第29話 恋中さんと夜更かし 後編


 恋中さんの部屋に入るのは、今日が初めてというわけではない。むしろ今週は毎日お邪魔していた。


 だけど今日は、初めて入った時よりもドキドキしている。


「風呂、入り直したんだね」


「……なんで分かったんですか?」


「髪、濡れてるから」


「……ちゃんと乾かしました」


「……そっか」


「……そうです」


 一人で住むには十分に広い部屋。

 恋中さんの場合、物が隅っこの机付近に集中しているから特に広く感じる。


 その机の端っこ。

 俺達は並んで椅子に座っていた。


 距離が近い。

 触れ合っている肩が熱い。

 そして、頭がクラクラするような甘い香りがする。


 ほんの数秒の静寂でさえ落ち着かない。

 だから俺は、会話を途切れさせないために必死だった。


「恋中さん、ベッドとか使わないの?」


「あれです」


「どれ?」


 彼女の目線を追いかける。

 そこには椅子しか見えない。


「約170度のリクライニングができます」


「……あの椅子で寝てるってこと?」


「はい。慣れたら快適ですよ?」


「……マジで仕事人って感じだね」


「どんな感じですか、それ」


 恋中さんは照れたような笑みを見せた。

 バイトから帰って直ぐに見た時と比べたら随分と落ち着いたように見える。


 ただし距離感は全く落ち着かない。

 むしろ徐々に近付いている気さえする。


 ……一回、言うべきか?


 彼女の距離感がバグっている原因のひとつは、俺がなんでもかんでも受け入れてしまっていることだと思う。


「恋中さん」


「はい、なんですか?」


 くっ、笑顔が眩しい。

 言うのか? こんなにも俺を信頼している相手に、そろそろ我慢できそうにないから離れてくれなんて、そんなこと言えるのか?


 いやダメだ引くな。

 そうやって引き伸ばした結果が今だ。


「……距離、近くない?」


 声ちっさ。


「……ダメですか?」


 やめてくれ。捨てられた猫みたいな目で俺を見ないでくれ。意思が揺らぐ。


「……嫌なら、やめます」


「嫌じゃない」


 しまった、反射的にっ!

 ああもう、勢いでどうにかするしかない!


「ただ、この距離感だと、流石に俺も……触りたくなる」


 何言ってんだ俺。何言ってんだマジで。


「……べつに、良いですけど」


 違う。違うんだ恋中さん。

 俺が言う触りたいは、とにかく違うんだ。


「肩とか、そういう話じゃ、ないんだけど」


 ついに、言ってしまった。

 俺は何も悪いことをしていないはずなのに、とてつもない罪悪感がある。


 嫌われるだろうか?

 とても悲しいが、これで適切な距離を取ってくれるならば、非常に助かる。


「……良いですよ」


 しかし、彼女の返事は俺を拒絶するものではなかった。


「……少しなら、良いですよ?」


 待て、待て待て。

 前と言ってることが違う。見るのは良いけど触るのはダメって、そう言ってたじゃん。


「…………」


 やめろ黙るな。そういう雰囲気を作るな。

 ダメだろ。高校生で、互いに一人暮らしで、部屋が隣。そもそも知り合ってから一ヵ月も経ってない。


 だが……ここで引く方が不健全という説もあるのではないだろうか。いや、ねぇよ!


「タイピングッ!」


 俺は全身に力を込め、立ち上がった。


「タイピング、しよう。もう少しで目標を達成できるような気がしてるんだ」


 ごまかすの下手か。

 いや、ここは自分を褒めるところだ。よくぞ耐えた。ほんと、マジで。何かの賞が貰えるレベルだろ。


「俺、恋中さんがバイト探し手伝ってくれた時に感動したんだよ」


 焦っているせいか口が動く。止まらない。


「いわゆる日常生活というか、普通のシチュエーションだった。だけどプログラミングの知識があるだけで、全然違った」


 嘘は言っていない。全て本心だ。


「覚えたいんだ。俺も恋中さんくらい使い熟せれば、もっと、何かこう、色々な場面で活かせるような気がするから」


 彼女の前でこんなに早口で喋ったのは初めてかもしれない。そのせいか、驚いたような表情をされている。


 やがて彼女はクスッと笑って、


「私クラスになるのは、大変ですよ?」


 どこか安堵したような表情で返事をした。


 それから瞼が重くなるまでタイピングを続けた。流石に夜だから恋中さんは「頑張れ」と騒いだりしなかったけど、ずっと隣に居た。


 深夜二時頃。

 明日もバイトということで、俺は終わりを提案した。


 彼女は名残惜しそうな顔をしながらも、俺の提案を受け入れてくれた。


 おやすみの挨拶をして自分の部屋に戻る。

 それから冷たい布団に頭から突っ込んで、俺は枕を全力で抱き締めた。


 よく耐えた。

 本当に、よく耐えた。


 数秒後、スマホでアラームをセットして、仰向けになって目を閉じる。


 心臓の音がうるさい。

 眠気が来たのは、かなり後のことだった。

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