第30話 恋中天音は意識する

 瞼の裏に光を感じた。

 ぼんやりとした意識が覚醒するに連れて、昨夜のことが頭に思い浮かぶ。

 

「……なんで?」


 椅子ベッドに寝転がったまま自問する。


 本当に不思議で仕方がない。

 一人には慣れているはずなのに、彼と半日会えなかっただけで、触れたいという気持ちが抑えられなくなった。


「……ど、どうしよう」


 やってしまった。

 昨夜の出来事を思い出す程に、その気持ちが強くなる。止まらない。


「……私、避けられてたよね?」


 我ながら距離が近かった。

 彼がそれとなく伝えた後もやめなかった。


「……どうしよう。どうしよう」


 両手で顔を挟む。

 冷たいと感じたのは、手のひらが冷たいからか、それとも顔が熱いからか。


 分からない。ただ、震えが止まらない。

 私は背筋が凍るような恐怖を感じながら、その言葉をぽつりと吐き出した。


「嫌われちゃったかも」



 *  *  *



「……来ちゃった」


 お昼を過ぎた頃。

 私は彼が働くカフェの前に立っていた。


 分かってる。おかしなことをしている。

 だけど直ぐにでも謝りたいと思って、部屋で待つことができなかった。


「……帰るべき、だよね」


 言葉とは裏腹に目は彼の姿を探している。足は地面に固定されたかのように動かない。


 おかしい。おかしい。

 現状は正しく認識できている。


 近過ぎて嫌われた。だから今やるべきことは距離を置くことなのに、全く逆のことをしている。


 なんで? なんで?

 冷静じゃない。合理的じゃない。こんな風になったことが無い。混乱している。


「あれ? 天音っち?」


 声がした。私は熱湯に触れた時みたいに肩を揺らして振り返る。


「……鈴原、さん?」


 最近、少し会話するようになったクラスメイトが、そこに立っていた。



 *  *  *



 彼女と入店したところまでは覚えている。

 今の自分がテーブル席に座っていることも理解できる。


 だけど、その理由がさっぱり分からない。

 思考は完全にフリーズして、目の前がチカチカと光って見えるような感覚があった。


「  」


 何か言われた。

 とりあえず頷いたけど、大丈夫かな?


「  」


 彼女はまた何か言って笑った。

 ……笑った? 私、何か変だったかな?


「  」


 すごい話しかけてくる。

 でも、全然分からない。怖い。


「恋中さん?」


 その声を聞いた瞬間、急に汗が滲む。


 私は息を止めて顔をあげた。

 いつもとは雰囲気の違う彼が、不思議そうな目をしていた。


「あれ、鈴原さんと二人?」


 返事、しなきゃ。

 気持ちばかりが前に向かって声が出ない。


「智成も後で来るよ」


 私が言葉を探している間に鈴原さんが返事をした。さっきまで何を言っているのか分からなかったのに、どうしてか今はハッキリと分かった。


「なるほど? 恋中さんのことは、鈴原さんが誘ったのかな?」


「や、偶然そこで会った感じ」


「そっか。えっと、ご注文はお決まりですか?」


「あはは、ウケる。仕事してんじゃん」


 会話のテンポが速い。

 私も何か喋りたいのに、言葉が出る前に話題が切り替わっちゃう。


「決まったら呼ぶね」


「オススメはこちらの季節限定メニューです」


「へぇ、美味しそうなパフェ……いや高ッ、三千円!?」


 三杉くん、私と話している時と違う。

 そうだよね。私のペースに、合わせてくれてたんだよね。

 

 きっと、これが普通なんだ。

 彼が普通に喋る時は、こういうペースなんだ。


 いつもより楽しそう。やっぱり、私なんかよりも、鈴原さんみたいな明るい人と話している方が、良いのかな。


 どうしてだろう。

 すごく、胸が痛い。


「それでは、注文が決まりましたらお呼びください」


「はーい」


 ……行っちゃった。まだ一言も話せてないのに。


「天音っち、ガチガチじゃん」


 彼が去って少し経った後、鈴原さんが言った。

 明るい笑顔。とても羨ましい。私は、こんな風には笑えない。


「ねー、何か話してよ」


「……あなたも彼を見に来たの?」


 ……あれ?


「やー、ノーではないけど、イエスでもないみたいな感じかな」


「どちらなの?」


 ……こんな風に、喋るつもり無いのに。


「ん-、今日はその、智成に誘われて……」


「ともなり?」


「うん。なんか急に。三杉くんがバイトしてるらしいから見に行こうって」


「ふーん」


 どうして態度が尖ってしまうのだろう。

 分からない。今朝からずっと混乱している。


「ねぇ、聞いても良いかな?」


「何かしら」


 彼女は途端に態度を変えた。

 あちこちに目を逸らし、落ち着かない様子だ。


 何を言うつもりなのだろう?

 私が目を細めた瞬間、彼女は口を開いた。


「天音っちから見て、莉子と智成、どんな感じ?」


「どんな、というのは?」


「それはその……仲が良さそうとか、悪そうとか」


「不思議な質問ね。どう見ても仲良しでしょう?」


「そ、そうかな?」


「今日の時間が証明じゃない。嫌いな相手を誘ったり、その誘いを受けたりしないのだから」


「……そっか。うん。そうだよね」


 自分よりも混乱している人を見ると冷静になれる。

 ううん、違う。よくよく思えば、彼女は今日初めて会った時からこの調子だった。それに気が付けない程、私が混乱していただけだ。


 ……声を出したから?


 どうしてか気持ちが落ち着いた理由を考察していると、彼女が言った。


「ねぇ天音っち。付き合うって、どんな感じ?」


「……付き合う?」


「天音っちと三杉くん、すごく、良い感じだから」


 私もそこまで無知ではない。

 この文脈における「付き合う」は恋愛カテゴリの言葉だ。それは分かる。


「……はぇ?」


 ひとつ、分からない。

 私と三杉くんが良い感じというのは、どういうことなのだろう?


「あれ? 二人、付き合ってるんだよね?」


「……付き合ってないですけど」


「え? でも一緒に寝たって……」


「……寝ましたけど」


「え?」


「……お友達、ですけど」


「いやいや……いやいやいやいや……」


 彼女はメモリ使用量の多いプログラムを起動した直後みたいに硬直して、


「一個だけ聞かせて」


「……何かしら?」


「天音っちは、三杉くんのこと、好き?」


「ええ、もちろん」


「それは、その……恋愛的な、好き?」


「……れん、あい?」


 人は聞き慣れない言葉を耳にした時、その意味がスッと頭に入らない。だから私は彼女が言ったことを直ぐには理解できなかった。


「……ごめん。莉子なんか勘違いしてるかも」


「そのようですね」


 彼女は何か考え込むような仕草を見せた後、周囲の様子を見ながら私に顔を寄せ、とても小さな声で言った。


「一緒に寝たって、その、エッチしたってことだよね?」


「ち、ちが、違いますっ」


 ビックリした。

 突然、なんてことを言うのだろう。


「ええっと……どゆこと?」


「私の台詞です」


 今朝起きた時以上に、パニックだった。

 それほど複雑なタスクと向き合っているわけではないはずなのに、脳の処理が全く追い付かない。


 私と三杉くんが恋人?

 そんなの…………そういう風に、見えるってこと?


「か、帰ります!」


「えっ、ちょっ、天音っち?」


 私は彼女の静止を無視して、足早に店から去った。


 おかしい。どうしたんだろう。

 少し前から……彼と出会ってからの私は、変だ。

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