怪盗をしていたはずが養女を抱えて世界の為に戦う事になった件
朱音紫乃
第1話 アリア・ディザスター
ランナバウトとは全高16メートルから20メートルの人間に近い形状をしたロボット(ランナー)による競技格闘の事である。
ランナバウトの歴史は古く、二千年ほど前に遡るとも言われる。
一説によると元々作業重機であったランナーは格闘用に作られていなかったが、四肢に障害を持つ障害者が手足のように動くランナーを使い、健常者と同じように格闘を行った事に起因するとも言われる。
巨大なランナーが、搭乗者(ライダー)の手足となり、技巧を尽くして戦う姿は人々を魅了し、大衆娯楽として定着した。
現在では四年に一度行われる復活祭の世界大祭『カーニバル』の目玉競技となり、カーニバルをランナーバトルの世界大会と考えている者も少なくない。
プロローグ
「アルセーヌ様、今日もランナー観戦ですか?」
ロワーヌ天后最大の豪農トライスター家の筆頭執事リーアム・ギブスンの言葉に、栗色の髪と鳶色の瞳を持つ青年は黒いスーツに袖を通しながら片目を閉じて見せる。
「淑女と逢引きなら見逃してくれるのかい?」
アルセーヌは口髭をたくわえた長身の男性に目を向ける。年齢は四十四歳と自分より十歳年上だが、身体にも知性にも衰えは見えない。
「今宵は満月、夜目の利く者にも影はより濃く見えましょう」
リーアムの言葉にアルセーヌは肩を竦める。
今や世界を揺るがす力を持つようになっているVWC(蘇利耶ヴァルハラホワイトペーパークラブ)総裁リチャード・岸と比較すればささやかな財力だが、トライスター家はロワーヌ天后領では収穫の三割を占める独占的食料メジャー企業と言っても良い。
アルセーヌは屋敷を抜け出すと漆黒のビュイック・リビエラのイグニッションを押し込む。
本来アルセーヌが運転しなくとも、運転手など掃いて捨てる程いるが今日はお忍びだ。
今日はWRA(ワールド・ランナーズ・アソシエイション)主催ではないが、VWC主催のリチャード・岸総裁が保有するチーム『ラグナロク』と、不動のスーパーAクラス『シューティングスター』の試合が行われる。
ラグナロクには無敵のドラグーンオーディンとS級ライダーメルキオル・クラウスがおり、シューティングスターにはレッドスター029とA級ライダー、ワリード・ジャスランが居る。
オーディンはVWCが総力を挙げて開発した新型ランナーであり、一方のレッドスター029は天才と名高いランナーマイスター、ノーラ・ブレンディの026をマイナーチェンジした機体になる。
ドラグーン同士の戦いは騎士の馬上試合に近いものとなる。
ドラグーンとはランナーの中で最も機動力の高い、四本脚の機体を指す。
障害者スポーツとして生まれた経緯もあり、ランナーバトルには頭脳戦の要素も存在する。
二本足で軽快な動きをするファイター、同じく二本足だが重装甲で両肩にシールドを装備したアーマー。
ドラグーンは突撃力でファイターに対し優位となるが、突進力を殺す重装甲のアーマーには劣勢となる。
ファイターはドラグーンにはカモにされるが、鈍重なアーマーに対しては高い運動能力で優位となる。
ロック・ペーパー・シザースと言ってしまえばそれまでだが、WRAで行われる三対三の試合の場合、組み合わせが極めて重要となる。
相手の陣営を分析し、オーダーを組み立てるのは単純ながら高度な頭脳戦だ。
もっとも、今回のシューティングスターはドラグーンしか保有していない。
圧倒的機体性能と、世界一を自負するドラグーンライダーが集まる最強のドラグーンチームなのだ。
その現在世界最強のドラグーンレッドスター029を駆るワリード・ジャスランと、VWCが総力を上げて作った新型オーディンに乗るメルキオル・クラウスが戦うのだ。
世界の注目が集まらない訳が無い。
とはいえ、アルセーヌには既に勝敗が見えている。
レッドスター029は名機026と比較してほとんど性能が変わっていない。
これまで多くのマイスターが挑んだが、ノーラ・ブレンディの傑作機に手を加える事はできていない。
一方オーディンは蘇利耶ヴァルハラの科学力の粋を集めて作られたレッドスターを超える為のドラグーンだ。
ワリードの腕がいいのは認めるが、メルキオルの腕と新型機にはついて行けないだろう。
――ここ最近のランナバウトは面白くない――
アルセーヌは郊外の古びたランナー工房にリビエラを乗り入れる。
長髪のグラマーな女性がファイタータイプランナー『サキュバス』の掌に座っており、二人の風采の上がらない男性が端末を叩いている。
「普通は女が男を待たせるモンじゃないのかい?」
頭の上から響く声にアルセーヌは首を竦める。
体型を誇示するかのような黒いライダースーツに身を包んだ、モデルでも芸能人でも務まりそうな長身の女性はカーラ・アーシェス。
A級ライダーライセンスを保持する花形ライダーの一人だ。
残りの二人はそれでもB級ライダーのビッグスとウェッジ。
「ヒロインが遅れてやって来るって言葉も聞かないけどね」
アルセーヌとカーラは純粋なビジネスパートナーだ。
現在VWC総裁リチャード・岸は、メルキオルの戦いを見る為に蘇利耶ヴァルハラと名付けられた空中都市のフィールドの貴賓席に出向いている。
岸は世界中の富を集め、あらゆるものを買い漁っているが、その中にはランナーも存在する。
岸のランナーコレクションで最高峰のものはコートマンシェ家に伝わっていた古代遺跡から発掘された最強のドラグーン、ラ・ピュセルだが、現在は田舎資本家のマクドネル家に預けられている。
カーラがサキュバスに乗り込み、漆黒のファイターを起動させる。
手筈どおりビッグスがランナーキャリアの運転席に向かい、ウェッジが工具箱を持って足のつかない盗難車に乗り込む。
アルセーヌは盗難車の運転席に乗り込んでイグニッションを押し込む。
モーターが駆動し、アクセルを踏むと同時に工房から滑り出す。
アルセーヌは決して運転が上手い方ではないが、セーフティードライブを心掛ける限り事故を起こさない自信はある。
サキュバスを乗せたランナーキャリアが一定の距離を置いてついて来る。
蘇利耶ヴァルハラは地上二百メートルの空中にあり、ユグラドシルと名付けられた巨大な柱によって支えられている。
地上から蘇利耶ヴァルハラに入る為にはVWCの厳重なセキュリティを抜ける必要がある。
VWC加盟の資本家であるアルセーヌなら顔パスだが、今回はトライスターとして蘇利耶ヴァルハラに行く訳ではない。
蘇利耶ヴァルハラは見栄を張って空中に存在しているが、大気の影響に耐える為に常にバランスを取る必要がある。
半径10キロの蘇利耶ヴァルハラの内部にはトンネルのような空洞が幾重にも設けられており、水銀を移動させる事で水平を保っている。
アルセーヌは事前にこの空洞に爆薬を仕掛けている。
満月の今日、風は西方フラクタル山脈から吹き付ける。
当然気象予報により蘇利耶ヴァルハラは西側の空洞に水銀を流し込み強風に備えている。
端末を操作し、蘇利耶ヴァルハラのシステムに強風を誤認させる。
空中の蘇利耶ヴァルハラが西方に僅かに傾く。
傾きを察知したシステムが修正の為に水銀を東方に移動させる。
蘇利耶ヴァルハラはこの即応性の為に流動性と高い比重の水銀を使っているのだ。
西風が吹き付けると同時にアルセーヌは起爆ボタンを押し込む。
蘇利耶ヴァルハラの空洞に仕掛けた爆弾が爆発し、西側がオレンジ色の光に包まれる。
だが、ケチな爆弾程度で倒れるような蘇利耶ヴァルハラではないし、倒れたら死人が出る事になる。
バランスを取る為に東方に移動させられつつあった水銀を西風が一気に押し流す。
蘇利耶ヴァルハラの警備ライダーが傾く蘇利耶ヴァルハラを一斉に見上げる。
アルセーヌはマンホールに潜り込み、ウェッジにユグラドシルの直下に続く壁を爆破させる。
音響探知で確認済だが、蘇利耶ヴァルハラはかつて存在したヴァルハラという町の上に作られている。
岸はユグラドシルを突き刺して蘇利耶ヴァルハラを作ったのだが、蘇利耶ヴァルハラの地下についての調査はしていなかったらしい。
爆破と同時にユグラドシルの金属に似た外壁が姿を現す。
仕組みそのものはアルセーヌにも分からないが、以前岸から採取したDNAを塗布したグラブで壁に触れる。
ぽっかりと穴が開き、上下を無視した通路が姿を現す。
予定通り吸盤で中央まで移動する。
蘇利耶ヴァルハラの爆破と傾きで地下は誰も警戒していない。
アルセーヌはこれだけは技術的に理解できる巨大エレベーターの直下にたどり着く。
ウェッジにカーゴに身体を固定させる為の金具を設置させる。
アルセーヌはウェッジと共にVWCの警備ライダーの制服に身を包む。
蘇利耶ヴァルハラに向かう為に警備ライダーたちがエレベーターを起動させる。
端末で確認するとメルキオルは順当に勝利し、蘇利耶ヴァルハラの爆破を気取られないようにするため、通常通り表彰を行うようだ。
――計画通りだ――
エレベーターが止まった所で、蘇利耶ヴァルハラの空中都市の一階層下の整備区画に侵入する。
勝利したオーディンはお色直しでピットに戻っている。
整備用の地下区画を突っ切り、フィールドのピットに上がる。
「蘇利耶ヴァルハラ外辺で爆発が確認された。万全を期して我々がフィールドまで移送する」
アルセーヌが言う間にウェッジがオーディンに乗り込む。
オーディンの差し出した手にアルセーヌは飛び乗る。
快速のオーディンが地響きを立てて走り出す。
唖然とする整備クルーを押しのけるようにしてVWCのバイオロイドライダーが追いかけて来る。
バイオロイドは岸がランナーバトルで勝利する為に作った、身体を強化された人造人間だ。
まともに戦って勝ち目のある相手ではないが、生身のバイオロイドが追いかけた所で疾走するオーディンには追い付かない。
前方にVWC量産ランナー、ファイターのヴュルガーが現れる。
「ウェッジ! 突っ切れ!」
オーディンの頭に抱き付いたままアルセーヌは叫ぶ。
オーディンが長槍を構えて突進する。
ウェッジは元からB級ドラグーンライダーだ。
アルセーヌが降り落とされないように懸命にしがみ付く間にも、目の前のヴュルガーがスクラップに変わる。
蘇利耶ヴァルハラ外辺まであと一歩という所で目の前にアーマーランナー『ティーゲル』が姿を現す。
標準装備の大型の斧を手にするティーゲルは、オーディンより格は落ちるだろうがドラグーン対アーマーで相性は最悪だ。
「ウェッジ! 逃げろ!」
快速のドラグーンが逃げれば、鈍重なアーマーが追いつける訳が無い。
退路を予測していたかのようにティーゲルが出現する。
背後にランナーキャリアが見えるという事は、足が遅いのは承知の上で車両で移動したという事だろう。
『止まれ! 我々VWCの機密を盗んで生きて出られると思うな!』
ティーゲルの外部スピーカーが声を立てる。
アルセーヌは口元に笑みを浮かべる。
「カーラ、出番だ」
目の前のティーゲルが空中からの攻撃で一瞬でスクラップに変わる。
ファイターであるサキュバスはアーマーの天敵。
更にカーラはA級ライダーにして天空の覇者と呼ばれる天衣星辰剣の達人なのだ。
鮮やかな剣さばきで四機のティーゲルが崩れ去る。
『そこまでだ! 私は蘇利耶ヴァルハラ警備主任エステラ・ゲイン!』
カスタム機のドラグーンが目の前に出現する。
これまでの交戦記録には無い機体とライダーだ。
『せいぜい吼えな』
飛翔するサキュバスにドラグーンが突進する。
通常のバトルならファイターは串刺しだ。
サキュバスの手の剣が鞭に変わり、ドラグーンの足に絡みつく。
サキュバスが着地し、勢いのままに鞭を引いてドラグーンの足を回転ノコギリのように切り落とす。
その間にももう一方の手に剣が出現している。
ドラグーンに反撃の隙も与えずにヘッドカメラを破壊し、腕を切り落とす。
両手の剣が閃き、ドラグーンから手足が失われる。
「ウェッジ走れ! カーラも遊び過ぎるな!」
サキュバスに追加装備として塔載したフックとワイヤーで二機まとめて地上に降下する。
オーディンの背にサキュバスが乗り、蘇利耶ヴァルハラの街を疾走する。
前方にウェッジの運転するランナーキャリアが出現する。
「オーディンはこのアルセーヌ・リッシモンが頂いた!」
オーディンがサキュバスを乗せたままキャリアに乗り込むと、キャリアは猛スピードで走り出した。
※※※
「アルセーヌ様、お帰りなさいませ。酔い覚ましにミントティーでもいかがですか?」
リーアムの言葉にアルセーヌは安堵する。
父親のアルテュール・リッシモンの事は古い映像記録でしか知らない。
リーアムが事実上の父親のようなものだ。
「ビールじゃ酔わないよ。迎え酒が欲しいくらいだ」
赤絨毯を踏んで自室に足を向ける。
「VWCは量産機ブラウンシュヴァイクにオーディンの予備の外装をつけて表彰に出したようです」
「リーアム、俺が盗んだとでも?」
アルセーヌは見抜かれている事を理解している。
反抗期と言うには歳を食い過ぎているが、血筋が悪いと馬鹿にされる社交界より盗みの方が性に合っている。
「火遊びはほどほどに。無茶をなさるとは思っていませんが念のため」
「家庭教師がリーアムで無かったらこうはなってないだろ」
アルセーヌは苦笑する。
ウィリアムは良くも悪くも大資産家トライスター家の貴公子だ。
金持ちの間では評判がいいが、執事や侍女の評価は最悪だ。
「それは不本意ですな。私は次期当主としてアルセーヌ様をお育てして参りました」
「それは残念だ」
アルセーヌは内ポケットからオーディン強奪の分け前の十万ドルの束を取り出す。
「みんなに美味しいものでも食べるように言ってくれ。帰省の費用が足りなければこれを使ってくれ。お袋は身内に厳しいからね」
「アルセーヌ様、痛み入ります。遠慮なく頂きます」
頭を下げるリーアムにアルセーヌは手を振って自室に戻る。
シャワーを浴びてベッドに横になったら、また退屈な明日がやって来るだろう。
※※※
「アルセーヌ様!」
ドアを叩く音でアルセーヌは目を覚ました。
ただならぬ様子にガウン姿のままドアを開ける。
侍女のシルビアが息を切らしている。
「どうしたんだ?」
「メアリ様が厨房の皆さんを解雇すると……助けて下さい!」
アルセーヌは慌てて母屋に向かう。
怒鳴り声とその怒りを鎮めようとする声が聞こえて来る。
食堂のドアを開けると朝食のテーブルを挟んでメアリとリーアムが対峙している所だった。
「コーンスープにコーンの欠片が入っていたのよ! フィリップ料理長ならこんな事は起きないわ!」
「欠片が歯に挟まっても命に別状はございません。寛容さこそ地位ある者に求められる資質です」
リーアムの冷静さと、メアリの興奮状態は好対照だ。
「フィリップを連れて来い、それで済む話ではないか」
横柄な口調で言ったのは金髪碧眼、長身で彫刻のように整った容姿を持つウィリアムだ。
「それが毎日料理を作ってくれる人に向かって言う言葉か! 母上も母上だ! スープどころか、コーンの欠片も食べられない人が世の中には沢山いるんだ! 俺たち金持ちはそういう人々を守る事と引き換えに贅沢な生活をしている。違うか!」
アルセーヌは声を上げる。スープの味一つで厨房で働く二十三人をクビにするなど常軌を逸している。
そうでなくとも彼らは低い賃金で働いているのだ。
「仮にもこのトライスター家で働く者が、最低限の品質を守れないなど……このトライスター家で料理長を務めたとあれば蘇利耶ヴァルハラに店舗を持てる! トライスター家を巣立った人間の顔に泥を塗る事にもなるのよ!」
「蘇利耶ヴァルハラだろうが、小料理屋だろうが関係ないだろ! 料理人は客の舌を喜ばせるのが仕事だ! 金を持ってれば蘇利耶ヴァルハラには入れるだろうが、人の笑顔は金や肩書じゃ買えないんだ!」
アルセーヌが言うとウィリアムが鼻で笑う。
「何を生ぬるい事を。兄上がそう言うなら俺はこう言おう、兄上が下品な顔で笑うと金が天から降って来るのか?」
「ウィル! うちで働く人たちは、家に帰ってもこんなバカな事で大騒ぎもしないし喧嘩もしない!」
「アルセーヌ! 私のウィルを呼び捨てにしないで! 汚らわしい!」
メアリが興奮状態のまま叫ぶ。
「失礼ですがメアリ様、アルセーヌ様はトライスター次期当主にございます。相応の礼を持って接するのが品格というものでは無いでしょうか?」
リーアムの言葉にメアリが青ざめる。
「お父様に目をかけられていたからと……図に乗ると承知しないわよ!」
メアリが承知しなくても、筆頭執事のリーアムが離れたとなればトライスターの権威は大きく傷つくだろう。
「そもそも、食事が不味いのが悪いのだ。フィリップが出て来れば問題無いではないか?」
ウィリアムが小動物を嬲る肉食獣のような口調で言う。
「料理長は実家に帰省中です。料理長は二年間帰省しておらず、認知症の母親を料理長の兄が一人で介護しておりました。許可を出したのは私です」
リーアムはウィリアムに険しい視線を向ける。
「痴呆なら味覚も無かろう。料理長は我がトライスター家より痴呆老人を優先すると言うのか? 忘恩も甚だしいわ」
ウィリアムが吐き捨てる。
「恩知らずはお前だろう。毎日美味しいものを食べられるのは誰のお蔭だ。お前が作った訳じゃないだろ」
アルセーヌはウィリアムに詰め寄る。
「ボケ老人が好きなら介護をすればいい。トライスターは四つ星を雇えばいいだけよ。それより、帰省する金はどこから出たのかしら? 銀食器を盗み出したのだとしたらタダでは済まないわね」
メアリが委縮する侍女たちを威圧するようにして言う。
「俺が出した。文句があるのか」
アルセーヌはメアリの目を見据える。
「お前のせいで食事が不味くなり、ウィリアムに罵声を浴びせ、挙句の果てに一流の料理人がトライスター家よりボケ老人を優先した。お前はトライスター家の人間じゃないわ」
「飯が不味いのはお袋の根性が汚いからで、ウィリアムが罵声を浴びるのは性根が腐っているからで、料理長が母親と兄を案じたのはその心が清潔だからだ。品格は肩書ではなく、その行いによって示される。母上とウィリアムは行動でトライスターである事を否定している」
アルセーヌの言葉にメアリとウィリアムが青ざめる。
「母親に対してそのような口を利くとは……出て行け! 二度とトライスターの敷居を跨げると思うな!」
メアリが全身を震わせながら言う。
「分かった。だけど母上、品格は敷居から与えられるものではありません」
アルセーヌはメアリとウィリアムに背を向ける。
このような連中と話すだけ時間の無駄だ。
「アルセーヌ様! お考え直し下さい! 次期当主が軽率に家を出るものではありません!」
リーアムが珍しく動揺した様子で声を上げる。
「リーアム、アルセーヌを止めたら解雇する。文句のある者は名乗り出よ。即座に解雇し、蘇利耶ヴァルハラの下のスラムに落としてやる」
ウィリアムが低く笑いながら言う。
「リーアム、俺に尽くしてくれたように、皆に尽くしてくれ。俺なら俺の身一つなら何とかなる」
アルセーヌはリーアムの顔を脳裏に焼き付ける。
――生きてもう一度見る事が叶うかどうか――
アルセーヌは母屋を出ると荷物をビュイック・リビエラのトランクに放り込んだ。
――正真正銘、大泥棒アルセーヌ参りますか――
第一章 アリア・ディザスター
〈1〉
――カーラと連絡がつかない――
アルセーヌはフェーデアルカ貴人州の港町に止めたビュイック・リビエラの運転席で途方に暮れていた。
カーラは戦力でも能力でも群を抜いた人物だ。
アルセーヌは十代の頃からネットで知り合ったミロクという人物の依頼を多く受けて来た。
現在ミロクから、デビルキッチンのケルベロスのデータを盗む依頼が来ている。
デビルキッチンはWRAスーパーAクラス、カーニバル常連の強豪チームだ。
アルセーヌが応援しているチームの一つであるだけに、情報を盗んで売り飛ばすのは気が引ける。
もう一つはAという依頼主で、オーディン強奪を依頼した相手だ。
Aの新しい依頼はバイオロイド研究所の情報入手だ。
アルセーヌはバイオロイドに好感を持っていない。
バイオロイドたちが悪いというのではなく、人工的に人間を作り出すと言う事を生理的に受け付ける事ができないのだ。
もし、バイオロイドの研究を止めさせるという事であれば協力したい所ではある。
しかし、バイオロイドはVWCの極秘中の極秘で、何処で誰がどうやって作っているのかさっぱり分からない。
蘇利耶ヴァルハラのバイオロイドに直接聞けば分かるかも知れないだろうが、次の日には断頭台に乗っている姿が全世界に中継されるだろう。
バイオロイドはVWCオーナーズクラブで売買されている。
アルセーヌも付き合いで見に行った事があるが、A級ともなると十代にしか見えない子供でも十億ドルを超える。
どう考えても人身売買にしか見えないのだが、バイオロイドは有機物だが工業的に作られている為、人権が存在しないというのがVWCの主張だ。
――乗るならAか――
だが、最低限情報を得る為には蘇利耶ヴァルハラに行く必要がある。
それ以外の方法があるとすれば、売られたバイオロイドに訊ねるという方法だ。
アルセーヌはバイオロイドの売買記録を見る。
A級バイオロイドは高額である為、ほとんどが売れ残っている。
B級が最も多く普及しており、トライスター家に来たVWCの営業も売り込もうとしていた。
C級となると逆に持っている事が資本家のステータスにとってマイナスになる為に売れ残っている。
基本的にバイオロイドは見栄えが良く、愛玩の為に作られたと言っても疑念を抱かないほどだ。
そこまで考えてC級以下に目を向ける。
意図して失敗作になったのでは無いだろうが、D級も存在しかなりの人数が売られている。
――落札したのは資本家ではないのか?――
アルセーヌはデータを探る。
複数の人物が購入したように見えるが、資金の出元は一つだ。
笹川組というマフィアだ。
ベスタル大陸沖を埋め立て大東亜という賭博都市を作り、破産した人々を奴隷として売り飛ばし勢力を拡大している、資本家に近い経済力を持ちながら違った価値観を持つ存在だ。
――笹川組か……――
アルセーヌはフェリー乗り場にビュイック・リビエラを向けた。
※※※
アルセーヌはベスタル大陸にたどり着く頃には、既に低価格で買い取られたD級ライダーたちの末路が分かっていた。
性風俗で働かされるか、その高い身体能力を利用して殺人の道具にされるかだ。
吐き気のするような話だが、需要は高いらしい。
大東亜に到着し、ビジネスホテルで笹川組の運営しているマッサージ店にワンコールするだけでバイオロイドの少女が呼ばれた。
そもそも人権が無いのだから、売春にも、未成年の違法労働にも該当しないという事なのだろう。
ドアがノックされる。
「どうぞ」
アルセーヌは椅子に腰かけてドアに目を向ける。
青い、人体とは異なる色素の髪と金色の瞳を持つ少女だ。
服装は奇妙にディフォルメされた侍女のような服装をしている。
「……本日ご奉仕させて頂きますリオナと言います」
アルセーヌは視界の隅で端末を確認する。
ホテルのエレベーター前に二人、玄関に二人。
室内の音声も映像も巧妙に偽装されたカメラとマイクで拾われている。
――だが、俺は大泥棒アルセーヌだ――
アルセーヌに良し悪しは分からないが、このホテルでバイオロイドを買った人間の記録をサーバーから抜き取り、現在マイクとカメラにそのデータを掴ませている。
「まず椅子にかけてくれ。紅茶とコーヒーのどちらがいい?」
アルセーヌは椅子を勧める。
「え? いえ、あの……」
リオナが動揺する。
「まず落ち着いて、俺は話をしたいだけだ」
「あの、時間以内にしないと、その、後で……」
リオナは脅迫的に働かされているようだ。
「君は子供だ。大人は自分のやりたい事をする為に歳を重ねるんじゃない。子供にやりたい事をさせる為に歳を重ね、経験を積むんだ」
アルセーヌはコーヒーを淹れる。
「あの……お話が良く分かりません」
アルセーヌはミルクと砂糖を多めに入れたコーヒーのカップを少女に手渡して向かいに座る。
「俺はバイオロイドも人間だと思っている。売っても買ってもいけないし、そもそも造ってはいけなかったのだと思っている。でも、生まれた命に対しては人間と同じ敬意を払いたい。ここまではいいかい?」
「私は人形です。ご奉仕しなければいけません」
怯えたような視線がアルセーヌに向けられる。
この少女はこのような思考に至るまで、どのような扱いを受けて来たのだろう。
「しなければならない、という考え方は、自分の意志ではそうしたくないけれど、という意味もあるよね? それは分かるかな?」
アルセーヌの言葉に少女の顔が目に見えて強張る。
「でも、だけど……」
「でももだけども言い訳だ。自分に対する言い訳は、他人にするより他人も自分も不幸にする」
「私は……ライダーになるようにって……前は島に家族がいて……」
観念した様子で少女が語り始める。
島、という事は隔離された場所でバイオロイドは造られているという事か。
「家族はお父さんやお母さんかい?」
人間から生まれたならVWCの理屈は通らない。そのまま司法の手に引き渡す必要がある。
「私たちは試験管で生まれるので……偉い人たちとやり取りしているネメスが一番のお兄さんで、後はみんなで訓練をしたり……嫌じゃなかったんです。あのままでも良かった……」
アルセーヌはネメスという名前をVWCオーナーズクラブで検索する。
A級ライダー、ネメス・ギルフォード。
最初に造られたバイオロイドにして、最高峰の性能を誇るバイオロイド。
売り物ではなく、バイオロイドライダー養成所という施設の所長をしている。
「島ではどんな事を?」
「戦う訓練と、ライダーになる為のランナーの操縦です」
ライダーとしての誇りに近いものは持っているのだろう、リオナが明瞭な口調で答える。
「君や家族はライダーになる為に、一緒に頑張って来たんだね」
少女が俯き、肩を震わせる。
生れると同時に一方的に生きる意義を押し付けられ、更に基準に満たないからと歪んだ欲望の捌け口として扱われる。
それがどれほどの苦痛の日々であったか。
「助ける、とは言えない。俺は一般の人間で、腕力では君にも勝てない。だけど、何か手助けできるかも知れない。その島はどこにあるんだい?」
「島からはユグラドシルが見えます。売られる時に船で半日かかりました」
蘇利耶ヴァルハラを目視できる――バイオロイドの7.0という視力を考慮して――距離で、船で半日となると、体感時間も考え蘇利耶ヴァルハラのある蘇利耶ヴァルハラの西方の海上100~150キロといった所だろう。
「島にはどれくらいの家族がいるんだい?」
「私の頃は二百人くらい。Dr東條がいっぱい作り始めたので、今は分かりません」
アルセーヌはDr東條を検索する。
バイオロイド研究の権威で現在VWCのバイオロイド開発主任となっている。
だが、先代のシュミットの時代のバイオロイドがA級とB級に集中し、東條の作はC級でも厳しいのだから能力の差は明白だ。
「Drシュミットに会った事は?」
「知りません。シュミット先生は四世代までなので。私は東條に作られた出来損ないなので……」
リオナには強烈なコンプレックスがあるようだ。
「リオナ、世の中に出来損ないの人間なんて、バイオロイドなんていない。もし、出来損ないと言う人がいるなら、その人は君の足りない力を補う力が無い、自分の面倒も満足に見れないと言っているのと同じ事だ。君は君でいい」
アルセーヌは言いながら残された時間が少ない事を知る。
「あなたは、どうしてバイオロイドに優しいんですか?」
「俺がバイオロイドに生まれていたら、ポンコツだっただろうって思うからさ」
アルセーヌは笑みを浮かべて少女の頭を撫でる。
この場で救うと、このまま連れて逃げ、良い里親を見つけると言えたらどれだけ良いだろう。
しかし、バイオロイドを量産するという計画が進行中なら、一人を助けても焼石に水だ。
「……時間切れです」
リオナの顔に悲しい笑みが広がる。
「リオナ、もし、ものすごくお腹がすいていて、食べ物を買うお金が無い人がいたら、俺はこう言う。盗んでいいよって。死ぬくらいなら、盗んだ方がいい。それに食べ物が余っているのに、お腹を空かせた人に分けない人がいたら、その人の心は泥棒より汚い事になるからね」
少女が頷いて背を向ける。
「いつか、また、どこかで会えますか?」
「それは君が決める事だ」
アルセーヌは言う。盗めと言ったのは逃げろと言ったのだ。
その意味に気付く時が来たなら、アルセーヌは命にかけてもリオナを救う。
――これでいいよなリーアム――
※※※
アルセーヌは蘇利耶ヴァルハラ近郊の港の船の出入港記録を確認している。
消費するものは多いが生産するものは少ない蘇利耶ヴァルハラから、生活必需品が運び出される事は少ない。
更に行き先の港の記録と情報を照合させる。
一見して問題点は見当たらない。
蘇利耶ヴァルハラから運び出された貨物が港に向かう。
名目は貴金属だ。
受け手の港で業者が受け取り、小売店に卸す。
だが、幾ら蘇利耶ヴァルハラに世界の富が集まっているからと言って、船を使って輸出する程貴金属があるとは思えないし、逆に、蘇利耶ヴァルハラ以外で大量の貴金属を消費する所など大東亜くらいなものだ。
ブライダルで使う程度の貴金属ならスーツケースがあれば事足りる。
仮に大量の警備ライダーを配置し、その為に船を使ったのだとしても、今度は航海中の食糧の問題が出て来る。
滅多に売れない貴金属などというものは何かのついでに運べば需要は満たせるのだ。
――問題はこの船に乗り込んだとして、生きて帰れるかどうかだな――
用心棒が欲しいが、カーラとは連絡がつかない。
身体能力で人間を遥かに上回るバイオロイドに襲われたら、平均の人間を下回る身体能力のアルセーヌでは逃げる事もできないだろう。
――そうか、逃げると考えるから悩む羽目になるのか――
〈2〉
「はじめまして、アルザス太裳知事エドワード・マクドネルです」
アルセーヌは偽IDを用意し、最低限の変装をしてバイオロイドが生産されている島に乗り込む事に成功した。
調べて分かった事だが、太古の最強のドラグーン『ラ・ピュセル』は確かにVWCの大幹部の一人エドワード・マクドネルが保有していた。
しかし、コートマンシェ家が保有していた時には無敵とも言える強さだったラ・ピュセルが、現在は作業用重機のような動きを見せている。
ライダーがマクドネルという事もあるのだろうが、根本的な問題を抱えているとしか思えない。
そうとなれば、ラ・ピュセルを運用するという名目で、特化したバイオロイドを製造して欲しいと言えばいいのだ。
仮に請求が来た時はラ・ピュセル専用バイオロイド開発資金としてマクドネルにツケを回せばいい。
「VWCバイオロイド開発主任ハロルド・東條です。侯爵自ら御出で頂けるとは光栄です」
青白いというより緑がかって見える肌の色をした、痩せぎすの男が引き攣るような笑い声を出す。
バイオロイドが生産されている島は600平方キロくらいの広さだろう。
外からは森しか見えなかったが、中央部に八棟程のビルがある。
うち、渡り廊下で連結しているものが二棟ある為、四つの建造物と捉える事もできるだろう。
「いえ、お手を煩わせる事になるのですから、ご挨拶させて頂くのはむしろ当然の事です」
アルセーヌはDr東條に向かって笑みを浮かべる。
「大資本家が、この私にな……」
東條が低い笑い声を上げる。常に笑い続けている気がするが、楽しい事があって笑っているようでは無さそうだ。
「ご迷惑でしたか?」
「いえ、結構。で、ラ・ピュセルは起動したのですか?」
改まってDr東條が言う。
ラ・ピュセルが起動したか、と、訊かれたという事は、これまで動いていなかったという事だろう。
「いえ、お恥ずかしながら。田舎者には過ぎたものと自省しております」
マクドネルが北の果てのアルザス太裳の知事である事は事実だ。
「でしょう? と、なると、可能性としてはジェラール・コートマンシェのクローンを作るというのが確実な線となるでしょう」
Dr東條が呼吸するように笑う。
この人物を気持ちが悪いと思うのはアルセーヌだけでは無いだろう。
「クローンですか……ジェラール・コートマンシェの細胞がこちらに保管されているのですか?」
「実績のある人物のDNAを保存し、M細胞と融合させる。これがバイオロイド研究の基本です」
「M細胞?」
アルセーヌは思わず問い返す。マクドネルの知識量が不明な為、迂闊な事は聞けないが訊いてしまったものは仕方ない。
「現在最強のライダーであるメルキオル・クラウスは人類とは異なる進化を遂げた、似て非なる生物です。無限に近い回復能力、無尽蔵の体力、老いる事の無い肉体、身体能力は人類を遥かに上回り、意志の力で細胞を変異させる事もできる。究極の生命体とも言えるでしょう」
Dr東條がどこか嬉しそうな笑い声を上げる。
「メルキオル・クラウスのクローンを作れば常に高品質のバイオロイドを作れるのでは?」
「メルキオル・クラウスのクローンを作れば、意志が細胞を支配する性質上、メルキオル・クラウスの意のままにしか動かないものが作られる可能性があります。岸総統はメルキオルを牽制する存在を必要とし、メルキオルは意思疎通可能な同種の存在を求めている」
Dr東條が嘲笑する。
信じがたい話だが、メルキオルは人類ではない。
メルキオルは自分と同じ種族を求め、岸は人類を超越した種であるメルキオルを牽制する為の力としてのバイオロイドを求めている。
結果として、人類の中で何らかの業績を残した人物のDNAをメルキオル細胞事M細胞に組み込み、中間となる新たな種を作ろうとした。
それがバイオロイドという訳だ。
「メルキオルは繁殖できないのですか?」
「そもそも人類ではない。メルキオルとチームを組んでいるバルタザールとキャスバルは見た目は人間だが、中身はメルキオルのクローンに近い。もっとも、メルキオルたちの種の際を人類がどこまで判別できるのかという問題もありますがね」
Dr東條が引き攣るような笑い声を上げる。
チームラグナロクは全員人類では無かったという事だ。
「M細胞と人類のDNAを融合させた場合どのような変化が見られるのですか?」
「M細胞は一度分解せねばなりません。人類は37兆の細胞からできていますが、メルキオルは厳密には細胞からはできていない。人類の概念で言うと細胞壁の無い単細胞生物なのです。そしてミトコンドリアの在るべき場所に意志が存在している」
アルセーヌは理解が追いつかない。それが事実なら生物として定義する事さえ困難なのではないだろうか。
「この意志と人類でいう所のDNAを置き換え、更にこの存在を細胞壁に閉じ込めて培養する。更にそれを人間として形作る。そこにバイオロイド研究の奥深さがあるのです」
Dr東條が低く笑う。
この惑星に化け物が三匹存在し、バイオロイドという実験を通して化け物の数を増やそうとしていると言うのだろうか。
もっとも、身体構造が違うからといって差別をして良い理由になどならない。
「私のような浅学な者には難しい話ですね。話は戻りますがラ・ピュセルを動かす方法なのですが、ジェラール・コートマンシェのクローンを作る事で解決する可能性があるのですか?」
「可能性としては存在します。初期型バイオロイドだとネメス・ギルフォードがジェラール・コートマンシェのDNAを保有しています。ラ・ピュセルに乗せれば動く可能性もありますが、性格に難がありますのでね」
Dr東條が嘲笑する。Dr東條に嫌われるという事はかなりの好人物という事になるだろう。
「ではネメス・ギルフォードに会う事はできますか?」
「それより私の新作……いえ、研究の集大成に投資して頂けませんか?」
Dr東條の笑い声が止まる。
バイオロイドの研究開発にはVWCが多額の投資を行っている筈だ。
「それは個人的に、という意味ですか?」
Dr東條が口を三日月型に歪める。
「VWCではC級も作れないと言われていますが、究極の存在を生み出す為には犠牲はやむを得ないのです。もっとも、それはそれなりの用途があるというものでもありますが」
Dr東條が笑い声を上げる。
一瞬リオナの悲しい笑顔が脳裏を過る。
笹川組の金は少なからずDr東條に流れているという事だろう。
「ご覧にいれましょう、最高傑作タイプA、アリアを」
Dr東條が応接室のソファーを立つ。
薄暗い階段を降り、間接照明しか無いと言っても過言では無い廊下を進む。
無数の扉があり、半開きになった部屋の中にガラスの容器に収まった子供の姿が見える。
そもそも薄暗く不健康な印象の研究施設だが、その中にあっても見すぼらしい掃除用具入れのような扉をDr東條が開く。
思いの他広い室内には、これまでのように幾つもガラスの容器がある訳では無く、一つの容器があるだけだ。
へその緒のような管に繋がれた少女は一見して十五歳か十六歳といった所だろう。
外見はオレンジがかった金髪とピンク色の肌と、一般人に埋没してしまいそうなもので、観賞用や愛玩用といった印象は受けない。
「このアリアの特徴が分かりますか?」
Dr東條は言うが、無防備な全裸の少女を直視する事には抵抗がある。
「将来が楽しみな麗人の卵といった所でしょうか?」
アルセーヌはお手上げとばかりに肩を竦める。
「生殖器が無いでしょう? 不要な臓器も全て排除してある。仮に心臓を一突きして殺そうとしても、アリアには通じない」
満足そうにDr東條が笑う。
リオナのように売られる事は無いだろうが、それによりホルモンバランスが崩れて精神的に不安定になるという事は無いのだろうか。
「最高のボディーガード、と、考えられるという事ですか?」
「ランナーを操縦させても従来のバイオロイドを遥かに上回ります。全ての感覚器が人間の三百倍~五百倍とされるバイオロイドの四倍、千二百倍なのですから」
Dr東條は笑うがそれは裏を返せば、蚊に刺された時の痒みも数千倍という事になる。
「痛覚も高くなっているのですか?」
アルセーヌは憐れなバイオロイドに目を向ける。
「消してあります。アリアは痛みを感じません。涙も流しません。アリアこそメルキオルに対抗する最強の切り札となり得るのです。ラ・ピュセルを駆ればメルキオルの乗ったオーディンを撃破する事も可能でしょう」
「この、アリアは既に完成しているのですか?」
「理論上は。これから痛みや恐怖にどのように反応するのか実験しなければなりません。このタイプAは初号機なので全くデータが存在しないのです」
Dr東條が緩んだ笑顔でガラス容器を撫でる。
人間からかけ離れた、人間性を排除したような子供を作っておいて、更に痛みや恐怖で実験すると言うのか?
この男は人間を何だと思っているのか?
――許せない……しかし……――
麻薬の末期患者のように見えるDr東條だが、素手で戦ったら五分五分といった所だろう。
転んで機械の角に頭をぶつけたら廃人になってしまうかも知れない。
――それでもこの男の凶行を止めなければならない――
アルセーヌは頭を巡らせる。
アルセーヌはこれまで盗みはして来たが、人を物理的に傷つける事はしていない。
「融資が必要との事でしたが、この娘を譲って頂くには幾ら必要ですか?」
「二億、ドル払いで」
Dr東條がにたりと笑う。
絞め殺したいが、自分が絞めても腕が疲れるだけだろう。
マクドネルが支払うと考えれば一つ返事で構わないが、先払いと言われたら後が無い。
ここで家出したトライスターの御曹司と露見すればどのように扱われるか知れたものではない。
「即答致しかねます。ラ・ピュセルを売れば可能でしょうが、それは岸総裁がお許しにならないでしょう」
『素直に無いと言え』
ガラスが砕け、突き出された腕がDr東條の首を締め上げる。
Dr東條の頸椎が砕け、首があり得ない角度に曲がる。
「恐れるな。私はお前が嫌いではない」
アリアが不敵な笑みを向けて来る。
「Dr東條は死んだのか?」
アルセーヌは自然死以外で、生れて初めて人間が殺される姿を目撃している。
アリアが恐ろしいのではなく、人の死の恐ろしさに膝が竦む。
「私はこの程度では死にませんよ」
青黒く変色したDr東條が笑い声を上げる。
膨張した筋肉でDr東條がアリアに向き直る。
「悪い子だ。お仕置きが必要だな」
「私はお前が嫌いだ。私をこのように作ったお前が!」
アリアがDr東條を砕けたガラス容器に叩きつける。
見た事は無いが、カエルを踏みつぶしたかのようにDr東條が血液を飛び散らして肉塊に変わる。
人の死は痛ましいがDr東條の死は相応の報いという気がしないでもない。
目の前の血液と肉が呼び合うように繋がり、何かを形作ろうとする。
「アルセーヌ、逃げるぞ! あれはM細胞を取り込んだ。私は力で勝ててもM細胞の再生力には勝てない」
少女に手を引かれたアルセーヌは足を止める。
「レディは簡単に他人に肌を見せるものじゃない」
アルセーヌはアリアの肩にスーツをかける。
サイズとしては大きすぎるが、ほぼ全身が隠れるからいいだろう。
「お前は優しいのか緊張感が無いのか分からないな」
アリアがスーツに袖を通して素早く手を振る。
肉塊が人間に近い形状を取り、鞭のような何かが襲ってきたのだ。
アリアが床に設置された演台ほどの大きさの端末を引き抜いてDr東條であったものに投げつける。
一瞬で粉砕されるが、Dr東條はこれでは死なないのだろう。
人命重視という観点からすれば多少は良心の呵責に耐えられるが、一方でこのような不死身の化け物が増えてはいけないという危惧を感じる。
アリアに手を引かれてDr東條のビルから抜け出す。
周囲に物珍しそうな表情を浮かべる少年少女が集まって来るが、危険な印象は受けない。
「アルセーヌ! 構うな! 走れ!」
アルセーヌは半ば引きずられるようにして走る。
目の前にVWCのA級ライダー特装を身に纏った金髪碧眼の少年が現れる。
「俺はVWC特殊警備部隊BAT隊長ネメス・ギルフォード。お前は何者で何故ここに居る?」
「邪魔だ!」
アリアが叫んでネメスに向かって突進する。
アリアの剛拳をネメスが短い棒で受け止める。
「俺に戦意は無い。ただ、この島に有害な人間を入れる訳には行かん」
「Dr東條がいる」
ネメスとアリアの視線が交錯する。
経験のある技巧派のネメスと、圧倒的なパワーのアリアといった所だろう。
「俺はアルザス太裳知事エドワード・マクドネルだ」
「下手な嘘を。マクドネルならユグラドシルのVWCオーナーズクラブのバイオロイドオークションで見ている。貴様が名乗らんなら俺がお前の名を言ってやろう」
ネメスは子供に見えるがかなり頭が切れるようだ。
「他言無用でいいなら」
アルセーヌが言うとネメスが腰のベルトに棒を通す。
「お前はしばらく無事だろう。だが、アルセーヌはDr東條に狙われている」
アリアがネメスに目を向ける。
「護衛を付けます。ヴィッシュに研究棟の監視を依頼! 警備ライダーは港への通路を確保しろ!」
緊急事態であると理解したのかネメスが声を上げる。
バイオロイドの少年少女が正確無比な機械のように動き出す。
「今から名乗ってもいいかな。俺はアルセーヌ・リッシモン」
「トライスター財団のアルセーヌ様がオークションに来られた時の事は覚えています」
ネメスが伴走しながら言う。
「俺、は、端で見ていただけ、だよ」
人が人に売られる姿は正視できるものでは無かったというのが本音だ。
それ以上にほぼ引きずられているとはいえ、バイオロイドの高速で走らされて息が続かない。
「資本家や企業家の欲望が渦巻く中、あなただけが我々の将来を案じていた」
ネメスが真剣な表情で言う。
「だけ、という事も、ない、だろう、けど……」
アルセーヌが息を切らすと焦れたらしいアリアが小柄な体躯に似合わず担ぎ上げる。
「ネメス、手が塞がった」
「私とて無為に四年間を生きて来た訳ではない」
アリアに応じてネメスが棒を再び手にする。
少年少女に囲まれるようにして港の船に乗り込む。
Dr東條は再生し終わっていないのか追って来ない。
「アルセーヌ様、私は兄弟姉妹を守る為、この先お守りする事が叶いません。その娘を……私はこれまで見た事がありませんがお傍に。私の剣と互する剛拳、必ずやお役に立ちましょう」
「初対面の私を信じるのか?」
アリアの言葉にネメスが真摯な視線を返す。
「同じ試験管から生まれた兄妹だ。例えお前に殺されたのだとしても、信じない理由は無い」
人間、もとい元人間のDr東條より、バイオロイドのネメスの方が余程人間ができているらしい。
「ネメス、死ぬな」
アリアが船に飛び乗り、イグニッションを押し込む。
「死んでは守るものも守れん。お前もな」
言ったネメスの姿が小さくなって行く。
「大丈夫だネメスは死なない」
アリアが顔を見上げて来る。
――Aは情報を有効活用してくれるだろうか――
アルセーヌは全てを記録しているボタンに偽装したセンサーの重みを感じた。
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