自責を叫ぶ声がずんと確かな質量を持ちつつ頭の中で段々と大きくなっていった。
車なんて一切通り過ぎないこの交差点の信号機の赤い光が、雨に濡れた横断歩道の白と黒に反射して鮮血の跡のような美しいイルミネーションを作っている。
一度自転車を降りて、信号機の実がなっているコンクリートの柱にスタンドも起こさず車体を立てかけると、歩道と車道を分断する境界ブロックの内側に出来ていた天然の水溜まりに、チェーンの油で汚れた黒い指を浸して、筆洗の絵筆のように、ちゃぷちゃぷ水洗いした。
油汚れを落とした手のひらで、今度はハンドルの中心に手をかけると、不注意からペダルの側面が怪我をした脛の傷口に接触し、忘れられない痛みが走った。
その痛みは直ぐに引くことが無く、集中的に広がった神経網を伝って、毒が伝播していくようにズキズキと蝕んでいく。
その苦しみに共鳴して、せっかく正面から受け止めないように殺していたネガな悪感情が、俯いて顔の輪郭を伝いだした涙の雨粒が到達した冷たく鋭利な鼻の先から溢れ出しそうになるのに、なんとか気付かないフリをする。
信号が再び青に切り替わり、久しぶりにこの地で人工の緑色を目撃すると、身体は、身の真髄に刻まれた進めの合図を奴隷隷属的に順守しようとするが。大地に生えた安定物体に自分の体重を依存している自転車が、生命の最後とも思えそうな振り絞った力でも、起こすことができない。
こんなにてこの原理の恩恵を受けている状態で、軽いフレームの車体如き、健全な肉体を持った男子高校生が揺り起こせない訳が無い。
...邪魔をしているのがメンタルだと答えが明確に出る前に、気を紛らわせる言い訳を作る為、ハンドルからそっと手を離して自分の横顔に中弱の影を落とす白い自動販売機に向かい合い、乾くわけもない雨の中の喉を潤す飲み物を一本買おうとする。
―けれど、パーカー、ズボンの両側、尻ポケット。どんなに手を入れて確かめても帰省の為に余裕を持った所持金と、交通ICカードが入った黒い財布のふくらみが見つからない。
財布を何処かで落としたのだという事実を受け入れた途端、張り詰めていた最後の糸がプツリと切れて、とうとう、しんしんとたた降り積もる雨、猛暑の夏空から貯蓄されてはずの体温が肌の小さな毛穴のひとつひとつから奪取されていく最中、その場に呆然と立ち尽くしてしまった。
情けなさと悔やみがただただ全身を埋め尽くす。泣けない体質の自分では到底対処しきれない掴み所の無い鬱屈した羞恥の感情。
雨足が、ほんの体感的に弱まっていき、落下する雨の円柱の直径が細くなっていく。
自分の未来を見つける?何も考えずに自転車を転がしただけで?
本当に馬鹿らしい。
具体的な展望も無しに、今しか出来ないことと言う甘美な餌にまんまとつられ、知識も無しに青春のイメージをただ表面的に真似ようとして予想通りに失敗しただけ。
その恥ずかしさと明らかな自分の過失の自己責任という事実が、身体を上から抑えつける。
あんな突飛な考えの慣れない冒険で羞恥という泥を塗らなければ、今日は一日丸ごと楽しかった今日として輝く記憶になったのに。
俺は自分の失敗を許せるほどまともな人間ではないのに。
周りの人間ほとんどが、順当な成長の過程でおのずと入手するきらきらとした何かを、自分はきっと見つけ忘れているのだ感じて、相対的な幸せからなるコンプレックスがより深い所に突き刺さり、万人の大人が口を揃えて楽しいと豪語する高校生活すら、毎日針を飲むような気分で日々を過ごす。
そっと、今来た道を振り返る。
この帰り道は辛く長かった、川遊びから自室を目指した時とはまるで違った。
その根本的な原因は、強烈に孤独を感じる今なら分かる。
―隣に心地いい会話を弾ませてくれる彼女が居ないから。
そのことに今更気づいたところでもうどうしようも無い。
このまま、この雨がph値も測れない程強烈な酸性雨となったら自分はどれほど楽に消え失せる事が出来るだろう。
すべてのどす黒い感情を通り越し、ついに諦めに入った空の心臓を持って、もう何も望まないようにもぬけの殻がまた自転車に手をかける。
その時、もはや自分は口角をあげて笑っていた。
もう何度点灯を繰り返したか分からない信号機が再び赤になる。
去勢されたような乾いた絶望感と寂しく欠けたパズルのピースのような虚無の穴。
自分が死ぬまでに、そこを、何かの代替品で埋める事は出来るだろうか。
地獄のある方角を見つめて俯き、視界がコンクリートで埋まる中、事故から外していたイヤホンのない環境音が煩雑なノイズを奏で、ウシガエルの合唱がついぞ止み、分厚い霧雨が森林の木の葉をはためかせる。
...ふと、幻聴かどうかと疑う程度の音量で、どこかで聴いた間隔の足音が耳に届き、次いで、撥水加工された布をピンと張った傘に、ぱちぱちと火花が弾けるような雨粒の音が正面から間違いなく近づいてくる。
実体のない自分が、ただ本能で物音の方向に顔を上げる。か細い雨の真夜中、黒いコウモリ傘の羽をつかって大胆な構図で目元を隠した可憐な少女が、擦り切れた横断歩道の向こう側でどうせ何も通りすぎない信号の赤を自分と同じように窮屈に守っていた。
たった一目、それを目撃しただけで、心臓に何かが走り、瞳孔が無為に大きくなって息が詰まる。
信号が切り替わり、デコボコのコンクリートに淡い緑が乱反射した天の川の上を、湿り気を伴った甘ったるい靴音が小気味よく響いている。
彼女が横断歩道を渡り切る前に、過去も未来も気にせず気軽に声をかけた。
「あの、」
「ちょっと奢って貰えませんか」
歩みの歩幅は保ったまま、話しかけられるのを待っていたかのように、嬉しそうな足取りで自分の領域に侵入し、傘の半径分離れた隣に立ち止まって、自動販売機の同じ光を浴びる。
ウェディングベールのように彼女の輪郭を覆っていたそれを捲って見えた両の目に人工灯が反射して、猫の水晶体のようにきらきら光っていた。
そっと彼女は自分が持っている傘の持ち手を端っこぎりぎりに持ち替えて等身を背伸びさせ、傘の内側を自分に見せるようにゆったり傾ける。
彼女の意図を汲みとって大きなコウモリ傘の中に肩身を邪魔させると、やわらかい彼女の肩と肩が触れ合うくらいに接近し、体温を奪うこの冷酷な雨を初めて遮る事が出来た。
「相合傘ってより濡れてる方が相手に惚れてるって言うよね。」
「こっちずぶ濡れなんだけど。」
「じゃあめっちゃ好きじゃん。」
「えー。」
ぽつぽつと文明の音がするこの防空壕の中で二人、濁ったアクリルの向こうの代わり映えしない商品たちを見る。
「てか、私あんまお金ないって言ったんですけどね、だから自分のお財布で払ってください。」
「ああ、財布落とした。」
「え?なんで...てかなんか泥だらけじゃない?うわ、めっちゃ擦りむいてんじゃん。どしたの。」
「チャリでコケた。思いっきり。」
「えーなにそれ、ウケる。」
くすくすと子供のように彼女が肩を揺らす。
失敗を優しく笑って包み込んでくれるだけで、この記憶のカテゴライズがポジティブの引き出しに収納された。
「もーしょうがないなあ、じゃ、半分こね。お姉さんが仕方なく出してあげる。」
「誕生日いつ?」
「え、九月一日。」
「じゃあ俺の方がお兄ちゃん。」
「...奢んないよ?」
「これ買って。」
「ん。」
彼女は短めのデニムのポケットからボタン留めの小さな財布を取り出し、それを傘を持ちながら片手で器用に開くと、ちゃりんちゃりんと薄明かりと手触りを頼りに小銭の中からお目当ての百円玉を探し当て、自分の身体の前まで彼女は腕を伸ばし、それを自動販売機の投入口に入れた。
ピッという軽快な電子音が田舎道に響き、自分が指さした飲み物も含め、ほぼすべての商品のボタンが点灯する。
ボタンを押すと、小銭が飲み込まれる音と共に、下の出口から勢い良く商品が押し出された。
傘を握る彼女に代わって、緩い痛みを感じつつ、あのときは開封すらしなかった缶入りのコーラを少ししゃがんで取り出す。
自然界には絶対に存在しないメタリックカラーの強い赤のボディが、凍りそうなほど冷たくなった自分の手を千切れそうなほど冷却する。
プルタブにかじかんだ指先をかけて何度挑戦しても、力が入らず一向に硬い缶の飲み口は開かない。
「ごめん開かない開けて。」
「えーちょっと男子~」
缶の上部を手のひらで覆うように持って彼女に渡し、その代わりに差し出されたコウモリ傘を請け負う。
その時に触れた彼女の暖かい指先は、男性の自分の何倍も細くしなやかだった。
「わっつ、冷った、手。」
何があったのかと言いたげな目で彼女が訝しくこちらを覗くが今は甘くシカトしておいた。
自分より十cmほど身長が低い彼女を絶対に濡らさないように、傘の柄をさらに短く持って隙間からの斜めの雨を防ぐ。
「...!?」
慣れた手つきでスムーズに缶のプルタブを引き上げると、彼女は、炭酸が勢いよく溢れるのをその口で塞いだ。
何度も開け口に爪の先を宙に空振らせて、ようやく本音の中身は現実に飛び出だす。
べとべとの甘いカラメルと格闘している様を見つめながら、悶々とした後悔を一生抱えてしまう前に、もう会えることは無いだろうと思っていた彼女へもっと深くまで浸透した疑問を投げかける。
「ねえ、前に会ったのってさっていつの話?」
「ん?...んーん。じゅ、十年前くらい?」
炭酸が落ち付いたコーラを持って、またちびちび口をつけながら横目をこちらに流して答えた。
「覚えてるわけないじゃんw」
「えーひどい。私はちゃんと覚えてんのに。おじいちゃんの家でポケモンやったりしたよ。」
「ほんと...?マジで覚えてない。」
「うそだぁ、あんなに楽しそうだったのに。」
そう言って、これで最後と覚悟を決めた一口を喉に入れると、口を付けていた銀色のフチを親指と人差し指の腹で拭って優しくコーラの残りを差し出した。
それを受け取ると、交換的にずっと持っているつもりだった傘の主導権を彼女に奪い取られ、急に変わった屋根の座標に身体を合わせるようによちよち歩きで横に移動した。
半分以上残った飲料を一気に口内に流し込み、疲れ果てた脳内に甘ったるい糖分が染み渡る。
空だった身体にエネルギーが補充されたことで、だんだん、わたあめのような流動的な形状の過去が目をゆっくり瞑る度に広がる。
セミのけたたましく鳴る向日葵の似合う永遠に感じる夏休み最中、初めてだらけの田舎への帰省に、元気いっぱいの日焼けた女の子と縁側に足を垂らす。
曖昧に消え去った記憶。けれど。
その眩しさだけは忘れて...。
「うわ、足凄いね、なんか血出てない?」
瞼の裏に映ったスクリーンの上映はその一言で唐突に終わった。
「...?え、あほんとだ。」
雨粒が触れる度にヒリヒリと痛んでいた脛のあたりを自動販売機の光にまじまじと当てると、思っていたよりも大分痛々しく擦りむかれた傷痕が乾いた血と出来かけた瘡蓋と一緒にあった。
その少しグロテスクな見た目の傷口を目視した事で、より一層痛みが増したような気がする。
「手当しないとダメだよこれは流石に...。早く家帰っておじいちゃんに言わなきゃ。」
「...えー、出来ればあんまり会いたくないんだけど...。気まずい。」
「なんで?」
「...。」
恥ずかしい答えの疑問に思わず目をそらす。
「...夜中に抜け出してきたから?」
黙って首肯する。
「何にも言わずに?」
黙って首肯した。
「...。」
「...ははは。」
堪え切れない笑いが込み上げて来たように彼女は体を震わせ始める。
「なんだぁ、ちゃんと青春してんじゃん。もっと真面目な感じなのかと思ってた。」
肩をポンポンと叩かれて、柔和な笑顔に包まれる。
「ねえ、じゃあいっそうち来る?近いし。」
「え、良いの?」
「まあ、緊急事態だし。場所知ってる?」
「...あのカラオケスナック?」
「うん、そう。やっぱバレてたか。」
そう言って彼女は自転車の立てかけてある方へ小走りで向かうと、ひょいと車体を起こしてスタンドで固定し、デニムのポケットからかわいらしいデザインのハンカチを取り出して、自転車の荷台に滴った水滴を拭き取り、そのままハンカチを広げ、その上に両足を揃えて座った。
「ほら。出発進行!」
「...こっち怪我人なんだけど。」
飲み干したコーラの缶を自動販売機の隣にあったゴミ箱の中に入れ、ついでに、パーカーのポケットに押し込んであったバキバキの保護フィルムもその穴の中に入れた。
ぶーぶー文句を言いつつ、自分も車体の方へ向かい、安全のために彼女の腕を自分の脇腹を掴ませて、何倍も重たくなったスタンドをゆっくり蹴ると、車体は何度もぴょんぴょんと跳ね、彼女はそれを楽しんでいる。
再び前方に目線をやって、ハンドルだけをしっかり両手で握り、サドルに跨る事無く彼女を運び始めると、自分の頭上に彼女が差してくれる傘が浮かんでいる。
暗闇に落ちた先の見えないような道も、辿り着いたら闇なんてなかった。
...けれど、結局自分が求めた未来像への糸口はまだ見つけられないままだった。
〇スナック2。
「ちょっとここで待ってて。」
彼女の後ろからの案内に従ってサンタのトナカイのように自転車を転がし、彼女の生家であるこのカラオケスナックの裏口の前までたどり着くと、彼女の指示に従って、音を立てないように自転車を止めて、玄関の前で雨宿りし、飼い犬のように大人しく主人を待つ。
分厚く限りなく灰色に近い黒い雲海はモーセのように割れて散り散りになり、彼らを目指して走った星々が再び姿を見せ始めていた。
雨は間違いなく弱まってはいるが、それでも屋根の雨どいから、絶え間なく恵みの雨が排出されており、地面が吸収できない程パイプから流れる水たちが、ただ斜面の形に寄り添って流れていくのをただ見つめて暇を潰す。
体重を壁に預けて、視線を下に向けて俯いていると、二、三歩の穏やかな足音の後、視界のすべてを石鹸の匂いのタオルが埋め尽くす。
「もーなんでこんなびしょ濡れで外歩けんの?なめてると夏でも全然風邪引くからね。」
「ちょ、え、あ」
「うるさい黙って。」
身体を洗われた後の子犬のように、頭を暖かく両手で包み、温もりを感じさせながらガシガシ乱雑に優しく拭き始める。
「いつもちゃんと髪拭いてる?お風呂あがり。」
轟々と動き続けるタオル越しの彼女の声は混線したラジオのように所々言葉が途切れ途切れで聞こえる。
「いや、自然乾燥。」
「もー、そんなんだから痛むの早いんだよ...。ほら、枝毛ばっか。」
「誰も見てないんだし別に...。」
「良くないから。」
「...さいですか。」
「...。」
決まりの悪い返事にむかっ腹が立ったのか、耳の側面や穴の中までしなやかな指を駆使してほじくりはじめ、自分は、そこが弱点だと悟られないように、執拗に攻撃してくるのを何も言わずにただ甘く耐えた。
「あい、後は自分でやって。」
頭の水分を過剰に吸収し終わったバスタオルをそのまま、自分の首元にスライドさせるようにかけてから言った。
柔軟剤のいい香りが漂ってどこまでも優しくふわふわとしているタオルを手触って、ふと、その家庭環境の内実は、バスタオルの状態に表れるという何かを思い出した。
「別に全部自分で出来たんですけど。」
上目遣いで訴えてみる。
「なんか言う事ある?」
「ありがとうございました。」
「ん。あ、タオルに血とか泥とか付けないでね。」
「はい。」
「あと、手当てする前に傷口洗わないとだからとりあえずここでシャワー浴びてって。」
「え、いやそれは流石に...。」
「あーもう言うの良いから。おいで、ほら。」
どうせ自分がぐずるのは分かっていたのか強引に腕を掴んで家の玄関まで引き込まれる。
彼女の面倒見のいい一面が垣間見えた気がした。
「他に誰かいんの?」
「お母さんいるけどたぶんもう寝てる...だから物音立てないように静かに。」
「母親って何か知らんけどすぐ起きるよね。」
「わかる。」
お邪魔しますと言ったか、吐息かの分からないような発声をしてすりガラス越しの玄関を越えて敷居をそっと跨ぐ。
ぐっしょりと濡れたスニーカーを靴下ごと脱いで、無礼の帳尻合わせをするように靴をそっと揃えると、木製を基調とした、人の家の匂いが香った。
〇風呂あがり。
元はメンズのだから大丈夫という彼女から受け取った着替えと、外で渡されたタオルを持って、抜き足差し足忍び足で風呂場へ向かって肌に吸い付く重たい服をすべて脱ぎ去り、今、隅々まできれいに掃除された曇りのない鏡の前でマラソンを走り切った後のような清々しい表情をした自分自身を苦手なく見つめている。
身体に染み付いた流れ作業の一環としてシャワー室へ向かった自分がようやく違和感を感じたのは、地面と感触が異なる色の違うかわいいバスマットを踏み抜けた時だった。
万国共通でお湯が出る赤い印のついた蛇口を捻り、シャワーヘッドを握りながら、手先で冷水が暖かくなるのを逐一確認して、ようやく適温になってきたシャワーを自分の身長の15cm上にあるスタンドの半月の穴にセットし、傷口を洗い流す前にまずは頭から恵みの雨を被った。
無色透明の汗めいた水流の中に、薄茶色に濁った土と褐色の血の気がゆっくり排水口に吸い込まれていった。
風呂場を早々に後にし、彼女から借りた下着以外の服に身を包んで脱衣所の扉をゆっくり開ける。
彼女にとってのオーバーサイズのTシャツは自分にとってほんの少しきついくらいの丁度いいサイズだ。
「ありがと、さっぱりした。」
脱衣所の前の廊下で壁に寄っかかって待機していた彼女に感謝の一瞥をくれた。
「ん。あ、ちょいまって。」
自分が、脱衣所と廊下を仕切るスライド式の扉の黒いレールの上を踏んだと同時に、こちらへ向かってきた彼女が、いつの間にか発達してしまった何の役にも立たないタンスのような自分の肩幅を、がしっと掴んで支えにしながら、社交ダンスの密着具合の距離感で、霧雨で湿った両足の短い黒い靴下を片足ずつ脱いで、二つをくるりと一つにまとめ、自分の肩越しに腕と頭部をにゅっと前に出して、洗濯カゴヘ投げ入れた。
鼻頭を柔らかに刺激した彼女の漆黒の髪の毛にくすぐられて、くしゃみが出そうになるのを静かに堪えると、そのまま無言で歩き始めたふくらはぎの後を追って、足に張り付く樫の木の板の階段を上って部屋のある二階へ向かう。
「...ねぇ、シャンプー何使った?」
「一番手前のオレンジ色のやつ。」
「うわー!やっぱり?それ一番高いやつだったのに。」
「マジ?ごめん。」
「いや、別にいいけどさ。できれば残り少ないやつに水入れてシャバシャバしたやつ使って欲しかったなー。」
「...それやっぱどこの家でもやるんだ。」
生活感溢れるその情報のディテールが、既に傷だらけで壊れかけている女の子の家神話にさらに鞭を打って肉の存在を見せた。
階段を上がってすぐ右手にあった祖父の家の自分の部屋と同じような構造の自室の扉を彼女が先に開け、追従してその中に入る。
「じゃあ、とりあえずそこ座って。」
促されるまま、勉強道具や開いたまま手を付けた痕跡のない課題いくつも散乱し、粉雪のように薄く埃のかかった机に挿入された木製の椅子を引いて、その上に横向きで座った。
膝の上まで覆いかぶさったステテコの短パンの布を治療し易いように捲り上げると、何処かから持ってきた消毒液を丸めたティッシュに湿らせた彼女が畳の上に膝立ちになって自分の視界の下に潜り込んで、脛に手を添えてポンポンと優しく叩いた。
「どこらへんで転んだの?」
大きめの絆創膏の剥離紙を剥がすのに苦戦中の彼女が、作業しながら聞く。
「なんか、長い坂みたいなとこ。」
「あーその先が海のところね。」
「え?そうなの?」
「うん。多分そうだと思うよ。下り坂なんて近所にそこくらいしかないし。」
「へー。暗くてなんも見えなかったから知らなかった。」
「...どんな感じで怪我したの?」
「チャリでシャーって下ったらコンクリの穴にハマってコケた。」
「うわー痛そー。」
剥がす力加減を間違えて茶色の粘着面同士がくっついてしまった絆創膏をなんとか復活させ、それを消毒した局部にゆっくり貼った。
「よし、これで多分大丈夫。」
「どうも。」
「...雨、また強くなってきたね。」
一度は晴天が望まれた雨は、ここから去ることなくこの部屋の雨戸をノックし続ける。
せっかく纏った完全善意のこの肌の温度をまた冷たい外気に晒すのはとても億劫に思えた。
「ちょっと...暫くここいてもいい?」
「いいよ。洗濯物まだ乾いてないし。」
視線を高架にかかった自分の衣服に移し、パーカーのチャックの金具の先から水滴が一滴一滴下に敷いたバスタオルの上に垂れていくのを確かに見つめる。
椅子から立ちあがって、手当てした局部の安寧を両手で確認した後、磔になっている洗濯物の濡れ具合を手掴みで見定めると、まだ重くぐっしょりとしたそれが着れる状態になるにはまだまだ時間が足りないなと明確に判断がついた。
「ねえ、ついでに電気夕方にして…?」
猫のように丸めた背の後ろから、声がかかった。
首だけで振り返ると、広げた敷布団の上にぺたりと座った彼女がタオルケットを膝に掛けて、首振り扇風機の風を適度に受けながら話しかけていた。
「なんで?」
「だってここだけ電気付いてたら不自然じゃん。」
「...まあ、そっか。」
自分のいる場所のすぐ近くに垂れさがっている、藍色のゴム紐でツギハギされた地面に接地しかかるくらい拡張している円形の蛍光灯の紐を、二回ほど掴んで下げ、オレンジ色の淡い光を選択する。
彼女が言った「夕方」を指し示すそれが、蛍光灯のこの状態のことで合っていると良いが...。
まったく暗くなったこの部屋で、人の目も憚らず小さな欠伸をしながら横になりかけている彼女のしぐさだけが柔く出現している。
「寝んの?」
「いや、寝はしないけど...でも、なんか眠い。時間的に。」
ポケットから取り出したスマートフォンからフィルムのブルーライトカット無しの強い光で映ったデジタル時計を確認すると、時刻はゼロ時をとっくに越えている。
〇三日目。最終日。
眠くなるのも無理はなくうとうとしている彼女につられ、自分も思わず忘れていた睡魔と疲れがゆっくり身体と足を引っ張り始めた。
墓から蘇った亡霊のような足取りで、引きっぱなしの椅子にもう一度腰掛け、他に見る物も無く彼女を見つめる。
雨はまだ止む気配を見せない。
寝ないと豪語していた彼女は、その小さな体躯をタオルケットでつま先まですっぽり覆い、挙句の果てに、自分が望んだ「夕方」の光を野暮ったらしく腕を目元に当てて遮って、定期的に扇風機から吐き出される弱い風が、自分の脛の柔毛と、彼女の鼓膜と前髪を揺らしている。
「ねえ。」
「雨の日って好き?」
「今さっき死にかけて丁度嫌いになったけど。」
「ははは、たしかに。」
「...。」
「でも、私は好きだよ。」
「なんで?」
「だって、浮かれたやつらがみんな下を向く日だから。」
「...おもしれえ女。」
それを聞いて、逆的なマスクのように視線を隠して露出した彼女の小さな口が、確かに緩み、その微笑みが空気を生く温めた。
「なあ。」
「...ん?」
「なんであん時、外いたの?...散歩?」
人間関係を円滑に進める上であまりよろしくないとされる余計な詮索の質問が、疲れを免罪符に湿った唇から甘く形状を捨てて漂っている空気中にするりと抜け出す。
何拍子かの沈黙の空白を雨と風が埋め尽くした後、そっと口を開いて彼女は語り出した。
「なんか、今日めっちゃセクハラされてさ、お客さんに。お尻とか触られて。」
「え。」
「それで、なんも悪くないお母さんにもきつく当たっちゃたりして...それで、いつもみたいにまた逃げちゃった。」
「いっつもスカートの下にジャージ履いてんのもさ、そいつが毎回毎回体のラインのことぶーぶー言ってくるからなんだよね。なんかやになっちゃって。」
衝撃的な告白に何もできなくなった。
「...ごめんなんか。」
「うんん。」
罪悪感で思わず視線を流しそうになる最中。タオルケットの布すれ音がかさかさと聞こえて、自分が、また止め処なく謝り続けるのを雰囲気が制止した。
「また会えたから嬉しかったよ。」
「...。」
その言葉にただ安堵して揺らいだ緊張感は、雨風が奪い切った体力を思い出させて、ナマケモノのように大きい欠伸を誘発する。
「眠い?」
「ちょっとさすがに。」
究極に細めた瞼の一重の上を辛くなるまで擦る。
「...こっちでちょっと横になる?そこだと扇風機直で当たって寒いでしょ。」
「え?」
自分のぷっくりと横に腫れた足の親指を捉えていた視界をぐっと布団の方へ向けると、枕から小さな頭を下ろし、敷布団のエンドラインギリギリまで移動した先でアルファベットのAの形の腕枕を作ってその上でこちらを見つめている彼女が、テントの入り口を開ける様にタオルケットを腕で押し上げている。
「...添い寝?」
「添い寝。」
「...。」
テストステロンに生傷を付けられたばかりの彼女の誘いは、自分の心の中に、情欲に到達しない上で、彼女を傷つけてしまうかもしれないという原初的な恐怖と、暖を取りながらただ憩いを貪りたいという合理的な欲求が混合したわだかまりを作り、ただその場に固まっていた。
「別に、あなたなら良いですよ。全然。」
「...それに、このままひとりで寝たら、変な夢見るかも。怖いやつ。」
「...。」
タオルケットで花魁のように口元を隠して艶めかしく目を伏せる彼女の作為的なその行為の嘘くささの中に、すらりと本当がひと房見え隠れし、その目配せを受け取ってすら何もしない事こそ彼女を見捨てるそれに等しいのだと勝手な屁理屈を捏ね、どうせ彼女の思惑通りに、そっと椅子から立ちあがって布団にゆっくり足から潜り込んだ。
「お邪魔します。」
「どーぞ。」
彼女の体温をじわりと背中に感じながら、空を見上げると、その肩身の狭さと一定の遠慮と若干の羞恥から、すぐに彼女に背を向ける形で寝返りをうつと、自分の髪の毛と同じ彼女のシャンプーの匂いが枕から交差した。
「...ねえ、この雨あがったらお財布探しに行こうよ。なきゃ帰れないでしょ?」
ふと財布に意識が移り、父親からの小遣いからなる所持金や一切溜まっていないポイントカードについては別に良いが、交通費がたんまりチャージされたICカードだけは気掛かりだったことを思い出した。
「...まあ。」
「ついでにちょっと散歩でもしてさ。」
「...うん。」
そよぐ風に負けてしまいそうなほど小さな声で耳元同士会話する。
ふと何かの拍子に早起きしてしまったときに感じる朝早い風。登校時間まではまだまだ余裕なその解放的な雰囲気の中で、彼女ときらきら輝くあぜ道を一歩一歩進む。そんな妄想を白みだした星空に胸を鳴らして期待して、ただ純粋に希望だけを噛み締めて霽れを待つ。
布団に潜り込んでから不思議と冷静になった頭がとうとう、背中に張り巡らされた神経から感じる彼女を異物としてではなく、自分の身体の一部かのように受け取り始めた。
扇風機の風は、絶え間なく耳元を掠めている。
「...なんか。修学旅行みたいだね。夜にコソコソ話すの。」
「そう?」
「恋バナとかした?」
「わかんね。そういうの始まる前に爆睡してたし。」
「えー。じゃあしようよ。」
「やだよ。」
「寝ちゃうよ?なんか喋ってないと。」
「...。」
「私のことはいっぱい教えたのにな...。」
「...いや、なんも話すこと思いつかないんだけど。女苦手だし。」
「私は?」
「あなたは...ちが、なんか。女々しくないじゃん。」
「褒めてる?」
「褒めてる。」
「ふーん?」
「今まで一回も付き合った事ないんだよね?この子かわいいから付き合いたいなーみたいに思った事とかは?」
「...無い。話合うからまた会話したいなとかはあるけど...恋愛感情とか付き合いたいとかはここ最近ほんと無い。なんか面倒臭くて...。そもそもまず学校とか塾とかで忙しいし。」
「なんで女の子苦手になったの?」
「...なんか男なら女の子とこう接するべきみたいなルールがいつの間にか出来てんじゃん。知らないうちに。対等に気を使わず接するのはダメなの?とか、結局清潔感って何?とか。」
「うん。」
「ほんとそういうのわかんないから、いきなり女女しい女の子が目の前に現れても、何するべきなのか何したら失礼になんないのか色々考えて結局テンパってきちゃうし、向こうは向こうで男ならこうするのは流石に知ってるよね?みたいな空気醸し出してくるときあるし...。」
「だから別になんかされたとか嫌いとかそういう感じじゃなくて、多分こっちが勝手に考えすぎて、面倒になって苦手になっただけ。」
「そっか。」
「そうやって卑屈に考えてくうちにさ、恋愛って結局生々しいただの繁殖欲だなーって思えてきて、こっちは理想とか夢とか消え失せて、恋愛に興味無くなってんのに、性欲余って誰とならヤれるヤれないとか、誰が一番かわいいとかかわいくないとか胸デカいとか。そういうクラスの会話とかしてんの聞くとちょっと...ってなるけど。でも、話乗らないと雰囲気悪くするから、分かんないしキモいのに無理くり話合わせてる。正直しんどい。」
「...なんか、最初恋愛とか女の子とか苦手って言ってた時にはもっと、ア、アセクシャル?みたいな感じなのかと思ってたけど。」
「いや、俺のはそんな大層な感じじゃないから、一緒にすると本気で悩んでる人にホント申し訳ない...。多分、自分のは普通はグチグチ悩んじゃいけないやつだから。」
「そんなことないと思うよ。」
「周りとか普通がもしそうでも...ちゃんと苦しいんでしょ?ならそれは悩む価値があるって事だよ。」
「...良いこと言うじゃん。」
「おじいちゃんが言ってた。」
「名言製造機だな。」
「だね。」
「...もし。」
「もし、誰かと付き合うとしても、そいつとは友達みたいな感じの関係性でいたい。告白とかしたくないしされたくない。」
「もし、その子がほかの人のところ行っちゃったら?」
「...悲しい。」
「えぇーなんか童貞くさあw取り返せよ。」
「うっっせ。」
声を殺して笑い合って何十秒か経ってから、何かが動いたと思った一瞬の刹那。運動もせず、脂肪がぷくりと浮き始めた柔らかい腹に華奢な腕が伸びたと思うと、彼女は電車の車両のつなぎ目に立った時のくらいの衝撃で自分の身体に抱き着いた。肉付きのいい思春期特有の体型が自分の背骨の形に合わせてくねり、彼女の唇は自分の耳たぶにある。
「...なんも感じない?」
「うん。」
「そっか。」
「...。」
「やっぱ性欲の無い男って良いね。余裕がある感じする。」
「うちの男子もさ...女子もか。みんな最期の青春謳歌するために必死になって焦って、いつまでにあれしたとかしてないとかで競い合って、相手の気持ちあんま考えないままチェックリスト上から一個一個消してくみたいな恋愛してんだもん。」
「だから、付き合うのとかが面倒臭いって思う気持ち、私も良くわかるよ。」
「...どうも。」
「それに、多分。みんなの恋愛って娯楽じゃなくて、生存戦略だと思うし...。学生生活とか将来とか、ちょっと考え始めたら怖くなりすぎるからさ、少しでも癒しが欲しいんだよ。」
「でも、幸せなはずなのにさ、周りと比べ始めたら途端に色々焦り初めて幸せを疑い出して焦っちゃって、ついにしんどくなってきちゃって...。」
「だから私は、今の生々しいのじゃなくてさ小学生の時の初恋みたいな、その先の青春とかよりももっと薄くて淡い...色だと水色みたいな。そんなピュアなやつの方が好きだなー。」
「...うん。」
一度瞼をそっと閉じてしまったら、その人肌の温かさがまるで母親と眠る新生児のような、原初的欲求から来る安心感を放出し、決して眠らないと決めたはずの身体が一気にまどろみに落ちていくその意識の中で、彼女の独白の囁きが化粧水のようにぱやぱやと自分の中に優しく潜り込んでいく。
「...あれ?寝てる?」
「...。」
「...。」
「...てない。」
「もう限界じゃんw」
「...。」
「ねえ。」
「…ゼルネアスはまだ好きですか?」
小さく呟いた返事の返ってこないその言葉が、まだ、美白という概念も無いあの時代の夢を誘った。
◎第4/4=1章 「一生僕らは生きて征け」
〇幼少期。夢。
エクスカリバーと名前を付けて振り回しまくった完璧な長さを持った木の枝を、一緒に墓参りに必要な物を買いに行ったお母さんの言いつけで、惜しんで惜しんでようやく、おじいちゃんとおばあちゃんの家の庭の前にぽいと捨て、手洗いを忘れずにミシミシ言う木の板の床を家の中に入ると、過ごしやすい初めての畳の部屋。その奥の縁側に、サイコロの六の目のようなBCGの注射痕が二の腕の肉にくっきり浮かぶほどよく日焼けした少女が、外に放り出した素足をぷらぷらさせながら、犬小屋に長めのリードで繋がれた犬と戯れていた。
「あなたが望美ちゃん?こんにちは。いまいくつになったの?」
お母さんが自分よりも先に膝を折って笑顔で話しかけ、それを丸い背中越しに聞いた彼女は緊張した声で「なな、ななさい。」と言った。
「...誰?」
くいくいっとお母さんの服の脇腹あたりを引っ張り、車でおじいちゃんとおばあちゃんの家に来た時にはいなかったはずの女の子の正体を訝しく聞いた。
「ほら、昨日言ったでしょ。近所に住んでる望美ちゃん。望美ちゃんのお母さんが忙しいといっつも遊びに来るって。ほら、そっちもちゃんと挨拶して。」
「...ちゃー。」
面と向かって言うのがなんでかなんとなく恥ずかしくなって、近所の人や先生にははっきり言えるはずのこんにちはの挨拶を、究極に省略した形で首だけをくいっと下に下げて言う。
「こんにちは。」
お母さんが自分の上から「もっとちゃんと挨拶しなさいよー。」だのピーピー言っていたけれど、彼女からしっかり返事が返ってきた事だし、めんどくさいので、それをシカトして、最近接触が悪くなったグレーの充電器に挿しっぱなしの3DSを開いて電源を付け、たんまり充電がされていることをチェックして、ケーブルを抜き、お母さんは、仲良くねとだけ言って家のどこかへ行ってしまった。
この3DSをここに置いていかずに、折り畳んで持っていけば、歩数計のカウンターの数がどんどん進んでゲームコインが大量にゲット出来たのになと世界最速と言っても過言ではないほど素早くポケットモンスターXを起動させながらちょっぴり後悔しつつそう思った。
カランカランとそよ風の存在を教える風鈴の音を何度も聴き流しながら、飽きもせず今日も、四天王とチャンピオンカルネを100レべのゼルネアスでぶち殺しに行く、その静かな決意をスライドパッドを上にすることで表現していると、少女に遊ばれている証拠たる首輪とリードの金具が擦れるチャリチャリという音が唐突に止み、物凄いスピードで走り去っていく足音が元気な鳴き声と一緒に遠ざかっていく。
「...ぇ。ねえ。」
「...?」
犬との遊びが唐突に終わったであろう彼女に呼ばれた気がして、3DSから縁側のへ視線を移すとカントリーマアムやチョコパイなどの個包装のお菓子がたくさん入った重たそうな木のボウルを細い腕でぷるぷると持ち上げている。
「...呼んだ?」
「お、お菓子、おじいちゃんが一緒に食べてって。」
「え、あ、うん。」
どうやら自分が取りにいかなければ永遠に持ち上げていそうな雰囲気だったので、3DSを片手でぷらんと持ちながら彼女の座っている縁側までとぼとぼ歩いて、木のボウルからおせんべいをひょいと持ち上げて齧り、そのまま彼女の隣に腰を下ろして、同じようにぷらぷらと足を宙に授ける。
彼女は、自分の役目だと言わんばかりに、とくとくとくとおぼつかない手つきで空になっている安っぽいプラスチックのコップにぬるくなった麦茶を入れている。
「はいどーぞ。」
なみなみまで入ったコップを中身がこぼれない様に少し飲んでから慎重に自分の傍に置く。
「...ありがと。」
「どういたしまして!」
お日様に負けないくらいにっこり笑ったその姿を見て、心臓が少しバクバク言っている。顔が静かに火照ったのを悟られないように、ちょっとうつむき気味でゲームを再開した。
「それなあに?」
「...ポケモン。」
「ふーん。」
「面白い?」
「普通。」
「見てもいい?」
「いいよ。」
彼女は座る位置を人ひとり分横にずらして、自分に体重を預けるようにゲーム機を覗き込みむと、洗剤売り場のようないい匂いが甘く漂い、平気なフリの仕方も曖昧に段々曖昧になっていった。
強い日差しのせいで、中々画面が見づらいので上画面を直角にカチカチと立ててノートパソコンのような即席の日よけを作ると、それに合わせる様に彼女の頭も、もごもごと動く。
淡々と無言でゲームを進める中、ポテンシャルの暴力で、一般ポケモンを殺戮している伝説のポケモンゼルネアスに、いつしか彼女は興味深々で、技を打って四足の細い足が器用に躍動する度、小さく、おー、だったりとリアクションしていた。
「なんか、ポケモン持ってる?持ってたらポケモンとか交換しようよ。」
「ごめん、もってない。」
「DSは?」
「もってない、みんなは持ってる。」
「...そう。」
自分だけ持ってないなんてちょっとかわいそうだなと思いつつ、まあ、こういう親が厳しかったりする家のやつとかもいるよなーと、子供なりの多様性解釈をして軽く受け流す。...でもなんか引っ掛かって。
「...やる?」
と、3DSを彼女の方へ差し出す。
「ううん。見てるのが良いから。」
「そ。」
特に押し付けがましく良いから良いからと3DSを念押しする事はせずに、そのまま出しかけた手をお行儀良く引っ込めた。
どうせ、お母さんがこの状況を見たら絶対「貸してあげなさい。」と言うに決まっているので、「貸そうかって言ったけど、いいって。」と、言い返すことが出来るようになっただけでも貸そうとした意味はあったと思う。
「この横に付いてるやつなに?」
彼女が、上画面の横側についている3D機能のスライドスイッチを指さす。
「あー。今オフだけど、これ付けると画面が飛び出して見えるやつ。」
「えー!やってやって!」
「...いいけど、酔うよ?」
彼女の望み通りに、スライドをカチっと上まで上げてから、少し見辛くなった画面をちらちら見ながら、またAボタンを連打し始める。
彼女は、お気に入りのボールが投げられるのを尻尾を振って待っている犬みたいにわくわくと覗き込み。
画面を見つめて。
ただ見つめて...。
「...やっぱいいや。」
順当に画面酔いしたらしいので、パッと3D機能を切った。
「他になんかできる?」
「...うーーん。あと写真とかも撮れるけど。」
「え!撮って、撮って!」
さっきの3D酔いも懲りずに元気いっぱいおねだりする彼女のお願いを出来るだけ叶えてあげたくて、一度セーブをしてからポケモンを落とし、ホーム画面からオレンジ色アイコンのカメラを起動し、二つの外カメラを彼女の方へ向ける。
「じゃあ、はい、ちーず。」
彼女のくしゃっとしたいい笑顔を、この家の風情ある縁側と一緒にデジタル写真に閉じ込めた。
3DSの写真フォルダーの少ない一枚の中に追加されたそれを、お決まりのおねだりの言葉でせがむ彼女に見せると写真に写った笑顔よりも笑顔ではしゃいでいる。
「帰る準備もうしたー?車でお墓参りしてもうそのまま帰るよ。」
ふたつのアイスキャンディーをもってどこからか現れたお母さんが背中から威圧的に声をかけ、「ちゃんと仲良くした?」と自分だけに聞きながら、二人に一本ずつソーダ味の細い棒アイスを、個包装をちぎって手渡した。
茹だるような夏の正午過ぎ。ゲームはいったんやめて、手頸に垂れるアイスを二人で気怠くなめる。
「もう、帰っちゃうの?」
「...うん。夕方くらいにだけど。」
「そっか。」
「あ、そうだ。ちょっとこれ持ってて。」
ふと、思いついて、彼女にアイスを預けると、手提げバッグの中に入れた夏休みの宿題の漢字ドリルとポケモンの硬い筆箱から鉛筆を一本取り出して、ドリルの一番後ろのページの端っこを小さくちぎり、そこに、3DSに表示させた何ケタかの数字をハイフン交じりで書いた。
「これ、フレコ。」
下敷きにした畳の目に影響されて、少しギザギザとジグザグした字が書かれた紙を、預けたアイスの引き換え券のように手渡す。
「ふれこ?」
「フレコ、フレンドコード。これ、DSに入れてフレンドになるとネットとかで一緒にポケモン交換とか対戦とかできる。もし買ってもらったら一緒にやろう。」
「...うん。ありがとう。」
すこし後ろめたいような、遠慮しているような表情で、手渡した紙に目線を落としている。
彼女にはなぜかそんな顔をして欲しくなくて、少し見栄を張って、畳に置いた3DSからポケモンパンについてきたプラスチックのシールを剥がして、粘着面を指先一本で持って彼女に差し出す。
「...あ、あと、これもあげるよ。記念に。」
「え?」
「ずっと見てたじゃん?ゼルネアス。」
彼女の表情がパッと明るくなって、両方のどこまでも吸い込まれそうな黒目がこちらを向く。
「いいの?...ありがとう。大切にする!」
「やさしいね。」
「...別に。」
「ねえ、また遊びに来る?」
「多分。」
「じゃあ、楽しみにしてるね。次はもっと遊ぼ。」
「うん...。じゃ、そろそろ荷物片付けて来るから、一旦、さよなら。」
「え、まださよならしたくない...。」
「...いや、大丈夫。さよならはまた会おうねって意味だから。」
おばあちゃんが言ってた言葉をさも自分が生み出したかのようにどや顔で言言い、それを聞いた彼女は目をぱあっと輝かせている。
「ふたりとも仲良しだねぇ。」
畳の上で胡坐をかいて居間でテレビを見ていたお母さんが語尾を伸ばしてからかうように言った。
「...もしかして、望美ちゃんのこと好き?」
「...!好きじゃないし!」
決して図星を当てられた訳ではないけれど、思わず勢いよく反論しようと身の回りに気を配らないまま振り返ると、案の定床に置きっぱなしだったコップを足の小指にぶつけ、カランカランと麦茶がこぼれて畳の上から縁側のふちにしみ出した。
彼女も含め、大合唱する蝉に負けないくらいみんながわちゃわちゃと大騒ぎする。騒ぎを聞きつけたおじいちゃんやおばあちゃんまでもが、障子の隙間からぞろぞろとやってきて、家族総動員のお祭り騒ぎとなっていく。
割と大惨事なのに、みんな何処か楽しそうだ。
永遠にも、すぐにも思える楽しい楽しいなつやすみは、まだ始まったばかり。
この眩しさを忘れないようにと、自分の仕事も忘れ。
ただ、なんとなく青空を見つめる。
〇街。駅前。
ただ、なんとなく青空を見つめる。
自分の職場の最寄り駅に行かない逆向きの電車が自分を置いて網タイツのようなフェンス越しにどこかへ過ぎ去っていった。
夏を経由して冬に怯えだした十月のどこか。年がいつしか二十歳を上回って、何週間か何カ月の今日。いい加減にメイクも覚え、さすがに消えた芋臭さを全身に薄い皮膜のように貼り付けて、今日も明日も二度とない若さをお金に換えて、嫌なことはすべてストロングゼロで忘れて、借金返済に消費して消えた先のしがない賃金でただ延命して日常を過ごしている。
少なくとも、あの清純な彼は、絶対苦手意識を持ってしまう職業だから、今の仕事はあんまり口に出して言いたくない。
まあ、結局なるようになった、とだけ言おうか。
私の体重ですらたわむフェンスにハンモックのように身体を預け、多少の繁華街で買ったぷらぷらと手に下げている高価なこれの中身を乗り換えの電車を待ちながらそっと覗き見る。
食費や、家賃、携帯料金に借金返済。それと…恥ずかしながら完全に依存してしまった煙草代を抜いた額を高校生の時から少しずつ貯金してようやく買えた。
正直、煙草とお酒をもう少し我慢したらこの二倍は早く手に入れることが出来たことは自覚しているし、今になってようやく、未成年からの喫煙は止めた方が良かったなと後悔し、大切な彼に一口進めたことも少しは反省している。
また、不意に思い出した彼の横顔が心臓を動かし始め、アイラインで消えちゃいそうなくらい繊細なあの思い出は、仕事で醜い肉同士の愛をするたび、ピュアな小学生同士みたいな彼との思い出がより際立ち、決して使うことのないアイシャドウの一色のように大事に大事に記憶のポーチの中に閉まっていることを自覚させる。
...そもそもあのときに連絡先を聞いておけば、こんな面倒な手段をとらなくても良かったのにとか、専用の充電器を買い忘れたのでこれを使うためにまた買いに行かなくてはいけないとか、本当にこの方法で彼にメッセージは伝わるのだろうかとか、そんな数々の不安さがぞわぞわと脳内を駆け巡るが、買ってしまった以上もう後には戻れないのだと、自分を鼓舞して無理に励ました。
ところで、彼は今何をしてるのだろうかと軽く考えるが、どうせ頭のいい大学に行って、これから上流な人生を送る準備をしている最中なのだろうとすぐに偏見のような答えが導き出された。
もしかしたら、女性恐怖症をあっけなく克服し、私の事なんか微塵も忘れて将来が約束された優秀なパートナーと聡明なキャンパスライフを謳歌しているのかもしれない。
面倒臭くて気持ち悪いのは重々承知の理由でほんのちょっぴり病みかけて、溜息をつこうと息を摂取しようとすると、隣に純粋な眼を輝かせて望遠鏡を覗き込むように小学校低学年くらいの少年がじっとこちらを見ていた。
「ん?どうした。少年。」
「...ママが車持ってくるからここで待ってなさいって。」
「そっかぁ、ちゃんとママの言うこと聞いて偉いねぇ。」
自分でもびっくりするくらい優しい声色で、良い子そうな少年と会話して、自分は絶対に産む気はないけれど、子供と接するのは正直結構好きだなと思う。
自分がなんとなく人の世話をするのが好きなことも、ハンバーグの次くらいには新生児が好きなことも子犬のように雨に震えていた彼を手取り足取りお世話した時に知った。
「君は、お姉さんみたいに、昔の恋をずるずる引きずるんじゃないぞ!」
太陽みたいに微笑んで、ただぽかんとしているのが可愛いこの子の少年らしい短髪をガシガシと撫で、この子のママさんに見つかる前にそそくさとその場から逃げ出し、今日も元気に憂鬱に夜からの仕事場へ向かった。
「あーあ。仕事もたばこもやめたーーーーい!」
全てを吸い込んで吸収してくれる天に大きく叫びつつ、いつも通りの手つきで百円ライターのやすりを擦った。
〇朝五時。
「ね、そろそろ起きて。」
ぼんやりと開ききらない瞼をうっすらとだけ開けて、窓から差し込む光に反射した綿埃がきらきらと舞っているのが、目覚めてから初めての景色だった。
膝立ちで自分の肩を思いやりをもって揺り動かす彼女は、使い込まれている様子のお花がプリントされたくたびれたエプロンを身に着けている。
「...?」
「おはよ。」
「今何時?」
「五時。」
「...朝の?」
「うん。」
「...起きる。」
「ああ、急ぎじゃなくていいよ。ちょっと聞きに来ただけだから。今から軽くなんか作るけど、食べられないものとかある?」
「...ない。基本食える。」
「ん。わかった。じゃ、ここでゆったり待ってて。」
そう言って彼女は踏みつぶされそうなくらい間近にあった足の甲を動かして、部屋から出ていった。
んん。と、舌の奥から捻りあげるような声を赤ちゃんのように情けなく出すと、また重たい瞼を瞑って楽なまどろみの世界にもう一度帰ろうと、怠惰的に二度寝の準備をし始めた。
頭は、脳に入る血液がすべて粘液なのかと思うくらい重たい。
楽しくて心が躍る夢をずっと見ていたから 昨日は良く眠れなかった。
彼女が階段を下っていく音がだんだん小さくなるにつれ、結局この家で迎えてしまった朝の環境音が際立ってくる。小鳥の鳴き声に虫のさざめき、その中に、雨音はもう存在していない。
片耳が、壁に聞き耳を立てるように、綿が体重でぺたんと薄くなった敷布団を一枚だけ噛ませた先に蜜月に接触した床からの音を拾う。
そこから聴こえるガスコンロをカチカチと付ける音や、食材をまな板でとんとんと手際よく切っていく音などといった彼女の料理音を克明に聴き流しながら、睡魔に身を任せて母性に似た何かを受け取りながらまた幸せにタオルケットを被って眠った。
〇外2。
「服ミスっちゃったなぁ、半袖だとまだちょっと寒い。」
雨上がりの湿気の匂いを立ちあがらせた朝もやの中で、ぴゅうぴゅうと吹く朝五時の風が彼女の身体を身震いさせていた。
自分たちは今、昨夜落とした財布を見つけるために、部屋で彼女の作った朝食をとってから、家族に見つからないように家をそっと抜け出して、海へと続いているらしいあの下り坂を目指して歩いている。その光景はまるで死体を探しに少年たちが線路を辿って歩く「スタンドバイミー」のようだなと思って口に出そうともしたが、映画好きの彼女からしたらこんなベタ過ぎる例えをする自分をからかってだったので、心の内に留めておき、自分を先導するように前を歩く彼女の体躯に、素材的に部屋干しで唯一乾いた自分のパーカーを脱いで、そのまま後ろから袖を肩に通して着せてやった。
「お嬢さん。どうぞ。」
「あらやだ、イケメン。」
犯人を尾行する刑事みたいに鼻先まで襟を持ってきてからしっかりとパーカーを着てポケットに手を入れてからまた歩み出すまた歩き出す彼女を再び人ひとり分の間隔を開けて追従する。
まだ微かに残っていた夜のぬるくやさしい闇はすっかり払われ、夜明けのうすい光が歪んだ地平線から染み出て、ひぐらしの声が静けさの中にこだましている。
夕方だけではなく、朝にもひぐらしが鳴くということを、学校と夏期講習専用に体に刻んだタイムスケジュールでは気付くことは無かった。
「ねえ、なんでそんなに勉強するようになったの?昔はそんなこと無かったよね?」
昔って一体どこまで前の昔のことをさして言っているんだろうとちょっぴり疑問にも思ったが、そんな大して重大な事ではないのでスルーする。
「小五くらいからかな、なんか周りが皆中学受験するやつばっかで今までゲームとか動画とかしょうもないことで盛り上がってたのに急に塾とか通信簿とかの話し始めて、自分もそれ選ばないと不正解な気がして皆に置いてかれそうって思ったから、周りに合わせるために塾行き始めたのが多分最初。」
「へー偉いじゃん。」
「...全然そんなことない。勉強って親の遺伝子と金だから、別に自分の実力じゃないって。」
「ふーん。」
「結局それしかできないから多分これからもつまんない人生送るだけだよ。」
「...でも、頭良いの、私からしたら相当羨ましいよ?私なんか、中学上がってもあまりに勉強出来なかったからさ、担任の先生とおじいちゃんに連れてかれたお医者さんで発達障害の名前たくさん貰っちゃった。」
「せめて何かを頑張れたらまだ何とかなったかもしんないのに、みんなと頭の構造が違うんなら流石にどうしようもないよね。」
自虐的にこちらを振り返ってニコニコ笑いながら放った発達障害という重たい質量を持った言葉すら、ひぐらしのなく幻想的で夢中のような空間の中では心にしこりを一つも残さずに、霧散してとろけ合ってしまう。
青空の中で困難を宣言する儚い少女という構図に対位法的なコントラストが効き、性に到達しない色気を感じた。
そのまま昨日川に行った道と同じところを辿って歩き続けていると、ふと彼女が立ち止まり、ショーのダンスのように大袈裟な身振りでくるっと半回転しながら。
「はい、到着!海!」
と、言った。
自分の記憶が正しければ、ここは自分が転んだ坂でもなんでもなく、確か自分と彼女が最初に出会ったときに彼女が座り込んでいたただの草むらを挟んだ道路だと思う。
「え?なんで変な嘘急に?」
「だって、しっとりした顔してんだもん。笑かしてあげよっかなーって。」
「え?そう?」
「うん。そ。...でも私にとってここが海なのはある意味ホントだよ。ほら、ここ座ってあそこ見て?」
そう道路を挟んだ林の奥にある向こうの山々を指さしながら座る彼女の隣にそっと腰を下ろすと、余白を青空が埋め尽くしている高く青々とした山の中を貫いている二つのトンネルの穴と穴の間に架かった、銀色に鈍く光る鉄橋の上をちょうど電車が通過し、そのままトンネルに潜り込んでいくところが見えた。
「電車ってどこまでも行けるからさ、私にとっては海と一緒なの。家がうるさい時とかはさ、いっつもここでたまにトンネルの切れ目から見える電車見て、もしここから出て行った時の事妄想してヒマ潰してたの。」
「へー。」
...確かに自分もまだ電車が身近では無かったときは何処までも行けるものだと勝手に思っていた。
「私、親が借金しててさあ」
「...うん。」
彼女と一秒でも長く言葉を交わしていたいからそのことは知っているけれど初耳のようなフリをする。
「死ぬワケにもいかないし、だからこれから先の人生大体決まっちゃってるんだよね。一生ここら辺からは外には行けないと思う。」
「...人間関係って急にリセットしたくならない? 」
「まあ、確かに、ちょっと分かる。」
「本当の自分はもっと暗いのに、みんなと仲良くしないと生きていけないから無理やり明るく振舞ったりとかしててさ。」
「うん。」
「でも、すぐ帰っちゃう君の前ならもうちょっと自分らしく接せられると思ったんだけど、人って中々変わんないね。結局中途半端に空回り気味になっちゃった。」
「全然そうは思わなかったけどな。」
「ほんと?なら良かった。」
これ以上話が湿っぽくなる前に、自分が率先して立ち上がり、座ったままの彼女を手を差し伸べて引き上げた。
風が二人の前髪をそっと視界を弄びつつ、視点が上に上がってさらによく見える。空気遠近法で、ちょっと水色がかった山の先の向こうに広がる確かな白い雲と青空。
「...青いね。」
「青っていうか蒼って感じ。蒼穹とかの、蒼。」
「...なにそれ?どういう字書くの?」
「じゃあ、手ぇ出して。教えるから。」
疑心暗鬼にちょこんと前に差し出した手のひらを軽く強引に掴んで固定し、その緩やかな手相が書かれただけのキャンバスの上に、まずは蒼の字の上のくさかんむりの一画目からそぉっと指でなぞり書き始めた途端。
「ちょ、やめてやめて!くすぐったいから!」
「で、その下に倉って書くのね。」
「離して~!!」
メランコリックな鬱屈さを体内から吐き出すようにお互いが身体をくねらせあって笑い合う。
めいっぱい遊ぶのにも才能がいる。だから、自分には勉強しかない。
それを痛感しつつ、自分のできる範囲最大で、はしゃいだ。
そして、ひとしきりじゃれ合った後。
「いこっか。」
満足げな彼女のその一言で、再び東を目指して歩きだした。
休憩を終えた太陽がまた王様のようにふんぞり返り、晴れ渡った空に反射した木々や水や生命が、再び煌びやかに躍り始めた。
〇坂。海。
「ねえ、あれじゃない?」
昨夜の大冒険兼大暴走の道のりの内訳が、目新しい曲がり角を取り敢えず曲がっていたお陰で、家からの直線距離に直すと結果的にそこまで遠い所には行っていなかったという事実に安堵して何十分か、遠く遠くに海と水平線がぼやけて見える見覚えのある下り坂を彼女とゆっくりゆっくり降りて行った先に、自分が転んだであろうコンクリートの穴の近くに、黒い財布がポツリと落っこちていた。
「そうかも。」
また足を引っかけて転びそうになりつつ、早足で向かってその財布を拾い上げ、中身を確認する。一番の気がかりだったICカードも無事黒いスリットに差し込んであり、雨風に晒されたであろうお札類も、財布から頭を出している部分が若干濡れているだけで、日常生活で使えなくなるほどの損傷はしていなかった。
「良かったー!」
「よかったね。」
安堵を身体に押し込めるようにズボンのポケットに捻じり込んで確かに仕舞い、上からポンポンと叩く。
「せっかくここまで来たし、このまま海見ていく?ちょい汚いけど。」
「うん。」
「りょーかい。」
ふにゃふにゃに曲がった敬礼をして坂道を先に下り出した彼女の後をゆっくりゆっくり追いかける。
残響まで計算しつくされた楽譜みたいなデートではなく、彼女の自然体で行き当たりばったりなエスコートに自分はただ何も考えずについていく。そんなお気楽なデートプランが世間一般的な選択肢としてもっと広まったのなら、自分は今よりは少しだけ恋愛に対し前向きなものを持てるのかもしれない。
下り坂を進む度にざぶんざぶんと波が何かにぶつかる音が薄い磯の香りと一緒に海の気配を醸し始め、少しだけ首筋にかきはじめた一滴にもならない汗を、彼女から借りているTシャツの襟で拭ってしまった。
思わず香る彼女の匂い、そこから強烈に連想される楽しい夏の思い出。
もし、この服を、この記憶の記念品として家まで持って帰ることが出来たら...。
そんなはしたない考えをを振り切り、先に海と陸の狭間まで到着した彼女を追いかけて、ようやく海を眼前に拝むと、日光を反射してヨットが似合いそうなくらい絵本の挿絵のようにキラキラ光っている遠くの水面とは対照的に、味噌汁の灰汁のような若干グレーの白い泡交じりの見栄えの良くない海水が、定期的なリズムで、この岩とフジツボと苔だらけの波打ち際に押し寄せていた。
「あんまきれいじゃないよね、ここ。」
流石に人の土地に面と向かってはいそうですとは言う勇気が無かったので普通にスルーすると、彼女は急に波打ち際から逸れてどこかへ行ってしまう。
すこし遠くの平坦な岩場の方で、彼女が何か手招きをしているように見えたので、自分も歩いてゆっくりと向かう。
「ねえ、みてみてこれ。」
「...あー花火?」
ぴょんぴょんと不安定な足場の上を器用に飛び跳ねる彼女の指先の先を見ると、開封された手持ち花火の袋と、まだ開封されていない少しだけ中身の種類が違う手持ち花火の袋が寄り添うようにいくつかの焼けた花火の残骸とともに捨てられていた。
透明なビニールにいくつか水滴がついているところを見るに、もしかしたら、ここで花火を楽しんでいた人間が昨日の急な雨で退散していった証拠品なのかもしれないとシャーロックホームズの晩年のような雑な推理でそう思った。
「うーんもしかしたらうちの学校の陽キャっぽい子たちのかもね。これ、...火ぃ付くかな?」
「えー、さすがに無理でしょ。」
自分の緩い制止も気にせず、花火の跡の傍まで歩いて行った彼女が。ポケットからライターを取り出して、手始めに身近に落ちていた新品同然の長い花火の先端を炙るが、中々火花が散る気配はせず、二本目、三本目と手当たり次第に火を付けて行っても結果は変わらなかった。
ふと、期待の諦めで彼女から視線を外した一瞬。
「あ!ついたついた!ほら、見t...あ、消えちゃった。ねえ、さっきブワァってなったよね?見た?」
「...ごめん見てなかった。」
「もー!」
テンション高く喜んでいる遊び足りない犬のような彼女の方へ岩場を一歩一歩踏みしめながら向かう。
未開封の花火の袋を開けて、一応周りを確認してから盛大に中身をぶちまけるとその中の花火を一本ずつ彼女の付けてくれるライターにかざす。
まるで、ライオンが食べ残した死肉を食らうハイエナのように、太陽の傍にそっと隠れる陰の我々は、誰かの青春の残り物となったしけった花火に火を付けている。
「わぁ、すごいなんか赤と緑が交互に...。」
ビニールの皮膜に守られていたとはいえ、あの豪雨の中に晒された火薬は相当ヘタっていて、半々くらいの確率で点火する花火の多くが本来の天寿を全うせずに枯れて死んでいくが、二人の笑顔の量は純正品とそう大差はなかった。
「あ、終わっちゃった。」
共通認識的に最後まで残しておいた線香花火を二人で一本ずつ付け合って、彼女の正真正銘最後の線香花火の溶鉱炉の中のような色をした球根と火花が、三分の一程度重力を逆らった後あっさり椿の花のようにぽとりと落ちてしまった。
「...。」
珍しく、彼女が何かを惜しむようにしゃがんだまま黙りこくっていた。
まだ帰りたくないように見える彼女の丸まった背中へ、もしかしたらお節介かもしれない提案を持ちかける。
「...まだちょっと歩かない?」
彼女が笑って、自分の心臓が不都合にどよめいたのに得意の気付かないフリをした。
〇駅。別れ。
海沿いを歩きつつ、途中の苔むした住宅街の中にある緩やかな坂を上って、巨大な鳥居と狛犬に誰かに倣ったような作法でお辞儀をして、柔軟に広がる段々畑を地理の授業の知識と勝手に結び付け、たまにガードレールに腰を掛けて、永遠に広がっていそうなほど長いシャッター商店街を抜け、二人はただ歩き疲れるまで歩いている。
ほんのちょっぴりの高い建物が増えて来たなとか、軽トラ以外の車や信号機を見かける様になったなとなんとなく思っていたその時、とうとう目の前に、自分がこの地に最初の一歩を踏んだ駅のホームが現れた。
一緒に立ち止まって隣にいた彼女の表情を覗き込んでも、自分と同じ少しびっくりした表情を浮かべていたので、彼女も想定外の事だったのだろうと思った。
そういえば今日起きてから一度も起動していなかったスマートフォンを開いて、アプリから電車情報を確認すると、数少ない電車の一本があと三十分後に来ることが分かった。次の電車は正午過ぎ...。
どのみち自分はここに来るのだから、ここから実家に戻るのは二度手間だなあと思って、ある失礼極まりない作戦を時間も限られているのですぐに決行に移す。
彼女に「ちょいまってて。」とだけ断りを入れ、了解の会釈を確認すると、まずはもう起きていた父に電話をかけて実家の電話番号を聞き、それを忘れないうちに素早く電話アプリに打ち込んで電話をかける。
「はいもしもし。」
「おはようおじいちゃん。いきなりで申し訳ないんだけど、なんか散歩してたら駅着いちゃって。」
「ほーすんごい歩いたなぁ。」
「丁度三十分後に電車が来るらしいから、それに乗って帰っちゃっても良いかな...?」
「...あいつも一緒か?」
ほんの少しだけ声色が変わる。
「...うん。」
「そっか。わかった。じゃあ、さようなら。楽しかったわ、送ってあげられなくて残念やけど、またいつでも来て。」
「うん。ありがとうございます。」
思っていたよりも話がぱっぱっとテンポよくドライに進んでいった。でもよく考えたら、祖父はこういう性格の人だったかもしれない。
「あ、あとおじいちゃんの自転車。カラオケスナックの前に停めたままだからそれだけお願いしても良いですか?」
「おう、分かった。任しといて。...しかしお前さんもなかなかやるなあ。」
「いや、別にそういうのじゃないんですって。」
「まあ、いいや、じゃあ、切るよ。」
「はい。お世話になりました。」
電話が終わった後で、自分の着替えをすべて実家に置いてきていることを今更思い出した。
祖父はきっとそのことには気づいていただろうが、あえてこの状況に茶々を入れないように察して、何も言わないでいてくれたのだろう。
「じゃあ、もう次の電車で帰る。」
「...うん。りょーかい。あ、てか、うちで干してる着替えどうする?Tシャツとズボン。」
「ああ、あれは元々じいちゃんのだから大丈夫...後で返しといてくれない?」
「うん。わかった。」
「...ところでさ。」
「ん?」
「私のその服いつ返してくれるんですか?」
「...。」
「...もしかしてぇ。まさかとは思うけど...このまま持って帰っちゃおうとか、思ってないよね?」
「...。」
「ね?」
「...ちょっと思ってる。」
「きゃー変態だー!」
「ちが、違くて!」
「...いや、でも、良いよ。それあげるよ。特別に。」
「え?良いん?」
「うん...でもその代わりにこれちょうだい。パーカー。交換ってことでさ。」
「あ、あと私の部屋のホテル代ってことで。」
「...ああ、いいよ。そういうことなら。」
「ありがと。」
「うん。てか、そろそろ電車来る時間だから改札行くわ。」
「途中まで一緒に行って良い?」
「もちろん。」
自分の最寄り駅の半分の数しかない改札の一つに財布のカード入れに差し込んだまま、ICカードをタッチして通る。
まだ電車が来る気配は微塵もなく、数えるほどしかない電車のホームには、人っ子ひとり存在せず、改札の向こうで突っ立ている彼女と幾ばくか話をする余裕はありそうだ。
ふと、改札は、人生のレールに乗れる人間を選別しているもののメタファーとして使えるとここへ来る電車の中で考えたのをなぜか思い出す。
「あのさ、お願いもう一個聞いてもらっても良いかな。」
彼女が改札を挟んでギリギリ聞こえるかどうかの少し震えた声で言った。
「ん?何?」
そう聞き返してから、何か言いたげな仕草を何拍か溜めた後、
「...もう二度とここには来ないで。」
...と、言った。
「...どうして?」
動揺が出来るだけ伝わらないように、ゆっくり吐いた息に乗せて理由を聞き、沈黙の最中に、タイミング良く、いや悪く、列車の到着時刻が近づいていることのアナウンスが挿入される。
「...怖いから。嫌われるのが。」
「...嫌う?俺が?そんな訳ないじゃん。」
「そんな訳あるんだよ。私の場合。...だって。」
「今日はたまたま上手くいったけど、本当は空気を読むとか察するとかそういうのほんとにほんとに出来ないし、何回も一緒にいたらきっとボロが出てイラってさせちゃう。」
「人のことを嫌いになるより、人に嫌われる方が何百倍も辛いよ。」
「...それにどんなに仲のいい親友同士でもずっと一緒にいたらキツくなってくるのって当たり前でしょ?」
「...。」
その言葉を否定をすることはしなかったし、できなかった。
紛れもない彼女自身がそう言ってしまったのなら、たった三日間も会っていない自分に、そんなことは無いと傲慢に決めつけることが出来る論拠なんて無いのだ。
一般人なら今にも彼女を抱きしめに向かってもおかしくないこの状況も目の前の改札が心理的な邪魔をして、中々実行に移すことが出来ない。
...。
...ならば、せめてと、自分が散々卑下していたティーンエージャーの恋愛物の何かに似た言葉を必死に用意する。
「あのさ。」
「...。」
「俺さ、お前のこと...人生で会った人間全部の中で一番一緒にいて良いなって思ってたよ。...最初っから。」
「...そう、なんだ。」
「...いつも周りから真面目だって思われてるから変に頼られてばっかだし、積極的にぐいぐい引っ張られる感じとか、新鮮で。」
「...。」
「...。」
「だから、ボロが出ない範囲で、たまにならまた...会ってくれる?」
「...。」
長い長い沈黙。電車の前方車両が運んできた風が、別れの知らせを運んでくる。
空気の読まない空気が後ろ髪を引いた、
その後で。
「...うん。わかった。約束。ごめんなんか急に。」
「...正直死ぬほど恥ずかったけど、まあ、良いよ。」
そう言ったのに、彼女は手の小指も出さずに、萌え袖にした猫の手でそっと口元を覆っていつも通りの平常運転にまた戻ってにっこり笑う。
「好きな匂いする。これ。」
「...ちょ、恥ずかしいからやめて...。」
「あ、忘れてた。これポケットに入れっぱ。」
そう言って、パーカーのポケットから黒い首掛けの式のワイヤレスイヤホンをまるで音楽だけが平等に世界をつなぐように差し出して駅伝のタスキのように改札越しに、それを受け取る。
「あのさ、あの曲なんて名前?」
「どの曲?」
「ほら...てんてんて、て、てーん。みたいなの。あれ気に入ったから。」
「あーOrangestarのDAYBREAK FRONTLINE。」
「...うん。わかった。覚えとく。」
トタン製の屋根の隙間越しに広がる入道雲すらない少し色素が薄い晴天をやることもなくポカリスエットが似合う青春なんて身分不相応な二人が見つめる。
イヴクラインの作品のような、コントラストの強い青は自分たち以外の他の彼らのものであるとはこじつけ、諦めて。
若さに思う存分甘えて、その先の進展を一ミリも気にせずに、大人しく。この眼前に広がる、薄い空色の水色の青が自分たちのものだということにしよう。
これが幸せかどうかは今はわからない。
けれど、今何も後悔なんてない。
「毎日普通に生きてくのってやっぱしんどい。」
寝起きの両目は、まだ少し渇いていて、赤とオレンジの狭間のイメージが、まぶた上下のアイラインのラインをぐるっと覆う。
「現代はまだ人間が住める環境じゃないね。」
空を駆ける幾羽の黒くグレー色の鳥が、人間動物ごときの心理描写の小道具に使われてなるものかと、つんと冷たい寒色の空間の中を乱雑にわあわあと飛び立っている。
眼窩のふちが辛くなってきた。
ぱちりと、まばたきその一瞬に、あの空がついに白みだした。
その、とき。
彼女は、何歩も何歩も助走の為の準備を付けて、階級社会を象徴したその改札に向かって大きく腕を振って迫りだし、この大地を憎むように強く踏み込んで、
飛び越え、
…ようとして
やめた。
「だけど―」
改札機で分断された自分と彼女が見つめ合うのを諦めた一瞬と同刻に敷かれたレール通り、電車が、絶対的な約束を果たすように、彼女の言葉をわずかに遮ってホームに入ってきた。
急ぎ足で閉まりかける電車のドアに滑り込んで、窓の外に流れるこの地に置き去りにしていく地元でめったに見られない低い屋根の家々に、なぜか寂しさを覚えて。
ただ、電車に揺られながらゆっくりまた日常に戻る準備を始めた。
...彼に貰ったパーカーの首元の部分を思いっきり吸い、きれいな思い出を確かにここに閉じ込めた。
今日帰ったら、ゼルネアスのシールを張った漢字ドリルの切れ端がしっかり残っているか改めて引き出しの中を確認しよう。
...大丈夫。
この思い出を糧に。君が居なくなっても残りの夏をきっと笑って迎えてやるから。
だから、さようなら。
さようならに再会の意味があることを知った上で。
「さようなら。」
過ぎ去っていく銀色の列車に、大好きだよと呟いた。
〇自室2
美しいラスサビの残響の一つまですべて聴き終わり、泣けそうで泣けない生乾きの涙袋の上を、何百回と聞いた「DAYBREAK FRONTLINE」のイントロがループ再生でまた流れ始める。
「現代はまだ人間が住める環境じゃないね。」
この諦めと慰めの言葉だと思っていた彼女の言葉には続きがあった。
「だけど。...それでも生きてくしかないよね。」
...ふと自分が毒虫に変身した理由を考える。
やりたいこと、将来なりたい自分。
それを一切考えず、旧世代の曲の歌詞のように、負けないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くことだけを馬鹿にひたすらに強迫観念的に達成する。ただそれだけの為に努力をしていたのだ。
周りに誇れるアイデンティティを守ることだけ考えて、自分の未来は一つも考えなかった。
受験期に差し掛かり、自分の何分の一かの努力で易々と成績を上げる同級生たちを見て、死ぬほどの恐怖に怯え、自分の地位をキープするために無理な努力を何日も何日も続けて...。
とうとう心と身体が一つではなくなった。
体温ですっかりぬるくなったベッドで寝がえりを打つ。
さっき枕元に放り投げた3DSがこめかみにコツンとぶつかる。
「...。」
ただの思い付きの感情から、折りたたまれた3DSを掴んでぱかっと開く。
せっかく引っ張り出したのなら、何か適当なゲームでもやろう。
そう思って、また3DSの電源を入れる。
光を一切遮断したこの部屋で、二つの画面がより強く光った。
...フレンド申請が一件届いている。
さっきは写真フォルダを開いた時には絶対にそんなことは無かった。
タッチペンは紛失していたので、かなり伸びてしまった人差し指の爪でそっとフレンドリストのオレンジ色のアイコンをタッチする。
「いま、なにしてる?」
素朴で端正な目鼻立ちを見事に再現したあの夏の彼女そっくりのMiiからそんな名前でフレンド申請が届いている。
そこで、ふと自分が彼女の名前をまだ知らないことに気付いた。
さながら、再び故郷に戻るまで、一緒に旅をしたおじちゃんの名前を知らなかった「菊次郎の夏」の主人公のようだ。
行き急ぐように、自分のMiiの名前を「なんもしてない。」にするのを一旦やめて。
「だいがくいってる。」に変える。
さて、嘘を付いても、それが本当になれば嘘を付いたことにはならないと、盲信して立ち上がる。
まずは、いきなりバックレを決めてそのままフェードアウトした予備校に頭を下げに行こうか。
いや、まずは、予備校代を稼ぐためにアルバイトを探すのが先だろうか。
その前に、すっかり伸びきってしまった髪の毛をさっぱりさせる所から始めるべきか。
...でも、もしそれが出来なくても大丈夫。
不思議と絶望は無い。安心感があふれてくる。だって、視線がやっと光の溢れた未来を向いているから。
だって人生はまだ何ひとつ終わっても始まっていないから。
体重をかけながらじっくり部屋の扉を開けて、フローリングの床の冷たさを裸足の裏に感じつつ、手すりを掴みながらゆっくりゆっくり 人間の根源的な恐怖の感情をひとつひとつ溶かしていくように、階段を一歩一歩降りる。
「...おはよう。」
ダイニングテーブルで何もせずひとり俯いていた母に声をかける。
母はゆっくり顔をあげながら一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに優しく微笑みながら。
「...なにか食べる?」
と、それ以上は何も言わず、静かにキッチンに向かい、おいしいご飯を作ってくれた。
それをきれいに食べ終わってその勢いを殺さないように繊細に丁寧に、家の外へ向かう扉へ進む。
ぬるい体温のドアノブに手を掛けて、それを目いっぱい押し込む。
およそ三年ぶりの外だった。
キジバトがほーほーと鳴いている。
溶けそうになる日光を浴び、その鮮明を遮るように手のひらを天に掲げると、その景色は、あの夏に見えた木々の木陰に遮られた青空に似ていた。
季節は梅雨を越冬した六月の暮れ、夏の予感がまた肌に貼り付く。
暗闇に落ちた先の見えないようなこの現状も。
ここに辿り着いたら闇なんてなかった。
期待した、転んだ、迷った、わかんなくなった。
けど、
「大丈夫。人生まだまだAパート。」
どうせ止まれるはずないのだから、
最前線飛ばして、前を向いて。
一生僕らは生きて征け。
完
さよなら、現実。~Summer Time Blue~ たきくんちゃん @takially
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