　けれども君、僕がこんな甘ったれた古くさい薄のろの悩みを続けているうちにも、世界の風車はクルクルと眼にとまらぬ早さでまわっていたのだ。欧洲に於いてはナチスの全滅、東洋に於いては比島決戦についで沖縄決戦、米機の日本内地爆撃、僕には兵隊の作戦の事などほとんど何もわからぬが、しかし、僕には若い敏感なアンテナがある。このアンテナは信頼できる。一国の憂（ゆう）鬱（うつ）、危機、すぐにこのアンテナは、ぴりりと感ずる。理（り）窟（くつ）は無いんだ。勘（かん）だけなんだ。ことしの初夏の頃から、僕のこの若いアンテナは、嘗（か）つてなかったほどの大きな海（かい）嘯（しよう）の音を感知し、震えた。けれども僕には何の策も無い。ただ、あわてるばかりだ。僕は滅茶苦茶に畑の仕事に精出した。暑い日射しの下で、うんうん唸（うな）りながら重い鍬（くわ）を振り廻して畑の土を掘りかえし、そうして甘（かん）藷（しよ）の蔓（つる）を植えつけるのである。なんだって毎日、あんなに烈（はげ）しく畑の仕事を続けたのか、僕には今もってよくわからない。自分のやくざなからだが、うらめしくて、思い切りこっぴどく痛めつけてやろうという、少しやけくそに似た気持もあったようで、死ね！　死んでしまえ！　死ね！　死んでしまえ！　と鍬を打ちおろす度毎に低く呻（うめ）くように言い続けていた日もあった。僕は甘藷の蔓を六百本植えた。

「畑の仕事も、もういい加減によすんだね。お前のからだには少し無理だよ。」と夕食の時にお父さんに言われて、それから三日目の深夜、夢うつつの裡（うち）に、こんこんと咳（せ）き込んで、そのうちに、ごろごろと、何か、胸の中で鳴るものがある。ああ、いけない、とすぐに気附いて、はっきり眼が覚めた。喀血の前に、胸がごろごろ鳴るという事を僕は、或る本で読んで知っていたのだ。腹（はら）這（ば）いになった途端に、ぐっと来た。口の中に一ぱい、生（なま）臭（ぐさ）い匂（にお）いのものを含みながら、僕は便所へ小走りに走った。やはり血だった。便所にながいこと立っていたが、それ以上は血が出なかった。僕は忍び足で台所へ行き、塩水でうがいをして、それから顔も手も洗って寝床へ帰った。咳の出ないように息をつめるようにして静かに寝ていて、僕は不思議なくらい平気だった。こんな夜を、僕はずっと前から知っていたのだというような気さえした。本望、という言葉さえ思い浮んだ。明日もまた、黙って畑の仕事を続けよう。仕方がないのである。他に生きがいの無い人間なのである。ぶんを知らなければいけない。ああ、本当に僕なんか一日も早く死んでしまったほうがいいのだ。いまのうちに、うんと自分のからだをこき使って、そうしてわずかでも食料の増産に役立ち、あとはもうこの世からおさらばして、お国の負担を軽くしてあげたほうがよい。それが僕のような、やくざな病人のせめてもの御奉公の道だ。ああ、早く死にたい。

　そうして翌（あく）る朝は、いつもより一時間以上も早く起きて、さっさと蒲（ふ）団（とん）を畳（たた）んで、ごはんも食べずに畑に出てしまった。そうして滅茶苦茶に畑仕事をした。今から思うと、まるで地獄の夢のようだ。僕は勿論、この病気の事は死ぬまで誰にも告白せずにいるつもりだった。誰にも知らせずに、こっそりぐんぐん病気を悪化させてしまうつもりであった。こんな気持をこそ、堕落思想というのだろうね。僕はその夜、お勝手に忍び込んで、配給の焼（しよう）酎（ちゆう）をお茶（ちや）碗（わん）で一ぱい飲みほしちゃったよ。そうして、深夜、僕はまた喀血をした。ふと眼覚めて、二つ三つ軽く咳をしたら、ぐっと来た。こんどは便所まで走って行くひまも無かった。硝子（ガラス）戸（ど）をあけて、はだしで庭へ飛び降りて吐いた。ぐいぐいと喉（のど）からいくらでも込み上げて来て、眼からも耳からも血が噴き出ているような感じがした。コップに二杯くらいも吐いたろうか、血がとまった。僕は血で汚れた土を棒切れで掘り返して、わからないようにした、とたんに空襲警報である。思えば、あれが日本の、いや世界の最後の夜間空襲だったのだ。朦（もう）朧（ろう）とした気持で、防（ぼう）空（くう）壕（ごう）から這い出たら、あの八月十五日の朝が白々と明けていた。