5 ロシュの限界


 私は耳元に手を当て、惑星を手のひらに握り込み、そのまま早足に歩きだした。私があまりに速いので、周囲の風景が飴のように融けて流れ始めた。ついに時さえ澱みだす。ウラシマ効果。相対性理論の魔術。

 猛然と突進しながら、私は再び呼びかけた。

【スズカ】

 声が、すぐに返ってくる。

【萌?】

【やっぱり聞こえるね】

【ほんとに萌なの?】

【確かめてみる?】

【なら来てよ、萌】

【もう走ってる】

 いつの間にか早足は駆け足に変わり、駆け足は全力疾走に変わっていた。息を切らせて私は行く。通い慣れた道を、通い慣れた部屋目指して。スズカに近づいているのを肌で感じながら、私は脳内に数え切れないほどの言葉を紡いでいた。

【スズカ!】

【なに】

【あの時】

【うん……】

【なんでホントのこと言ってくれなかった】

【怒ると思って】【妬くと思って】【でも】

【分かってる】【なんでもないんだろ】

【そうだよ】

【ゴメン】

【私は……】

【萌】【だけが】【スズカ】

 私は、スズカの家のドアを叩き開けた。

 薄暗い部屋の中に、涙浮かべたスズカが居る。

【言えよバカ】

 私は一歩あゆみ寄り、コートを脱いだ。

【スネんなアホ】

 スズカが立ち上がり、セーターを脱ぎ捨てた。

【もっと】

【もっと】

【近くに来てよ!】

 私たちは、一歩ずつ、一枚ずつ、あゆみ寄り、寄っては脱ぎ、邪魔物を全て押し退け、服という服をみんな蹴散らし、腕を晒し、足を晒し、ついには魂まで裸になって、激突するように抱き合った。

 その瞬間。


【好き】【舐めて】【そこもっと】【朝ちゃんと起きろ】【酒飲み過ぎ】【酔ったらかわいい】【彼氏盗ったの赦してないからな】【大好き】【触って】【ダメって言われるとやりたくなる】【アホ】【ころす】【ね、キス】【マジメすぎんだよ】【見合い相手どんなの?】


  言葉が爆発した!!


【いく】【ふつーのいい人】【なんで私を】【入れて】【いつから】【腹減った】【隠し事無しね】【好き】【エロいなー】【アナルとかどう思う?】【きもい】【擽られるの好き】【寂しかった】【ずっと一緒に】【変かな私ら】【変でしょ】【書くとき変顔してるの好き】【デリカシーないよな】【ばーか】


 気が付けば、私たちはひとつのもののように絡まり合い、奇妙な安定した位置関係を保って、ベッドに寄り添い合っていた。

 十年以上も溜め込んできたものを吐き出し切って、私とスズカの胸はすっかり空っぽになり――替わりにそこを安心が満たした。言いたかったこと。言えなかったこと。言うまでもないと思い込んでいたこと。私たちを隔てていた空虚の断絶は今や満たされ、本当の皮膚で私たちは触れ合っている。

 スズカの髪を撫でると、彼女が甘えて頭を押し付けてきた。今は素直に受け止められる。かわいくって、愛おしくって、私はスズカにキスをした。唇を愛撫するような優しいキスを。

「萌」

 改めて聞いた音の声は、震え上がるほどに艶めかしい。

「もう一度、欲しいな……」

【何度だってしてあげる】

 私は応え、その通りにした。

 私は、手に入れた。望むものを。望んだものの、その先までを。

 ついに、触れ得たんだ。

 そう確信した――その時だった。

「萌っ」

 スズカの声色が変わった。

 彼女は愕然として青ざめ、私の腕を凝視していた。そういえば、さっきから右手に感覚がない。体の下敷きになって痺れてしまったんだろうか。

 と、呑気に思いながら、私は右腕を見た。

 私の腕は、黒く硬化し、先端から徐々に崩れ始めていた。

 私は恐怖に叫び声を上げた。何が起きた? なんだこれ? 何かの病気? 怪我? わけもわからず怯え、ベッドから転がり落ち、喚き散らしてのたうち回る。

 だが、真の恐怖はその後にあったのだ。

 スズカがそばに来て、私を落ち着かせようと声を掛け、崩れかけた腕に触れてくれた。

 その途端、私の腕の黒変が、スズカの腕に渡り移った。

 スズカが泣き叫ぶ。彼女の左腕は、みるみるうちに肘まで漆黒に染まり、やがて指先が木炭か何かのようにボロボロと剥がれ落ちた。私の腕と全く同じように。

「怖い! 怖い! 何これ! なんなの……なんなの、萌!」

 分からない。

 分からない――?

 いや、

 私は膝立ちのまま、呆然とスズカを見つめ、右耳のピアスに触れた。記憶が蘇りつつあった。つまらない戯言、よくある脅し文句と、軽んじて忘れ去っていたあの言葉。

 星の引力が本物だった時点で、真剣に考えておくべきだったのだ。

 かつて魔法の店の店主が口にした警告のことを。

 君は彼女に触れるだろう。

 だが、

 ――


 喪った右腕をコートの下に隠し、私は追い立てられるようにあの店を目指した。折しも降り出した冬の雨は、鋼鉄の矢にすら似て、私をこの街ごと、いや惑星ごとずたずたに引き裂くかに思われた。

 魔法の店に辿り着き、ドアを蹴り開け飛び込むと、中は灯りひとつない薄暗闇に閉ざされている。私は怖気づいた。ただでさえ動揺していたから。それでも勇気を奮い起こし――というより狼狽からくる蛮勇に突き動かされて――泣き叫んだ。

「出てこい! どこだ!」

「ここだよ。常にそうであるように」

 涼やかな声は背後から聞こえてきた。私が弾かれたように振り返り、後ずさって籐の椅子に激突するのを、店主は冷ややかに眺めていた。まるで、愚かな小動物がわけもわからず自ら死地に飛び込んでしまうのを眺めるようにだ。

のだね。だから言ったのに……」

「元に戻して」

「うーん」

「返品する! 金も要らない! だから何もかも元に戻してよ!」

「残念ながら、一度砕けた自己を取り戻す方法はないよ。

 受け入れて生きるしかない。腕はそのうち生えてくることもあるし――」

「あるわけねーだろ!!」

「あるさ。君が知らないだけだ」

「そんなことはどうでもいいっ!!」

 ついに私は、店主に掴みかかった。私に辛うじて残された左手一本で。この身体に宿るなけなしの力を振り絞って。

「この腕は自分のせいだ。治らなくても構わない。

 でも、私は――」

 いつの間にか、私は泣いていた。

 後悔と罪悪感が、胸の内側から針で刺すように私を苛む。私のことはいい。魔法に手を出したとき、どこか覚悟していたのだ、それなりの代償を支払うことは。それが金銭でも、社会からの信用でも、あるいは命や魂とかいうものであってもいい。私はスズカに近づきたかった。

 でも、

「私がスズカを傷つけたんだよ!!」

 こんなことのために触れたわけではなかったのに!!

 店主はゆっくりと目を伏せ、しばらくそのまま立ち尽くしていた。彼の表情には微かな憐憫が見て取れ、その事実が少なからず私を落ち着かせた。少なくとも、彼は敵ではない。もちろん、味方でもありえないが。

「哀しいね」

 と彼は優しく囁き、目を開いた。

「望んだものを望んだように得られないというだけじゃない。

 望んだものを望んだようにことさえままならない。

 人というものは哀しい存在だ。

 でも、だからこそ僕は人に惹かれる。君だって真理に肉薄したはずだ――望んだ真理ではなかったにせよ」

 私はうなずいた。

 意味不明のたわごとが、なぜかすんなりと心に染みた。多分、私が既に知っていることだからだ。ずっとこの胸の中にあり、じわじわと外へ滲み出し、今まさに私の手が掴もうとしていることだからだ。

「君はひとときロシュの限界を超えた。もはやそれは過去の出来事であり、覆すことはできない。

 だから、選ぶことだ。

 過去ではなく、未来を。今君がいるこの場所から、果たして何処に至ろうと願うのかを――」

 歌うように言いながら、店主は店の奥の暗闇に消えていった。すっかり彼が見えなくなってしまって、ようやく私は我に返り、店主の後を追った。

 そして、呆然と立ち尽くした。

 店の奥には小ぢんまりとした給湯室があるばかりで、人の姿はおろか、動くものさえ何一つ見つけられなかったのだ。

 ただ暗闇を除いては。



(つづく)

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