トロピカル因習アイランドへ行ってきたよ

規格と装置

夏の中にいた

 ほんのりと秋の名残のある日曜日の夜、もうとっくに家に帰って明日の準備をしていなきゃいけない時間なのに、僕はいまだ大学の最寄り駅近くのアパートの玄関前にいた。午後八時だ。終電まではまだかなり余裕はあるけれど、横目に見える商店街の店はもう閉まりだしている。ちょっと前まであった夕飯時の準備のにおいも霧散していて、帰宅する人たちの姿も、既に数え切れるくらいに減ってしまっていた。

「せんぱーい、居ないんすか~」

 ことの発端は、自分の課題のために図書館へ資料を探しに行ったことだった。南方の民族に関する資料を一式。全部が全部貸出中。まあ、あることだ。その貸出先が、自分が所属している研究室のゼミ生であることも、それほどおかしなことじゃない。現にその本たちの貸し出し履歴は、僕の先輩方の名で埋まっていた。何しろ専攻している分野についての本であるからして、必要になれば借りるし、略本も作られていたりする、そういうものだ。歴代でごっそり借りてるような頻繁に使う資料なら、研究室で買えばいいじゃんとは僕も思うところだし、それについてちょっと口が滑った事もあったが、あまり潤沢とは言えない予算から、すでに大学で所有しているものを一研究室のために買うという行為は許れなかった。教授曰く、それは無駄遣いらしい。自分のしょうもない本は学生に買わせるくせに。民俗学のゼミなんだから、必要な資料ぐらい買わせた本の売り上げで揃えとけよまでは、さすがの僕でも言えなかった。だもんで、借りているやつのところに行ってお願いしなきゃいけなくなった。僕としてはちょっとだけ貸してもらって、必要なページの写真を取るかコピーをさせてもらえればそれでよかったんだが、よりにもよってその相手が唐沢美香だったってわけ。

「本当、どうすんだこれ」

 唐沢美香。身長、多分170ちょい、髪型はショートカットの中肉中背。若干のカエル顔。ゼミの先輩で、快活で、最悪な人。無自覚サークルクラッシャー。言ってしまえば、男子小学生が女子大生のがわを被って生活しているみたいな人間で、僕も一瞬だけ惑わされたし、いまだにその無防備さと無自覚さと無遠慮さと無軌道性には困り果てている相手。あんまりにも会いたくなかった。

 図書館を出た時の僕の脳裏には、真っ先に最悪のシナリオが浮かんでいた。資料の全消失。必要なページどころか、なんだったら表紙すら残っていないかもしれない。意図してやらかす人間ではないが、そういう事態を無自覚に引き起こす人間ではある。そういうことだ。教授が彼女に露骨に甘いのも、最悪に拍車をかけていた。ここで下手に関わったら、なぜか全部僕が悪いせいにされる可能性がある。ただただ頭が痛かった。何とか関わらずに資料だけでも手に入れる方法はないかと思案したけれど、古い上に専門性が高い本を別の場所から調達する手段は僕にはなかった。素直に行くしかない。その決断をするのに、午後を丸々使って今に至る。

「返事してくださいよぉ、居留守はやめてっていったでしょ」

 すでに5回ほど呼び掛けている。チャイムだって鳴らした。呼び出す度、部屋の中では何か動くような気配がする。でもそれだけだった。レスポンスはない。

 さすがにこれでダメだったら帰るかと、試しにドアノブに手をかけ、回してみた。 

 回った。何の抵抗もなく。今日一嫌な気分になった。

「先輩、入りますよ」

 扉を開ける。妙に強い柑橘系のにおいがした。鼻先でレモンか何かを握りつぶされているくらいの強い香り。少し目にくるレベルできついにおいが充満している。

 僕はハンカチで鼻と口を覆いながら、以前来た時の記憶を頼りに、手探りで部屋の電気をつけた。

 天井のミラーボールが回り始めた。どきつい照明に、いきなり流れ始めるクラブサウンド。部屋の真ん中にある小さな机の上にはDJコントローラーと不審者。ヘッドホンを右耳に当てながら、スクラッチをする、サングラスをかけたドレッドヘアーの不審者。。スクラッチとともに音楽は加速し、ミラーボールの回転速度も上がる。いないはずの観客に向けてのハンドサインも欠かさない。その動きから察するに、フロアは確実に湧いている。あんまりにもな状態を目にして、僕はハンカチを取り落とした。僕だけを置き去りにして、目の前で何かが起こっていた。

 僕は事態が飲み込めずにただ突っ立って部屋の様子を眺めた。ワンルーム、1DK、ベットに机に本棚、PCデスク。こじんまりとしたタンスと、不審者を映す姿見。強烈な異物があるけれど、確かにここは以前来たのと同じ、唐沢の部屋だった。徐々にだが本を借りなければという気持ちが帰って来て、ひとまず僕はハンカチを拾うことにした。

 しゃがんで、ハンカチをつかむ。ざらり。嫌な感触がした。細かくて固い不揃いな何かがある。砂だった。小さな小さな粒の小山があり、その上にハンカチが乗っている。僕はそれを払いのけ、指先に付いた粒が何なのか、確かめるためにまじまじと見た。

 すぐに分かった。星の砂だ。その事に気づいた時、視界が急激に広がった気がした。暗がりにいたはずなのに、僕にははっきりと星の砂が見えた。手の中のハンカチも、その先にある真っ白な砂浜も見えた。僕はハンカチから目を上げた。

 ビーチだった。青い透き通った海と、白く広い砂浜。柔らかくもしっかりと湿り気を帯びた潮風が頬を撫でる。クラブサウンドはどこかへと立ち消え、やけにハイビートな三線の音だけが聞こえてくる。まとわりつくような柑橘系の匂いはもう無かった。ハンカチをポケットにしまい、ゆっくりと辺りを見回してみる。

 青い海、白い砂浜、若干の曇り模様の空と、ヤシの木。石垣に、背の低い家。僕は、夏の中にいた。

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