第17話

璃子強姦の主犯、皆川栄太が死亡したニュースを聞いたのは、それから二週間後のことだった。

 彼の死は他殺であり、犯人は璃子の母だった。

 皆川を殺害した璃子の母は、息の根を止めたことを確認してから、自ら警察を呼んだらしい。

 少年院から皆川が出てきて、丁度二ヶ月。

 犯行日は、璃子の誕生日だった。

 そのニュースを聞いて、それから沖沼さんからも事情を聞いた僕が抱いた感情は、少し奇妙なものだった。

 恐怖や焦燥などはなく、もっと冷静に『ああ、そうか』と、心底納得したのだ。

 腑に落ちたというか、ある種の安堵にも似た、一つの完璧とも言える答えを見た感覚だった。

 たった一人の最愛の娘を、間接的に殺されて、それを許せるはずがない。

 僕は人の親になったことはないから、わからないけど、それでも、親が子に抱く愛情が、偉大であることくらいは想像がつく。道徳も常識も、正論なんてものがなんの意味も持たないほどに主観的で、感情的なものであることも。

 我が子の命が、理不尽に奪われたことは、理屈で割り切ることなどできる類のものでは決してないのだ。

 代替することが不可能なほど、特殊で耐え難く、心が納得できない。

 それほどに、どうにもできない痛みだったのだ。

 そして、これは僕の完全な想像に過ぎないけど、その痛みが分かるからこそ、璃子の母は、奪ったのだ。

 皆川の両親から、息子を。

 同じ痛みを、知らせる為に。

 復讐は何も生まない。

 報復したところで、死んだ人間は生き返らない。

 だからやめろと諭す者は多いが、だからこそ、復讐しなければ気が済まないのだ。

 何をやっても生き返らないから、何をやっても戻らないから、その重大さを知らしめるために、報復するのだ。

 璃子を失った母親からしてみれば、それ以外の選択肢などなかったのだろう。

 蹲るほどの痛みも、引き裂かれるほどの悲しみも、何一つ解決しないと分かっていても、彼女はそれを実行したのだ。

 彼女が狂気に堕ちた訳ではない。

 むしろ正気だからこそ、その答えを出したのだ。

 それはきっと、僕が璃子のことを忘れて自分の人生を歩み始めようとしたように。

 僕は、璃子に纏わる『痛み』を持ち続けたまま、璃子と決別することを決めた。それは璃子の母親からの申し出もあったし、僕自身がそうするべきだと決断したからだ。

 そして、僕はどうするべきかという結論に出会えた。

 しばらくは消えそうもない痛みと、自己嫌悪と、罪の意識と、そう言ったものを全部わかったうえで僕を好きだと言ってくれる人となら、もう一度、人を愛することが出来るのではないかと。

 その奇跡のようなものに、指針とも言うべき何かに、僕は遭遇できた。

 璃子の母には、そう言った前向きな答えは訪れなかった――いや、訪れるはずもなかった。

 きっと、ただそれだけのことだと思う。

 僕が一つ気になったのは、そのタイミングだった。

 璃子の母は、いったいどの時点で、その結論を得ていたのだろうか。もしも、璃子が死ぬ前からそう決めていたのなら――。

 『もう関わらないでほしい』と言われたことも、あの人の優しさなのではないかと思えた。

 強姦事件の犯人を殺せば、それに被害者に近い立場であった僕も、関係があると思われることを避けるため、予め関係性を絶ったのではないだろうか。

 僕を拒絶しておけば、璃子の母親が追い詰められていた状況にもそれらしく納得できる構図が出来上がると同時に、僕の無関係を明確化できる。

 自分がこれから起こす事件から、僕を守ったのだとしたら。

 そこまで考えて、ようやく僕に焦りのようなものが生まれた。元々無関係ではなく、なりえないのだ。一度、璃子の母に会いに行こう。

 何を話せばいいかは分からないが、もう一度だけ会わなくてはいけないような気がしていた。

「悲しい、結末ね……」

 ニュースを知った一砂は、目を伏せてそう呟いた。

「もう、痛みと悲しみで、何も見えなくなっていたのね」

「いや、逆じゃないかな。それだけが見えていたんだ。だからそれを唯一の正解だと思った」

「そう、かしら」

「わからないけど……きっと」

「『答え』……結末が欲しかったのね。自らの手で行う幕引きが」

「多分、それをどうこう言う権利は、誰にもないのだと思う。娘を失った璃子の両親以外、この件に関して、肯定も否定もするべきじゃない」

「ええ。その通りね」

「僕も……璃子への想いが、もっと強くてもっと深くて、ずっと当事者であり続けていたなら、もしかすると、同じことをしていた可能性だって、無くはない。過失でも事故でもなく、明確な悪意を持った行為が、あるいは明確な悪意があったとしか思えない行為が、相手を死に至らしめたのなら、それには同等の罰が与えられなくてはいけないと思うから」

「わたしも、『間違っている』とは、思わないわ。正解かどうかは、わからないけど」

 一砂はそう言って、僕の手を握る。

「大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ」

 そう。

 僕は大丈夫。

 色々なことがあって、色々な要因が重なった結果だとしても、僕はすでにとっくの昔に『当事者』ではなくなっていたのだから。

――当事者でなくなる、という答えを、得たのだから。

「少なくとも、自分がそうだと納得できる答えを見つけるというのは……答えに出会えるかどうかというのは、本当に難しいものだね」

 どれほど望んでも、どれほど必死に探しても、見つかる訳ではない。

 雑な言い方をしてしまえば、言わば『運』であって、奇跡の範疇に過ぎない。そんな理不尽の中にこそ、答えはある。

 救われるか救われないか。

 あるいは、道を踏み外すか、否かは、その紙一重の境界線の内と外にある。

 ほんの少しだけ、この『世界』というものの仕組みや真実に触れたような、そんな気持ちになった。

 それはきっと砂の一粒を探しあてられた者だけが、僅かにだけ近づける神秘の領域。

「こうして考えてみると、自分の想いが、それほど強いものではなかったんだと、改めて気づくよ。今の僕は、どうやったって、璃子の母のような行動には及べない。僕は結局、空廻っているだけだったみたいだ。少し悔しくて、滑稽で、虚しいよ」

 僕の言葉に、一砂は切なそうな目をした。

「どれも本当かもしれないけど、無駄ではないわ。だって、そういうあなたがいなかったら、わたしたちはこうなっていないのだから」

「そうだね。それも、十分に分かっている。だから、今のは単なるぼやきだよ。それ以上もそれ以下でもない、ただのぼやき。自分の小ささを改めて痛感した、悪態というやつだ」

 時間で風化していくのは、所詮はその程度の想いや痛みに違いない。

 世界には、永遠に癒えない痛みも、薄れない悲しみもある。

 時間が解決してしまう想いが全て、弱いものだというつもりはない。そうしてしまえば、それは僕自身の想いを否定することになってしまうから。

 だけど、何をしても、消えない痛みは、確かに存在するのだ。

「一砂……」

「なに?」

「もしも。もしもだよ? 君が璃子と同じ目に遭ったり、取り返しようがなく傷つけられるようなことがあったら、僕はきっと、君が受けた以上の苦痛と代償を相手に与えると思う」

 そこに迷いも、躊躇いもなく、そうするであろうと、今の僕には確信が持てる。

「……うん。多分、わたしも、同じなんじゃないかな」

 社会は狂気を否定するけど、狂気に至るほどの強い想いは、否定するばかりが全てではない。

 それは最後に璃子の母が人生をかけて示してくれた、一つの強い愛情のあり方なのだから――。

 

 

                                了

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