一生ジャズでも聴いててくれ

滝村透

一生ジャズでも聴いててくれ

 わたしの母はジャズ喫茶を経営していて、だからわたしは幼い頃からジャズを浴びるように聴いて育った。ほとんど血肉になっていると言ってもいい。店はそれなりに繁盛していたし、わたしも両親もこの生活を楽しんでいた。友人のなつみに家がジャズ喫茶だと初めて明かしたとき、彼女は驚きながら有名な歌手の名前を挙げ、彼らの実家もジャズ喫茶であることを話した。たぶん同じような店だと思うが、わたしと彼らとでは芸術的才能の面で歴然とした差があった。というか、わたしだけではなくこの世の大多数の人間においてそうだ。一応幼い頃にピアノはやっていたけど、先生が苦手すぎたのと飽き性だったので辞めてしまった。両親はもしかしたらわたしをミュージシャンにしたかったのかもしれないが、わたしはどれだけピアノの前に座っても全く曲が思い浮かばず、気まぐれに指を鍵盤の上で踊らせてもありきたりな旋律を奏でるだけだった。結局何か秀でたものを持つこともないまま高校に入り、唯一の友人であるなつみと駄弁だべったりカラオケで歌ったりして無為むいな——それでいて平凡で平和で安寧な——日々を溶かすように生きていた。

 そんな折、父の地方への転勤が決まった。父は都内の会社に勤めるサラリーマンで、これまで転勤は未経験だったのだが、このたび新たに地方に支社が発足し、そこに行くことになったという。わたしがもう高校生になっているから転校はさせたくないと父も思っていたようだが、数年前から流行する感染症の影響で店の経営が苦しくなってきており、これ以上続けることは難しいと母が判断し、店を閉め家族三人で引っ越すことになった。

 なつみがいること以外はこの街に未練なんてなかった。ほとんど反抗期というものを経験しないまま育ったわたしは両親に異議を申し立てることもなく、ただその決定を見ていた。なつみに引っ越しのことを話すと彼女は泣いて、大袈裟に思えるほどわたしに別れを惜しむ言葉をくれた。何度も二人でくだらない会話を垂れ流したマックでわたしは、別に永遠の別れってわけじゃないんだしと思いつつも彼女を見てつい涙をこぼした。食べ慣れたダブルチーズバーガーは思い出の味がした。

 なつみはわたしの名前、里見史歩さとみしほを略して「さとし」と呼んだ。女っぽくないそのニックネームをわたしは気に入っていた。お気に入りだったからLINEの名前にもした。なつみ以外とLINEをすることはほとんどないので問題なかった。

 新しい地に来てからの数日は新鮮な気分だった。だが、人間の順応性とはすごいもので、その環境にもすぐ慣れて飽きた。辺境とかド田舎というわけではないけど、やっぱり前の方が便利だったなと思って退屈で、わたしは学校でも教室の窓越しに遠くの山の稜線ばかりを見ていた。そんなことをしているとクラスでは当然浮く。高校で転校生なんてそもそも珍しいのに、周りに全然馴染もうとしないわたしははっきり言って異物だった。こんなところただの腰掛け、大学進学と同時に家を出て都会に行く。そう決めていた。心が休まるコミュニケーションは、四角く明るい画面の中で「さとし」と「なつみ」が交互に行う、緑と白の吹き出しの投げ合いだけだった。でもその熱量も、次第に目減りしているような気がする。直接会えないということはやはり深刻なのだ。

 わたしには心配していることがあった。母のことだ。母はジャズ喫茶をやっていた頃は店を訪れるお客さんと楽しく会話していたが、このところ話し相手がいなくて寂しそうにしていた。母を楽しませようと思ってわたしも話題を振るよう努めたが、何しろわたしの日常が灰色だったので提供できる話題がすぐ底を突いた。どうしたものかと思いつつも、わたしはわたしで日々の濁流に呑まれており母のことを忘れがちだった。

 狡猾こうかつな悪魔の手が母のもとに忍び寄っていることを知ったのは、引っ越してから半年ほどが経った日のことだった。ネットで注文した商品を受け取った母に対し、わたしは何気なく箱の中身が何なのか訊いたのだ。母は隠す様子も見せずに平然とこう言った。

「電磁波を除去するシールよ。スマホとかパソコンとか、人体に有害な電磁波を出してる機械に貼るの。ネットで評判なのよ」

 彼女のふわふわとした声を耳にしたとき、わたしはあまりの衝撃でその場から動けなくなった。目の前にいる人が、わたしの知る母ではないような気がした。生まれてから何度も顔を合わせて共に生きてきたはずなのに、わたしはこの人のことを何も理解できていなかった。

「電子レンジにも貼った方がいいわね。史歩、うちでは今度からレンジは使わないようにしましょう。体に良くないって、栄養に詳しい先生が動画で言ってたのよ。わかった?」

「ちょっと待ってよ。お母さん、何言ってるの? レンジは使うよ。当たり前じゃん。いきなり変なこと言わないで」

 しかし、母はキョトンとした顔でこちらを見ているだけだった。その眼差しは少女のように純真で、わたしは思わず今から母に投げつけようとしていたいくつかの鋭利な言葉を飲み込んだ。一旦落ち着かなければならない。行き場のない感情の表明として、わたしは必要以上に大きく足音を立てて部屋に戻り、思い切り強くドアを閉めた。その激しい音から、心の中で溢れかえるトゲトゲした想いを母に感じ取って欲しかった。

『ねぇなつみ』『お母さんがおかしくなっちゃった』『なんか電磁波が危ないとか言ってる』『どうしよう』

 ベッドに横たわり、震える指でなつみにLINEを送った。お願いなつみ。話を聞いて。涙の雫が画面に落ちる。一分ほど経つと返事が届いた。

『いま電話できる?』

『うん』

 すると、着信音に設定していたお気に入りのジャズナンバーが鳴った。久々に誰かから電話がかかってきたから、この曲を設定していたことも忘れていた。

『もしもし。……さとし、泣いてる? こんな切羽詰まった感じ珍しいね。いつも冷静なのがさとしじゃないか』

『なつみぃ。わたし、お母さんのこと何にもわかってなかったみたい。お母さん、どうしちゃったのかな。寂しくなったのかな。新しい土地で、孤独になって、変な思想にハマっちゃったのかな』

 そんなに広い家じゃないから、あんまり大きな声で喋ると母の耳に入る。でもわたしの自制心は涙が流れるごとに弱まっていった。

『さとしはさ、どんなお母さんでいてほしいの?』

『どんな……?』

 なつみの問い掛けを頭の中で反芻はんすうしてみる。浮かんできたのは、幼い頃から聴き慣れたジャズの旋律と、それに耳を傾ける家族の姿だった。

『お母さんは……ジャズ喫茶をやってた頃のお母さんは、毎日レコードでジャズをかけてた。CDとかストリーミングよりも、この音質が一番良いんだよねって言ってた。そして丁寧にコーヒーをれてくれた。わたしはジャズの音色とコーヒーの匂いに囲まれた生活が好きだった。お母さんはすごく大人だったし、聡明だった。憧れだった』

 遠く離れた東京で、うん、うんとなつみが相槌を入れる。ずっと近くにいる母のことを、わたしは正面から見なきゃいけない。

『わたしは、お母さんにずっとお母さんでいてほしいんだと思う。わたしよりずっと大人で、ずっと憧れの存在であってほしいんだと思う。コレクションの中からレコードを一枚選んでかけて、コーヒーを片手に、感情を乱すこともなくゆったりと過ごしていてほしい。お客さんと穏やかに話しててほしい。一生ジャズでも聴いててほしい。変わらないでほしい』

 心中を正直に吐露すると涙がいっそう溢れてきた。わたしは心の奥底では、こんなことを思っていたのか。なつみに話すことで、自分でも気づかなかった本音に触れることができた。

『さとしは、今の自分を変えたいって思う?』

 唐突になつみが問い掛ける。わたしは戸惑いながら答えた。

『えっと……うん、変わりたい、と思う』

『そうだよね。わたしもそうだよ。そしてたぶん、さとしのお母さんもそうなんだと思う』

 なつみの言葉が電波に乗ってわたしの心臓を揺らした。

『お母さんも?』

『そう。人間誰しも、ずっと同じところにいたらちょっと違うところにふらっと行ってみたくなるものだよ。それで、何か新しいことをしようとしてるんだけど、空回りしちゃってるんだよ。そう思わない?』

 ずっと続けてきたジャズ喫茶。ずっと聴き続けてきたレコード。そういうものから、母は離れようとしているのだろうか。

 家族の一員でもなく、遠くに住んでいるなつみに、わたしは肝心なことをずばり言い当てられたような気がした。わたしはなつみのこういうところが好きだった。わたしの話すことに安易に同調せず、自分はこう思うと正直に言ってくれるところ。

『そうかも。わたし、お母さんを縛りつけてた。一生ジャズでも聴いててくれなんて、ひどいよね。お母さんだって、他にもやりたいことあるよね。だけど今はちょっと心が不安定で、空回りしちゃうんだよね』

『うん。さとし……今は、お母さんに寄り添ってあげてね。昔お母さんにそうしてもらったように、今度はさとしがお母さんを守ってあげて』

 なつみはすごいな。わたしはつくづくそう思った。

『うん、わかった。なつみ、ありがとね。わたし、お母さんとちゃんと向き合うよ。お母さんを好きって気持ち忘れないよ』

 それからなつみの励ましの言葉を聞いて、わたしは電話を切った。涙はもう乾いていた。泣き疲れた頭のまま、何も考えずに部屋を出る。

 母がいた。床に座り込んで、流れる涙をハンカチでぬぐう母の姿があった。わたしは驚いて飛び上がり、咄嗟に口を手で覆った。同時に、なつみとの会話が聞かれていたであろうことも察した。でも次の瞬間には、不思議と冷静だった。これからどうするかは、これから考えよう。そう悲観することはない。わからないけど、たぶん、そんな感じでいいと思う。そう思って、わたしもとりあえず床に座り込んだ。

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