第2話
■千の夜を数えて。
「危ない!」
そんな声が響いてきたのはなぜか頭上からで、僕の脳裏を一瞬過ぎったのは、植木鉢か何かが落ちてきたのか、なんてことだった。
咄嗟に見上げて、僕は驚いた。視界に入ったのは、陶器の鉢でもなければ、花瓶でもない。スカートをはいた女の子だったのだ。
危機的な状況に陥ると、人間の体感時間は引き延ばされ、スローモーションに見えることがあるというが、そのときの僕は、きっとそれだった。
その女の子は、片手でスカートを押さえ、もう片方の手は窓から伸びる布切れを掴んでいた。布切れは裂けるチーズみたいに滑らかに、しかし豪快につるつると破れ、いくらか彼女の落下スピードを緩和しているように見えた。その布切れに見覚えがあるな、なんてどうでもいいことを考えるのと、体が勝手に動いたのは、同時だった。僕は落ちてきたもの(・・)を、反射的に受け取ろうとしたのだ。
しかし、いきなり落ちてきた人一人を、それほど上手く抱きとめるなんてことは出来るはずもなく、僕は胸部付近に膝蹴りを喰らいながら、無様に倒れこんだ。後ろに倒れたので、見事にマット代わりだ。胸骨と肋骨が軋む音がした。
僕の上に座り込む形で着地したその人は、すぐに立ち上がり、上を見た。
そして、なにやら確認した後で、僕に向かって『本当にごめん』とだけ言って、彼女は教室棟の方へ走っていった。
「痛(つう)っ」
僕が胸を押さえて見上げると、窓からは男子生徒が走っていくのが見えた。何だかよくわからないまま立ち上がり、僕は周りを見渡す。ベンチの横には、およそ無意識に放り投げた弁当箱が、無残な姿でひっくり返っていた。
「ああ……」
自ら作った弁当が、哀れなことに。
そう思っていると、軽快な足音と共に、さっきの女の子が戻ってきた。
「ごめんついでに悪いんだけど、ちょっと匿ってくれない?」
僕が、答えずにいると、
「そこのベンチの裏に隠れるから、わたしを探している人が来たら、あっちに行ったって言って」
神頼みをするように手を合わせて言うその子は、とんでもない美人だった。
肩下まである長い黒髪を、真ん中より少し左から分けて、数本のピンで留めている。目は丸く大きくて、驚くほど澄んでいた。奇麗な白い肌と、小さな口が細い輪郭に囲われて、まるで美麗な絵画を見ているみたいだった。
「お願いね」
そう言うと、僕の返事も聞かずにベンチの裏に身を潜める。確かにここのベンチは背もたれも大きく、アンティーク調な造りであるだけに、小柄な女性が蹲れば、完全に隠れることはできる。
だが、いったいどういう状況だろう。
今日日(きょうび)大学のキャンパス内で、二階から飛び降りた上に身を隠すことなど、そうそうあることではない。いいや、ほぼ絶対に近く無いだろう。
そんな疑問を抱えつつも、仕方なく僕は、そのまま何事も無かったように弁当箱を拾い、中身が全て出てしまったことを確認して、ため息をついた。
砂をはらってフタを閉めた当たりで、一度女の子が走り去った方とは逆から、男が走ってきた。どうやら、先ほど窓のところにいた男子生徒のようだ。
「あんた、さっきの女は向こう行ったよな?」
通りすがりそう聞く。近くで見るとなんとも柄の悪そうな、少し頭の足りなそうなやつだった。
「いや、あっちに一度行ったあとで、こっちに引き返してきて、向こうに行った」
僕は嘘を言った。
「そうか、サンキュ。あの女、やってくれるぜ」
ドタバタと走り去る男。たっぷり十秒ほどおいて、かくれていた女性がひょっこり顔を出す。
「ふぅ。もう、ばらすのかと思って、ドキドキしたわ」
ベンチの裏から出てきた彼女が、スカートをパンパンと叩きながらそう言った。
「ああ言った方が、リアルだろ」
「うん、ありがとね。助かったわ」
言って、彼女は窓を見上げる。
「あちゃあ、カーテンぼろぼろ」
僕も見てみると、窓からなびいている布切れは、七割方破れていた。見覚えがあったのは、それが校舎内でいつも見ているカーテンだったからだ。
「ああ、あれも内緒ね。秘密ってことで」
彼女は言って、人差し指を立てて唇の前に当て、「しーっ」としながら、片目を閉じた。
ざわりとしたのが、分かった。
こんなわざとらしい、あざとくベタな仕草をこんなにも違和感無くこなす人間がいるとは、思わなかった。
「じゃあ、またね」
彼女は手を振って、また軽やかに走り去っていく。
僕はその後ろ姿を、呆然と見送っていた。またね、と言われたが、『また』が早々あっては困る、というよりも、『また』があるのか、と疑問を抱かざるを得ない。
「なんだったんだ、あれ」
もう誰もいない路地に向かって、僕は呟いた。
大学二年の五月。それが、僕と穂積一(ほずみいち)砂(さ)との出会いだ。
穂積一砂との再会はたったの一週間後だった。
同じ大学なのだから、それは再会と呼ぶほど大げさなものではないけど、それでも僕は十分に「再会」と呼んでしまうほどには、何か少しだけ特別な思い入れがあったものだ。
「ああ、そりゃ間違いなく穂積一砂だろう」
一食(第一学食を僕らはこう呼ぶ)の隅のテーブルで、並んで大盛りのカレーライスを食べていた友人の高瀬隆一が、皿から視線を放さずにそう言った。
先日の飛び降り女の話をしただけで、隆一はその女の子を特定した。
「穂積一砂って、あの(・・)?」
「流石のお前も知ってるか」
「いや、本当に名前だけ。あとは、ぽつぽつと噂を……」
「そうだよ。うちの大学じゃダントツの顔とスタイルを持っているのに、ミスコンにエントリーしない女。そういう表舞台には出ようとしない割りに、構内では案外破天荒なことばかりして話題になる問題児。その破天荒な行動の理由の殆どが、男関係っていう噂もあるあの穂積一砂だよ。遊びには行っても、気を持たせて振るらしい。顔がいいからって、お高くとまっているんだろ」
隆一は口をもぐもぐさせながら、眉間にしわを寄せた。どうも、彼は穂積一砂のことを良く思ってないようだ。
「俺の友達の友達の先輩が、お前の話と同じ状況の当事者だったっぽいから、間違いない」
なるほど、その大分遠い知り合いの先輩と言う人が、あの日彼女を追いかけてきた男だったというわけか。
「二回デートまがいの遊びに行って、いい感じだったから告白したら、そんなつもりはなかったっていわれてさ。諦めきれずに付き纏ったら、窓から飛んで逃げたらしい」
水を一気に飲み干して隆一を言った。
話を聞いても、今ひとつ二階からとんだ理由がわからない。
「そんなに嫌だったのか」
「さあな。だが、穂積なら納得のできる行動だ」
「どういうこと?」
「あの女に常識は通用しないってことさ。なぜ飛んだか考えるだけ無駄だよ」
なぜか最後に福神漬けを食べながら、隆一は言う。
「そんなに変わっているのか」
「変わっているっちゃ変わっているよ。っていうか、お前、知らなさ過ぎ」
僕は頷いて大分冷め始めたカツ丼の続きを食べた。
女性に興味がないわけではないが、かと言って、大学内の女子をルックスのいい順にランキングを付けるほど暇人ではない。ミスコンに出ていたなら、冊子や告知ポスターで見る機会もあるだろうが、出ていないのでは知るはずもない。そもそも、そういう完全に『人気』のあるような女の子のことを、真剣に考えることすらしない。だって、そうだろう。自分の人生には、絶対と言っていいほど関わりのない人種だ。
別に何が悪いと言うわけではない。しかし、これと言って目立つ何かを一つも持っていない僕には、そういう華々しい人たちと渡り合う術がない。
僕は、自分が特別ではないことを誰より知っている。これは、卑下や悲観とは少し違う。無駄な自信を持たないためのいわば謙虚さだ。人並みか、それ以下のものしか持っていない者が、自信満々に振舞うなど、滑稽の極みだ。
「でもまあ、確かに美人ではあったけどな」
「おい、お前まさか」
「違うよ。ただ、あんなに美人を間近で見たのは久しぶりというか、話したのも久しぶりだったから、ちょっとな」
「千夜、お前、今の発言悲しすぎるぞ」
そう言う隆一は、良くも悪くも今のスタンダードな大学生だ。ほどほどに勉強して、ほどほどにバイトして、サークルに入って、女の子と遊んで、彼女が居て。優しくてイイやつだとは思うが、別段にイケメンなわけでも、男気に溢れているわけでもない。ただ、俗的で要領がいいのだ。空気や雰囲気になじみ、テンポよくやっているスキルが僕なんかよりは格段に上なのだろう。
「あら」
隆一とは反対側から一際徹る声が聞こえたのは、その時だった。
噂をすれば何とやら、穂積一砂だ。
「偶然ね。まあ、同じ大学だから珍しいことでもないけど」
「ああ、うん」
なんと返してよいかわからず、曖昧な相槌を打つ。
「ここ、いいかしら」
彼女はどんぶりの乗ったトレイを僕の隣に置いてそう訊いた。
僕はちょっと隆一の方を見たが、彼が特に反応しなかったので、向き直って頷いた。
「うん、どうぞ」
彼女は「ありがと」と言って、椅子を引いた。
「この前はありがとね。わたし、穂積一砂。日本文学科の二年よ。あなたは?」
「僕は園城千夜(えんじょうゆきや)。心理学科二年」
「ふぅん、同学年なんだ」
彼女は涼しげな表情で目を細めると、丁寧に『頂きます』をして、うどんを一啜りした。
「どんな字書くの?」
そう訊いてから、彼女は食事を中断してポシェットからメモ用紙とボールペンを取り出すと、何やら書き出した。
「はい。わたしは、こういう字。ちょっと変わってていいでしょ?」
ニッと、屈託の無い顔で笑う。ああ、この娘は確かに可愛し、嫌味のない愛くるしささえある。
仕方なく、僕もその紙に自分の名前を書いた。
「へぇ、これで『ゆきや』って読むんだ」
少し目を輝かせながら、穂積一砂はそう言った。
「千の夜……か。素敵ね。千夜君って呼んでいい?」
よく喋る娘だな、と思いながらも、僕は「別にいいよ」と答える。千夜という名前の響きは、自分でも気に入っているし、そもそも苗字で呼ばれようと名前で呼ばれようと、そこに大きなこだわりはない。
「ホント? じゃあ、そうするね。わたしのことも一砂って呼び捨てにしていいから」
「いや、それはちょっと」
「どうして?」
「だって、呼び捨てはなんだか、気が引けるよ。僕たち、会ったばかりだし」
面識は今日も混ぜて二回しかない。もっというなら、これから呼び捨ててよい間柄になるつもりも、今のところないのだ。
「そう? まあ、見るからに傲慢な人に、傲慢な言い方で呼び捨てられるのは吐き気がするけど、あなたは何だか、そういう人じゃなさそうだから。それに、『穂積さん』なんて呼ばれるのは、気持ちが悪いのよ。ちゃん付けも好きじゃないし」
そう言って、彼女は方をすくめた。
「あの、」
僕は言いかけて、やはり口を噤んだ。
「なに?」
「ああ、いや、ごめん。どうでもいいこと言おうとして……」
「だから、なに?」
クリクリとした目をキョロンと丸くして君は言う。
「うどん、伸びるよ」
僕が言うと、君はそのまま視線をどんぶりに落としてから、再び目を上げた。
「あはは、そうね。まずは食べることにするわ」
うんと頷いて、うどんを啜り始める。
君はなんというか、奇妙な雰囲気を持っていた。独特の空気というか、世界が君の周りにはある。そして、君はその世界ごと人と接しているような感じがした。
そんなことを考えていると、反対側から声が掛かった。
「俺は行くけど、お前どうする?」
隆一だった。そう言えば、彼はもう食べ終えているのだった。
僕ももう食べ終えている。つまり、穂積一砂の食事待ちであるわけだ。
「そうだな、僕は……」
と言いかけたところで、
「ちょっと待ってて。すぐ食べ終わるから」
君が割って入った。
「わかった。隆一、先に行っていてくれ」
隆一は「おう」とだけ答えて、食器の乗ったトレイを持って席を立った。
その後姿が大分遠くなったあたりで、
「あの人、わたしのこと嫌いみたいね」
君はまっすぐに僕を見ながら言った。何の感情もないような言い方だった。
「そうじゃないと思うけど。でも、この前君を追いかけていた人の後輩の友達の友達が彼らしい」
「ふぅん」
興味が無さそうに頷く。
「それじゃあ、わたしは悪者かもね」
彼女はずるずるとうどんを食べ始める。
僕もまだ少し残っていたカツ丼を淡々と流しこむ。
「君って有名人なんだね」
「そう?」
「僕も今日始めて知ったんだけど、そうみたいだよ」
僕が言うと、彼女は少し眉を上げてから、ニコッと笑った。
「まぁ、そこそこモテるからかもしれないわね。そして、それに伴う悪い噂もあるだろうし」
笑顔ではあったが、それは自慢するでもなく、驕り高ぶるわけでもなく、ただ事実を言っているように、感情が乗っていない言葉に聞こえた。
「それ、自分で言えるって凄いね」
「他の女性の恋愛事情なんて分からないけど、十数人から『それっぽい』デートや遊びに誘われて、その殆どの人から告白めいたことをされていれば、充分に『モテる』と定義してもいいと、わたしは思っているんだけど……傲慢かしら?」
凄い、と思った。彼女の言葉には、なんというか、嫌味さというか悪意が乗っていない。言ってる内容はかなり大胆で不敵なのに、それを聞いて不快にならないというのは、この子の雰囲気や声、ニュアンスが大きく作用しているのかもしれない。
「……なるほどね」
僕はそう呟いた。
すでにカツ丼は食べ終えて、僕は水をのみながら彼女を見た。
「なにが?」
「君がモテる理由と、君の悪い噂が流れる理由がなんとなくわかった」
「やっぱり悪い噂を聞いてたのね?」
「別に信じてはいないけどね。僕は自分の感覚しか信じない」
僕の言葉に一砂は「そう」と言って、嬉しそうに目を細めた。
また少し沈黙が続いたあと、一砂はどんぶりを両手で持って豪快につゆを飲み干し、手を合わせて「ご馳走様」と言った。
「ありがとう。待っててくれて」
「それで、何か話が?」
僕が聞くと、君は小首を傾げた。
「ううん。特にないけど。あ、それじゃ、これからお茶でもしに行かない? 助けてくれたお礼にご馳走するわ」
「でも、僕はこれから授業があるから」
腕時計を見ながら僕は答えた。午後は一番から講義が入っているので、今からじゃ三十分もない。
「サボっちゃえば?」
「そういう訳にはいかないよ」
「ふぅん。真面目なんだ」
「どうかな。でも、今日は出ておかないといけない気がするんだよね」
別に深い意味なんて無い。極単純な僕の感覚の問題だ。
「気がする?」
「そう、そんな気分」
じっと観察するように見ていた君が、突如笑い始めた。
「いいわね、園城千夜君。なかなかユニークだわ」
本当に面白くて笑っているようで、何だか幸せそうだった。
「うん、お茶はまた今度にしましょう。でも、その時は絶対よ?」
君は言って僕の肩をポンポンと叩いた。
「それじゃあね」
バイバイ、と絶妙な角度で手をふり、これまた絶妙な笑顔で微笑んで君は食堂をあとにした。
ふわりと、フローラル系のいい香りが静かに残った。
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