ヴィヨンの妻
太宰治/カクヨム近代文学館
一
あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは
夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて
「おかえりなさいまし。ごはんは、おすみですか? お戸棚に、おむすびがございますけど。」
と申しますと、
「や、ありがとう。」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。熱は、まだありますか?」とたずねます。
これも珍らしい事でございました。坊やは、来年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く
けれどもその夜はどういうわけか、いやに優しく、坊やの熱はどうだ、など珍らしくたずねて下さって、私はうれしいよりも、何だかおそろしい予感で、背筋が寒くなりました。何とも返辞の仕様が無く黙っていますと、それから、しばらくは、ただ、夫の
「ごめん下さい。」
と、女のほそい声が玄関で致します。私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。
「ごめん下さい。
こんどは、ちょっと鋭い語調でした。同時に、玄関のあく音がして、
「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」
と、はっきり怒っている声で言うのが聞えました。
夫は、その時やっと玄関に出た様子で、
「なんだい。」
と、ひどくおどおどしているような、まの抜けた返辞をいたしました。
「なんだいではありませんよ。」と女は、声をひそめて言い、「こんな、ちゃんとしたお家もあるくせに、どろぼうを働くなんて、どうした事です。ひとのわるい冗談はよして、あれを返して下さい。でなければ、私はこれからすぐ警察に訴えます。」
「何を言うんだ。失敬な事を言うな。ここは、お前たちの来るところでは無い。帰れ! 帰らなければ、僕のほうからお前たちを訴えてやる。」
その時、もうひとりの男の声が出ました。
「先生、いい
「ゆすりだ。」と夫は、
「たいへんな事を言いやがるなあ、先生、すっかりもう一人前の悪党だ。それではもう警察へお願いするより手がねえぜ。」
その言葉の響きには、私の全身鳥肌立ったほどの
「勝手にしろ!」と叫ぶ夫の声は既に上ずって、空虚な感じのものでした。
私は起きて寝巻きの上に羽織を引掛け、玄関に出て、二人のお客に、
「いらっしゃいまし。」
と挨拶しました。
「や、これは奥さんですか。」
女のほうは四十前後の瘦せて小さい、身なりのきちんとしたひとでした。
「こんな夜中にあがりまして。」
とその女のひとは、やはり少しも笑わずにショールをはずして私にお辞儀をかえしました。
その時、
「おっと、そいつあいけない。」
男のひとは、その夫の片腕をとらえ、二人は瞬時もみ合いました。
「放せ! 刺すぞ。」
夫の右手にジャックナイフが光っていました。そのナイフは、夫の愛蔵のものでございまして、たしか夫の机の引出しの中にあったので、それではさっき夫が家へ帰るなり何だか引出しを搔きまわしていたようでしたが、かねてこんな事になるのを予期して、ナイフを捜し、
男のひとは身をひきました。そのすきに夫は大きい
「どろぼう!」
と男のひとは大声を挙げ、つづいて外に飛び出そうとしましたが、私は、はだしで土間に降りて男を抱いて引きとめ、
「およしなさいまし。どちらにもお
と申しますと、傍から四十の女のひとも、
「そうですね、とうさん。気ちがいに
と言いました。
「ちきしょう! 警察だ。もう承知できねえ。」
ぼんやり外の暗闇を見ながら、ひとりごとのようにそう
「すみません。どうぞ、おあがりになって、お話を聞かして下さいまし。」
と言って私は式台にあがってしゃがみ、
「私でも、あとの始末は出来るかも知れませんから。どうぞ、おあがりになって、どうぞ。きたないところですけど。」
二人の客は顔を見あわせ、
「はあ、どうぞ。おあがりになって。そうして、ゆっくり。」
「いや、そんな、ゆっくりもしておられませんが。」
と言い、男のひとは外套を脱ぎかけました。
「そのままで、どうぞ。お寒いんですから、本当に、そのままで、お願いします。家の中には火の気が一つも無いのでございますから。」
「では、このままで失礼します。」
「どうぞ。そちらのお方も、どうぞ、そのままで。」
男のひとがさきに、それから女のひとが、夫の部屋の六畳間にはいり、腐りかけているような畳、破れほうだいの障子、落ちかけている壁、紙がはがれて中の骨が露出している
破れて綿のはみ出ている
「畳が汚うございますから、どうぞ、こんなものでも、おあてになって。」
と言い、それから改めてお二人に御挨拶を申しました。
「はじめてお目にかかります。主人がこれまで、たいへんなご迷惑ばかりおかけしてまいりましたようで、また、今夜は何をどう致しました事やら、あのようなおそろしい真似などして、おわびの申し上げ様もございませぬ。何せ、あのような、変った
と言いかけて、言葉がつまり、落涙しました。
「奥さん。まことに失礼ですが、いくつにおなりで?」
と男のひとは、破れた座蒲団に悪びれず大あぐらをかいて、
「あの、私でございますか?」
「ええ。たしか
「はあ、私は、あの、……四つ下です。」
「すると、二十、六、いやこれはひどい。まだ、そんなですか? いや、その
「私も、さきほどから、」と女のひとは、男のひとの背中の蔭から顔を出すようにして、「感心しておりました。こんな立派な奥さんがあるのに、どうして大谷さんは、あんなに、ねえ。」
「病気だ。病気なんだよ。以前はあれほどでもなかったんだが、だんだん悪くなりやがった。」
と言って大きい
「実は、奥さん、」とあらたまった口調になり、「私ども夫婦は、中野駅の近くに小さい料理屋を経営していまして、私もこれも
思わず、私は、
「いや、まったく、笑い事では無いんだが、あまり呆れて、笑いたくもなります。じっさい、あれほどの腕前を、他のまともな方面に用いたら、大臣にでも、博士にでも、なんにでもなれますよ。私ども夫婦ばかりでなく、あの人に見込まれて、すってんてんになってこの寒空に泣いている人間が他にもまだまだある様子だ。げんにあの秋ちゃんなど、大谷さんと知合ったばかりに、いいパトロンには逃げられるし、お金も着物も無くしてしまうし、いまはもう長屋の汚い一部屋で
またもや、わけのわからぬ
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