十一話
朝食を終えたイシェラ王妃は私室へ戻ろうと、侍女らを連れてクーディエンテ城内の廊下を歩いていた。すると、目の前を疾風のように駆け抜けていく一つの影を見て、確かめるように呼び止めた。
「……メティエなの?」
その声に気付き、影はぴたりと止まる。そして振り向いた顔はまさしくメティエだった。だが、表情は怒りに満ち満ちているように険しい。
「帰っていたの? それならそうと教えてちょうだい。あちらではかなり大変だったようね。後でお話を聞かせてもらいます。……メティエ、その怖い顔は何なの?」
王妃が歩み寄った時、遠くから声が響いてきた。
「姫様、落ち着いて……ひとまず冷静に……」
長い廊下を走ってくるリリアとミアンがやってくる。メティエの前に到着すると、二人とも胸に手を当て、肩で息をしながら言う。
「これは、他の方に、お任せするべきかと」
「姫様のお気持ちは、わかりますが、ご自身で向かわれることは――」
「リリア、事情を説明して」
異変を察知した王妃は息を切らす二人に聞く。これにリリアとミアンは初めて王妃の存在に気付いたのか、目を見開くと二人揃って後ずさりし、頭を下げた。
「お、王妃様、ご挨拶もせず、大変なご無礼を――」
「構いません。それより、一体何の話――」
「母様、父様はどこ」
メティエが険しい顔で王妃に詰め寄る。
「陛下は只今、定例会議にご出席中です。お話があるのなら後に――」
王妃の言葉が終わる前に、メティエは駆け出していた。
「お待ちください。姫様!」
リリアとミアンが追おうとするのを、王妃は静かに止める。
「私が行きます。あなた達はいいわ」
侍女らを残し、王妃は前を走る娘の背中を一人で追った。
その頃、二階の会議室で行われていた会議は、間もなく終わろうとしていた。
「――と、かなり難しく、国外に出た可能性も考えられます」
騎士団長クスフォーが報告を締めくくる。これに国王ナシェルクはゆっくり腕を組む。
「ふむ……そなたもかなり尽力してくれたようだが、それでは犯人を捕らえることは困難かもしれんな」
「私個人といたしましては、犯人捜索は続けたいと思っております」
「そうか。ではこれからも捜索に関しては、そなたに任せよう。何か申したい者はおるか」
他の重臣達は黙り、特に意見はないようだった。
「……ならば会議を終わる」
国王が席を立ち、重臣達も席を立つ。その時だった。会議室の扉がバンと勢いよく開かれた。その音に席を立った全員が止まり、入り口に振り返った。
「……姫様」
重臣の誰かが呆気にとられたように呟いた。
「父様、会議中に失礼するわ」
メティエは戸惑う重臣達を横目に、ずかずかと部屋に入る。だが、国王だけは笑顔を見せた。
「メティエ、やっと帰ってきたか。早く顔を見たかったぞ。……なぜそんな顔をしておる」
娘の怖い顔に、国王は首をかしげる。それには構わず、メティエは居並ぶ重臣達を一通り見回した。大臣、将軍、軍高官、騎士団長、侍従長――各部門の長と幹部がずらりと顔を揃えている。この全員が今のフォルトナ王国を支えているのだ。メティエも昔から知っている顔が多い。親しみを抱くほど世話になっている者もいる。だからこそ、メティエは裏切られたことに強い怒りを感じていた。
「メティエ、何をしているのです。会議中だというのに……」
追ってきた王妃が部屋の中にいるメティエを見つけ駆け寄る。
「よい。会議はすでに終えた。……して、メティエ、一体何用だ?」
聞かれ、メティエは国王に向き直る。
「驚かずに聞いて、父様。あと母様も」
娘のただならぬ雰囲気に、二人は黙って見つめる。メティエは一呼吸置くと、大きな声で言った。
「ここに、私を狙った犯人がいるの」
部屋は静まり返っていた。重臣達は顔を見合わせ、国王と王妃はぽかんと口を開けて止まっている。
「何を、おっしゃるのですか、姫様」
見兼ねた大臣が口を開いた。
「そうですぞ。この場には忠臣しかおりません。姫様を狙う者などおるわけがない」
将軍の言葉に、他の重臣もうなずく。
「もしや姫様、冗談をおっしゃられたのですか? でしたらもう少しお上手なものでなければ、我々を騙すことはできませんぞ」
「ほお、メティエの冗談か。わしは危うく騙されるところであった。ほっほっ」
国王が笑うと、重臣達も安心したように笑顔になった。その様子に、メティエの表情はさらに険しさを増す。
「父様、真剣に聞いて! 冗談なんかじゃないの」
「ほっほっ、わしはもう騙されぬぞ」
笑い続ける国王は聞く耳を持たない。業を煮やしたメティエは重臣達と向かい合うと、真っすぐ犯人の前へ向かい、視線をぶつけた。
「知ってるのよ。すべてあなたの指図だったってこと!」
メティエは語気を強め、目の前の男――騎士団長クスフォーに言った。
「姫様、まだ冗談をおっしゃられるのですか?」
クスフォーは微笑みながら言葉をかわそうとする。
「往生際が悪いわね。私、全部聞いたんだから。ここで話しましょうか?」
一歩も引かないメティエの迫力に、和んでいた周りの者達も緊張の面持ちに変わる。
「一体何を話されるというのですか。私には身に覚えのないことですが」
困惑を見せるクスフォーに、メティエの怒りは頂点に達した。
「父様、母様、皆もよく聞いておいて。私を殺そうとしていたのは、このクスフォーだってことを!」
判断しかねる状況に、全員が困惑を浮かべていたが、メティエは自信満々にクスフォーと対峙する。
「私に起きた最初の危険は、あなたと一緒に行った狩りの場だった。でも、その前に私はすでに命を狙われていた。夜中に寝ている私を殺そうと計画していたみたいだけど、それを偶然知ったリリアとミアンが、私を外に連れ出してくれたおかげで、計画は失敗した。城内ではもう狙えないと考えたあなたは、私を狩りに誘い、今度はそこで殺すことにした。でも、それも失敗。あれは本当に運がよかったわ」
メティエはちらとクスフォーを見る。クスフォーは涼しい顔を崩さない。
「……ところで、その時の犯人は、未だに捕まってないんでしょ? どうしてなの?」
「捜索は現在もしておりますが、決め手の証拠がなく、もしかすると犯人はすでに国外へ脱出――」
「それはないわね」
メティエはきっぱり言った。
「だって、犯人はあなたなんだから。捜索が進展しないのも、犯人であるあなたが任されてるからで、多分犯人につながる証拠なんて、もう消されちゃってるんじゃない? 今も捜索してるなんて言ってるけど、時間をかけて真相を隠そうとしてるのが見え見えよ」
「姫様、恐れながら……」
横から将軍が入ってきた。
「夜中の事件と、狩り場での事件、その両事件では、クスフォー殿は犯行ができなかったと証明されております。夜中の事件では私邸の使用人がクスフォー殿のお姿を見ておりますし、狩り場での事件では、ご友人である当事者が証言を――」
「だから私、言ったじゃない」
メティエにさえぎられ、将軍は首をかしげる。
「これは聞いた話なの。犯人しか知り得ない話」
「ですが、犯人はクスフォー殿だと、先ほどから――」
「それもさっき言った。クスフォーは指図したって」
この言葉に、将軍はピンときたようだった。
「……なるほど。実行犯、ということですな」
メティエは大きくうなずく。
「あなたは自分の手じゃなく、他人の手を使って私を殺そうとした。この話を教えてくれたのがその実行犯で、あなたの部下、ディーク・ノクセンよ」
具体名が出たことに、重臣達がわずかにざわめく。だがクスフォーは眉一つ動かさない。
「ディーク・ノクセン……確かに騎士団に所属する私の部下ですが……」
「ディークの両親が病気だということを知ったあなたは、それに付け込み、治療費を援助する代わりに、ディークに私を殺すことを指示した。蓄えの少ないディークにとって、それはかなり魅力的だったようだけど、当然危険なことでもある。数日間悩んだ末、結局両親を助けるために引き受けてしまった」
メティエは軽蔑の目をクスフォーに向け、続けた。
「リリアとミアンが城内で見た二人の男、それは多分、ディークと雇った元兵士だと思う。ディークには騎士団員としての活動があるから、長い時間姿を消すことはできない。だから町へ行き、裏稼業をしている元兵士に私の暗殺を依頼した。元兵士なら腕もあるし、城内の人間と顔見知りでもある。そこで打ち合わせをしてもあまり怪しまれる心配がないしね。そうして最初の計画を実行しようとしたけど、私は外に連れ出され、殺すことはできなかった。機会を作るため、あなたは私を狩りに誘い、そこで元兵士に狙わせた。でも上手くいかなかった。二度失敗して、ディークもさすがに自分のしてることが怖くなったようで、あなたに治療費援助を断りに行ったらしいわね」
「……そもそも私は、治療費の援助などしておりませんが」
クスフォーは平然と言う。
「嘘ね。あなたは両親の命がどうなっても知らないと脅して、ディークに無理矢理続けさせたんでしょ」
まるで知らないという表情でクスフォーはメティエを見る。その顔はかなりメティエを苛立たせた。
「いつまで白を切る気? この先のことも話してほしいの?」
「そう言われましても、先ほども申したように、身に覚えのないことですので」
クスフォーはあくまで犯人ではないことを貫く。周囲で見守る国王達も、どう判断したものかと困惑し続けていた。
「じゃあいいわ。最後まで話してあげる……シアリーズでも命が狙われたことは皆知ってるわよね」
周囲がうなずく。
「あなたは私がシアリーズへ行くのを機会と見て、母様が指示した護衛隊の編成にディークを入れた。シアリーズで殺してこいってね」
王妃がわずかに表情を曇らせる。
「両親を半ば人質にとられてるディークには選択の余地なんてないから、嫌でも私を殺さなきゃいけなかった。だから、食事に眠り薬を混ぜ、私を外に運び、そこで殺そうとした。でも、決心がつかずに、最初は未遂で終わってしまった。悩んでる間に帰国の日は近付き、ディークはもう決心するしかなかったの。最近名を広めている盗賊の話を聞いて、ディークはその盗賊の頭に会いに行った。そして、私達が帰国する日時と通る道を教え、襲わせた。ディーク本人の計画では、そのどさくさに紛れて私を殺すつもりだったらしいけど、偶然にも私の護衛を任されて、二人きりになる機会を与えられた。絶好の機会を無駄にするなと、ディークは迷いを捨てて私を襲ってきたわ。あの時、シファルが助けてくれなかったら、間違いなく私は殺されてた……。犯人と知られ、追われる身になってしまったディークは、自分の愚かさを悔い、最後にこの話を私に話してくれたの。これが、あなたの企てた殺人の顛末よ!」
場はしばらく静寂に包まれていた。聞いていた全員はどういう反応をすればいいのかわからなかったのだ。そんな中、最初に口を開いたのはクスフォーだった。
「ところで、その犯人であるディーク・ノクセンは今どちらに?」
「シアリーズの牢にいるわ。近いうちにこちらで引き取る予定よ」
「そうですか……」
そう言うと、クスフォーは口ごもった。
「何よ。言いたいことがあるなら言ってみたら?」
威勢のいいメティエに、クスフォーは恐縮した様子で言った。
「では、恐れながら……姫様がお話してくださったことは、ノクセンの狂言ということはございませんか?」
メティエは驚きと怒りで一瞬言葉を失った。
「クスフォー、あなたはどこまで――」
「お言葉ですが、私は騎士団長という立場上、団員には厳しく接する必要があります。その接し方が時には不快に思われることもあり、団員に一方的な恨みを抱かせる場合があるのです。ノクセンも自分の犯した罪を、恨んでいる私になすりつけようとしているのではないかと感じたもので……」
「違う、絶対に違う! ディークは真っすぐ私を見てた。嘘も偽りも何にもなかったわ」
「表情などいくらでも作れるもの。重要なことは、私が犯人であるという動かぬ証拠があるかどうかです。姫様はその証拠をご存じなのですか?」
聞かれてメティエは言葉を詰まらせた。頭の中を探し回っても、そんなものはどこにもなかった。真犯人と証明する証拠は、ない――
クスフォーの口の端がわずかに歪んだ。
「そのご様子では、証拠のことなどお考えに……」
話の最中、会議室の外からバタバタと走る足音と共に、それを止めようとしている女性の声が聞こえてきて、一同の意識は廊下へと向けられた。
「一体何事だ」
軍高官が開け放たれた入り口に近付こうとした時、その人物は現れた。
「メティエ!」
呼ばれたメティエは驚き唖然とした。そこにはなぜかシファルの姿があった。
「も、申し訳ありません。強くお止めしたのですが、お聞きいただけなく……」
シファルの後ろには、リリアとミアンが頭を下げ、身を縮ませている。
「これはこれは、シファル王子ではないか」
国王が間延びした口調で言うと、シファルは躊躇することなく部屋に入ってきた。そして、国王と王妃に深々と頭を下げる。
「お話の最中のご無礼、お許しください。ですが、私の婚約者メティエの身が危険にさらされるのは耐えがたく、居ても立ってもおられずにこうして参った次第です」
「この子の身が危険とは? どういうことです」
王妃は不安そうに聞き返す。
「メティエの命を狙った犯人、ディーク・ノクセンを捕らえ、その者から事件の真相をすべて聞き出しました。それによると、ノクセンはこちらの騎士団長である、サムリム・クスフォーという者に指示されたと」
「ほお、メティエの申しておることと、まったく同じだ」
シファルは目を丸くし、国王を見る。
「……同じ?」
「たった今、その話を聞かされておったのだ。だが、本当にクスフォーが犯人なのか、わしにはどうもわから――」
「間違いございません!」
シファルの突然の大声に、国王はびくりと体を揺らす。
「ノクセンの家をお調べください。話では一通だけ、クスフォーとやり取りした手紙が残されているということです。内容は、両親の治療費援助の額に関することだそうです」
「治療費だと……?」
「クスフォー殿は援助などしていないと、さっき……」
周囲の目がクスフォーに注がれる。だが、依然としてクスフォーの顔色は変わらない。
「証拠、あるみたいね」
思いがけない助けを得たメティエは、クスフォーに詰め寄る。
「どうでしょうか。まだ話の段階です。実際にあるとしても、筆跡を真似た偽物という可能性もあります」
証拠を目の前に突きつけなければ、クスフォーは認めそうにない。しかし、犯人と決まるのは時間の問題だとメティエは思っていた。
「とにかく、その証拠が本物かどうかわかるまで、謹慎してもらうわ。父様、母様もこれでいいでしょ?」
「……うむ。疑いが晴れるまでの間だ。クスフォーよ、悪いが――」
「クスフォーだと?」
急に血相を変えたシファルは、メティエに駆け寄った。
「クスフォーというのは、この男なのか?」
メティエの目の前に立つ男性を指差し、聞く。
「……そうだけど、何?」
これを聞いて、シファルはメティエを守るように遠ざけ、クスフォーを睨みながらその前に立ち塞がった。
「メティエ、なぜ犯人の側にいるんだ。危ないじゃないか」
これにクスフォーは呆れた表情を見せた。
「まるで私が犯人のようなおっしゃりよう……王子といえども心外なお言葉です」
「……僕が今日ここへ来たのは、貴様の罪を暴き、メティエを守るためだけではない。大事なメティエを傷つけたことは、僕に切りつけたと同義」
一歩前に出ると、シファルは感情をあらわに言った。
「一対一の、決闘を申し込む」
それを聞いた全員がどよめいた。余裕を見せていたクスフォーも、これにはさすがに表情を変える。
「王子、決闘を行う意味が、私には理解できないのですが」
「お前はメティエの命を奪おうとした。代わりに僕が成敗する」
「犯人はノクセンであり、私では――」
「申し出を断る気か。剣を抜く勇気もない、臆病者め」
シファルの挑発に、クスフォーの目が険しくなった。
「私には決闘など行う理由はございません。ですが、王子が強くお望みというのならば、私は陛下のご許可をいただき次第、騎士団長としてこの剣を抜きましょう」
「肩書など不要だ。僕の前ではサムリム・クスフォーとして剣を抜け」
息巻くシファルに、クスフォーの表情も真剣になっていく。
「……陛下、決闘を行うご許可をいただけますか」
クスフォーとシファルが国王を見つめる。周りの重臣達も、その答えを静かに待つ。国王は宙を見つめ、しばらく考え込むと、おもむろに口を開いた。
「……まあ、いいだろう」
シファルは気合の入った表情で礼をする。だが、他の者達は驚きで慌て始めた。
「陛下、ご本人のお望みとは言え、王子ですぞ。万が一お怪我でもなされたら……」
「父様、本気なの?」
普段からひょうひょうとしている父親のため、言葉がどうも信じられず、メティエは真面目に聞き返した。
「王子は決闘をしなければ、気が済まないのだろう?」
シファルは、はいと返事をする。
「ならば、気が済むようにすればよい」
深く考えていない様子の国王に、周囲は呆れるしかなかった。
父親を諦めたメティエは、次にシファルに聞いた。
「シファル、クスフォーが犯人とわかるのは時間の問題よ。決闘なんてする必要があるの?」
これにシファルは周囲を気にしつつ小声で答える。
「この男は自分に目を向けられないよう、部下を使って君を殺そうとした。なかなか頭の切れる男かもしれない。ずっと表情が変わらなかったのを見ると、ノクセンの手紙にも何か細工をして、証拠にならない自信があるのかもしれない。そうなった時のために、この決闘で僕がクスフォーに自白させてみせるよ。印象では、負けず嫌いで自尊心も高そうだ。重要な言葉を一つ二つは引き出せるだろう」
安心させるためか、シファルは最後に笑って見せた。メティエはこの真の目的を聞き、感心しながらもやはり心配せずにはいられなかった。相手は騎士団の団長を任されている男。剣術の腕は並ではない。対してシファルは鍛錬をしていると言っていたが、メティエはその腕を見たことはない。どうしても不安は拭えなかった。
未だ戸惑う重臣達を見兼ねて、国王は将軍に命令し、軍の練兵場へ案内させた。そこで決闘を行わせようというのだ。足取り重く、将軍は西にある軍事棟へ向かう。その一階には、屋根のない広々とした空間が広がり、その中では各種様々な武器を持った兵士が木製の人形を相手に汗を流していた。
「鍛錬は終了だ。全員、持ち場へ戻れ」
突然現れた将軍の指示に、兵士達は最初うろたえた様子を見せたが、すぐに指示通り動き、練兵場を後にした。静けさを取り戻した空間には、不安と緊張の空気が充満していく。
シファルは無言のまま、中央の何もない広場へ歩み出る。その足取りは普段と変わらない。メティエはおそらく、当人のシファルよりも緊張していた。横を歩いていくシファルに励ましの声すらかけられないほど、気持ちが張り詰めていた。
「……本当に、よろしいのですか?」
クスフォーが一人中央に立つシファルに最後の確認をする。だがシファルは何も答えず、クスフォーを強い視線で見つめ返すだけだった。意思は変わらないとわかり、一度息を大きく吐き出したクスフォーは、ゆっくりとシファルの前へ進み出た。
「王子を意味もなく傷つけてしまうのは私の本意ではありません。ですので、剣は練習用のものを――」
「何を言っている。これは真剣勝負だ。自分の剣を使え」
そう言うと、シファルは腰に帯びている剣を引き抜き、構えた。
「これは決闘だ。どういう結果でも、お前を罪に問うつもりはない。だから僕を殺す気で来い。無理だと言うのなら、僕がお前を仕留めるだけだ」
シファルの目に鋭い光が宿る。言葉通り、敵意むき出しの意気で睨みつける。クスフォーも仕方なく腰の剣を抜くが、その手には迷いがあった。同盟国の王子と決闘など、本来ならあり得ないことだ。迷うのは当然と言えた。お互い、しばらく対峙したままだったが、業を煮やしたシファルが先に動いた。
「来ないなら、こちらから行く!」
剣を振り上げたシファルが切りかかった。しかし、クスフォーは余裕でそれをかわす。シファルは勢いを落とすことなく、続けて攻撃を仕掛ける。だがやはり、クスフォーは簡単にかわしていく。離れて見ている重臣達からも、その力量の差は明らかで、メティエの心配は現実となっていた。ただ、クスフォーがまだ剣を振るっていないことが小さな助けだった。本気を出された瞬間、シファルは一瞬で倒れるに違いない。そんな予想ができるほど、クスフォーにはゆとりがあった。
「……なぜ攻撃しない」
切りかかりながらシファルが問う。クスフォーはかわしつつ困惑の表情で答える。
「恐れながら、勝敗をつける以前に、もう結果は明らかかと」
「なるほど……真剣勝負と引き受けながら、そんな気にはなれないと言うわけか。無礼な上に、自分勝手な男のようだな。それでよく団長など務まるものだ」
クスフォーがわずかに眉をしかめるのを、シファルは見逃さなかった。
「そんな男なら、罪を犯すのも当然か。部下の騎士団員は哀れだ。こんな上司に使われていたのだからな」
「王子、おやめいただきたい。挑発などされても、私は剣を振るう気にはなれません」
冷静なクスフォーはこれが作戦だと気付いていた。シファルは残念そうに攻撃の手を止める。
「うーん、二度目の挑発は通用しないか。早い段階で終わらせたかったが……仕様がない」
次の瞬間、シファルは今までとは見違える動きでクスフォーの懐に入り込むと、剣を素早く突き出した。クスフォーは面食らいながらも、反射的にそれを避ける。これには見守る重臣達も、思わず息を呑む。
「……手加減をされていた?」
驚くクスフォーに、シファルは真剣な表情を見せる。
「挑発に乗らないのなら、ここからは本気の剣でやらせてもらう。命が惜しいのなら、その剣を使え」
この言葉に偽りがないと感じたのか、クスフォーの手からは先ほどまでの迷いは消え、眼差しも力強いものに変わった。とうとうクスフォーが本気を出す――メティエの心臓は大きく鳴り始めた。
二人は剣を構え、睨み合ったまましばらく動かない。息苦しい空気の中をそよ風だけが通り過ぎていく。
「……やる気になったんじゃないのか? 切りかかって来い」
シファルの言葉に、クスフォーは何も答えなかった。ただ、その目だけはしっかりと相手をとらえている。隙はないように見えた。その様子を観察しながら、シファルはおもむろに口を開いた。
「一つ思い出したことがある。こちらに長く住む僕の友人がいるんだが、そいつはかなりの噂好きでね。何年前だったか、久しぶりに会った時にこんな噂を話してくれた。王女のお相手に、名家の子息が選ばれたってね。その名家っていうのが――」
目にもとまらぬ動きだった。クスフォーはあっという間に間合いを詰めると、シファル目がけて剣を振り下ろしていた。しかし、動きから目を離さなかったシファルは、その攻撃を剣で受け止める。力と力の鍔迫り合いをしながらも、シファルは観察を続けていた。剣を握るクスフォーの表情は一見冷静だったが、耳は紅潮していた。それを見てシファルは確信した。
肩をぶつけ、強引に離れたシファルは、剣を構え直し言った。
「お前がメティエを狙う理由を探していた。だから関係ありそうなことを順に言っていくつもりだったが、まさか一つ目で的中するとはな」
「……何のお話でしょうか」
落ち着いた声で、クスフォーはすかさず切りかかる。騎士団長だけあり、その剣さばきは見事と言えた。一方、シファルも負けまいと必死に剣を使い、かわし続ける。だが、時間が経つにつれ、徐々に剣術の差が表れ始めた。クスフォーは最小限の動きで剣を振るのに対し、シファルの動きには無駄があり、空振りをする回数が増えていた。クスフォーはシファルの動きを見切り始めているようだった。
「やはり、クスフォー殿のほうがお強い……」
「王子をお止めしなくてもよいのですか? このままでは……」
重臣達は気を揉み、ざわめき始める。しかし国王は微動だにせず見守っている。王妃も何か言いたそうではあったが、国王の側に大人しく控えていた。メティエは両手を握り締め、はらはらしながら二人の対決に見入っていた。証拠を引き出すというシファルの言葉を信じながら。
「あっ!」
メティエは思わず声を上げた。シファルが足をもつれさせ転倒したのだ。そこにいた全員が息を止めた。無防備に尻をついたシファルに、クスフォーは力を緩めず剣を振り下ろす。メティエと王妃は同時に顔をそむけていた。
「くっ……」
シファルのうめき声が聞こえた。メティエは恐る恐る視線を戻す。そこには、再び立ち上がったシファルがいた。が、その右肩には赤いものが見える。わずかに切られたようだ。
「陛下、今すぐお止めしましょう」
最悪の事態を想像した重臣達は、国王に懇願する。しかし、国王は首を振る。
「これは王子が望んだこと。王子の気が済むまでやらせよ」
国王に止める気はない。そうわかった重臣達は決闘後のことを考えるしかなく、医師を呼びに行くなど慌ただしく動き始めた。
そんな騒ぎを横目に、シファルは傷の痛みをこらえ、クスフォーと対峙していた。剣を左手に持ち替え、戦う意思を示す。
「利き腕が使えないのでは、もう戦うことはできないでしょう。降参なさることをお勧めいたします」
無表情で言うクスフォーに、シファルは口角を上げ、にっと笑って言った。
「まさか。右腕はまだ動く。少し疲れたから持ち替えただけだ。それにしても、僕の前に、お前が――」
クスフォーが攻撃を仕掛ける。剣同士がぶつかり、こすれる音が続く。その最中でもシファルは口を開く。
「どうやら、僕に、話してほしくないようだな」
激しくぶつかった剣は、また鍔迫り合いとなり、二人の顔は接近する。
「メティエを恨むのは、筋違いだ。普通、その話を持ち込んだ人物を恨むんじゃないか?」
これにクスフォーは、わずかに笑って見せた。
「恨みなど、微塵も持ち合わせておりませんよ」
「じゃあ、何を持っているんだ」
クスフォーは剣を弾き、間合いを取る。不敵な笑みを浮かべたが、何も言おうとはしない。だが、シファルは手ごたえを感じていた。相手は徐々に感情が顔に表れ始めている。さらに心を揺さぶろうと、シファルは話し続けた。
「恨みでないのなら……嫉妬か? それとも報復か?」
これにクスフォーは見下すような目を向ける。
「なぜ私がそのような感情を持つと思われるのですか」
「お前はメティエと結ばれるはずだった。だが、結局メティエは――」
クスフォーが襲いかかる。シファルはその攻撃を懸命に受け流しながら言葉を続けた。
「メティエは、僕と婚約した。憎い気持ちの一つや二つ、持ってもおかしくはない」
攻撃の手を緩めず、クスフォーは答えた。
「私の思いは、過去も現在も、何ら変わっておりません」
強烈な一撃に、シファルは剣を握る左腕ごと弾かれ、体勢を大きく崩した。その隙を見逃さず、クスフォーは剣を振り下ろしてくる。
「愛しているのか」
この一言で、クスフォーの動きが止まった。シファルは体勢を整え、間合いを取る。
「それとも、権力を手にしたいのか」
振り上げた剣を、クスフォーはゆっくり下ろしていく。
「権力など……私は姫様のことを、もちろん愛しております。とても大事なお方ですから」
その目が、ちらとメティエのほうを向く。メティエは緊張した面持ちで二人を見守っている。その視線の動きを、シファルはしっかりと見ていた。
「それは、家臣としてなのか」
クスフォーは何も答えない。その表情は微笑んでいた。
動機は未だはっきりとしない。だが、シファルは気付いた。クスフォーは家臣という立場を超え、メティエに好意を抱いているのだと。
「……僕を、なぜ殺さない」
「殺す理由がございません」
「愛するメティエにはあるのにか?」
一瞬、クスフォーの表情がこわばったように見えた。
「お前にはお前なりの論理があるのだろう。だが、僕は理解するつもりはない。……決着をつけよう」
剣を握り直し、シファルは構える。クスフォーも間を置き、剣を構えた。その視線は鋭い。
二人は息を合わせたように同時に切りかかった。やはりクスフォーのほうが動きに切れがあり、シファルは攻撃を防ぐのに精一杯だった。その間、わずかな隙を探し、反撃の機会をうかがいながら、言葉の攻撃で動揺を誘い続ける。
「メティエは殺させない。僕が守り続けるからな。……聞いているか」
クスフォーは淡々と攻撃を繰り返す。
「メティエを守れるのは、心から愛している僕だけだ」
クスフォーの表情は依然変わらない。
「僕はメティエに受け入れられた。お前と違い、この愛を受け入れてもらえたんだ」
クスフォーの動きに、明らかに余計な力が入った。小さくまとまった剣さばきだったのが、急に大きく雑な動きへと変わった。シファルはここぞとばかりに防戦から攻勢へ一気に転じた。気持ちの乱れを誘い、立場を逆転させたシファルは、決着をつけるべく最後の一撃を仕掛ける。
「そこだ!」
クスフォーの足首目がけ、シファルは勢いよく足払いを決めた。思いがけない攻撃に、クスフォーは避けることもできず、目を見開いて仰向けに倒れた。見守る王妃とメティエは思わず小さな声を上げる。次にはシファルが剣を突き立て、勝負がつくと思われたが、そのシファルは意外な行動に出た。握っていた剣を放り出すと、倒れるクスフォーにまたがり、その襟首をつかみ上げたのだ。
「僕はお前より強い。地面で寝るのはお前のほうがよく似合うぞ」
嫌みたらしい口調に、クスフォーは歯を噛み締める。
「剣での戦いで、足払いなど……」
「卑怯だと思うのなら、それはお前が甘すぎる証拠だ。僕は目的のためなら、あらゆる方法を尽くす。戦いでも、メティエを振り向かせるためでも」
メティエという言葉に反応したクスフォーは、無表情だった顔を歪ませると、右腕の剣を振り上げようとした。が、シファルはすぐにその腕を踏みつけ、動きを封じた。
「勝利も、メティエも奪われて、悔しいか」
不敵な微笑を浮かべるシファルを、クスフォーは感情をむき出しに睨む。それを見つめ、シファルはさらに言う。
「いや、悔しがる必要はないか。最初からお前には、勝利もメティエも無縁のものだったんだからな」
これ見よがしのあざけりに、クスフォーは何も返さず、黙り込んだかと思うと、次の瞬間、低い声で笑い始めた。
「……怒りでおかしくなったか?」
シファルが怪訝な目を向けると、クスフォーは左手でシファルの腕を、爪が食い込むほどの力でつかんだ。
「メティエを奪われただと? 笑わせる」
丁寧な口調は消え、笑う目には異様な光が宿る。これがクスフォーの本性なのだとシファルは思った。
「何が笑えるんだ」
「貴様の一方的な婚約で、メティエの気持ちなど向いているはずがないだろう。それを、身も心もまるで自分のもののように……それは大いなる思い違いと言うのだ」
「なるほど。僕とメティエの間には、つながる心がないと言うのか」
「メティエは私を慕ってくれていた。私といる時はいつも笑顔を見せてくれていた。それなのに、婚約が決まった時からその笑顔は減っていった。メティエには真実の愛が必要なのだ。すべてを理解し、尽くすことのできる愛が。それは貴様では持ち合わせていない。ただ一人、私だけの役目なのだ!」
「役目ならそれを全うすればいい。でもそうせず、メティエの命を狙ったのはなぜだ」
クスフォーは暗い笑みを浮かべながら言った。
「貴様の一声が、役目を全うすることを妨げたのだ。そのせいでメティエは望まない婚約を強いられた。この先も望まない人生を送ることになってしまう。だから、私はメティエを苦しませぬために――」
シファルの拳がクスフォーの顔目がけ飛んだ。鈍い音は国王らの元まで届いた。
「一発じゃ殴り足りないが、両陛下とメティエの前だ、我慢してやる」
襟首をつかんでいた手を離すと、シファルは立ち上がり自分の剣を取りに行く。その時、メティエが駆け寄ってきた。
「決着はもうついたでしょ? 傷を早く――」
「メティエ」
呼んだのはクスフォーだった。シファルは素早く背後にメティエを隠し、剣を構える。クスフォーは倒れたままだったが、上体を起こし、頬を腫らせた顔で二人を見ていた。
「そんな男と一緒になる必要はない。あなたは私の手で幸せにしてみせましょう」
「黙れ。それ以上メティエに――」
シファルの言葉をメティエは制した。そしてシファルの横に並び、クスフォーを見つめる。かつての紳士的な様子は、本性を見せた今となってはどこにも見当たらなかった。それはメティエを悲しくさせ、失望させていた。
「クスフォー、あなたは昔から私によくしてくれた。それに関しては本当に感謝してる。でも、私の幸せは私にしか叶えられない。あなたでも、シファルでもなく、結局は自分自身だけ。他人に与えられた幸せなんて長続きしないと思うわ。自分の望む幸せじゃなきゃ、本当の幸せとは言えない。そうでしょ?」
「では、メティエはその男との婚姻を望んでいると?」
メティエは返事もうなずきもしなかったが、真っ直ぐな瞳は明白な答えを出していた。
「騙されている……言葉に騙されているんだ。そんな男の口車に――」
「王子に向かって、そんな男とは、何という無礼です」
いつの間にか、国王と王妃が三人の側まで来ていた。王妃はクスフォーの言葉に険しい表情を見せている。
「……陛下、なぜメティエを、姫様を婚約させたのですか。なぜ私とのお話を白紙にしたのですか!」
クスフォーは国王にすがる勢いでたずねる。これにシファルも聞いた。
「……陛下、以前にクスフォーとメティエを一緒にさせるというお約束をしたのは、陛下ご自身なのですか?」
二人の男に聞かれ、国王はしばらく宙を睨んで考えていたが、視線を戻すとこう答えた。
「悪いが、覚えておらぬ」
クスフォーは愕然とした表情で固まった。一方シファルは溜息を吐き、予想できていたような顔を見せた。
「おそらく、大勢の方がいるような場で、クスフォーを褒める意味として、陛下がおっしゃられたことなのでしょう。それを誰かが真に受け、噂は広がっていった……時々あることではあります」
「じゃあすべては、父様の褒め言葉から始まったってことなの?」
メティエはじっと父親の顔を見る。娘の指摘と視線に、日頃からのほほんとしている国王も、さすがにばつが悪そうに目を泳がせる。
「悪いのは陛下ではなく、公式の場でもないのに、まるでそのようなお言葉として噂を広めた者の浅慮です」
夫をかばう王妃に、シファルはうなずく。
「その通りだと思います。さらに申し上げれば、自身で確かめもせず、勝手に噂を信じ込んでいたクスフォーも悪い。舞い上がっていたのか、確認をすることが怖かったのか、どちらにせよ、嘘とは知らなかったでは済まされない話だ」
視線を落としたクスフォーの唇は、わなわなと震えていた。
「シファル王子、医師を連れてまいりましたので、急ぎ治療を……」
大臣を先頭に、重臣達が医師を連れ駆け寄ってきた。その後ろには、これもまた連れてきた数人の兵士が並んでいる。
「ささ、お怪我をお見せください」
医師が右肩の怪我を診ようとするのを、シファルはやんわりと遠ざけた。
「大した怪我ではないから、また後で診てもらうよ。それよりも――」
「皆心配なんだから、今すぐ診てもらって」
メティエの言う通り、この場の全員がシファルの傷の具合を気にしていた。場合によっては、国と国の関係にも関わってくることでもある。そんなことを察し、シファルは仕方なく傷口を見せた。
「……だ」
呟く声が聞こえ、メティエとシファルは同じ方を向く。
「……しだけだ」
わずかに大きくなった呟きに、今度は全員が気付き見る。
「私だけなんだ!」
地べたに座るクスフォーが突然大声を上げたことに、皆驚き動きを止めた。すると、立ち上がったクスフォーは、目の前のメティエに突進するように近付き、その両肩をわしづかみにする。この一瞬の動きにメティエは驚きと恐怖で声も出ず、目の前に迫るクスフォーの暗い瞳をただ見るしかなかった。
「メティエ、私だけだ。君を理解してあげられるのは! 君の幸せのためなら――」
横から無数の腕が割り込んでくる。メティエの肩からクスフォーの手が引きはがされ、暗い瞳も離れていく。
「捕らえ、連れて行け!」
将軍の指示が響き、兵士達はクスフォーの両腕を後ろにねじり上げ、連行していく。
「メティエ、大丈夫かい?」
シファルが顔をのぞき込み、言葉をかける。メティエはうんとうなずき、後ろ姿のクスフォーに視線を移す。まだ何か言っていたが、距離があってよく聞こえない。兵士に連れて行かれるその姿は、騎士団を率いていた輝かしいクスフォーとは真逆で、暗く悲しい、壊れて堕ちてしまった別人にしか見えなかった。
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