第18話 恋中さんと理性の向こう側
サイコロが転がる。
恋中さんは「四が出たので、処理が繰り返されてもう一回です」などと言って物理的なプログラム実行を続ける。
俺は自分に言い聞かせていた。
開き直るんだ。
彼女は仲の良い友達なら、手に触れる程度は普通だと考えているに違いない。
実際、その通りだ。
運動会の時とか、女子と「うぇーい」って感じでハイタッチすることは珍しくない。
ちょっと手に触れるだけ。
だから、ドキドキする必要なんてない。
「あっ、やっと六が出ました!」
恋中さんの声を聞いて、俺は息を止めた。
彼女は紙に書かれた文字に指先を向けて、無邪気な雰囲気で説明する。
「これで条件が満たされたので、手に触れる処理が実行されます」
彼女は俺に身体を向け、背筋を伸ばす。
それから少し照れたような笑みを浮かべ、遠慮がちに左手を挙げた。
「どうぞ」
「……ん」
俺は「これは普通」と自分に言い聞かせながら右手を伸ばす。そして指先を重ねるようにして、そっと触れた。
ぷにっとした柔らかい感覚があった。
その直後、恋中さんがグッと手のひらを突き出した。
どくんと心臓が跳ねる。
思考がショートした。手のひらに伝わる感触以外の情報が、この世界から消え去ったかのようだった。
「……君の手は、あったかいね」
「……恋中さんは、ひんやりしてるね」
胸が痛い程にドキドキしている。
相手の顔をまともに見られない。
「あの、ひとつ、いいですか?」
「……えっと、なに?」
「これからも、たまに、触らせてください」
時間が止まったような気がした。
俺は息を吸うことも忘れて、彼女を見た。
「……………………なんで?」
たっぷり時間をかけた後、口から出たのは三文字の言葉だけだった。
恋中さんは唇を震わせる。
そして、とても焦った様子で言った。
「ごめんなさい急に迷惑ですよね。でもそのなんというか、私にとってあまりに都合の良いことばっかりだから、君は私が生み出した幻覚なんじゃないかなって思う時があって、だけど初めて君に触れて、あったかくて、ああ生身の人間なんだな、実在してるんだなってすっごく安心して、だからとにかくその……迷惑だったら断ってください!」
最後、彼女はヤケクソ気味に言った。
「俺は気にしない」
「噓ですっ」
はい、噓です。メッチャ気にする。こんなの定期的にやられたら心臓が壊れちゃう。
「普通は、重いとか、うざいとか、そういう感想を抱くはずです」
俺は内心で思春期しながらも、ネガティブな発言をする彼女について考えた。
なぜ、彼女は自分を下に見るのだろう。
そんなにも友達に恵まれなかったのか?
分からない。
だから俺は、分かることだけ伝えてみる。
「俺は平気だよ」
自分自身のことは分かる。
「俺の親、もっとスキンシップ激しいから」
噓は言ってない。
「友達同士なら、これくらい普通だよ」
こっちは大嘘である。
だけど真実にする。そのために俺は、自分自身に言い聞かせるつもりで言った。
恋中さんは友達に飢えている。
あえて理由を聞く勇気は無いけれど、異常なレベルで人を求めている。それは分かる。
彼女が言う通り、人によっては重いとか思うかもしれない。だが俺は気にしない。それをハッキリと伝えた。
彼女は、しかし緊張した様子で俺を見続けて、やがてぼそっと呟いた。
「……目を閉じてください」
「なんで?」
「……いいから、閉じてください」
「分かった」
とても小さな声に従うと、息を整えるような音が聞こえた。
彼女が近寄る気配がした。
シャンプーの香りが鼻先を撫でる。
そして俺は、柔らかい感覚に包まれた。
「……これでも、平気ですか?」
「……うん、全然平気」
そんなわけないじゃん!
何これやわっ、あまっ、理性飛ぶっ、いやあああああああああああああ──ッ!?
「友達同士なら、これくらいやる」
やらねぇよバカ! 大和のバカ!
付き合いたてのカップルかよ!?
流石に、ここは引くべきだ。
だから言え。冗談だと言って話を流せ。
「俺で良ければ、いつでも抱き枕にしてくれて構わない」
……流せるわけ、ないだろ。
ダメだこれ、どうすればいい?
俺の手、宙を泳いでるけど、恋中さんの背中とかに添えるべき? それともノータッチを貫くべき?
ああもう、なんだよこれ。
頭くらくらする。母さんのスキンシップと全然違う。柔らかくて、なんか匂いが甘い。
もう無理。限界。
良く耐えた。頑張った。
少しくらい手を出しても、誰も俺を攻めたりしないはずだ。
「……恋中さん?」
理性のHPが一桁になった瞬間、鼻をすするような音がした。
彼女は俺の背を握る手にギュッと力を込めて、迷子の子供みたいな雰囲気で言った。
「……その言葉、取り消せないですからね」
それは、飛びかけた理性を一瞬で取り戻せる程に、ひどく悲しい声だった。
「……当たり前だろ」
俺は脱力した。
ほんと、マジで、卑怯だ。
なんだよ。なんでそんな悲しそうな声を出すんだよ。俺、何もできねぇじゃん。
「…………」
静寂が生まれた。
どちらのものか分からない心臓の音と、鼻をすする音だけが定期的に空気を揺らす。
俺は彼女の体温を全身で感じながら、ぼんやりと考えた。
彼女は、どうしてこんなにも友達を求めているのだろう。
いや、なんか違うような気がする。
友達の定義が違う。あるいは目的が違う。
彼女はいつも傍に居ようとする。
寝る前に声を聞きたがったり、一緒に食事をしたがったり……まるで、一人になることを避けてるみたいだ。
──私ずっと独りだったから友達との距離感が分からなくて、つい話し過ぎてしまうの。
最初の頃、本人が言っていた。
そういえば、どうして彼女は一人暮らしをしているのだろう。
ずっと独りだった。
その言葉が、とても意味深に聞こえる。
……聞いてみるか?
良くも悪くも今は恋中さんと距離が近い。少しくらいは踏み込んだ話をしても良いのかもしれない。
「恋中さん」
名前を呼ぶ。返事は無い。
「……恋中さん?」
目を開ける。
様子を確かめようと思ったが、顎を肩に乗せられている姿勢だから、顔が見えない。
──寝息が聞こえた。
「待ってくれ」
──寝息が、聞こえた。
「恋中さん、それはダメだ。ダメなんだ」
──恋中さん特有の、寝息が聞こえた。
「頼む。起きてくれ。それは無理だ」
俺は彼女の肩を揺らそうとして、直前で思い留まった。
ここで少しでも彼女に触れたら、今度こそ耐えられない。そういう予感がした。
「俺は抱き枕。俺は抱き枕。俺は抱き枕」
例えるならこれは、サッカーの試合だ。
俺はディフェンダーで、相手選手を背負っている。全身に力を込め、筋肉を鋼のように硬くして、ボールをキープしている。
一瞬でも気を緩めれば、ボールを失う。
この場におけるボールとは何か。失うのはどちらなのか。
俺は哲学的な問いを胸に、彼女が目を覚ますまでのおよそ二十分間、強烈な
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